- ホーム
- IKIGAIを持つ者たち
- 大門賢治 PromJapan株式会社

希望があれば、人は漕ぎ続けられる——夢を後回しにした37年から、仲間と挑む気候変動アクションへ
大門賢治 PromJapan株式会社
仲間と希望をつなぎ、次世代の未来をつくる人
札幌市札幌市
希望があれば、人は漕ぎ続けられる——夢を後回しにした37年から、仲間と挑む気候変動アクションへ
あなたは、もし今日が人生の終わりだとしたら、「やりたいことをやり切った」と言えるだろうか。
50代前半のある夜、大門賢治さんは、死を強く意識する不思議な体験をした。本人が「臨死体験」と呼ぶその出来事の中で、頭に浮かんだのは、後悔だった。
「今までの人生は、まあまあだったと思ったんです。でも、めちゃくちゃやり残していることがあった。僕は人生にはまだ先があると思って、やりたいことを全部後回しにしてきたんですよ」
本当は世界を見たかった。もっと冒険したかった。自分の心が向かう方向へ進んでみたかった。
それでも18歳で会社員となり、約37年間働き続けた。楽しい仕事もあった。必要とされる喜びもあった。管理職となり、多くの仲間やお客様を支える仕事にも携わった。
一方で、自分が本当にやりたいことには、何度も「蓋をしてきた」と大門さんは振り返る。死を意識したその夜、「このままでは終われない」と気づいた。そこから会社の外へ出て、人と会い、学び、SDGsや社会課題と向き合うようになった。そして55歳で会社を離れ、自分らしく生きる人生の「第2幕」を始めた。
現在、大門さんはPromJapan株式会社の代表取締役を務めながら、一般社団法人サステナの森の代表理事として、気候変動をはじめとする社会課題に向き合っている。だが、独立後の道は順調とは程遠かった。
大門さん自身も、その時間を「出口のないトンネル」「ジャングル」と表現する。
それでも、やめなかった。
なぜなら次の世代に残したいものがあったからだ。自分たちが受け取ってきた日本や社会を子どもたちや、そのさらに先を生きる人たちへ、少しでも良い形で渡したい。そのために、自分がこの時代を生きた証を、行動として残していきたい。
壮大な理想だけでは、ここまで続かなかった。何度も止まりそうになった大門さんへ、希望を渡してくれた人たちがいた。
「本当に窮地に立たされた時って、逃げ出したくなるんですよ。でも希望があったら耐えられる。僕は、仲間が希望を持たせてくれたから、今日まで来られたんです」
一人だったら、諦めていたかもしれない。けれど、同じ未来を信じる人が一人、また一人と現れた。そのつながりは、企業や大学、自治体、地域へと少しずつ広がっていった。それぞれ立場は違っても、「次の世代へより良いものを残したい」という志のもとに人が集まり、サステナの森という輪が少しずつ広がっている。
人生の残り時間が、どれだけあるかは誰にも分からない。だからこそ、大門さんは今日も、まだ見えない未来へ向かって仲間と漕ぎ続けている。これは、死を前にして初めて自分の後悔に気づいた一人の人間が、自分らしく生きることを選び直し、厳しい現実の中でも希望を手放さず、次の世代へ何を残せるのかを問い続けている記録である。
そして同時に、あなたに残された時間を、あなたは何に使って生きるのか——その問いを返してくる物語でもある。
第1章|「自分らしく生きたい」は、ずっと胸の中にあった——自然と哲学を愛した少年の原点
大門さんは、北海道北見市で生まれ。自然の身近な環境で幼少期を過ごした。父は郵便局に勤め、母もさまざまな仕事をしていた。両親から繰り返し伝えられていた言葉がある。
「人に迷惑をかけるな」「誰かの役に立つ人間になれ」
友達と遊ぶことが好きな、ごく普通の少年らしい一面がある一方で、大門さん自身は当時の自分を「少し変わっていた」と振り返る。成長するにつれて、「自分は周りと少し見ている角度が違う」と感じるようになっていった。
幼い頃から特に好きだったのが、自然だった。虫取りにもよく出かけた。ただ、虫を捕まえることは好きでも、殺すことは嫌だった。身近にあった山や自然にも、子どもながらに「壊したくない」「汚したくない」という感覚を持っていたという。
