想いを届ける会社をつくる——中小企業の“本当の価値”を社会へ伝える挑戦

飯塚 昭博 コントリ株式会社

貢献を仕組みに変え、想いを届ける人

東京都中央区

想いを届ける会社をつくる——中小企業の“本当の価値”を社会へ伝える挑戦

 

貢献。
それを人生の力に変えたとき、人はどれほどのパワーを発揮できるのだろうか。

誰かの役に立ちたい。
目の前の人に喜んでほしい。
自分の仕事が、誰かの未来に少しでも届いてほしい。

その問いを、人生の中で何度も見つめてきた人がいる。

コントリ株式会社 代表取締役・飯塚昭博。

コントリという社名には、ContributionとCommunicationという二つの言葉が込められている。貢献と、対話。飯塚さんの人生を辿ると、その二つの言葉が、ただの理念ではなく、彼自身の生き方そのものだったことが見えてくる。

会社員時代、飯塚さんは中小企業の経営者と何度も向き合ってきた。商談の場で聞いたのは、製品へのこだわり。社員への想い。会社を守ってきた時間。誰にも見えないところで積み重ねてきた誇り。そこには、資料や数字だけでは伝わらない、経営者の人生そのものがあった。

その言葉に、魂が震えた。
一度ではない。
何度も、何度も。

だが後日、その会社のホームページを見ると、商談で聞いた熱がどこにも載っていない。あれほど胸を打たれた想いが、外からは見えない。会社の本当の魅力が、社会に届いていない。

飯塚さんの中に、憤りが生まれた。

「なんで、この想いが伝わっていないんだろう」
「これは、本当にもったいない」

その違和感が、やがてコントリ株式会社へとつながっていく。

あなたには、飲み込んできた違和感があるだろうか。
本当はおかしいと思いながら、見ないふりをしてきたことはないだろうか。
安定や常識の中で、自分の心に嘘をついてはいないだろうか。

これは、貢献を信じた一人の人が、葛藤の中で自分の道を見つけ、中小企業の“本当の価値”を社会へ届けるために歩き始めた挑戦の記録である。

第1章|「困ったときは、味方でいてくれた」——貢献の感覚が育った原風景

飯塚さんが生まれ育ったのは、栃木県茂木町。
今でもSLが走る町だという。

その土地の静かな空気の中で、飯塚さんの中に、ひとつの感覚が育っていった。

自分だけが満たされればいいわけではない。
近くに困っている人がいるなら、できる範囲で手を伸ばす。

両親はともに会社員で、その愛をいつも感じていた。

母は、多くを語らない人だった。
良くも悪くも、放っておく。細かく口を出すことはあまりなかった。

その一方で、困ったときには絶対に味方でいてくれた。

小学生の頃、飯塚さんは友達が怪我をした出来事に巻き込まれた。直接、自分が怪我をさせたわけではない。だが、相手の家では「飯塚さんがやったのではないか」という話になり、親同士で話し合うことになった。

母は、表向きには相手の家へ謝りに行った。
相手を責めることもなく、感情的に言い返すこともなく、親としてその場を収めた。

しかし、家に戻ると、飯塚さんの言葉を信じてくれた。

「表向きは謝りに行ったけど、家では『やってないんだろう』って信じてくれたんです。それが本当に嬉しかったですね」

信じてくれる人がいる、味方でいてくれる人がいる。
それは、子どもにとってどれほど大きな安心だっただろう。

その安心感は、飯塚さんの中に深く残った。

そして飯塚さんの貢献の軸には父の存在がある。

父は、見返りを求めずに動く人だった。
目の前に困っている人がいたら、自然と体が動く人だった。

飯塚さんの記憶の中で、父はいつも「近くにいる人」を大切にしていた。家族、知人、仕事仲間。自分の手の届く範囲にいる人が困っていたら、損得を考える前に動く。

その姿を象徴する出来事がある。

東日本大震災のとき、飯塚さんは仲間たちを実家に泊めた。余震が続き、店もほとんど開いていない中、父は車で1時間ほどかけて、遠くのコンビニまで食料を買いに行ったという。

