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人と違う道を選ぶ——自分のための挑戦が、誰かの選択肢に変わるまで。採用の現場で育まれた経営者の哲学
丸石大仁 株式会社Limo
採用支援を通じて、誰かの選択肢を増やす経営者
大阪府大阪市
丸石大仁さんのプロフィール
株式会社Limoの代表取締役。企業の採用支援や求職者のキャリア支援に携わる。人事・採用の経験者が生活に合わせて働ける環境づくりにも取り組み、仕事や働き方の選択肢を広げている。
人と違う道を選ぶ——自分のための挑戦が、誰かの選択肢に変わるまで。採用の現場で育まれた経営者の哲学
あなたは、自分が選んだ道を、あとから意味のあるものに変えてきただろうか。
「一番大切にしているのは、『誰かのために』というところですね。振り返ってみても、優先度は高いと思います」
株式会社Limo代表取締役・丸石大仁さんは、企業の採用支援や求職者のキャリア支援に携わりながら、人事や採用の経験を持つ人たちが、自分の生活に合わせて働ける環境づくりにも取り組んでいる。その言葉は、企業や求職者、一緒に働く人との関わりの中に表れている。
本人は高校生までの自分を「モブキャラ。でも目立ちたい願望のあるエゴイスト思考というか」と振り返る。自分がどうすれば目立てるか。どうすれば人と違う経験ができるか。そんなことを考えながら、野球部では選手から学生コーチへ転身し、大学進学では大阪からあえて福岡を選んだ。
「人がせえへん行動をした方がいい」。幼い頃から経営者だった父や親戚に聞かされてきた言葉も、その選択を後押しした。
大学では、九州で立ち上げ中のライフセービングの活動に入り、初めて部長を経験する。自分が輝くことばかりを考えていた青年が、部員が楽しく成長できる環境や、卒業後も続く関係を考えるようになった。
社会人になれば、スポーツに関わるはずだった事業が入社初日に終了する。代わりに飛び込んだのは、経験者のほとんどいない採用支援の新規事業だった。会社に寝袋を置き、夜まで働き、社長と仲間と飲みに行ったあとにまた会社へ戻る。その時間を丸石さんは「青春」と呼ぶ。
人生は、思い描いた通りには進まなかった。丸石さん自身、「全部後付けが多いです」と言う。まず動く。選んだ後で考える。そして、その選択が次につながるように行動する。
自分のために人と違う道を選んできた人が、なぜ今、誰かの選択肢を増やすことに時間を使っているのか。
これは、行き当たりばったりの選択を一つずつ引き受けながら、「誰かのために」という仕事へたどり着いた一人の経営者の記録である。
第1章|人と違う方へ行きたかった——経営者の家と野球で覚えた「選ぶ」という感覚
丸石さんは広島で生まれ、生まれて間もなく大阪へ移った。両親は21歳の頃に丸石さんを迎え、父は若くして建設業で独立していた。経済的に大きな不自由を感じることなく育ったという。

幼い頃の自分について、丸石さんはこう話す。
「ほんまに社長の息子というか、お願いすれば何とかなる、みたいな甘えがありました。結構、自分のことしか考えてなかったと思います」
両親は、進路や挑戦を強く縛るタイプではなかった。やるかどうかは本人に任せるスタイルだったという。その一方、父からは「ちゃんと計画を立てろ」「逆算で物事を考えろ」と繰り返し言われてきた。
「今までの行動って、全部点なんですよ。でも、その点が線でつながるような伝え方や設計は、大学に入ってから意識するようになりました。結局、大人になってから話すきれいな理由は後付けのことが多いです」
中学では野球部に入った。部員は約60人。練習は非常に厳しい環境だった。入部当初はボールを握る時間さえ少なく、ひたすら球を回収する日々が続いた。
それでも、日々レベルが上がっていく実感はあった。1年生の後半、たまたま一つのプレーが監督の目に留まり、試合に出るようになる。そこからは、しんどさの中にも楽しさが増えていった。
中学野球を終える頃、丸石さんには「自分は結構いけるんちゃうか」という感覚があった。強豪校の選考に触れる機会を得ると、そこには全国から有名選手が集まっていた。そこで大きな挫折を味わう。
「『あ、無理や』って思いました。井の中の蛙やったんですよね」
そこで、野球を中心に高校を選ぶことをやめた。家の近くの公立高校へ進み、「ワークライフバランス重視」と本人が表現する学生生活を選んだ。制服が学ランだったことも、当時の丸石さんには魅力だったという。
