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やらなかった後悔を、人生に残さない——サッカーという夢を手放した青年が、挑戦を生き方に変えるまで
大須賀琢真 ASRIUM
営業・採用・人事を通じて、挑戦する人を増やす経営者
東京都
やらなかった後悔を、人生に残さない——サッカーという夢を手放した青年が、挑戦を生き方に変えるまで
あなたには、やってみたいのに、怖くて踏み出せなかったことがあるだろうか。
失敗するかもしれない。恥をかくかもしれない。
今いる場所を失うかもしれない。そう考えれば、動かない理由はいくらでも見つかる。
ASRIUMを率いる大須賀琢真さんは今、「挑戦し続けること」を人生で最も大切な価値観として挙げる。だが、もともと挑戦が好きだったわけではない。
「前に出るのも嫌いでしたし、人と話すのも嫌いでした。自信も全然なかったです」
失敗は今も怖い。それでも大須賀さんは、営業、採用、人事、そして起業へと、自分の知らない場所へ何度も踏み込んできた。
その原点を辿っていくと、一つのボールを必死に追い続けていた少年時代に行き着く。
幼い頃からサッカーに打ち込み、Jリーグ下部組織の狭き門を突破した。しかし、そこで知ったのは、自分よりはるかに優れた選手たちの存在だった。
追いつくために、人より走った。高校では全国3位を経験した。
それでも、夢だったプロには届かなかった。
大学に入り、半年ほどでサッカーを辞める決断をした。
自分の人生そのものだと思っていたサッカーを自ら手放した。
「『大須賀=サッカー』だったんです。そのイコールがなくなった。何をすればいいんだろう、という感覚でした」
そんな時、大学の授業で偶然隣に座ったフィリピン人の学生が、実家へ帰ると言った。大須賀さんは、ほとんど反射的に言った。
「行かせてくれ」
それまで海外へ行ったことは一度もなかった。最初の渡航は、本人の言葉を借りれば「放浪に近い」ものだった。
しかし、その一歩をきっかけに、その後も何度もフィリピンへ足を運ぶことになる。 そこで見たのは、日本ほど物質的に恵まれていなくても、家族を大切にし、笑って暮らす人たちだった。
「そんなに楽でいいんだ」
大須賀さんの言葉では、「鎖が取れた」ような感覚だった。そこから、挑戦の意味が変わっていく。
苦しみながら結果を取りにいくものから、自分の知らない世界を広げてくれるものへ。
成功という結果だけを追うのではない。まだ見たことのない場所へ向かい、自分の世界が広がっていく。
その過程そのものに意味を感じるから、進み続ける。そして今、その挑戦を、自分だけのものではなく誰かへ手渡そうとしている。
これは、自分のすべてだった夢を手放した一人の青年が、世界の広さを知り、やがて「挑戦する人を増やす」という生き方へ辿り着くまでの物語である。
第1章|上には、上がいた——「自分は下手だ」と知った少年が、それでもボールを追った
大須賀さんは、父と母、二歳下の妹とともに育った。父は、創業から半世紀ほど続く建築会社を継いだ二代目の経営者で、とにかく真面目な人だった。
一方の母は、大須賀さんが何かをやりたいと言えば、「やってみなよ」と背中を押す人だった。
「今振り返ると、両方の性格をもらっている感じがします。冷静に見たり、真面目にやるところは父から。好奇心みたいな部分は母に似ていますね」
そんな家庭で育った大須賀さんは、年長の頃からサッカーを始めた。街のクラブチームではキャプテンを任され、さまざまな選抜にも選ばれた。
ところが小学六年生の時、世界が一変する。
Jリーグ傘下組織のスペシャルコースのセレクションを受けた。参加者は約200人。
合格したのは3人だった。大須賀さんは、その3人に入った。
普通なら、大きな成功体験として残りそうな出来事だ。しかし本人にとって、本当の経験は合格した後にあった。
毎週水曜日、スタジアムの脇にある練習場へ行く。そこには、自分よりうまい選手ばかりがいた。
