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伝えられるうちに、想いを残す——命の期限を知った女性が、人の人生を本にするまで
木曽稚彗 尾道ハンモックカフェfam
人生の記憶と想いを未来へつなぐ出版プロデューサー
広島県尾道市
伝えられるうちに、想いを残す——命の期限を知った女性が、人の人生を本にするまで
あなたは大切な人に伝えたい言葉を、きちんと伝えられているだろうか。
「ありがとう」
「大好きだよ」
「ごめんね」
いつでも言えると思っている言葉ほど、後回しにしてしまう。明日も同じように会える。来週も、来年も、自分はここにいる。私たちは、そんな確証のない前提の上で日々を生きている。
29歳のある日、木曽稚彗さんは、その前提を突然失った。
当時2歳だった息子を実家に預け、少し身体に違和感があったため病院へ向かった。午後には、地元で行われるプロ野球の試合を一緒に観に行く予定だった。
「お昼には帰ってくるからね」
そんなふうに声をかけ、いつもと変わらない気持ちで家を出た。
ところが、検査を終えた木曽さんに医師が告げたのは、予想もしなかった言葉だった。
「この状態で、どうして立って笑っていられるのか分からない」
脳内には広範囲に出血が見られ、本来なら命を落としていても不思議ではない状態だった。手術のためにメスを入れること自体が、死につながる可能性もある。手術が成功するとも、その後長く生きられるとも約束できない。
今日まで続いていた人生が、明日も続くとは限らない。
その現実を突きつけられたとき、木曽さんの中にあふれたのは、言えなかった言葉への後悔だった。
「何でもっと、親に『ありがとう』と言ってこなかったんだろう。子どもに『生まれてきてくれてありがとう』『大好きだよ』と、もっと伝えてこなかったんだろう。友達にも、あのとき一緒にいてくれてありがとうと、どうして言わなかったんだろうと思いました」
現在、木曽さんは出版プロデューサーとして、人や企業の経験、想い、理念を本にする仕事をしている。また、広島県尾道市では「尾道ハンモックカフェ fam」を運営している。
出版とカフェ。一見すると異なる二つの活動の奥には、同じ願いが流れている。
「もう後悔しない」
そう決めながら、子どもの寝顔しか見られない生活を9年間続けた。自分の気持ちより周囲の目を優先し、子どもから「行かないで」と言われても、その手を振り切って働きに出た。
何度も自分を見失い、そのたびに問い直した。
私は、何のために生きているのか。
大切なものを、大切にできているのか。
自分の人生を変えるために、今できることは何なのか。
この物語は「伝える」という行為が、人生そのものを変えていくまでの記録である。
第1章|鳥籠の外を知らなかった——暴力の中で身につけた、生き抜くための方法
木曽さんは、島で育った。
父は船乗りで、仕事に出ると9か月ほど家を空け、その後の2、3か月を家族と過ごした。父がいない期間は長かったが、帰ってくると家の空気は大きく変わった。
父は、家族に暴力を振るうことがあった。
理由は、子どもには理解できないほど小さなものだった。海外で仕事をしていた父が英語で問いかけ、幼い木曽さんが答えられなければ殴られた。成長してからは政治の話を振られ、うまく答えられないことが暴力につながることもあった。
父の機嫌によって、いつ何が起こるか分からない。
木曽さんは、少しでも殴られずに済む方法を考え続けた。父の写真を部屋に飾ると、機嫌が良くなることがあった。
「父の写真を飾っていたら、すごく喜ぶんです。私は父が好きだからというより、殴られないようにするために置いていました」
子どもが家族の機嫌を読み、自分の安全を守る方法を探す。木曽さんにとって、それは特別なことではなく、毎日の生活だった。