飯塚さんは、そんな父の姿を見ながら、人のために動くとはどういうことかを、言葉ではなく背中で受け取っていった。

「自分が危険な目にあってでも、困っている人がいたら動くんです。あれは誇らしかったですね」

母からは、信じてもらえる安心感。
父からは、見返りを求めずに人を助ける姿勢。

飯塚さんの「貢献」という価値観は、この二つの愛の中で育っていった。

中学、高校、そして大学へ。
進路についても、長く深刻に悩み続けたというより、自分の興味に従って進んでいった。

興味があったのは、ものづくり。
特に電気に関わることだった。

思うようにいかなかった進路もあった。試験で失敗したこともある。それでも、ものづくりに近い場所へ進みたいという気持ちは残っていた。

そして、飯塚さんの中にはもう一つ、ずっと消えない好きなものがあった。

音楽である。

学生時代からバンド活動に打ち込み、自分の想いや世界観を表現することにも、自然と心を惹かれていた。

飯塚さんの「貢献」は、ある日突然生まれた理念ではない。
母に信じてもらった記憶。
父が困っている人のために動く姿。
そして、自分の内側にあるものを音楽で表現していた時間。

そうした日常の積み重ねの中で、「人の役に立つこと」や「誰かに想いを届けること」への感受性が、少しずつ育っていった。

第2章|希望と違う配属が、天職になった——大手自動車会社で見つけた“広くつなぐ力”

大学で電気系の分野に関心を持ち、ものづくりに関わる道を選んだ飯塚さんは、卒業後、大手自動車会社へ入社する。

新卒で入社した2008年、同期は約1200人。
飯塚さんが希望していたのは、研究開発だった。

「ぶつからない車を作りたい」
「壊れない車を作りたい」

そんな思いがあった。

電気に関わる知識を活かし、ものづくりの中心に関わっていく。本人の中では、そんな未来を描いていたのかもしれない。

だが、配属されたのは購買部門だった。

本人にとっては、まったく希望と違う部署だった。お金に関わる仕事はあまりやりたくないと思っていた飯塚さんにとって、最初の配属は納得のいくものではなかった。

「なんで俺がこんな部署なんだよ、という感じでした」

最初は不満を抱えていた。
ところが、働くうちに、その配属は思いがけず適職になっていく。

最初は車の部品調達。
その後、工場の生産設備の調達へ。

塗装、溶接、鋳造、組み立て。
国内の工場すべてに関わり、車づくりの全工程を見ていくことになる。

ものづくりの現場には、たくさんの人がいた。
技術を磨き続ける人。
工場の設備を守る人。
現場を動かす人。

その人たちと話しながら、ひとつのものが形になっていく。

飯塚さんは、そこで自分についての大きな発見をする。

「僕は狭い範囲を深く突き詰めるタイプだと思っていたんです。でも、真逆だったんですよね。広く浅くの方が、自分は好きだし、個性を活かせると分かってきました」

広く見渡す。
いろんな人と関わる。
全体をつなぐ。
それぞれの点を線にしていく。

その仕事に、飯塚さんは自分の適性を見つけた。

車の一部分だけではなく、製品ができあがるまでの流れを見る。工場の人、設備の人、取引先、現場の声。別々に見えたものが、一本の流れとしてつながっていく。

飯塚さんは、会社員時代に「つながりの全体を見る力」を鍛えていたのだ。

同時に、会社員として働きながら、会社の外でも自分の表現を続けていた。

バンド活動を行い、インディーズでCDを出し、ライブ活動をしていた時期もある。その活動の延長で、音楽系のWebサイトを作り、月間20万PVほどまで育てた。ライブの音響に関わることもあり、会社の外で「好きなものを発信する」「場をつくる」という経験を積んでいった。

大手自動車会社での仕事は、楽しく、適職でもあった。
自分の価値を感じる瞬間もあった。

その中で、次の違和感も生まれる。

大企業の中では、エンドユーザーに直接価値を届ける感覚が薄い。自分が関わった仕事が、最終的に誰かの手に届く。それは分かっている。だが、目の前の人に直接「ありがとう」と言われるような距離ではなかった。

