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考え抜いた先にチーズがあった——食と文化を未来へ残す“日本一のチーズ職人"
柴田千代 チーズ工房【千】sen
日本の食文化を未来へ残すチーズ職人
千葉県夷隅郡
考え抜いた先にチーズがあった——食と文化を未来へ残す“日本一のチーズ職人”
かつて同じ道を歩いていた後輩職人が、日本一になった。
チーズコンクールの会場。
拍手が響く。
壇上には、自分より後にこの世界に入った職人が立っていた。
バセドウ病。
身体が思うように動かない。
いつ治るのかも分からない。
チーズの世界に戻れるのかも分からない。
工房も、お金も、実績もない。
ただ、チーズに人生をかけてきた。
帰り際、同級生や後輩たちが声をかけてくれた。
「次はいつ会えますか?」
その時、口から自然とでた。
「待っててね。絶対にあなたたちに勝って、一番になるから」
根拠はなかった。
それでも、そう言うしかなかった。
強がりだった。
帰りの電車。
吊り革につかまりながら泣いた。
悔しかった。
苦しかった。
情けなかった。
それでも、チーズを愛していた。
千葉県大多喜町にある、チーズ工房〖千〗sen。
その店主であり、チーズ職人である柴田千代さんは、のちに日本一を現実のものにしていく。
柴田さんにとって、チーズはただの食べ物ではなかった。
発酵であり、文化であり、土地の記憶であり、日本人の志を未来へ運ぶものだった。
病気で身体が動かなかった時間も。
何者にもなれなかった悔しさも。
強がって放った言葉も、帰り道で流した涙も。
それが、のちに柴田さんにしか作れないチーズの味わいへと変わっていく。
これは、挫折も困難も絶望も、すべてを“チーズ”という命の使い道に変え、日本の食と文化を未来へ残そうとする一人の職人の物語である。
第1章|食卓にあった問い——人の笑顔と食の危うさが、チーズへの道を開いた
柴田千代さんの原点には、いつも食べ物があった。
父は飛行機の整備士。母は算数の学習塾の先生。
技術と論理。一見すると、食とは少し離れた家庭のようにも見える。その家庭の中で、柴田さんは父から「手に職を持つ強さ」を、母から「食が人を支える感覚」を受け取っていった。
「技術というものは、一生身につけたものが職歴に変わる仕事。その魅力は、父から学んだような気がします。そして食の楽しさは母から学びました」
会社の名前ではなく、自分の手に残るもの。誰かに奪われることのない技術。それは、のちに柴田さんがチーズ職人という道を選ぶうえで、大きな土台になっていく。
4人兄弟の長女として育った柴田さんは、母の食事の支度をよく手伝っていた。兄が2人、妹が1人。家の中には兄弟の声があり、にぎやかな日常があった。喧嘩をすることもある。それでも、おいしいものを囲んでいる時、家族は笑っていた。
さっきまで言い合っていた空気が、食卓を前に少しやわらいでいく。おいしいものを食べると、人の表情は変わる。
「人の笑顔が集う場所には、いつも食べ物が中心にあったんです」
けれど、家の一歩外に出ると、現実は違っていた。
中学時代、柴田さんはいじめを受けた。
クラスの視線。
ひそひそ話。
どこにいても「人の目」がついて回った。
第一志望の高校にも落ちた。
「選ばれなかった自分」を突きつけられたようで、人の目が、これまで以上に怖くなった。
だから高校では、自転車通学を選んだ。
満員電車で人目にさらされることから逃げたかった。
「人の目」を気にして縮こまる一方で、「自分の足で進む」感覚だけは手放したくなかった。
その小さな選択が、のちに誰も歩いていない道を一人で進んでいく彼女の原点になっていく。
高校生の頃、柴田さんは食の安全や添加物について警鐘を鳴らす本に出会う。便利さを優先した加工食品。それまで何気なく口にしていたものが、急に違って見えた。
「私は食べ物が好きなのに、食べ物のことを全然知らないと思ったんです」
その衝撃は大きかった。
「おいしいだけではダメだ」
便利だから。安いから。長持ちするから。すぐ食べられるから。
そうやって選ばれてきた食べ物の中に、体に負担をかけるものがある。
食べ物は、人を笑顔にする。ならば、その食べ物は、人の体もちゃんと支えるものであってほしい。
そこから、柴田さんの考えは少しずつ深まっていく。