父が再び船へ戻ると、今度は兄の感情が木曽さんへ向かった。父から厳しくされていた兄が、年下の妹へ怒りをぶつける。父がいない間、母の関心は兄へ向かうことが多く、木曽さんは一人で受け止めた。
大人になった木曽さんは、父や兄の行動を肯定することなく、その背景を冷静に見つめている。
「父にとっては家族が、兄にとってはさらに小さい私が、感情をぶつける相手になっていたんだと思います。私は、ずっと受け皿になっていました」
受けた痛みは、木曽さんの中にも残った。
小学生になると、木曽さん自身が同級生に対して暴力的に振る舞うことがあった。友達と穏やかな関係をつくるより、力でその場にいさせようとする。家で受け止め続けた感情が、学校では別の誰かへ向かった。
だから木曽さんは、幼い自分をこう語る。
「あの頃の生き方が、すべて素晴らしかったとは言えません。私自身も、たくさんの人に迷惑をかけました。それが生き抜くための方法だったとしても、迷惑をかけた事実は残っています」
幼い頃から、木曽さんは「生きている意味」を考えていた。
存在そのものを否定されるような日々の中で、自分がいない方が家族は幸せなのではないか、どうすれば死ねるのだろうかと考えたこともあった。
それでも、外へ出れば走った。
鬼ごっこをして、気持ちが悪くなるほど全力で走った。家でも学校でも緊張する時間が多かった木曽さんにとって、公園で友達と走り回る時間は、身体ごと自由になれる瞬間だった。
「一生懸命走っている自分が好きでした。頑張ったな、という感覚があったんです」
長い航海を終えて帰ってきた父は、休みの間に資格を取り、新しいことへ挑戦していた。
母は、人に対して優しい人だった。
父の挑戦する姿勢と努力。母の優しさ。
傷つけられた記憶と、受け継いだものは、同じ家族の中に並んで残っている。木曽さんは、そのどちらか一方だけで過去を語ろうとはしない。
もし、幼い自分に声をかけるなら、何と伝えるのか。
そう尋ねると、木曽さんは少し考えて答えた。
「よく頑張った、というより、『よく元気にやってきたね』と言いたいです。そして、大きくなったら、自分のしたことを反省できる日も来るよと伝えたい。鳥籠の外は、本当にあるんだよということも伝えたいですね」
当時の木曽さんには、鳥籠の外が見えていなかった。
それでも、走ることをやめなかった。
第2章|書くことだけは、誰にも奪われなかった——胸の奥にしまった絵本作家の夢
小学校を卒業する頃、木曽さんは友達から忠告を受けた。
中学校の先輩たちに目をつけられている。このまま入学したら、ひどい目に遭うかもしれない。
島の中にある中学校は、荒れた雰囲気を持っていたという。小学生までの木曽さんは、力を使って人と関わることがあった。このままでは、さらに苦しい学校生活になる。
そこで木曽さんは、自分の振る舞いを大きく変えた。
「中学校へ入ったら、めちゃくちゃおとなしい子になろうと決めました。本当に、誰とも話さないくらいおとなしくなりました」
小学生の頃とは正反対だった。
自分を出さず、目立たず、周囲と衝突しないように過ごす。その一方で、仲の良い友達の家に集まり、女子会のように話して過ごす時間は楽しかった。
中学2年生の国語の授業で、物語を書く課題が出た。
木曽さんが書いた作品を、国語の先生が高く評価した。学校でつくっていた冊子に掲載したいと言われたが、木曽さんは断った。
目立てば、何かを言われる。
出る杭になれば、打たれる。
それでも、胸の内ではうれしかった。
音楽の授業でも、曲を聴いて感じたことを文章にする問題があった。木曽さんが書いた答えには、それまで見たことがないほど大きな花丸がついた。
「イメージしたことを文章にするのは、自分の得意なことかもしれないと思いました。そこで初めて、絵本作家になりたいという夢を少しだけ持ったんです」
家で自分の存在を否定されることがあっても、文章の中では、自分が感じたことをそのまま形にできた。