そして、上司の姿に自分の未来が見えるようになった。

「自分の部署の上司が、自分の未来に見えたんです。でも、そこを目指す必要はないなと思いました」

その未来を否定したわけではない。
ただ、自分が目指す場所ではないと感じた。

いつか、自分のサービスで、直接誰かに価値を届けたい。
自分が作ったものを、自分の手で届けたい。

その思いが、少しずつ輪郭を持ち始めていた。

大手自動車会社での12年間は、飯塚さんに安定と経験を与えた。
そして同時に、次に進むための違和感も残した。

広く人と関わり、点を線にする力。
発信を形にする力。

そのすべてが、次の挑戦への伏線になっていく。

第3章|「これは誰のための貢献なのか」——外資系企業でぶつかった良心の壁

独立を見据えたとき、飯塚さんには足りないものがあった。

マーケティングとセールス。

大手自動車会社では、買う側だった。
そのため自分の商品やサービスを提案し、売る経験はなかった。

自分で事業をやっていくなら、売る力が必要になる。
経営者たちと話していても、マーケティングとセールスは大事だと何度も聞いた。

そこで飯塚さんは、あえて厳しい営業の世界へ飛び込む。できる・できないではなく、その世界を見たかった。

外資系企業で、成果報酬型の営業に挑戦した。
看板に守られていた場所とは、違う厳しさがあった。

入社直後、コロナが来た。

初月は契約ゼロ。
営業未経験。
知見もない。
商材も難しい。

収入は不安定だったが、支出だけは安定して出ていく。

「営業をやったことがない。いきなりコロナ。知見もない。商材も難しい。結構苦労しましたね」

普通なら、心が折れてもおかしくない。
それでも、飯塚さんは辞めなかった。

ここで辞めたら終わりだと思った。
営業を学ぶために来たのだから、簡単には退けなかった。

飯塚さんは、歯を食いしばるように活動を続けた。

慣れないオンライン商談。
成果報酬という逃げ場のない環境。
思うように結果が出ない焦り。

それでも、目の前の人に向き合い続けた。

少しずつ、成果も上がっていった。
自分の言葉で相手の心が動く感覚も、少しずつ掴み始めた。

営業という仕事の面白さも、確かにあった。

相手の人生の状況を聞き、その人にとって必要なものを考える。
自分の提案が役に立ち、相手が前に進むきっかけになる。

その瞬間には、飯塚さんが大切にしてきた「貢献」の喜びもあった。

だが、成果が見え始めたからこそ、別の問いが濃くなっていく。

これは本当に、人のための提案なのか。
それとも、自分の成果のために貢献しているように見せているだけなのか。

結果を出さなければ、この世界では生き残れないことも分かっている。

それでも、心の奥では問いが消えなかった。

買ってもらえたとしても、それは本当に相手のためなのか。
良い関係として続いていくのか。
自分は、相手の未来を見ているのか。
それとも、自分の数字を見ているのか。

苦しさは、結果が出ないことだけではなかった。
結果が出始めたからこそ、自分の中の良心と向き合わざるを得なかった。

「貢献したい。だけど成果も上げたい。この狭間にいたんですよね」

さらに苦しかったのは、貢献そのものにも見返りを求めてしまう自分がいたことだった。

時間をかける。
手間を惜しまない。

その裏側で、どこか期待してしまう。

これだけやったのだから、契約してくれるのではないか。
これだけ貢献したのだから、返してくれるのではないか。

無料で顧客のWebサイトを作ったこともあった。
何十時間と相手のために時間をかけても、契約にはならない。

相手のために動いたはずなのに、返ってこないことに心が揺れる。

これは本当に貢献なのか。
それとも、見返りを求めた貢献なのか。

そんな葛藤が続く中、飯塚さんはひとつの捉え方に出会う。

それまでは、Aさんに貢献したら、Aさんが返してくれると思っていた。相手に尽くしたら、その相手から何かが返ってくるはずだと思っていた。