体に負担をかけないこと。保存がきくこと。無添加でつくれること。少量でも栄養になること。人の手で作れること。
災害や食料不足のように、食が当たり前ではなくなる時代にも、人の体を支えられるものは何か。ただ満腹にするのではなく、毎日の暮らしの中で、体に負担をかけず、手に取れる形で栄養を届けられるものは何か。
柴田さんは考えた。
保存がきく。少量でも栄養がある。人の手と菌の力で生まれる。そして、無添加でもつくることができる。
その条件を一つずつ辿っていった先に、チーズがあった。
柴田さんにとってチーズは、ただの嗜好品ではなかった。おいしさと、保存性と、栄養と、人の手仕事が重なる食べ物だった。
食べ物が人の体を支え、未来の暮らしにも残っていくものなら、もっと意味がある。
その問いが、柴田さんをチーズへ導いていった。
第2章|正解の道を降りる——リクルートスーツを脱いだ日
チーズを学ぶと決めた柴田さんは、自分で進む場所を探し始めた。
当時、乳製品加工を学び、チーズを加工し、研究テーマとして論文を書ける大学は限られていた。柴田さんが調べた限りでは、北海道大学、酪農学園大学、東京農業大学。そのくらいしか、チーズを専門に学べる道は見つからなかった。
その中で、柴田さんの心を強く引いたのが、東京農業大学の北海道にあるオホーツクキャンパスだった。
地元を出られる。
その感覚も、少なからずあった。
中学時代に人間関係で傷つき、高校受験では第一志望に落ちた。滑り止めの学校に通うことになり、同級生に会うのが嫌で、自転車通学に変えた時期もあった。誰かの目を気にしながら過ごす時間は、柴田さんの中に残っていた。
誰も自分を知らない場所。
過去の自分を説明しなくていい場所。
もう一度、自分の足で始められる場所。
そこに、チーズを学べる環境があった。
覚悟を決めて親に伝えた。
「どうしても行きたいんです」
目的が決まると、人は強くなる。
行きたい場所がある。
学びたいことがある。
そこへ向かうために、今やるべきことがはっきりする。
そして柴田さんは、東京農業大学へ進む。
北海道での大学生活は、柴田さんにとって大きな転機だった。
誰の目も気にしなくていい。
過去の人間関係に縛られなくていい。
自分が何を学び、何を目指すのかに集中できる。
チーズを学ぶ日々が始まった。
乳製品加工を学び、自分でチーズを作り、研究テーマとして扱う。座学だけではなく、実際に加工し、なぜそうなるのかを考える。
大学でチーズを学んでいく先に、一つの“正解”も見えていた。
大手乳製品メーカーに就職する。
白衣を着て、会社の中でチーズをつくる。
安定した企業に入り、定年まで働く。
当時は、それが勝ち組とされる時代だった。
いい大学に行き、いい会社に入り、長く勤める。周囲にも説明がつく。親も安心する。学んできたことも活かせる。
しかも、担当教授は大手乳製品メーカー出身だった。
その教授のもとでチーズを学び、研究し、企業へ就職する。
大学生の柴田さんにとって、その道は自然な未来のように見えていた。
しかしその未来が、大学2年生の頃に大きく揺らぐ。
憧れていた大手乳製品メーカーが、食中毒事件を起こした。それまで乳製品加工分野で絶対的に強いと思われていた会社が、世の中から厳しい目を向けられる。大きな工場が閉鎖され、従業員が解雇される。
テレビには、突然職を失う人たちの姿が映し出されていた。
「大きな会社に入って、定年までいれば安泰という時代は終わったと思ったんです」
会社という大きな歯車の中に入れば安心できる。そう思っていた。だが、その歯車から外された時、もし誰かに「あなたは何ができますか」と問われたら、自分は何と答えられるのか。
その問いが、柴田さんの中に残った。
大きな会社に入ることではなく、自分の手に技術を持つこと。
どこかの部品としてではなく、自分自身の仕事として語れるものを持つこと。
当たり前のように見えていた就職の道から、柴田さんは離れていく。
自分から大きく道を外れたというより、目の前で“正解”だと思っていたものが崩れていった。
その出来事に背中を押されるように、柴田さんはリクルートスーツを脱いだ。
そこから、車中泊をしながら、北海道のチーズ工房を訪ね歩く。
チーズを作るなら北海道で働きたいという思いがあった。