野球も中学でやり切ったつもりだった。ところが入学して約1か月、自由な高校生活を過ごしているうちに「暇やな」「楽しくないな」と感じ始める。そして丸石さんは、もう一度野球部に入ることを決めた。
ところが、今度は別の違和感が待っていた。中学時代に高いレベルの環境でもまれてきた丸石さんにとって、高校の野球部は物足りなく感じたという。
「頑張ってる人は頑張ってるんですけど、全体的にゆるい雰囲気のチームで、全然面白くなかったんですよ」
すぐにレギュラーとなり、一桁の背番号も手にした。中学時代は試合に出るために必死だったが、高校では試合に出られるようになったからこそ、「このまま3年間、選手として続けて何が残るんだろう」と考えるようになった。
野球が嫌いになったわけではない。ただ、与えられた場所でそのままプレーし続けることに、丸石さんは面白さを感じられなくなっていた。そんな時、頭に浮かんだのが「人がやらない選択をする」という考えだった。
「このままプレーヤーとして3年間やっても、特にネタにもならんし、残るものもないなと思ったんです。だったら、人が選ばない選択をして、ネタになるような経験をつくりにいった方がいいなって」
夏の大会を半年ほど後に控えた時期。背番号を持ちながら、丸石さんは選手を辞め、学生コーチへ転身した。学生コーチとして一軍メンバーを支え、後輩の育成にも関わった。
今振り返れば、一つの成功体験だったという。一方で、後に母校が夏の大阪大会でベスト16まで進んだとき、同期や後輩と再会し、「選手で最後までやっていてもよかったかな」と思う瞬間もあった。
後から別の選択を想像することもある。それでも、この経験から丸石さんの中には一つの軸が残った。
「他の人がやらない選択をすると、それ自体に付加価値がついて、後から自分のネタになる。人がやらない方を選ぶようになったのは、そこからですね」
高校卒業までの丸石さんが見ていたのは、自分を向上させ、「自分がどう輝くか」だった。

第2章|自分が輝くことから、誰かが楽しめる場所へ——福岡で始まったライフセービング
若いうちに大きな街を見た方がいい。父からは、将来社会に出るなら東京という選択肢も持っておくよう言われていた。丸石さん自身も、就職するなら東京と考えていた。
だから大学では、社会人になってから縁が薄そうな場所へ行こうと思った。大阪から東京方面へ進む同級生はいても、九州へ行く人は多くない。それなら福岡へ行こう。ここでも「人が選ばない方」が判断軸になった。
大学には知り合いが一人もいなかった。丸石さんは友人をつくるため、新入生歓迎のイベントやサークルを10個ほど回った。そこで耳にしたのが、これからライフセービングの学生団体を立ち上げるという話だった。
「聞いたことないし、面白そうやなって。話のネタにもなるし、九州で学生がやっている例もほとんどないと聞いたので、0から1を経験できるのはでかいなと思いました」
最初は数人からのスタートだった。夏までに仲間が増え、上級生の引退後、丸石さんは1年生のうちから部長を任された。その後、活動は40人規模まで広がっていった。
ライフセービングの目的は、海水浴に訪れる人たちが事故に遭わない環境をつくることにある。海辺に立てば、自分が目立つことより、周囲の状況を見なければならない。危険につながりそうな場面はないか。どの人へ声をかけるべきか。もし事故が起きれば、どう動くのか。
さらに部長になると、自分についてきてくれる部員にも目を向けるようになった。
「このメンバーが、この活動を楽しいと思えること。日々成長していると感じられること。卒業してからも、この人たちとつるみたいと思える環境をどうつくるか。それを結構考えていました」
丸石さんには、それまでキャプテンや副キャプテンを務めた経験がなかった。野球部でも基本的には一人の部員として活動してきた。大学で初めて、組織の前に立つ役割が巡ってきた。
そこで、自分を見る視点から、相手を見る視点へ少しずつ変わっていったと話す。
「それまでは、自分が輝くためにはどうしたらいいかばっかり考えてたんです。でも部長になって、相手がどう考えているかな、どうしたら過ごしやすいかな、その人のためになるかな、って考えることが増えました。当時は、顧問の先生や先輩にめちゃくちゃ引き上げてもらってました。」
インタビューの最初に挙げた「誰かのために」という価値観は、この大学時代から強くなったという。丸石さんは「立場が人をつくる」という言葉にも頷いた。