「街のクラブチームでは、自分はうまいと思っていました。でも、そこでは四年生や五年生と比べても、自分が一番下手なんじゃないかと思うぐらいでした。毎週水曜日が地獄でしたね」
自分はできる。その感覚が、わずか十二歳ほどの時に壊された。
辞めたいと思うこともあった。その時、父から言われていた言葉があった。
「自分で『やる』と言ったんだったら、自分が納得するまでやれ」
大須賀さんは、プロサッカー選手になると言っていた。ならば、やるしかない。
中学進学時には、再びJリーグ下部組織のジュニアユースのセレクションを受けた。今度は約1000人。
複数回の選考と面談を経て、大須賀さんは18人ほどの枠に残った。
後に、コーチから合格理由を聞いたことがある。セレクション中、参加していた小学生の中で唯一、スライディングをしたからだった。
それまでスライディングなどほとんどしたことがなかった。できれば、したくない。
それでも、その時だけは身体が動いた。
「多分、無意識だったと思います。でも今振り返ると、ボールへの執着だったり、目標への強い行動の表れだったのかなと思っています」
入団してからは、再び厳しい現実が待っていた。日本代表クラス、県のトップクラス。
そうした選手たちの中に入れば、自分がどの位置にいるかは分かった。
「中学生の時から、自分の現在地は理解していました。自分は一番下だと。だから他の人より練習しなきゃいけないし、走らなきゃいけない」
みんなが10走るなら、自分は12走る。下手なら、その分やる。
腐らずに続けた。二年生になると一学年上の試合にも出場し、三年生では試合にも起用された。
大須賀さんの中に、後の人生にもつながる一つの姿勢ができていった。自分を大きく見せるのではない。
今いる場所を見る。足りないものを見る。
そして、やる。
ただし、この頃の大須賀さんにとって「挑戦」はまだ、今のように楽しいものではなかった。むしろ、苦しいものだった。
本人に「当時へ戻りたいですか」と聞けば、答えは明確だった。
「戻りたくないです」

第2章|「大須賀=サッカー」が消えた日——夢を失い、何者でもなくなった大学一年生
中学三年生になると、高校年代のユースへ昇格できるかどうかが決まる。大須賀さんは最後まで昇格の可能性を残していたが、結果としてユースへ上がることはできなかった。
まだプロへの道が消えたわけではない。高校サッカーから再び目指す。
複数の学校を受け、高校でも競技を続けた。
しかし、高校時代は怪我に苦しんだ。以前なら行けたボールへ、身体が身構える。
競り合える場面で、怪我をかばってしまう。思うように身体を動かせない時間が増えていった。
それでもAチームには入り、試合にも出場した。チームとしてはインターハイ全国3位も経験した。
だが、高校卒業時にプロから声がかかることはなかった。次に考えたのが大学だった。
大須賀さんには、環境に対する強い意識があった。
「プロになるかどうかって、実力だけではないと思っていました。見られている環境にいるかどうかも大きい。ある試合ですごい活躍をした時、そこにスカウトがいるか。それも運だと思っていたんです」
だから、できるだけプロの目に触れる環境を選びたかった。大学へ進学し、サッカー部のセレクションにも合格した。
もう一度、ここから上を目指す。
だが、入ってみると想像していた環境とは違った。部員数が多く、大須賀さんは下位カテゴリーからのスタート。
そこには常に指導してくれるコーチさえいなかった。試合のメンバーも、戦術も、自分たちで決める。
「見てもらえる環境に行く」
そのために選んだ大学で、見てもらえない。さらに怪我も続いた。
この場所で努力を重ねることが、本当にプロへつながるのか。大須賀さんの中で、少しずつ歯車が噛み合わなくなった。
大学一年生の夏。サッカーを辞めることを決めた。
その日の光景を、今でも覚えている。実家の玄関へ入る前、家の前に立って、監督へ電話をした。
「辞めます」
幼稚園の頃から続けてきた。家族も、プロを目指す自分を長い間支えてくれていた。
大学へ進んだ理由も、サッカーだった。そのサッカーを、自分で終わらせる決断をした。