「自然って、壊しちゃいけない、汚しちゃいけないものというイメージがありました。自然の中に行くと、ほっとするんですよね」
そして中学生になると、大門さんの関心は自然の外側から、人間そのものへと広がっていく。きっかけは、「神様はいるのだろうか」という素朴な疑問だった。そこから宗教について調べ始め、さらに倫理や哲学へと興味が移っていった。仏教の教えや孔子の『論語』にも手を伸ばし、「人はなぜ生きるのか」「何のために生まれてくるのか」と考えるようになった。
「中学生や高校生で、そんなことを考えている人ってあまりいないじゃないですか。だから、めちゃくちゃ浮いてましたよね。話が合わないんですよ」
周囲との違いを感じながら、大門さんは本の世界にのめり込んだ。偉人や思想家が残した言葉の中に、自分なりの「人生の真理」を探していた。高校生になると、歴史への関心も深まった。
中でも惹かれたのが幕末である。鎖国を続けてきた日本が外の世界と向き合わざるを得なくなり、それまでの常識が大きく揺らいだ時代。異なる考えを持つ人たちが、自分の信じる未来のために動いていた。特に憧れたのが、坂本龍馬だった。
「日本が大きく変わった時代に、みんな自分の信じるもののために命を懸けていた。もし自分がその時代に生きていたら何をしていただろう。今が歴史の激動の時代だったら、自分は何ができるだろうって、高校生の時に考えていました」
その興味は、やがて日本の外へ向かっていった。高校を卒業したら東京へ行きたい。できればアメリカへ渡ってみたい。世界を自分の目で見て、いろいろな国や価値観に触れてから仕事をしたい。
インターネットもない時代だった。坂本龍馬が外の世界へ目を向けたように、大門さんも日本という島国を飛び出し、自分の目で世界を見てみたかった。ところが、そこで母の心配とぶつかった。母は遠くへ行くことを強く心配したという。
「本当は海外に行きたかったし、東京にも行きたかった。でも母からは『海の向こうには行くな』と言われて。結局、札幌なら地続きだからという、母なりの安心感があったんでしょうね」
高校卒業後、大門さんは札幌で就職する道を選んだ。世界へ飛び出したいという気持ちは、その時はいったん胸の中へしまった。
「僕としては、そこで飛び出すチャンスを失ったという気持ちがあって。ずっと心残りでした」
まだ18歳だった。親を安心させたい気持ちもある。一方で、自分には行きたい場所がある。その時に選ばなかった道への思いは、その後も大門さんの中に残り続けた。
取材の中で、「もし若い頃の自分へ言葉をかけるなら」と尋ねると、大門さんはこう答えた。
「自分の本当の気持ちを理解して、行動できるのは自分しかいないよって伝えたいですね。親や親友が親身になってくれることには感謝しながら、最後は自分の心に素直に従うのが一番いい。自分らしく生きる権利は、みんなにあるんだよって」
自然が好きだった少年。「人はなぜ生きるのか」を考えていた中学生。坂本龍馬に憧れ、世界へ飛び出したかった高校生。
そのすべてを抱えながら、大門さんは18歳で社会へ出た。しかし、自分の心に素直に生きるという言葉を、自分自身の人生で選び取れるようになるまでには、そこから約37年の時間が必要になる。
第2章|辞表を出しても、37年働いた——厳しい営業現場で見つけた「求められる」という居場所
18歳で入ったのは、大手企業のグループ会社だった。名前を見れば安心できる会社に思えた。大卒が多い中、たまたま、テスト的に高卒採用された1人だった。ところが、当時の営業現場は大門さんが想像していたものとは大きく違った。
朝早くから夜遅くまで働く。長時間の朝礼、1日100件の飛び込み営業で名刺を30枚集めるといった厳しい目標もあった。同期は約80人いたが、1年ほどで半分近くまで減ったという。
「高校を卒業したばかりの僕には、めちゃくちゃプレッシャーでした。毎日辞めたいと思ってましたよ」