誰かに話せない思いも、言葉なら置いておける。
高校は進学校だった。同級生の多くは大学や短期大学へ進学していったが、木曽さんは進学を選ばなかった。
兄は県外の私立校へ通い、一人暮らしをしていた。両親が学費や生活費を工面する姿を間近で見ていた木曽さんは、明確な進路を持てない自分まで大学へ行きたいとは言い出せなかった。
本当は、絵本作家や小説家に憧れていた。
ところが、国語の成績は良くなかった。
「文章は書きたかったんです。でも国語のテストの点数が悪かったので、先生に『作家になりたい』と言うのが恥ずかしかったんですよね」
書くことが評価された経験より、点数の方を信じてしまった。
それでも一度、自分で書いた作品を出版社の公募へ送ったことがある。しばらくして、送った原稿はそのまま返送されてきた。
インターネットが普及する前の時代だった。島で暮らす木曽さんには、次の募集を探す方法も、作家になる道筋も分からない。
本を出版することは、遥か遠くにある願いになった。
高校卒業後、友達に勧められて美容師の道へ進んだ。強い志望があったわけではないが、木曽さんは資格を取り、約5年間働いた。
朝早くから練習し、営業後も技術を磨く。休日にも系列店へ行き、練習を重ねた。
父から受け継いだ、決めたことへ取り組む力は、ここでも表れていた。
一方で、美容師の仕事には最後まで自信を持てなかった。大雑把な自分には、細かな作業が合っていないと感じていた。職場には厳しい上下関係があり、飲み会の席で笑うことさえ強要されることがあった。
「次はお前がみんなを笑わせろ」
そう迫られるような環境に、木曽さんは息苦しさを感じた。同僚が雑巾を投げられ、侮辱的な言葉を浴びせられる場面も見た。
高校生活は、友達に恵まれ、楽しかった。
社会人になった途端、世界は再び重くなった。
木曽さんが美容師を辞めたとき、守りたかったのは、自分が楽しいと思える時間だった。
「ストレスのある仕事を辞めて、少しでもやりたいことをやりたい。自由になりたいと思っていました」
次に選んだのは、雑貨を扱うアパレル店だった。
木曽さんは、洋服や化粧に強い興味があったわけではない。それでも、雑貨屋で働くことには心が動いた。
美容師時代には、毎朝スタッフ同士で服装やメイクを指摘し合う時間があった。木曽さんは、そこにも違和感を覚えていた。
「みんなが好きで着ているなら、それでいいじゃんと思ってしまうんです。人の服にケチをつけたくなかったんですよね」
人には、それぞれの選び方がある。
誰かが決めた正解に合わせるより、自分が好きだと思えるものを選びたい。その感覚は、この頃から木曽さんの中にあった。
雑貨店で働いていた時期に、現在の夫と出会った。約3年間の交際を経て結婚し、妊娠を機に仕事を離れた。
やがて、同じ誕生日に息子が生まれた。
木曽さんにとって、息子は宝物だった。
「子どものためなら、毎日公園へ行きたいと思っていました。喜ぶ顔を見られることがあるなら、一緒に見たい。自分の時間を、ほとんど子どもに使っていました」
夜泣きが続き、満足に眠れない日もあった。それでも、子どもと過ごす時間は、木曽さんの人生に大きな喜びをもたらした。
その息子が2歳になった頃、木曽さんは命の期限を告げられる。
遠くに置いたままだった「言葉を残す」という願いが、再び動き始めるまでには、まだ長い時間が必要だった。
第3章|「後悔しない」と決めたのに——子どもの手を振り切った9年間
病院へ行った朝、木曽さんは元気だった。
少しだけ身体に違和感がある。その程度の感覚で病院を訪れた。
血液検査、心電図、CT。普段より丁寧に検査をしてもらえることを、最初は「今日は贅沢な日だな」と受け止めていた。
診察室に呼ばれるまでは、自分が命の瀬戸際にいるとは知らなかった。
診断は、脳出血だった。