部員を増やすため、新歓では多くの学生へ声をかけ、連絡先を交換し、説明会を何度も開いた。人が集まった後は、その人たちが続けたいと思える場所を考えた。活動を4年間だけの付き合いで終わらせたくなかった。
「4年間で終わる関係じゃなくて、人生ずっとつるめる環境をつくろう、というのがテーマとしてありました。一期一会って、すごく大切やなと思って」
人と違う経験がしたい。最初の入口は、自分のためだった。そこで人を率いる立場になり、人の安全を考え、仲間の成長や居場所を考えるようになった。丸石さんが「視野が広くなった」と表現する変化は、ここから始まった。
そして就職活動でも、丸石さんは「人と同じ」より、自分が早く成長できる環境を探した。将来は自分で会社をやる。その考えはすでにあった。
社会人として最初に飛び込む仕事が採用支援になるとは、この時点では想像していなかった。

第3章|入社初日、やりたかった事業がなくなった——寝袋と50件の電話から始まった「青春」
大学時代、丸石さんは3年間、福岡市内のカフェ&バーでアルバイトをしていた。仕事帰りに立ち寄る会社員や経営者と話す機会が多く、「お前、営業向いてるで」と言われることが何度もあった。
就職活動を始めた頃、業界や職種の知識はほとんどなかったという。スポーツを続けてきたからスポーツに関わる仕事。親戚が広告会社を営んでいたから広告。給料が高い仕事にも惹かれた。
その一方、将来独立することは決めていた。大企業で役割を限定するより、若いうちから営業、新規事業、マネジメント、マーケティングまで経験したい。そう考え、ベンチャー企業を選んだ。
新卒で入社した会社には、パーソナルジムの集客を支援するスポーツ関連事業があった。スポーツと営業の両方に関われる。そう思って入社した。
ところが、入社初日。その事業は終了した。
「『事業部って、そんな潰れんのや』って思いましたね」
怒りより先に、驚きがあったという。社内ではちょうど、新卒採用を中心とする人材紹介・採用支援事業を立ち上げる話が進んでいた。経験者はいない。中心となる先輩も、まだ入社数年目だった。
丸石さんは、もともと採用の仕事をやりたくて入社したわけではない。それでも、その話に乗った。就職活動の時から、将来は自分で会社をやると決めていた。そのために、若いうちから新規事業の立ち上げや営業、マネジメントなど、経営につながる経験をしたいと考えていたからだ。
「0から1の経験って、もっと時間がかかると思ってたんです。それが入社1年目からできる。これはめちゃくちゃ大きいなと思いました」
採用という領域そのものよりも、「まだ何もない場所を、自分たちでつくっていくこと」に丸石さんは惹かれていた。
最初に任されたのは、一日50件ほどのテレアポだった。企業へ電話し、新卒採用の状況を聞き、学生を紹介する機会をつくる。同時に、自社の採用業務にも入り、学生を集めるセミナーを企画し、キャリア面談も行った。
「昨日まで学生でした、みたいなメンバー4人で事業部をつくっていました。HRの経験者もいない。だから、ほんまに0から1でした」
大学でライフセービングの組織を立ち上げたときに感じた面白さが、今度は仕事の中に現れた。最初の2年ほどは、週に1、2回会社へ泊まることもあった。会社に寝袋があり、その後、寝る場所は酸素カプセルへ変わったという。
夜まで働き、社長や残っているメンバーや上司と飲みに出て、日付が変わる頃に会社へ戻り、また作業する。丸石さんは、その頃を「すごく青春していた」と振り返る。忙しさの中に、0から1をつくる手応えがあった。
「振り返ると、すごく青春していたなと思います。命を燃やしている感覚が、自分の中では一番、生きている感覚なんですよね」
何を追いかけていたのかと尋ねると、答えは意外なほど現実的だった。
「その時は目の前しか見えてなかったです。単月の売上目標を達成する。ほんまに、そこしか見えてなかったですね」
当時追っていたのは、目の前の数字だった。今日必要な仕事をやり切る。その積み重ねの中で、新規事業、営業、採用、集客、面談、マネジメントを実地で覚えていった。
社会人3年目には、新卒領域の人材紹介事業部で部長を任される。年間のPLを組み、集客予算や必要な人数、決定率を設計し、5、6人のメンバーをマネジメントする。自ら企業営業とキャリア面談も行い、企業と学生をつなぐイベントでは企画から司会まで担った。
一方、社会人になってからの自分を、丸石さんは「毎年挫折していました」と表現する。目標を立てても届かない。ストレッチした数字に対して、使える時間も人手も足りない。そんな感覚を何度も味わった。