辞めたい気持ちはあったが石の上にも3年と思い、耐えた。たまたま、高校時代に当時は最先端だったコンピュータを勉強できたことに救われた。会社では新規事業でパソコン販売を開始したタイミングで、その第一号として配属された。以降、その会社でのほとんどをIT専任として飛び回った。常に新たな商品が生まれ、民間から官庁、学校などありとあらゆる顧客からの業務課題に対し、提案をしていく日々だった。毎日、学ぶことがあり、知恵を使い、新しい企画を考え、会社の中で独自の役割を持つようになっていく。当時は北海道エリアの会社だったが、全国へ展開する新規事業の推進を提案して部署を立ち上げるなど、「誰よりも先を考える自分だからできた」とあの頃を振り返る。
一度、「東京に行かせてもらえないなら辞める」と会社へ伝えたこともある。会社は親会社のメーカーと調整し、銀座で働けるようにしてくれた。ようやく若い頃から憧れていた東京へ出た。
2年の約束だったが、1年後、今度は会社から「帰ってきてくれ。お前がいなければ困る仕事が色々ある」と上司に頭を下げられた。
「僕、そうやって言われると弱いんですよ。困っている人を見ると、つい、助けてあげたいと思ってしまう。求められているというのもあったんでしょうね」
東京での生活を経験し、満員電車や暮らしの違いを知って、北海道の良さも改めて感じていた時期だった。大門さんは戻ることを選んだ。
会社も時代と共に変わっていった。入社当初のブラック体質の厳しい文化は、メーカーや全国の子会社との統合、人の入れ替わりとともに少しずつ変化し、後年には有給休暇の取得や残業削減を促す職場になった。「同じ会社なのにまるで別会社になった」と大門さんは笑う。その長い変化を約37年間、内側から見てきた。
本人自身も変わった。「個性的すぎる個人商店」と言われていた時期を経て、やがて約18人の部下を持つマネージャーとなり、約300人の営業を支える部門に携わった。大門さんは、その会社員時代があったから、今の自分がいることを否定していない。
「すごくいい仕事、楽しい仕事もたくさんさせてもらいました。それについて後悔はないんです」
必要とされる喜びもあった。任されたからこそできた経験もあった。だから37年続いた。一方で、自分へ向ける問いだけは残っていた。
「本当にこれがやりたかったのか。もう一回生まれ変わって、本当にこれをやるかって言ったら、やってないかもですね」
アメリカへ行きたかった。世界を見たかった。もっと冒険したかった。その気持ちは胸の奥に残っていた。
家庭を持ち、会社で責任を負うほど、自由に動くことで失うものも増えていく。大門さんは、自分のやりたいことが顔を出すたびに「蓋をしてきた」と表現した。
「目の前にある会社のことや、父親としてやることにフォーカスして、自分の本当にやりたいことに蓋をして生きてきたんですよね」
その蓋を、もう閉めてはいられないと感じる出来事が、50代前半に起きる。
第3章|人生は、先があると思っていた——死を意識した夜に開いた「第2幕」
40歳の頃、人間ドックで不整脈が見つかった。時折感じていた胸の苦しさの原因が分かり、薬を服用すると症状は落ち着いた。大門さんはその治療を長く続けながら仕事をしていた。
50代前半、仕事の負荷はさらに大きくなっていた。約18人の部下を抱える中間管理職として営業を支え、社内のさまざまな部門やマネージャーから要求が集まる。お客様への対応もある。本人が「激務だった」と振り返る時期である。
そんなある夜、大門さんは眠っている最中に、これまで経験したことのない感覚に襲われた。身体はベッドにあるはずなのに、自分の魂だけがものすごい速さでどこかへ運ばれていくようだったという。意識の中では、「自分は死んだのかもしれない」という感覚がはっきりとあった。
「寝ている時に、魂だけがものすごいスピードで飛んでいくような感じがしたんです。『あ、俺、死んだんだ』って。本当にあの世へ向かっているような感覚でした。三途の川を渡る前に並んでいるような、そんな感じだったんですよ」