「本来なら死んでいる状態の人が、立って笑っていることが理解できない」
医師からそう告げられた瞬間、それまで感じていなかった不調が一気に押し寄せた。手術には大きな危険が伴い、家族も命を失う可能性を伝えられた。
予定時間を大幅に超えた手術を経て、木曽さんは生還した。
すぐに元の生活へ戻れたわけではない。身体が斜めへ傾き、真っすぐ歩けなかった。幼い息子に手を引いてもらわなければ、買い物から帰ることも難しかった。
いつ発作が起きるか分からず、強い薬を数年間飲み続けた。
命を失いかけて、木曽さんは決めた。
もう二度と、後悔する生き方はしない。
ところが、その決意とは反対の生活が始まった。
下の娘が生まれた後、夫が精神的な不調から働けなくなった。家族の生活を支えるため、木曽さんは、安定した収入を得られる昼間の仕事に就いた。
約半年後、夫は自営業として居酒屋を始めた。
下の娘は2歳ほどで、上の息子は小学校低学年だった。
木曽さんは昼間の仕事を終えると、そのまま夫の居酒屋へ向かった。子どもたちは両親に預け、送迎や食事、身の回りのことを任せた。
店が終わるのは深夜だった。
実家へ子どもたちを迎えに行くと、二人はすでに眠っている。抱きかかえ、おぶって自宅へ連れて帰る。寝かせると、すぐに次の朝が来た。
朝5時に起き、5時から5時半までが唯一の自由時間だった。5時半から身支度を始め、6時過ぎから7時前には家を出る。昼間の仕事を終えると居酒屋へ入り、深夜0時や1時に帰宅する。
週末は、朝4時、5時まで店が続くこともあった。遅い日は朝7時に帰宅し、そのまま次の仕事へ向かった。
眠る時間も、子どもと話す時間も、ほとんどなかった。
「寝ている子どもを抱きかかえながら、『一緒にいたいのに、いられなくてごめんね』と泣いていました」
夫婦喧嘩をして店へ行かなかったこともある。それでも月に2回、業者への支払いやアルバイトの給与を処理するため、必ず店へ行かなければならなかった。
地域には、「妻が店に立つのは当然」という空気があったという。
木曽さんが店から離れると、近隣の人から夫を支えるよう強く責められることがあった。店を訪れた人から、侮辱的な言葉を浴びせられたこともある。
周囲から責められることへの恐れと、夫の仕事を手伝う責任。
その中で、木曽さんは「店にいなければならない」と思い込んでいった。
「頭の中では、子どもが一番でした。でも、私が実際にやっている行動は、店が一番になっていたんです」
荷物を取りに家へ戻ると、子どもたちが走って追いかけてきた。
「行かないで」
それでも、木曽さんは振り切って仕事へ向かった。
その生活は、9年間続いた。
木曽さんは、周囲のせいだけにしない。
「自分の弱さだった」と語る。
断れば責められる。家族の生活も守らなければならない。自分が働かなければ、店も家も回らない。
そのすべてが事実だった。
同時に、自分が最も大切にしたいものを選びきれなかった後悔も残った。
一度は命を失いかけ、「もう後悔しない」と決めた。それなのに、子どもの寝顔へ謝り続けている。
「脳出血を経験して、後悔しないと決めたのに、どうして今、子どもに会えない時間を後悔し続けているんだろうと思いました」
このままではいけない。
木曽さんは、昼間の仕事を在宅ワークへ変える方法を探し始めた。
家族の居酒屋をすぐに離れることは難しい。安定した収入のある昼の仕事も、準備なく辞めることはできない。
そこで、わずかな時間を使って副業を始めることにした。
木曽さんは、子どもたちへ伝えた。
3か月だけ、自分に時間を使わせてほしい。
その間、遊べなくなったり、話を聞けなくなったりするかもしれない。
けれど、この3か月を頑張って、あなたたちと一緒にいられる生活をつくりたい。
家族に言えなかった言葉を後悔した木曽さんは、今度は自分の決意を子どもたちへ伝えた。
そして、生活を変えるために動き始めた。