その考え方のままだと、苦しくなる。

Aさんに貢献したことが、巡り巡ってBさんやCさんから返ってくる。
目の前の人から返ってこなくても、別の場所から返ってくることがある。

そう捉え直したとき、飯塚さんの中で矛盾が整った。

「目の前の人から返ってくるんじゃなくて、別のところから返ってくる。これが貢献して返ってくることなんだと思ったんです」

貢献は、取引ではない。
自己犠牲でもない。

人間だから、期待もする。
返ってこなければ、苦しくもなる。

その弱さを見つめたうえで、飯塚さんは自分の心を少しずつ整えていった。

それは、飯塚さん自身を救う捉え方でもあった。

第4章|違和感は、見過ごせなかった——中小企業の想いを届ける場所へ

外資系企業で3年目を迎えた頃、飯塚さんは個人ではなく法人マーケットへ移る。

ここで、仕事への感覚が変わった。

「社長さんと話していると、めっちゃいい話だな、感動するなということが結構あったんです」

その感覚は、大手自動車会社時代から飯塚さんの中に残っていた。

社長の口から語られる想いは熱い。
人としての魅力も、会社への誇りも、社員への想いもある。

しかし、外から見ると、その温度が伝わっていない。

飯塚さんの中に、ずっと残っていた違和感がある。

なんで、この想いが伝わっていないのか。
これは、本当にもったいない。

一度目は動けなかった違和感に、二度目はもう背を向けられなかった。

飯塚さんは今こそ動こうと思った。

2023年6月。
会社在籍中に、経営者インタビューメディア「コントリ」を始める。

1円ももらっていない。
中小企業の社長の想いを届けたい。
その一心で始めた活動だった。

飯塚さんは、ずっと悩んでいた。

いつ独立するのか。
本当に今なのか。
自分はやっていけるのか。

慎重な自分がいて、なかなか踏み切れない自分もいた。

そんな中で、出来事が重なった。

中小企業の魅力が伝わっていないという違和感。
経営者の想いを届けたいという衝動。
今の場所では、その活動を思いきり続けられないという現実。

それらが重なったとき、飯塚さんは「導かれている」と感じた。

今が、そのタイミングなのだと。

「ここじゃないんだろうな、という感じがしました」
「今が決断しろというメッセージなのかなと思いました」

大手自動車会社にも12年いた。
外資系企業にも4年いた。

必要以上に慎重になる自分を自覚していた。

その飯塚さんが、それでも動くしかないと思った。

自分の違和感を、もう見過ごせなくなった。
中小企業の想いを届ける場所を、本気でつくろうと決めた。

飯塚さんにとって、コントリの独立は、長く抱えてきた問いに、ようやく自分の足で答えを出す決断だった。

だが、想いを届ける場所をつくることと、それを事業として続けることは別の話だった。
ここから飯塚さんは、貢献を一時の情熱で終わらせず、続いていく仕組みに変えるという、もう一つの壁に向き合っていく。

第5章|貢献を、続く仕組みに変える——縁に助けられ、発信文化を広げる挑戦

独立後、最初に考えたのは、インタビューを10万円で提供するモデルだった。

無料ならアポイントは取れていた。
だが、有料にした瞬間、全然つながらない。

ここで、再び貢献とお金の難しさにぶつかる。

貢献したい。
お金に変えなければ続かない。
続かなければ、想いを届けることもできない。

この葛藤は、飯塚さんにとって避けて通れないものだった。

人のためにやるだけでは続かない。
お金だけを目的にすれば、自分の心が違うと感じる。

では、貢献をどうすれば続く形にできるのか。

飯塚さんは考える。

法人がお金を払うのは、費用対効果が見えるもの。
そこで、過去に音楽系Webサイトを月間20万PVまで育てた経験を活かし、SEOやホームページ支援を組み合わせていく。