本人はこの出来事を「臨死体験」と呼んでいる。それが本当に何だったのかを証明することはできない。大門さん自身も、「悪い夢を見ただけだと言われるかもしれない」と話す。
けれど、その体験の中で感じたことは鮮明に残った。後悔だった。
「今までの人生は、まあまあだったと思ったんです。でも、その瞬間に『めちゃくちゃやり残している』って思った。僕は80歳くらいまで生きられると思っていたから、やりたいことを全部後回しにしてきたんですよ」
世界を見たかった。海外へ行きたかった。もっと冒険したかった。「いつかできる」「まだ時間はある」と思いながら、会社の仕事や父親としての役割を優先し、自分が本当にやりたいことには蓋をしてきた。
大門さんは、その感覚を冷蔵庫にしまった大好きなケーキにたとえた。いつでも食べられると思って取っておく。今日ではなくてもいい。明日でもいい。そうしているうちに、食べる前に腐ってしまう。
人生も同じだった。
「このままじゃ死ねないと思いました。自分が生まれてきて、やるべきことをまだ果たしていない。もっと自分らしく社会で活躍するために、もう一回やり直したいっていう気持ちが、ものすごく強くなって。それで目が覚めたんです」
大門さんは、この夜を「もう一回チャンスをもらった」と受け取った。驚くことに、治らないはずの不整脈はそれ以来なくなった。
ただ、ただちに、自分が何をすべきなのか分かったわけではない。
「もうやらなくちゃ」という気持ちはある。それでも、「じゃあ、何をやるんだろう」という答えは見えていなかった。
そこで大門さんが最初に変えたのは、日々の行動だった。それまでの生活は、会社と家の往復が中心だった。そこから仕事が終われば交流会へ出るようになり、勉強会にも参加した。会社の外にいる人と会い、これまでなら選ばなかった場所へ自分から足を運んだ。
自分が残りの人生で何をするのか。その答えを探すように、人と会い続けた。その頃、会社では管理職にSDGsのバッジを着けるよう求められていた。大門さんも胸につけていたが、最初はその意味を十分に説明できなかったという。
「『それ何?』って聞かれて答えられないのも格好悪いじゃないですか。だから勉強したんです。そしたら、めちゃくちゃこれ大事じゃんって思って」
それまで約30年以上、営業の世界で向き合ってきたのは、目の前のお客様だった。
どんなことに困っているのか。何を求めているのか。どうすれば喜んでもらえるのか。そして、その結果としてどう売上につなげるのか。
SDGsについて学び始めたことで、大門さんが見る範囲は社会全体へ広がっていった。
「目線を上げたら、世の中にはすごい課題がたくさんあった。商売だけでは簡単に解決できない。でも、やらなければもっと大変なことになっていく。悲しむ人がたくさん出てくる。僕は、これをやりたいって思ったんです」
一方、死を強く意識したことで、大門さんの中には別の問いも生まれていた。人は最後には死ぬ。それなら、お金を稼ぐことも、地位を得ることも、成功することも、最終的に何の意味があるのだろう。
一時は、そんな虚しさを感じたという。そこで大門さんが考えたのが、自分より前に生きてきた人たちと、自分より後の時代を生きていく人たちの存在だった。今、自分たちが当たり前のように暮らしている社会は、突然できたものではない。
先人たちが働き、家族を守り、地域や社会をつくり、次の世代へ渡してきたものの上に自分たちは生きている。ならば、自分たちも受け取るだけで終わるのではなく、その先へ何かを渡す側になれる。
「ご先祖様がしてくれたように、僕たちもその先に何かを残していく。今やっておくことがあるんじゃないかと思ったんです。僕らがこの時代に生きていることには、意味があるんだって」
自分が死んだあとにも残るもの。子どもたちや、そのさらに先の世代へ渡していけるもの。その一つとして、大門さんが向き合うようになったのが、気候変動をはじめとする社会課題だった。
人と会い、学び、自分が残りの人生で何をしたいのかを探し続けた。
55歳になっていた。約37年間勤めた会社を離れ、大門さんは「自分らしく生きる」道を選んだ。ここから人生の「第2幕」が始まった。