片道400kmを移動することもあった。宿に泊まるお金は十分ではない。自分の車を拠点にしながら、チーズ工房を一つひとつ訪ねて就職先を探した。
結果は厳しかった。
就職者を募集している工房は、ほとんどなかった。地元の人しか採らないと言われることもあった。大卒を雇える余裕がない場所も多かった。
「職人として雇います」と言ってくれる場所は見つからなかった。
そこで柴田さんは考える。
就職先がないなら、見習いでもいい。
最低賃金も、安定した待遇も、最初から望めない。
それでも現場に入らなければ、職人にはなれない。
最後に向かったのは、自分が一番好きだったフランス系チーズに強いチーズ工房だった。
「見習いでもいいので、入れてください」
その言葉は、就職のお願いというより、修行に入る覚悟だった。
給料がいくらか。
待遇がどうか。
休みがあるか。
そういう条件を並べる前に、柴田さんには必要なものがあった。
チーズを作る現場に入ること。
職人の仕事を身体で覚えること。
自分の手に残る技術を身につけること。
自分の人生を、自分の手でつくるために、柴田さんは職人の世界へ入っていった。
第3章|月3万円の見習いと、濡れたノート——二十代をすべて修行に捧げた理由
柴田さんの見習い生活が始まった。
最初の3ヶ月は、給料がなかった。
その後、月4万円をもらえるようになった。
そこから食費として1万円が引かれ、実質の手取りは3万円ほど。
大学まで出て、手取り3万円の見習い。
周囲から見れば、理解されにくい選択だったかもしれない。
だが、柴田さんの中では、はっきりしていた。
「技術と現場経験がないと、チーズって何もできないんです」
チーズは、レシピ通りに手を動かせば同じ味になる食べ物ではない。
同じように作ったつもりでも、毎回まったく同じにはならない。
目の前の原料を見て、空気を感じて、手で確かめる。
その日の状態に合わせて判断していく。
そこには、机の上だけでは届かない世界があった。
「チーズって発酵食品なので、時期を通して理解しなければならないものなんです」
一度作って終わりではない。
一年を通して見なければ分からない。
春の牛乳、夏の温度、冬の空気。
そのすべてが、チーズの中に入っていく。
柴田さんは、見習いとして現場に入り、少しずつ仕事を覚えていった。
やがて、少しずつ任されることが増えていく。
メイン担当をさせてもらう。
判断を求められる。
自分の仕事が、チーズの出来に直接つながっていく。
収入だけを見れば、決して報われているとは言えない。
時間だけを見れば、効率がいいとは言えない。
大学を出た同級生たちと比べれば、遅れているようにも見えた。
それでも柴田さんは、そこに意味を見ていた。
「収入とか、コスパとか対価で見ている世界だと、絶対にもっと早い段階で折れるんです」
技術は、短期間では身につかない。
思いだけでも続かない。
評価されるまでには時間がかかる。
何度も同じ作業を繰り返し、体で覚え、失敗し、またやり直す。
そこに耐えられる理由が、柴田さんにはあった。
「人様のお役に立ちたい」
「生きている時間を、誰かのために命を燃やしたい」
人の役に立つ食を作りたい。
持続可能な循環社会を作りたい。
そのために必要な技術なら、今の苦労は必要な要素だった。
北海道で2年半学んだあと、柴田さんの心はフランスへ向かう。
当時、職人の世界では、どこで学んだか、誰のもとで修行したかが大きな意味を持っていた。
料理人が本場のレストランで修行するように、チーズ職人として自分の履歴に濃度を持たせるためにも、海外での経験は必要だと考えた。
柴田さんはアルバイトをかけ持ちし、資金を貯めた。
フランス大使館にビザを申請し、27歳から28歳にかけて、ワーキングホリデービザでフランスへ渡る。
1年間で、4件の酪農家兼チーズ工房を回った。
時間は限られていた。
お金も減っていく。
言葉も文化も違う。
現場では、丁寧に教えてもらうのを待っている余裕はなかった。
職人の世界には、マニュアルがない。
その場の状況で判断する仕事は、簡単に言葉へ置き換えられない。
だから、見て覚える。
聞いて盗む。
体に入れる。
柴田さんは、濡れた手で必死にノートを書いた。
洗い物の途中、手はぐちゃぐちゃに濡れている。
それでも、忘れないうちに書く。
見たこと、聞いたこと、気づいたこと。
自分だけの手順書を作るように、必死で書き留めた。