「『大須賀=サッカー』というものが自分の中にあって、そのイコールがなくなった。何をすればいいんだ、という感覚でした」
申し訳なさもあったという。ここまで支えてくれた家族の期待を、自分が終わらせてしまった。
そんな気持ちもあった。
毎朝、実家から大学へ向かい、サッカーをする生活もなくなった。時間が空いた。
同時に、自分の中にも大きな空白が生まれた。
「何かに熱狂しないといけないと思っていました」
普通に大学生活を過ごすことは、大須賀さんにはできなかった。大学へ行くのなら、何かを学ばなければ意味がない。
国際系の大学だったため、英語も身近にあった。卒業にはTOEIC500点以上が必要だったが、入学時の点数は約200点だった。
それまでサッカーだけを見てきた。だから今度は、勉強へ向かった。
経済なのか、国際学なのか、英語なのか。何か、自分が熱中できるものを探した。
そして、人生を大きく変える日が来る。大学の授業で、たまたま隣にフィリピン人の学生が座っていた。
授業が終わり、相手が言った。
「明日、実家に帰る」
大須賀さんが聞く。「実家、どこ?」「フィリピン」
返した言葉は、「行かせてくれ」だった。
留学計画を立てていたわけではない。海外へ行ったことすらなかった。
最初の渡航について、本人は「放浪に近かった」と振り返る。
その経験をきっかけに、大須賀さんはその後もフィリピンへ足を運ぶようになる。大学1年から4年までの間に、通算約1年半、現地で英語を学び、3年生の時にはTOEIC645点までスコアを伸ばした。
自分のすべてだったサッカーを手放した後、何者でもなくなった大須賀さんは日本の外へ飛び出し、そこで新しい世界に出会っていった。
第3章|「そんなに楽でいいんだ」——フィリピンで壊れた、幸せを測る一つの物差し
フィリピンの空港を降りた瞬間、大須賀さんは衝撃を受けた。気温、人、車、空気。
街へ入れば、絡み合う電線や、トタン屋根の建物が目に飛び込んでくる。
「同じ地球なのかと思うぐらい、全部が違いました」
日本で当たり前だと思っていたものが、外へ出た瞬間に当たり前ではなくなった。大須賀さんが滞在していた地域のすぐ裏にはスラム街があり、現地の人の協力を得て、そこに暮らす子どもたちと話す機会もあった。
英語を学ぶためにフィリピンへ通いながら、現地の人々との交流を重ねる中で、タガログ語にも触れていった。
そこで、大須賀さんは一つの疑問を抱いた。
物質的な環境だけを見れば、日本の方が圧倒的に豊かだった。
「客観的に見た時、フィリピンの人たちの方が幸せそうに見えたんです。家族を大事にしていて、笑顔も多かった」
豊かさとは、何なのか。大須賀さんがそこで感じたのは、人の幸せは外側の条件だけでは決まらないということだった。
「この環境の中で本人が幸せだと思っているのであれば、僕はそれでいいと思うんです」
それまで自分の中には、日本でつくられた一つの物差ししかなかった。その物差しだけで、自分も他人も見ていた。
フィリピンへ行き、初めて別の物差しを知った。本人は、その変化を「教養」「感性」「捉え方」という言葉で表現する。
知っている世界が増えれば、同じ出来事でも見え方が変わる。そして、もう一つ。
大須賀さん自身を縛っていたものも、少しずつ外れていった。
もともと、自分はネガティブな人間だったと言う。自信がない。
前に出たくない。人と話すことも好きではない。
ところがフィリピンで出会った人たちは、とにかく明るかった。何かあっても、「OK。次、次」と進んでいく。
人生は長い。どうにでもなる。
それを間近で見て、大須賀さんは驚いた。
「こんなに明るくていいんだ。そんなに楽でいいんだって思いました」
そして、こう表現した。
「鎖が取れたような感覚でした」
サッカーをしていた頃、挑戦はつらいものだった。結果を掴むために耐えるものだった。
だが、サッカーという大きな目標を手放した後、フィリピンへ飛び出したことで、挑戦の先にはまったく知らなかった世界があることを知った。挑戦すれば、世界が広がる。
自分自身も変わる。そこから少しずつ、挑戦に対する意味づけが変わっていった。