第4章|希望がなければ、止まっていた——独立後の約7年をつないだ仲間の存在
家族に反対されながらも説得して独立した。その後の厳しい現実は想定以上だった。独立後、最初に考えていた事業は思うように進まなかった。さらに新型コロナウイルスの流行が重なる。社会課題やサステナビリティをテーマに活動しながら、生活を成り立たせることができず、毎日、不安が頭から離れなかった。
大門さんは、当時のことを飾らず話した。
「経済的には、本当に苦戦してきました。家族にお金を入れられない時期が1年以上あって、家のお金も減っていった。借金も増えていきました。家族からしたら、『夢ばっかり語ってるんじゃない』って思っていたと思います」
未来のためにやりたいことがある。でも、今日の暮らしも守らなければならない。そこで大門さんは、同じ方向を向く仲間たちといくつかの事業を立ち上げ、社会課題への活動と収益をつくる仕事を両立させようとしてきた。
本人によれば、長い間「箸にも棒にもかからない」状態が続いたが、最近になってようやく継続的な収益への手応えが見え始めているという。
「7年間、暗闇というか、ジャングルの中をずっと進んでいる感じでした。ようやく抜け出すところが見えてきたかな、というところです」
その長い時間を支えたのは、大門さん自身の意志と、周囲にいた仲間だった。何度も「もうここが限界か」と思う場面があった。背負っているものがあり、逃げられないのに、放り出したくなることもあった。そんな時に心配して声をかけてくれた人、紹介してくれた人、一緒に未来を語った人がいた。
「本当に窮地に立たされた時って、逃げ出したくなるんですよ。もう苦しくて、怖くて。でも希望という光があったら耐えられる。なんとか出口を見つけようと思える。僕は仲間が希望を持たせてくれたから、活路を見つけることができたんです」
大門さんが語る希望は、人との関わりの中で受け取ってきたものだった。自分では先が見えない時に、別の誰かが「まだいける」と言ってくれる。その言葉が、もう一度立ち上がる理由になる。仲間からもらった希望に救われ、前を向いて、歩ける道を探してきた。
その仲間の中で1番応援してくれた恩人は、昨年、悪性リンパ腫で急逝した。
「一緒に『成功したね』って酒を酌み交わしたい人でした。もう、それはできない。これからの僕を『見ててね』っていう気持ちです」
今、大門さんは自分が受け取ったものを次へ回そうとしている。
「僕が一人だったら、希望を失っていたかもしれない。仲間が希望を持たせてくれて、今日まで来られた。今度は僕が誰かを救う番だと思ってるんです。希望を人に持たせるような仕事をしようって」
この言葉だけを切り取れば、強い使命感を持った人物に見えるかもしれない。だが、大門さんは素直に今の自分の見ている。
「そんな立派なことばっかり言ってるけど、格好悪いんですよ。うまくいってることなんて、まだまだ少ないです。今でも、家計は火の車です。」
大きな夢を語り、仲間を募り、社会貢献を進めるなか、経済的な苦境を打開するために、独立時に作ったPromJapan株式会社の事業を見直し続けた。
理想だけでメシは食えない。
3K(環境.健康.海外)の事業は仲間である経営者を戦略顧問としてサポートし、お役に立ちながら、食い扶持も稼ぐ。
試行錯誤して、諦めずに歩いてきた日々は7年目を迎えていた。
第5章|夢を信じて、仲間と漕ぐ——次世代へ残す「サステナの森」
大門さんが代表理事を務める一般社団法人サステナの森は、気候変動アクションという地球規模の社会課題がテーマである。そこには、脱炭素、防災、地方活力という具体的なミッションがあり、そこにフォーカスしている企業や個人が知見やリソースを持ち寄り、共に学び共創するコミュニティとなっている。
気候変動への対応は、個の力で成し遂げられるものではなく、一国の中だけでも解決できない。世界中の企業、行政、研究機関、専門家たち。それぞれができることを持ち寄り、試行錯誤を重ねて、価値あるプロジェクトへ進化していく必要がある。