第4章|投稿を止めたら、売上も止まった——遠い夢だった出版が仕事に変わるまで
木曽さんが最初に始めたのは、SNSを使った営業代行だった。
それまでSNSで発信した経験は、ほとんどなかった。自分の公式LINEをつくり、ブログやFacebookで情報を発信し、無料相談の案内を出した。
相談者の話を聞き、悩みを整理する。
木曽さん自身は、当時まだ自分の商品を持っていなかった。その代わり、相談者の課題に合う講座やコーチ、専門家を紹介した。
「あなたの悩みを解決できるとしたら、こういう人がいます。話を聞いてみますか」
相談者が希望すれば、講座の説明から契約まで木曽さんが担当し、その後、サービス提供者へつないだ。成約すれば、売上の一部を報酬として受け取る。
昼間の仕事と居酒屋の手伝いを続けながら、副業へ使える時間を探した。
朝5時から5時半まで、以前はYouTubeを見ていた時間を、メッセージへの返信に変えた。仕事中に15分、20分の空き時間ができれば、電話をかけた。帰宅後には、ブログやFacebookの投稿を書いた。
「子どもたちと一緒に生きるためには、やるしかなかったんです。後悔しないために、身体が動く限りやってしまおうという気持ちでした」
副業の収入は伸びていった。
このまま軌道に乗れば、昼間の仕事を辞められる。子どもたちと過ごす時間を取り戻せる。
ところが、木曽さんはすぐに新たな問題へ直面した。
SNSの投稿を止めると、売上も止まった。
発信を再開すれば売上は戻る。しかし、昼も夜も働きながら投稿を続ければ、身体は休まらない。疲れて投稿を止めれば、収入はゼロになる。
これでは、場所が変わっても働き方は変わらない。
木曽さんは、自分が動き続けなくても、信頼や問い合わせにつながる方法を考えた。
そこで思い出したのが、本だった。
紙の本を自費で出版するには、何百万円もの費用が必要になる場合がある。電子書籍のKindleであれば、自分にも手が届くかもしれない。
木曽さんは出版方法を学ぶ講座へ入った。
「できないことではなく、少し背伸びをすればできることに挑戦しない限り、自分の人生は変わらないと思いました」
中学生の頃、絵本作家になりたいと願った。
自分で原稿を出版社へ送り、そのまま返送された。調べる方法も、相談できる人もおらず、出版は遥か遠くの願いになった。
それから長い時間を経て、木曽さんは自分の手で本を出そうとしていた。
最初の本は、ペンネームでSNS運用について書いた。
出版すると、読者から問い合わせが届いた。
「この方法を教えてほしい」
「継続して学べるコースはありませんか」
木曽さんが一人ずつ探し、声をかけ、説明していた時とは違う。本を読んだ人が、内容を理解した上で、自ら連絡をくれた。
新型コロナウイルスの感染拡大により、夫の居酒屋の営業が立ち行かなくなった頃、木曽さんは2冊目の本を出した。
題材にしたのは、居酒屋のことだった。
出版後、地域のメディアから取材を受けた。その内容を見聞きした人からも、さまざまな反応が届いた。
それまで木曽さんを特別な専門家として見ていなかった周囲の人が、見る目を変えた。
「私自身は何も変わっていないんです。本を出したか、出していないか。その違いだけでした」
本を出したことで、経験や考えが整理され、目に見える形になった。
読者は、木曽さんがその場にいない時間にも、本を通して考えに触れられる。木曽さんが一人ずつ説明しなくても、言葉が先に届き、信頼を育てていく。
出版は、木曽さんにとってブランディングの手段になった。
同時に、もっと深い意味を持っていた。
「本の力はすごいと思いました。ビジネスにも生かせますし、人の想いを届けることもできる。この仕事を、自分が支えられるようになりたいと思ったんです」
中学生の頃に胸へしまった夢が、形を変えて戻ってきた。
自分が絵本作家になる方法は分からなかった。