後に大須賀さんは、「後悔」についてインターネットで調べたことがある。
挑戦して失敗した後悔。挑戦しなかった後悔。
そこで目にした「やらなかった後悔の方が残る」という考え方が、自分の中に残った。
「だったら、そっちの選択を取らないようにしようと思いました」
自信がついたから動き始めたわけではない。失敗が怖くなくなったわけでもない。
自分の知らない世界へ出たことで、「やってみなければ分からない」と思えるようになった。
かつて苦しさだった挑戦が、少しずつ、自分の人生を広げるものへと変わっていった。

第4章|一番やりたくなかった営業を選ぶ——固定観念を、自分の足で確かめる
大学時代、大須賀さんはフィットネスインストラクターのアルバイトを始め、就職活動では約50社の説明会に参加し、卒業後もフィットネスの世界へ進んだ。そこで身についたのは、相手の立場に立って伝える力だった。
「子どもの目線に立って、分かりやすい言葉で端的に教える。その説明力は磨かれたと思います」
利用者から「ありがとう」と言われる。「身体が変わった」と喜んでもらえる。
人の人生の一部に関われることには、やりがいも感じていた。
一方で、もっと成長したいという思いも膨らんでいった。当時から「何者かになりたい」という思いがあり、将来の起業も視野に入れるようになった。
そのために自分に何が足りないのかを考えた時、必要だと考えたのが「自分を売る力」と「人を採る力」だった。まずは「自分を売る力」を身につけるため、営業を選んだ。
そして次に選んだのが、新規法人への飛び込み営業だった。実は、それまで一番やりたくなかった仕事でもあった。
「営業=モノ売りだと思っていました。嫌がっている人にモノを売る仕事というイメージがあって、一番やりたくなかったんです」
それでも選んだ背景には、起業を見据えたキャリア設計と、フィリピンで得た経験があった。日本の中だけで持っていた常識は、外へ出ると簡単に壊れた。
ならば、「営業は嫌な仕事だ」という感覚も、自分が勝手につくった固定観念かもしれない。
「ちゃんと自分で確かめようと思ったんです」
やってみると、営業は楽しかった。新規の飛び込み営業でも結果が出て、お客さまに喜んでもらえる場面もあった。
本人も、営業は自分に向いていたと振り返る。そこには、知らなかった自分を知る面白さがあった。
フィリピンへ行った時と同じだった。
「挑戦することによって、自分が変わった。だから挑戦って、自分を成長させてくれるし、視野を広げてくれるものなんだという理解が生まれたんだと思います」
営業の次に選んだのが、採用だった。約1,000人規模の企業でアルバイト・派遣・中途採用を担当し、採用の基礎と実務を学んだ。
その後も、人事・採用領域で経験を積み重ねていく。
その過程では、多くの失敗も経験した。
営業で、相手を十分に見ずに「モノ売り」をしてしまったこともある。情報が足りず、受注した案件が失注したこともある。
採用では、自分が強く勧めた人が、入社後につらい思いをすることもあった。
そこから、大須賀さんの中に一つの責任感が生まれた。自分が人の決断に関わったなら、その先まで向き合う。
「自分が無理に入れてしまったのであれば、その人が『この会社に入って良かった』と思えるまで面談する。そこは自分が責任を持たなければいけないと思っています」
失敗した時、支えてくれた上司もいた。失敗を責めるのではなく、次にどう生かすかを考えて、進みなさい。
そう言ってくれた。
現在、大須賀さんは失敗について、こう話す。
「今は、失敗して何も思わないですね。挑戦するのには付き物だと思っているので」
失敗を無視しているのではない。成功へ向かう中には、失敗が当然ある。
失敗した。では、次はどうするのか。
その思考が自然になっていった。
そして大須賀さんの中に、もう一つの言葉が生まれていた。
「何者かになりたい」
何者なのかは、自分でも分からなかったという。それでも、今いる場所だけで人生を終えたくなかった。
会社員として一つの道を極めるのか。自分で事業を始めるのか。