「大きいことを成すにも、小さいことからしか始められない。できるか、できないかなんて最初は誰にもわからない。自分の力はちっぽけだから、仲間を作るんです」
サステナの森では、2030年までに30を超えるプロジェクトを生み出す目標を掲げている。取材ではさらに、47都道府県の全てに活動するアクティブな仲間がいる状態をつくり、気候変動アクションの一大組織にしたいと構想も語った。
都市部の有識者や地域のリーダーらとつながり、脱炭素や防災、地方活性化の具体的なアクションが生まれている状態にしたいのだという。その活動を持続させるため、大門さんは「経済」についても現実的に考えている。
社会課題の解決を広げるには、善意や寄付に加えて、事業として続く仕組みが必要だと考えている。価値を生み、必要とする人がいて、お金が循環する状態をつくる。それが資本主義の中で社会課題を動かす一つの方法だという。
「お金って、エネルギーを生み出すために欠かせないものでありつつ、エネルギーのあるところに集まると思うんです。価値があり魅力があれば、お金はそこに流れていく。今まで日陰だったところに『ここは大きなニーズがある市場なんだ』という価値をつくり日を当てるとそこにお金が回る。」
大門さん自身、理念や理想だけでは家族を守れない現実を経験してきた。だからこそ、社会のために取り組むことと、事業として成立させることを切り離していない。同時に、将来はお金そのものの価値も変わっていくかもしれないと考えている。若い世代が、所有や収入だけでなく、体験、学び、成長、人の役に立つことへ価値を置くようになれば、企業のあり方も変わる。
大門さんが思い描く会社は、上から与えられた仕事をこなす場所を超え、同じ目的を持つ人が自ら動く集団である。
「『このミッションを果たすために、みんなの力を貸してくれ』と言って、それぞれが『自分だったらこうする』と動く。そうやって使命を共有しながら、一緒にやる仲間の集団が、僕は会社だと思うんです」
それは、インタビューの最初に語った「自分らしく生きる」という価値観にも重なる。大門さんは、自分と同じように、家族も、仲間も、それぞれが自分の強みや意思を持ち、「自分だったらこうしたい」と言えることを願っている。誰かの犠牲の上で成り立つ社会より、それぞれの力が生かされる状態をつくりたいと語る。
「人それぞれ、自分らしく生きる権利がある。こうありたいと望む何者かになるために、もっと挑戦してほしい」
長期的には、日本の外へもサステナの森のつながりを広げたいという。気候変動アクションは世界でやらなければ解決できない。
日本人が備えている相手を敬う感覚や「和」の考えが役に立つ。大門さんが掲げる「ジャパンドリーム」は、そんな構想の延長にある。
では、大門さん自身のIKIGAIは何なのか。問いを向けると、少し考えてから答えた。
「何でしょうね。何か一緒にやる仲間でしょうかね。気の合うかけがいのない仲間と何かを創っていこうっていう、夢を一緒に追いかけながら、今できることを一生懸命やることだと思います」
少し考えた末の、まだ余白のある答えだった。その最初の一言が「仲間」だったことが、大門さんらしかった。続いて、こんなたとえを話してくれた。
ぼくの人生って、例えると大きな船から目的地が違うことに気がついて小舟へ乗り移った。大海原の中、行先に陸地は見えない。嵐がやってきて何度も沈みかける。救助が来るかも分からない。それでも同じ舟に乗った人たちが、それぞれオールを持って漕いでいる。
「陸地が見えないのに漕ぎながら、みんなで励まし合って、夢を語り合って、『俺たちの行く方向に絶対陸地があるぞ』って信じながら漕ぐんです。それがあれば、僕は生きていける。大事なのは、夢を信じて突き進むこと。仲間とともに、ですね」
実は、大門という名前は、活動のためにつけたビジネスネームでもある。大きな門には、願いを持つ人が行き交う。大門さんは、その名前に自分の役割を重ねている。
「僕は、人の願いをつなぐ役割なんです」