「何をやっても達成できない、みたいな感覚は毎月ありました。悔しかったですね」
東京には、自分より話すのが上手い人も、立ち回るのが上手い人も、仕事ができる人もいくらでもいた。福岡の学生時代には「自分は結構いける」と感じていたが、社会人になった瞬間、その感覚は崩れたという。
では、その挫折をどう乗り越えたのか。丸石さんは少し考えて、こう答えた。
「まだ乗り越えてないと思います、そこは」
その悔しさは、今も完全には消化できていないという。その代わり、思考は鍛えられた。Aプランが失敗したとき、そこで手がなくなるのは嫌だった。Bプラン、Cプランを先に持ち、必要なら並行して動かす。
「Aがこけました。もう手はありません、はめちゃくちゃダサい」
父から聞いていた逆算思考と、自分で選んだ道を何とか次へつなげようとする行動力。その両方を使いながら、丸石さんは約10年間、採用の現場に立ち続けた。その長い時間の先で、次第に一つの違和感がはっきりしていった。

第4章|人をつなぐ先まで支援したい——10年の採用現場で見えた「本当に支援したい人」
丸石さんは前職で、前半のおよそ5年を新卒採用支援、後半のおよそ5年を中途採用支援の領域で過ごした。新卒1年目から採用支援の新規事業に入り、企業営業、学生とのキャリア面談、イベント企画、マネジメントまで経験し、3年目には事業部長となった。
企業が求める人材と、仕事を探している人をつなぐ。人材紹介という仕事には、企業の採用を前へ進める力がある。一方で、長くこの仕事を続けるほど、丸石さんの中には一つの違和感が生まれていった。
人を紹介して採用が決まっても、企業側の採用の仕組みそのものが変わらなければ、また同じ課題が起きる。
「人を紹介するだけでは、企業さんの採用課題の根本は解決できないと思うようになったんです」
もっと企業の内側へ入り、採用戦略や仕組みそのものから関わりたい。10年の現場経験を通して、そう考えるようになっていった。
求職者と向き合う中でも、別の課題が見えていた。丸石さんの実感では、支援する人のうち3割ほどは、自分で選択肢を持ち、自分で意思決定できる。紹介した求人が希望と合えば、比較的スムーズに就職や転職へ進んでいく。
一方で、丸石さんが「本当に支援したい」と感じていたのは、自分にどんな選択肢があるのかさえ、まだ十分に知らない人たちだった。
「ほんまに助けなあかん人って、知らない人なんですよ。当時の大学生の僕と一緒で、スポーツやってたからスポーツ系とか、ご飯が好きやから食品メーカーとか、仕事が大変なの嫌やから事務職とか。先のことをあまり考えずに選んで、うまくいかない人がいるんです」
丸石さん自身、就職活動を始めた頃は「業界って何」「職種って何」というところからのスタートだった。自分も、最初から広い選択肢を持っていたわけではない。だからこそ、目の前の人と話し、その人が知らなかった世界を一つずつ見せていく。
すると、表情が変わる瞬間があるという。
「じっくり選択肢を広げてあげると、『私が求めているものって、こういう仕事でも実現できるんや』ってなるんです。そこから目の色が変わって、『じゃあ、こっちで頑張りたいです』ってなる」
企業として売上をつくることは必要である。支援の効率を考えれば、すでに自分で意思決定できる人を支援した方が、成果につながりやすい場面もある。その経営的な合理性を理解しながらも、丸石さんの中では次第に、「自分が時間を使いたい相手」とのズレが大きくなっていった。
そして、独立を考える大きな理由がもう一つあった。実家の建設業である。父が若くして立ち上げた家業を、将来どのような形であれ自分も担う。その思いがあったからこそ、会社員として働き続けるだけではなく、早いうちから家業にも目を向けられる状態をつくりたいと考えていた。
採用支援をもっと本質的な形でやりたい。本当に支援したい人へ時間を使いたい。そして、家業にも関わっていきたい。そうした思いが重なり、丸石さんは約10年勤めた会社を離れ、独立した。
現在、株式会社Limoでは、企業の採用支援やRPOなどを手がけている。人を紹介して終わるのではなく、採用戦略の設計や運用など、企業の採用活動そのものへ入り込む。求職者に対しては、本人がまだ気づいていない仕事や可能性まで含めて、選択肢を広げていく。
10年間の採用現場で感じてきた違和感を、自分の会社で一つずつ形にし始めている。

第5章|「この仕事、好きやな」を増やしたい——表情が変わる瞬間と、家族に渡したい選択肢