そのノートを、柴田さんは今も大切に保管している。
「その時代の自分の、絶対この道を極めるぞという気持ちを忘れないためにも、大切にしています」
そこに、当時の柴田さんの志があった。
チーズ職人になる。
この道を極める。
人の役に立つ食を作る。
その一念が、ぐちゃぐちゃになったノートの中に残っている。
二十代の多くを、柴田さんは修行に捧げた。
遊びたい時期もあった。
同級生が結婚し、子どもを持ち始める時期もあった。
自分だけが置いていかれているような感覚が、一瞬よぎることもあった。
それでも、目の前にはいつも、やりたいことがあった。
チーズを知りたい。
チーズを作れる人になりたい。
チーズで、人の役に立ちたい。
努力というより、必要な日常だった。
朝起きて靴下を履くように、柴田さんはチーズへ向かうために必要な苦労を選び続けた。
二十代の時間は、すべて未来のチーズの中に溶けていった。
第4章|自分のチーズがない——バセドウ病と、泣いた帰り道
フランスでの修行を終え、柴田さんは日本へ戻った。
大学で学び、北海道のチーズ工房で修行し、フランスでも経験を積んだ。
自分でレシピも書ける。
新製品開発もできる。
チーズ職人として、次の場所に進めるはずだった。
帰国後、柴田さんは北海道で就職先を探した。
結果は、全滅だった。
大学卒。
十勝の有名なチーズ工房での修行経験。
フランスでの研修経験。
本来なら、武器になるはずの経歴だった。
それが、逆に雇われにくさにつながった。
「箔をつけすぎちゃったことが、仇となるみたいな感じでした」
チーズの技術を身につけるために積み重ねてきたことが、今度は就職の壁になる。
柴田さんは、意気揚々と帰ってきたにもかかわらず、働く場所を見つけられなかった。
大学時代の先生に会いに行き、正直に伝えた。
「フランスから帰ってきて、やっと一般就職できると思っていたのに、就職先が全部落ちました」
先生は笑いながら、「どうするんだ」と聞いた。
柴田さんは、北海道を離れて千葉に帰るしかないと思っていた。
すると先生は、チーズの研究プロジェクトを作ってくれた。
1年間、柴田さんは学生指導をしながら、チーズの研究に関わることになる。
その時間は、柴田さんにとって不思議なものだった。
チーズを売るのではなく、教えることで自分の技術が価値になる。
学生からは「先生」と呼ばれる。
家族から見れば、大学に勤める娘だった。
1年間で認められ、大学側からは正規で働く道も示された。
本気で残るなら、上に交渉するよと言ってもらえた。
ありがたい話だった。
家族にとっても、安心できる話だった。
それでも、柴田さんの答えは決まっていた。
「論文を書くために、20代を全部使ってチーズを学んできたわけではありません」
柴田さんが戻りたかったのは、論文を書く場所ではなかった。
チーズを作る現場だった。
手を動かし、菌と向き合い、土地と向き合い、自分のチーズを生み出す場所だった。
その矢先、身体に異変が起きる。
”バセドウ病”
自分の免疫が、自分の体を壊していく病だった。
体調は悪くなり、数値も高くなっていく。
思うように身体が動かない。
集中したくても、身体がついてこない。
チーズを作りたくても、以前のようには動けない。
チーズ職人として戻りたい。
その気持ちはある。
ただ、身体が許してくれなかった。
柴田さんは地元の千葉に戻り、療養することになる。
治療がいつ終わるのか分からない。
元のように働けるのかも分からない。
チーズの世界に戻れるのかも分からない。
それまでの20代を、チーズに捧げてきた。
北海道で見習いをした。
フランスにも渡った。
技術も、思いも、確かにあった。
それなのに、今の自分にはチーズを作れる身体がない。
人生をかけてきた人間にとって、それはただの療養ではなかった。
自分の命の使い道を、取り上げられた時間だった。
この時期を、柴田さんは「チーズ職人浪人時代」と呼ぶ。
時間だけが過ぎていく。
周りの人生は進んでいく。
仲間の職人たちは、自分のチーズを作り続けている。
評価される人もいる。
新しい場所へ進む人もいる。
諦めたわけではない。
熱が消えたわけでもない。
ただ、身体がそれを許してくれなかった。
そんな柴田さんに声をかけた人がいた。
チーズ界で長く関わってきた、師匠のような女性だった。