けれど今は、言葉にできずにいる人の話を聞き、その人の経験や想いを本として残すことができる。
木曽さんは、出版プロデューサーとしての活動を始めた。
現在は、本人が文章を書く出版だけでなく、対話を通して言葉を引き出し、形にする支援も行っている。
AIを使えば、文章の形だけなら短時間でつくれるようになった。木曽さんも、AIの力そのものを否定してはいない。
その上で、人の心の深い部分には、本人にしか語れない言葉があると考えている。
「AIにサッと書いてもらうだけでは表せない、心の奥の想いがあります。その人が何を経験し、何を伝えたいのかまで、本には書いてほしいんです」
出版は、伝えられるうちに、想いを言葉として残す手段でもある。
29歳の病室で知った後悔が、出版という仕事につながった。
第5章|本を手にした瞬間、目が輝く——誰もが生きた証を残せる未来へ
現在、木曽さんは自分の生活を「すごく楽しい」と話す。
かつては昼間の仕事を終えた後、深夜まで夫の居酒屋へ立っていた。今は、夫の仕事と自分の仕事を分けて考えられるようになった。
「あなたはあなた、私は私」
自分の人生を、自分で選べるようになった。
出版の仕事と並行し、木曽さんは尾道で「尾道ハンモックカフェ fam」も運営している。
出版とカフェは、業種として見れば異なる。
けれど、自分の気持ちを後回しにしてきた人が、自分自身へ戻るための場所をつくるという点で重なっている。
幼い頃、木曽さんは家の中で父の機嫌を読み、自分を守る方法を探した。中学校では、目立たないように振る舞いを大きく変えた。社会人になってからは、職場のルールや周囲の目に合わせた。
結婚後は、家族を支えるために働き、子どもと過ごしたいという気持ちを後回しにした。
人のために動くことと、自分を失うことは同じではない。
木曽さんは、長い時間をかけて、その違いを知った。
現在、出版を通して実現したいことの一つに、開業医の想いを絵本にする構想がある。
医療機関を選ぶとき、多くの人は距離や知名度、評判などを参考にする。木曽さん自身も、歯科医院を選ぶ際には、通いやすさや人気を基準にするという。
けれど、医師がなぜその地域で開業し、どのような思いで患者さんと向き合っているのかを知る機会は少ない。
「この先生は、こんな思いで医療をしているんだと分かったら、その思いに共感して通い続ける人もいると思うんです」
木曽さんには、忘れられない医師がいる。
脳出血を起こし、メスを入れること自体が命に関わる状態だった木曽さんの手術を引き受けた医師だ。
なぜ、あの状態の患者さんを手術しようと決めたのか。
どのような思いで、手術室へ入ったのか。
命を救われた側からは、見えない物語がある。
その思いを絵本にすれば、患者さんは医師の技術や評判だけでなく、その人が大切にしているものを知ることができる。医療機関にとっては理念を伝える一冊となり、患者さんにとっては信頼できる場所を選ぶ材料になる。
木曽さんは、日本各地の開業医の物語をつくり、地図を埋めていきたいと考えている。
一人の医師の思いを、一冊ずつ残す。
病気や治療に不安を抱える人が、医師の人柄や信念を知り、安心して扉を開けられるようにする。
その構想にも、「伝えられるうちに伝える」という木曽さんの原点が息づいている。
木曽さんが人生で最も大切にしている価値観は、明確だ。
「誰もが生きた証を残して、IKIGAIを感じられる人生を歩むことです。そのために、私が力になれることがあればいいと思っています」
木曽さんにとって、生きた証は、有名な実績や大きな成功だけを指すものではない。
誰かへ伝えたかった感謝。
仕事を通して守ってきたもの。
家族に残したい言葉。
一度は諦めた夢。
自分だからこそ経験した、痛みや喜び。
人の人生には、その人にしか残せない物語がある。
本を出版した著者が、完成した一冊を手にする。