大須賀さんは後者を選んだ。
決められた枠の中にいるより、自分で選びながら進みたかった。ここでも、最初から「自分ならできる」という確信があったわけではない。
ただ、やってみなければ分からない。フィリピンで一度壊れた固定観念を、その後も自分の足で一つずつ確かめ続けてきた。
第5章|「成功そのものより、挑戦している時間が好き」——挑戦を、次の誰かへ循環させる
現在、大須賀さんは会社を経営しながら、営業、採用、人事など、これまで経験してきた領域を軸に事業を続けている。なぜ、そこまで挑戦を続けるのか。
「成功している状態そのものより、まだできていないことに挑戦している状態の方が好きです。それを追っている時が、心から楽しいと思える瞬間ですね」
経営者として、組織を大きくすることも、売上を伸ばすことも、ブランドを育てることも追いかける。ただ、大須賀さんがより強く惹かれるのは、結果そのものより、まだできていないことへ挑んでいる時間だ。
「成功することにやりがいを感じていないんです。挑戦し続けることにやりがいを感じているので、止まることがないんですよね」
言葉の中心にあるのは、「成功を求めない」ということではない。成功という結果以上に、そこへ向かう過程で新しいことへ挑み続けることに、やりがいを感じているということだ。
そして、その挑戦は自分のためだけでもない。
「自分が成功したいだけだったら、ここまでいろんなことをやる必要はないと思うんです。営業なら営業、採用なら採用で、一つの道を極めればいいと思います」
それでも、一つに絞らず挑戦を続ける。その理由を、大須賀さんはこう話した。
「自分が挑戦することによって、一緒に働く人が成長したり、会社や組織が成長したり、お客さまが今まで100点だったものが120点になったり。そこで誰かが『自分もやってみよう』と思ってくれたら、僕としてはすごく嬉しいんです」
自分の挑戦が、誰かの一歩につながる。今、大須賀さんが事業を続ける大きな理由の一つだ。
「20代で『何者かになりたい』と思っている人だったり、キャリアに困っている人たちに、自分が挑戦を続けることで、誰かの可能性を広げられるということは伝えていきたいです」
かつて大須賀さん自身も、「何者かになりたい」と思っていた。では今、その何者かになれた感覚はあるのだろうか。
「ないです」
答えに、迷いはなかった。
「多分、それが見つかった瞬間に僕は何もしなくなると思います」
何者かになったと決めない。だから、まだ先へ進める。
そして、これから目指したい未来について聞くと、大須賀さんはこう答えた。
「私に関わったことで、人生が少し前に進んだと思ってくれる人を増やしたいです」
そのために、組織を大きくする。売上を伸ばす。
ブランドを育てる。大須賀さん自身が先頭に立って追いかけていく。
「自分が作った組織やサービスを通じて、誰かが挑戦するきっかけをつくれたり、誰かの可能性を広げられたりするものを残していきたいと思っています。それを続けるために、今、事業をしています」
自分が先頭に立って挑戦する。その姿や仕事を通して、誰かが一歩を踏み出す。
大須賀さんがこれから増やしたいのは、そんな人たちだ。
では、大須賀琢真さんにとってのIKIGAIとは何か。
「自分が挑戦者であり続けること。そして、挑戦する人を増やすこと。それが自分にとってのIKIGAIかなと思っています」
自分が挑戦する。その挑戦が、誰かの一歩につながる。
そして、その人がまた次の挑戦へ進んでいく。
大須賀さんは、その循環をつくる側であり続けようとしている。

あとがき
大須賀さんの話を聞きながら、私の中で「挑戦する人」という言葉の意味が少し変わった。
私はこれまで、挑戦する人には、どこか強い自信があるのだと思っていた。自分ならできる。
きっと乗り越えられる。そんな確信があるから、一歩を踏み出せるのだと。
でも、大須賀さんは違った。
「自分に自信はないです。今もそうです」
そう話す一方で、これまで何度も自分の知らない世界へ飛び込んできた。
なぜだろう。