「普通の女の子に戻るには、もったいなさすぎます」
その人は、チーズコンクールのボランティアスタッフに来ないかと誘ってくれた。
柴田さんは重い腰を上げ会場へ向かった。
そこには、同級生や後輩の職人たちがいた。
かつて同じ世界を走っていた人たちが、自分のチーズを持ち、評価を受けている。
柴田さんは、試食用のチーズを切る場所にいた。
そこから表彰台が見えた。
そして、後輩職人が日本一になった。
自分が動けない間に、同じ世界の人たちは前へ進んでいた。
自分より後に入った職人が、壇上に立っている。
悔しかった。
見たくなかった。
それでも、目をそらせなかった。
帰り際、同級生や後輩たちが声をかけてくれた。
「次はいつ会えますか?」
柴田さんは答えた。
「待っててね。絶対にあなたたちに勝って、一番になるから」
口にした瞬間、自分でも分かっていた。
強がりだった。
根拠はなかった。
工房はない。
自分のチーズもない。
病気も治っていない。
チーズ職人としての未来が、本当に戻ってくるのかも分からない。
それでも、その言葉を言わずには帰れなかった。
帰りの電車。
吊り革につかまりながら、柴田さんは泣いた。
悔しかった。
苦しかった。
情けなかった。
涙は止まらなかった。
その時は、ただ悔しかった。
あの言葉が本当に叶う保証など、どこにもなかった。
それでも、あの一言を口にした自分だけは、まだこの世界に残っていた。
その涙さえも、後に柴田さんにしか生み出せない深みへと変わっていく。
発症して8年。
柴田さんは、病気を「治す」ことだけにしがみつくのをやめた。
治ったら動く。
治ったら始める。
治ったら戻る。
そう考えている間にも、時間は過ぎていっていた。
その中で柴田さんは、ある時、病気との向き合い方を変えた。
「意識で攻撃しちゃうみたいなんです」
治そう、治そうとするほど、自分の身体を責めてしまう。
どうして動けないのか。
どうして元に戻らないのか。
どうして、自分だけが進めないのか。
その問いは、いつの間にか自分自身への攻撃になっていた。
だから柴田さんは、病気と戦うことをやめた。
病気を敵にするのではなく、この体と共に生きていくことを選んだ。
バセドウ病と付き合うことを決めた時、少しずつ身体が動くようになっていった。
それは、奇跡のような回復物語ではない。
自分の弱さを認め、共に歩んでいくと決めた人の再出発だった。
あの帰り道の涙は、敗北ではなかった。
何者にもなれていない自分が、それでも諦めなかった証だった。
第5章|あの時があったから、私にしか作れない味がある——プロフェッショナルが尊重し合う未来へ

病気も落ち着き、チーズ工房〖千〗senを立ち上げた柴田千代さんは、やがて日本一になる。
世界的なチーズの大会でも評価される。
あの日、チーズコンクールの帰りの電車で泣きながら抱えた悔しさは、たしかに形を変えていった。
柴田さんが作ろうとしてきたのは、ヨーロッパの真似ではない。
日本の土地にある菌。
日本の風土。
日本の素材。
日本人の感性。
それらをもとにした、日本独自のチーズだった。
発酵とは、土地の記憶を受け取ることでもある。
そこにある菌が働き、その土地の水や空気や素材が重なり、時間をかけて味になっていく。
柴田さんにとってチーズは、ただの食べ物ではなかった。
発酵であり、文化であり、土地の記憶であり、日本人の志を未来へ運ぶものだった。
だからこそ、柴田さんは自分の人生をかけて、日本のチーズを作ってきた。
「あの時があったから、私にしか作れないチーズがあるんです」
その言葉には、柴田さんが歩いてきた時間がすべて含まれている。
人に優しくしたことで誤解され、いじめられた中学時代。
高校受験の失敗。
お金がなく、月3万円ほどで修行を続けた北海道時代。
身体が思うように動かず、いつ治るかも分からなかったバセドウ病の日々。
自分のチーズを持たないまま、後輩が日本一になる姿を見ていたコンクール会場。
そのどれもが、当時はとても苦しかった。
それでも今、柴田さんはそれらを否定しない。
いじめられた経験があるから、人の気持ちの揺れが分かる。
お金がなかった時期があるから、環境が整わない人の苦しさが分かる。
病気で動けなかった時間があるから、意志だけではどうにもならない痛みが分かる。
過去の痛みは、消えたわけではない。