独立し、株式会社Limoを立ち上げた丸石さんに、これからどんな会社をつくりたいのかを尋ねた。数字として掲げているのは、「5年で売上1億円」。
前職では、少人数のチームで1億円規模の売上をつくる経験があった。今度は、まだブランドも実績も積み上げている途中の自分たちの会社で、時間をかけながらそこへ到達したいと考えている。
ただ、会社の未来について話す丸石さんが長く言葉を使ったのは、数字ではなかった。目指している未来は、大きく二つあるという。
一つは、自分の選択肢が見えていない人へ、「そんな選択肢もあるんや」と気づけるきっかけを渡すこと。もう一つは、採用に関わる人たちが「この仕事、好きやな」と思い続けられる環境をつくることだ。
「人事とか採用の仕事って、人の支援をしたいと思って始めている人が多いんです。でも外的な要因で続けられなくなる人もいる。その問題を解決して、好きな仕事を続けられる環境をつくりたいです」
企業には、採用の可能性を。求職者には、自分ではまだ見えていないキャリアの可能性を。そして採用に携わる人には、好きな仕事を続けられる可能性を。
その思いを形にする取り組みの一つが「副業ジンジ」である。人事、キャリアアドバイザー、求人広告営業など、採用領域で経験を積んできた人たちが業務委託として企業の採用支援に入り、採用戦略の設計、会社説明会、面接などを担っている。現在、約20名のメンバーが関わっているという。
会社員としてフルタイムで働くことだけが、採用の仕事を続ける方法ではない。子育てをしながらでもいい。生活に合わせて働く時間を調整してもいい。これまで積み重ねてきた経験を、自分に合った形で生かし続ける。
「採用畑出身の人の市場価値を上げたい、という思いもあります。その人たちが、自分の生活に合わせながら『この仕事、好きやな』って思える環境をつくりたいんです」
かつて丸石さん自身は、会社に寝袋を置き、泊まり込みながら仕事へ没頭した。それを苦しかった過去として語るのではなく、「青春だった」と振り返っている。あの働き方ができたからこそ、得られた経験もある。
一方で、今は経営する側になった。人によって、人生の状況は違う。使える時間も違う。仕事に注げるエネルギーも、ずっと同じではない。
だから、自分ができた働き方を誰かにも求めるのではなく、その人に合った形で仕事を続けられる場所をつくる。丸石さんが採用の現場で見てきた課題は、少しずつ事業の形へ変わり始めている。
そして、その先にあるのは「働き方」だけではない。丸石さんが何度も口にしたのは、人の選択肢が増えた瞬間だった。
自分には、この仕事しかないと思っていた人が、別の可能性を知る。採用に悩んでいた企業が、自分たちにもできる方法を見つける。もう採用の仕事は続けられないと思っていた人が、違う働き方なら続けられると気づく。
その瞬間、人の表情が変わる。丸石さんは、その変化を見ることが好きだという。
では、丸石さん自身を動かしているものは何なのだろう。IKIGAIについて尋ねると、丸石さんは少し考えた。
「難しいですね。めっちゃ考えてたんですけど」
そして、仕事とプライベートの二つに分けて答えてくれた。仕事でのIKIGAIは、人の表情が変わる瞬間だった。
「お客様の表情が、パッと明るくなる瞬間があるんですよ。その瞬間に立ち会えるのが、結構IKIGAIというか、やりがいですね」
自分には、こんな仕事もできるかもしれない。こんな会社もあるのかもしれない。今まで諦めていた働き方も、別の形なら続けられるかもしれない。
選択肢が一つ増えた瞬間、それまで曇っていた顔が変わる。丸石さんにとっては、その瞬間そのものが、仕事を続ける理由になっている。
そして、プライベートのIKIGAIについて尋ねると、「家族ですかね」と答えた。妻と二人の子どもがいる。丸石さんが仕事を頑張る理由の一つは、家族にもできるだけ多くの選択肢を渡したいからだという。
「何かを買ってあげるとか、何かを体験させてあげるとか。家族になるべく多くの選択肢を提供してあげたいんです。それで喜んでいる顔を見ると、IKIGAIを感じます」
選択肢。その言葉は、仕事の話でも、家族の話でも何度も出てきた。求職者には、知らなかった仕事を。企業には、採用の新しい方法を。採用に携わる人には、仕事を続けるための新しい働き方を。そして家族には、できるだけ多くの経験や未来を。
もちろん、仕事に熱中することと、家族との時間を両立することは簡単ではない。「命を燃やしている感覚が、一番生きている感覚」。そう話すほど仕事にのめり込む自分と、家族の喜ぶ顔を見たい自分。そのどちらも手放さず、追い続けている。