話を聞きながら見えてきたのは、大須賀さんは「自分を信じ切れる人」というよりも、「自分の現在地を受け入れられる人」なのだということだった。
中学生の頃、自分が周りより下手だと分かっていた。だから、「みんなが10走るなら、自分は12走らなきゃいけない」と考えた。
できない自分を隠さない。足りないなら、その分やる。
サッカーを辞めた時には、それまで自分そのものだったものがなくなった。それでも、その空白を埋めるように新しいものを探した。
フィリピンへ行き、自分が持っていた価値観の狭さに気づいた。一番やりたくなかった営業も、「自分の固定観念かもしれない」と、自分で確かめにいった。
大須賀さんは、いつも自分を完成した存在として見ていない。今の自分に足りないものを見る。
知らないものを見る。そして、そこへ向かっていく。
だから私は、大須賀さんの「挑戦」は、単なる行動力ではないと感じた。
未完成な自分を受け入れたまま、前へ進める強さ。
そこに、大須賀さんらしさがある。
そして、もう一つ強く残ったことがある。大須賀さんは、成功という結果だけを追い求めている人ではない。
「成功している状態そのものより、まだできていないことに挑戦している状態の方が好きです」
この言葉が、ずっと残っている。
結果が出てから楽しいのではない。まだ届いていない今。
まだ分からない今。試行錯誤している今。
その「途中」にいる自分を楽しんでいる。
何者かになれたかと聞けば、「ないです」と答える。でも、その未完成さすら、大須賀さんにとっては前へ進む理由になっている。
私はそこに、大きな豊かさを感じた。
人はつい、「結果が出たら」「成功したら」「何者かになれたら」人生を楽しめると思ってしまう。
でも人生のほとんどは、完成した瞬間ではない。まだ途中にいる時間だ。
だとしたら、その途中を楽しめる人は、ものすごく強い。
大須賀さんは今、自分のためだけに挑戦しているわけではない。
「私に関わったことで、人生が少し前に進んだと思ってくれる人を増やしたいです」
自分が挑戦する。その姿を見た誰かが、「自分もやってみよう」と思う。
その人がまた、一歩進む。
大須賀さんが目指しているのは、自分一人が成功する未来ではない。挑戦する人が、また次の挑戦する人を生んでいく状態なのだ。
あなたは今、自分の足りない部分をどう見ているだろうか。隠したいものだろうか。
恥ずかしいものだろうか。それとも、次に進むための現在地として見られているだろうか。
完成してから人生を楽しむのではなく、未完成のまま、挑戦している今を楽しむ。
大須賀さんの生き方から、私はそんな人生の向き合い方を教えてもらった。
あなたは今、何に挑戦しているだろうか。そして、その道の途中にいる自分を、ちゃんと楽しめているだろうか。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師
WRITER PROFILE
尾﨑弘師 (おざき ひろし)
IKIGAIコネクター/IKIGAI JAPAN 主宰/株式会社ミトミト 代表取締役
これまで延べ1,500人以上に「生きがい(IKIGAI)」をヒアリングし、経営者を中心に100本以上の長編インタビュー記事を執筆。経営者インタビューメディア「IKIGAI JAPAN」を運営し、人生・価値観・哲学・仕事への想いを取材・言語化し、次世代へ残す活動を続けている。
掲げるのは、「その人の人生は、誰にもコピーできない。だからこそ、残すべき価値がある。」という考え方。AIによってコンテンツが大量生産できる時代だからこそ、その人にしかない経験や思想、技術、物語こそが差別化資産になると考えている。
さらに、発掘したIKIGAIをブランド・採用・集客・営業へつなげ、経済の力へ変える「IKIGAIマーケティング」を実践。インタビューによる価値の発掘・言語化を起点に、Webサイト・漫画LP・アニメーションなどのクリエイティブ制作から、広告運用・営業設計まで一気通貫で支援し、「その人だから選ばれる」マーケティングの仕組みを構築している。