自分の名前が表紙に記され、自分の歩みが言葉になり、Amazonランキングなどで評価を受ける。出版したという実績が生まれ、周囲からも声をかけられる。
その瞬間、著者の目が変わるという。
「本を出した瞬間、どんな人でも目が輝くんです。出版したという実績を持てて、評価を受けたとき、本当に喜んでくださる。その瞬間に立ち会えると、やっていてよかったと思います」
それが、現在の木曽さんにとってのIKIGAIである。
幼い頃、自分が生まれてきた意味を探していた。
中学生の頃、物語を書く力を褒められながら、夢を口にできなかった。
29歳で、伝えなかった言葉を後悔した。
その後、子どもの寝顔に謝りながら、自分の大切なものを選べない日々を9年間過ごした。
今、木曽さんは人の言葉を本にし、その人が生きてきた証を未来へ残している。
そして、本を手にした人の目が輝く瞬間を見つめている。
鳥籠の外は、本当にあった。
その外へ出た木曽さんは今、まだ扉の場所を知らない誰かへ、言葉を手渡している。
あとがき
木曽稚彗さんとの対話を終えた後、私の中には、「伝えなかった後悔」という言葉が残った。
人は、大切なことほど、いつでも伝えられると思ってしまう。
感謝も、愛情も、謝罪も、自分が歩んできた理由も、心の中にあるだけでは相手へ届かない。明日伝えればいいと思っているうちに、時間だけが過ぎていく。
木曽さんは、29歳で命を失う可能性を告げられ、そのことを知った。
だからといって、その後すぐに後悔のない人生を歩めたわけではなかった。一度決めたはずなのに、周囲の目や生活の責任に縛られ、子どもとの時間を失い続けた。
私は、その矛盾に人間らしさを感じた。
大切なものに気づくことと、それを実際に選び続けることの間には、大きな距離がある。
人生は、気づいた瞬間に完成するものではない。戻ったり、迷ったり、また選び直したりしながら、自分が本当に守りたいものへ近づいていく。
木曽さんは、わずかな時間を集め、SNSを学び、本を出版した。
自分の人生を変えるための行動が、やがて誰かの人生を本として残す仕事になった。今は、本を手にした人の目が輝く瞬間に、自らのIKIGAIを感じている。
木曽さんが経験した葛藤や後悔は、今、誰かの大切なものを残す仕事へとつながっている。
あなたには、まだ伝えられていない言葉があるだろうか。
そして、あなたが未来へ残したい「生きた証」は、どのようなものだろうか。
立派な実績である必要はない。
今日、誰かに伝える一言からでも、物語は残り始める。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師
WRITER PROFILE
尾﨑弘師 (おざき ひろし)
IKIGAIコネクター/IKIGAI JAPAN 主宰/株式会社ミトミト 代表取締役
これまで延べ1,500人以上に「生きがい(IKIGAI)」をヒアリングし、経営者を中心に100本以上の長編インタビュー記事を執筆。経営者インタビューメディア「IKIGAI JAPAN」を運営し、人生・価値観・哲学・仕事への想いを取材・言語化し、次世代へ残す活動を続けている。
掲げるのは、「その人の人生は、誰にもコピーできない。だからこそ、残すべき価値がある。」という考え方。AIによってコンテンツが大量生産できる時代だからこそ、その人にしかない経験や思想、技術、物語こそが差別化資産になると考えている。
さらに、発掘したIKIGAIをブランド・採用・集客・営業へつなげ、経済の力へ変える「IKIGAIマーケティング」を実践。インタビューによる価値の発掘・言語化を起点に、Webサイト・漫画LP・アニメーションなどのクリエイティブ制作から、広告運用・営業設計まで一気通貫で支援し、「その人だから選ばれる」マーケティングの仕組みを構築している。