ただ、SEOという横文字を前面に出すのではない。
相手に伝わる言葉に変える。

「広告費をかけずに集まる仕組み」

そう伝えることで、経営者が自分ごととして受け取れる形にしていった。

インタビューは、中小企業の想いを届けるために続ける。
そのうえで、相手にとって必要があれば、発信支援やSEO支援へつながる。

貢献を思いで終わらせず、仕組みにしていく。

飯塚さんは、そこに向き合った。

独立後の飯塚さんを支えたのは、これまでの縁だった。

過去に出会った人。
価値提供をしてきた人。
一緒に飲みに行くようになった仲間。

そうした人たちが、思いがけない形で仕事をつないでくれた。

初期の大きな案件として、知り合いのデザイン会社経由で上場企業のSEO支援につながる。

その縁は、外資系企業時代にオンラインのビジネスマッチングで出会った人から巡り巡ってきたものだった。

「振り返ってみると、今までの貢献で仲間が多かったんだと思うんです」

この出来事によって、飯塚さんの貢献の哲学はさらに深まっていく。

自分が誰かに渡したものが、別の誰かを通じて、必要なタイミングで戻ってくることがある。

「因果関係は証明できないけれど、自分の中で因果関係があると定義づけたんです。そうすると、気持ちが楽になるんですよね」

飯塚さんは、貢献を“続けられる仕事”へと変えていった。

仕組みにした。
経済的にも続く形にした。

だからこそ、次はこの文化を広げようとしている。

世の中には、素晴らしい価値を持ちながら、まだ伝わっていない中小企業がある。

本当に良い商品。
本当に誠実なサービス。
本当に温度のある経営者の想い。

それらが、マーケティングや発信の弱さによって埋もれている。

それは、あまりにももったいない。

飯塚さんが広げたいのは、単なるインタビューメディアではない。
発信文化である。

そして、価値提供と喜びを中心に置いた「コントリ経済圏」である。

お金だけが中心にある経済圏ではない。
貢献があり、喜びがあり、想いが届き、その循環の中で経済も生まれていく。

飯塚さんは、そういう場所をつくろうとしている。

さらに、飯塚さんにはライブハウスを全国展開する夢がある。

音楽を演奏する。
スピーチをする。
商品を発表する。

それらはすべて、自己表現であり、発信である。

人が自分の言葉で、自分の想いを届けられるステージを作りたい。

「世の中に埋もれている価値が、ちゃんと出ていくべきだと思うんです」

飯塚さんにとって、IKIGAIとは何か。

その問いに、彼はこう答えた。

「IKIGAIは、人の喜びですかね」

貢献した先で、誰かが喜ぶ。
「参加できてよかったです」と言ってくれる。
その反応が、自分の中にエネルギーを満たしていく。

飯塚さんにとって、貢献は自分のためでもある。なぜなら人の喜びこそが、自分のエネルギーになるからだ。そしてそれが人のためになる。社会のためになる。

貢献は、巡り巡って返ってくる。
その循環を偶然ではなく、仕組みにする。
そして仕組みを、文化に変えていく。

それが、飯塚昭博さんの挑戦である。

あとがき

飯塚さんの話を聞き終えたあと、私の中に残ったのは、ひとつの問いだった。

自分は、本当に貢献を続けられる形にできているのだろうか。

人の役に立ちたい。
想いを届けたい。
価値ある人を応援したい。

その言葉を口にすることはできる。

だが、それを続けるには、綺麗ごとだけでは足りない。

時間も必要だ。
お金も必要だ。
仕組みも必要だ。

そして、自分の弱さを見つめる勇気も必要になる。

飯塚さんは、そこから逃げなかった。

貢献したい。
でも、見返りを求めてしまう。
人のために動きたい。
でも、成果が出なければ苦しい。
想いを届けたい。
でも、お金に変えなければ続けられない。

その矛盾を抱えながら、飯塚さんは自分なりの答えにたどり着いた。

与えたものは、すぐには返ってこないかもしれない。
それでも、人との縁の中で、想いは形を変えて戻ってくることがある。

私は、この話に深く胸を打たれた。

IKIGAI JAPANもまた、誰かの想いを聞き、言葉にし、社会へ届ける活動である。

経営者、職人、専門家、地域で挑戦する人たち。
その人たちの人生には、必ず言葉になる前の熱がある。

しかし、その熱は、聞かなければ見えない。
言葉にしなければ届かない。
届けなければ、存在しないもののように扱われてしまうこともある。

声の大きいものだけが、価値あるものとは限らない。

だからこそ、聞く人が必要なのだと思う。
言葉にする人が必要なのだと思う。
その想いが届く場所をつくる人が必要なのだと思う。

あなたには、伝えきれていない想いがあるだろうか。

本当は胸の中で燃えているのに、言葉にできていないものはないだろうか。
誰かに届けたいのに、届け方が分からないまま眠らせているものはないだろうか。

そして私自身もまた、問い続けたい。

自分は、誰の想いを届けたいのか。
何を、次の時代へ残したいのか。
自分のIKIGAIを、どんな仕組みに変えていくのか。

届けたい想いがあるのなら、届ける場所をつくらなければならない。
守りたい価値があるのなら、それを言葉にし、仕組みにし、未来へ渡していかなければならない。

飯塚さんの歩みは、その覚悟を私に教えてくれた。

想いは、伝わってこそ人を動かす。
眠っていた言葉が誰かに届いたとき、まだ見ぬ未来に光が差すことがある。

私もまた、誰かの想いを届け、貢献をつないでいける一人でありたい。

IKIGAIコネクター
尾﨑弘師

 

コントリ株式会社 ウェブサイト

 

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