昔は、人と違う選択をすることで、自分自身の価値をつくろうとしていた。人と違うことが、自分の可能性を広げてくれた。
そして今。丸石さんが進むのは、自分のためだけではない。誰かが「そんな道もあるんや」と気づける瞬間を増やすこと。その人の目の色が変わり、表情がパッと明るくなる。そこに立ち会うために、丸石さんはこれからも仕事を続けていく。
自分のために選んできた道は、いつの間にか、誰かが自分の人生を選べるようにする仕事へ変わっていた。
選択肢を、一つでも多く増やしていく。それが、丸石さんが今、命を燃やしている理由である。

あとがき
丸石さんとの対話を通して、私の中に強く残ったのは、「人のためを思う選択は、結果として自分自身の可能性や選択肢まで広げていく」ということだった。
丸石さんは、もともと「人と違うことがしたい」「自分が面白いと思える道を選びたい」と考えてきた人だ。向いていた矢印は、まず自分自身だった。
自分がやりたいことを選び、自分の人生を自分で面白くしていくことは、とても大切なことだと私は思う。
けれど、丸石さんの人生を辿っていくと、その矢印が少しずつ変わっていった。ライフセービング部で人を率いるようになり、「自分がどうしたいか」だけではなく、「一緒にいる人たちがどうすれば楽しく過ごせるか」を考えるようになった。
社会人になって採用の現場に立てば、今度は求職者の選択肢を考えるようになった。そして独立した現在は、求職者だけではない。採用に悩む企業。好きな仕事を続けたい人事や採用の経験者。一緒に働く仲間。そして家族。
丸石さんの矢印は、自分から周りの人へ、そして少しずつ社会へと広がっていった。私は、その変化の軌跡にメッセージを感じた。
自分自身のために始めた挑戦が、人と関わることで形を変え、「自分は何をするべきなのか」という問いまで広がっていく。
自分がやりたいことをやる。そこに、目の前の人のためという思いが重なる。さらに、それが社会にとっても意味のあるものになっていく。
その三つがつながったとき、人は自分一人のためだけに頑張っているとき以上の力を出せるのかもしれない。
丸石さんは、冗談を交えながら、自分の過去を「エゴイストだった」と話し、失敗したことも、うまくいかなかったことも隠さず話してくれる。その人間らしいユーモアの奥に、これまで何度も行動し、人と関わり、その中で少しずつ深まってきた哲学があった。
そして何より、「自分だけが大きくなればいい」ということではなく、周りの人と一緒に大きくなっていこうとする意志を感じた。
あなたは今、誰のために行動しているだろうか。
自分のためなのか。大切な人のためなのか。社会のためなのか。
その矢印が重なったとき、自分が選ぶ道そのものが変わっていくのかもしれない。そして、自分では想像していなかった力や可能性まで、そこから引き出されていくのかもしれない。
丸石さんの物語は、私に教えてくれた。自分のために選んだ一歩が、やがて誰かのための一歩になる。
その連鎖の先にこそ、自分一人では辿り着けなかったIKIGAIが眠っているのかもしれない。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師
WRITER PROFILE
尾﨑弘師 (おざき ひろし)
IKIGAIコネクター/IKIGAI JAPAN 主宰/株式会社ミトミト 代表取締役
これまで延べ1,500人以上に「生きがい(IKIGAI)」をヒアリングし、経営者を中心に100本以上の長編インタビュー記事を執筆。経営者インタビューメディア「IKIGAI JAPAN」を運営し、人生・価値観・哲学・仕事への想いを取材・言語化し、次世代へ残す活動を続けている。
掲げるのは、「その人の人生は、誰にもコピーできない。だからこそ、残すべき価値がある。」という考え方。AIによってコンテンツが大量生産できる時代だからこそ、その人にしかない経験や思想、技術、物語こそが差別化資産になると考えている。
さらに、発掘したIKIGAIをブランド・採用・集客・営業へつなげ、経済の力へ変える「IKIGAIマーケティング」を実践。インタビューによる価値の発掘・言語化を起点に、Webサイト・漫画LP・アニメーションなどのクリエイティブ制作から、広告運用・営業設計まで一気通貫で支援し、「その人だから選ばれる」マーケティングの仕組みを構築している。