柴田さんの中で、別のものに変わっていった。
味の深み。
人を見るまなざし。
職人としての器。
だから柴田さんのチーズは、ただおいしいだけではない。
そこには、人の痛みを知っている人間の手がある。
土地の記憶を受け取る感性がある。
食と文化を未来へ残そうとする意志がある。
職人として極めてからだからこそ今、新しい目標が見えた。
柴田さんが見ている未来は、自分一人が評価されることではない。
次は、応援できる環境を作る番なのだ。
自分がたくさんの人に救われたように、今度は誰かを支えたい。
自分が環境に引き上げられたように、今度は自分が環境を作りたい。
プロフェッショナルたちが、お互いの仕事を尊重し合える場所。
思いを持つ人が、孤独にならずに挑戦できる場所。
技術を持つ人が、埋もれずに応援される場所。
土地に根ざした仕事が、次の世代へつながっていく場所。
柴田さんのIKIGAIを辿る。
「人様のお役に立ちたい」
「生きている時間を、誰かのために命を燃やしたい」
柴田さんは、チーズを作るためだけに生きているのではない。
人の役に立つ食を作るために、チーズを選んだ。
日本の食と文化を未来へ残すために、チーズを極めてきた。
そして今、そのチーズを起点に、プロフェッショナルたちが互いを尊重し、応援し合う環境を作ろうとしている。
チーズ工房〖千〗senから生まれる味には、日本の食を未来へ残そうとする意志がある。
日本の文化を次の世代へ手渡そうとする願いがある。
そして、プロフェッショナルたちが尊重し合う世界を作ろうとする、柴田千代さんのIKIGAIがある。
あの時があったから、今の自分がある。
そう言えるまでには、きっと長い時間がかかる。
傷ついた時間を、すぐに意味に変えることなんてできない。
悔しさも、情けなさも、報われなかった時間も、その瞬間はただ苦しい。
それでも、その痛みは本当に無駄だったのだろうか。
あなたの中にも、まだ言葉にならない悔しさがあるだろうか。
思い出すだけで胸が苦しくなる時間があるだろうか。
誰にも見せていない強がりがあるだろうか。
そのすべてが、いつかあなたにしか生み出せない何かへ変わるかもしれない。
あなたは、その痛みを何に変えていくだろうか。

あとがき
柴田さんの話を聞き終えたあと、私の中に残ったのはプロとして生きる覚悟だった。
お金がなかった二十代。
報われる保証もないまま、月3万円ほどの見習いとして現場に入り、手を動かし、技を磨き続けた時間。
同級生が社会に出て、給料をもらい、家庭を持っていく中で、自分はまだ何者にもなれていない。
それでも、自分の真実を曲げず、妥協せず、チーズという道を追い続けた。
技を磨くことは、自分の探究心のためでもある。
だが、それ以上に、人を、日本を、そして世界をより良くしたいという願いがあった。
私はそこに、柴田さんのIKIGAIを見た。
IKIGAIとは、自分だけの喜びでは終わらないのだと思う。
自分のために始まった探究が、いつしか誰かのためになり、社会のためになり、未来のためになっていく。
その瞬間、人はとてつもない力を持つ。
私は柴田さんの話を聞きながら、自分にも問いかけていた。
自分には、残したいものがあるだろうか。
そのために、お金も、時間も、権威も差し出す覚悟があるだろうか。
報われなくても、絶望しても、前を向ける信念があるだろうか。
きっと私のIKIGAIは、自分一人の中だけにあるものではない。
これまで私のインタビューを応援してくれた人たち。
話を聞かせてくれた人たち。
共鳴してくれた方々。
そうした人の思いも重なり合って、IKIGAIは大きな力になっていく。
自分のためのIKIGAIが、誰かのためのIKIGAIになる。
誰かのためのIKIGAIが、やがて日本に残る哲学になる。
柴田さんの生き方は、そのことを教えてくれた。
私もまた、そういう哲学を日本に残すために、この活動を続けていきたい。
何者にもなれなかった時間も、悔しさも、絶望も、すべてがいつか誰かの希望に変わると信じて。
あなたには、人生をかけて残したいものがあるだろうか。
あなたは、そのために何を差し出せるだろうか。
そして、あなたのIKIGAIは、誰の未来を照らすだろうか。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師