50代半ばで始まった第2幕は、まだ途中にある。サステナの森も、掲げた未来も、いま創っている最中だ。いつ、目的地に辿り着けるかは、今は誰にも分からない。
それでも大門さんは、仲間と同じ舟に乗り、今日できることを一つずつ続けている。自分が苦しい時に誰かが渡してくれた希望を、今度は次の誰かへ手渡しながら。
あとがき
大門さんとの対話を終えたあと、私の中に残ったのは、「人は、仲間がいるからこそ大義を持ち続けられることがある」ということだった。どれだけ強く願っていても、苦しくなれば迷う。結果が出なければ、自分の選択を疑う。家族や生活を守らなければならない状況の中で、遠い未来のために行動し続けることは簡単ではない。
大門さんも、何度も立ち止まりそうになっていた。そんな時に支えになったのが、同じ未来を信じる仲間だった。
「仲間が希望を持たせてくれた」
この言葉を聞きながら、私は、大義とは一人の強さだけで守り抜くものではないのだと感じた。一人なら、「もう無理だ」と諦めてしまうことがある。
それでも、隣に「俺もその未来を見たい」と言ってくれる人がいる。「もう少しやろう」とオールを握ってくれる人がいる。その意思が重なった時、一人では生み出せなかった力が生まれる。
一人分の力が二人分になるだけではない。誰かが迷えば、誰かが信じる。誰かが止まりそうになれば、誰かが前を向かせる。同じ大義を持つ仲間の存在は、人が持つ力そのものを何倍にもしていくのかもしれない。
そして、大門さんの人生からもう一つ、強く突きつけられたものがある。人には、終わりがあるということだ。私たちは普段、「また今度」「落ち着いたら」「いつかやろう」と、ごく自然に未来が続く前提で生きている。
大門さんが死を強く意識した時に残ったのは、やり切った満足ではなかった。
後悔だった。
その話を聞きながら、人生の終わりを意識することは、暗いことではないと私は感じた。終わりがあると知るからこそ、今日という一日の使い方が変わる。
誰と生きるのか。何を諦めずに続けるのか。自分がいなくなったあとに、何を残したいのか。
大門さんは、仲間とともに、まだ見えない未来へ向かってオールを漕いでいる。自分一人では成し遂げられないほど大きなことだからこそ、同じ志を持つ人と進む。
そこに私はIKIGAIの一つの形を見た。
もし人生の残り時間が、思っているほど長くないとしたら、あなたは何を後回しにするのをやめるだろうか。
そして、その大義を、誰となら最後まで持ち続けられるだろうか。
人は一人では小さな存在かもしれない。だが、同じ未来を信じる意思が重なった時、その力は想像以上に大きくなる。残された時間を何に使うのか。誰と、その時間を生きるのか。
大門さんとの対話は、私にその二つを強く問いかけてくれた。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師
WRITER PROFILE
尾﨑弘師 (おざき ひろし)
IKIGAIコネクター/IKIGAI JAPAN 主宰/株式会社ミトミト 代表取締役
これまで延べ1,500人以上に「生きがい(IKIGAI)」をヒアリングし、経営者を中心に100本以上の長編インタビュー記事を執筆。経営者インタビューメディア「IKIGAI JAPAN」を運営し、人生・価値観・哲学・仕事への想いを取材・言語化し、次世代へ残す活動を続けている。
掲げるのは、「その人の人生は、誰にもコピーできない。だからこそ、残すべき価値がある。」という考え方。AIによってコンテンツが大量生産できる時代だからこそ、その人にしかない経験や思想、技術、物語こそが差別化資産になると考えている。
さらに、発掘したIKIGAIをブランド・採用・集客・営業へつなげ、経済の力へ変える「IKIGAIマーケティング」を実践。インタビューによる価値の発掘・言語化を起点に、Webサイト・漫画LP・アニメーションなどのクリエイティブ制作から、広告運用・営業設計まで一気通貫で支援し、「その人だから選ばれる」マーケティングの仕組みを構築している。









