穏やかに——人生の終末期に向き合い続ける医師が実践するユニバーサルホスピスマインド

長野宏昭 いきがい在宅クリニック

人生の終末期に、穏やかな時間を届ける医師

沖縄県沖縄市

穏やかに——人生の終末期に向き合い続ける医師が実践するユニバーサルホスピスマインド

 

「先生は、本当は何にもわかっていない」

医師になって3年目の頃、人生の終末期を迎えた患者さんに、そう言われたことがあった。

「私はこんなに辛い思いをして、ここまで頑張ってきた。とっくに覚悟はできているのに、それでも先生は“頑張れ”と言う。あなたは病気じゃない。だから、私の気持ちなんてわからない」

命の限られた患者さんからそう言われ、ただ、立ち尽くすしかなかった。そう過去を振り返るのは、沖縄県沖縄市で、いきがい在宅クリニック院長として在宅医療に取り組む医師・長野宏昭さん。

呼吸器内科医として命の現場に立ち、肺がん患者の治療や看取り、コロナ禍では家族に会えないまま亡くなっていく人たちの姿も見てきた。

その中で、長野さんは「治すこと」だけでは届かない医療の問いに向き合うようになった。

共に考え、悩んで、ためらって

患者さんの苦しみを、100パーセント理解することはできない。
病気の痛みも、死を前にした怖さも、家族を残していく寂しさも、本当の意味では本人にしかわからない。

それでも、わかったつもりにならずに耳を傾けることはできる。
医師の正解を一度手放すことはできる。
家族の願いも、社会の当たり前も、その人の前でもう一度問い直すことはできる。

目の前の人が、少しでも穏やかにいられるために。
本人も、家族も、関わる人たちも、最期の時間の中で置き去りにならないために。

これは、人生の終末期に向き合い続ける医師が、正しさの奥にある穏やかさを探し続けてきた物語である。

そしてこれは、私たち一人ひとりに問いかける物語でもある。

あなたは、自分の当たり前を手放して、本当に目の前の人に向き合えているだろうかと。

第1章|子どもらしく、穏やかにいられた場所——決めつけない心の原点

長野さんの幼少期には、愛のあるまなざしがあった。

家には、大好きな祖母がいた。
父も母も、何かを強く押しつける人ではなかった。

ザリガニを捕まえる。
自然の中で遊ぶ。
気になったものを、じっと観察する。
夢中になったら、時間を忘れてそこに入り込む。

長野さんは、その家庭の空気をこう振り返る。

「将来に役立つかと言えば、無駄なことだったのかもしれません。でも、その一見、無駄に見えることを否定せずに、好きなだけやらせてくれたんです。だから、自分は自分のままでいていいんだと思えたのかもしれません」

無駄に見えるものを、無駄だと切り捨てない。
子どもの好きを、成果や意味だけで測らない。

その感覚は、長野さんの中に残っていく。

小学校に上がると、長野さんにとって大きな出会いがあった。

恩師、大津昌昭先生との出会いである。

一年生の担任だった先生は、音楽の先生だった。

大津先生は、授業を予定通りに進めることだけを正解にしなかった。
子どもたちの興味が動けば、その方向へ一緒に歩いていく。

ある時、ひとりの子どもが教室にバッタを持ち込んだ。
すると、教室中がバッタだらけになった。

普通なら、怒られる場面かもしれない。

けれど、先生はその子を叱るのではなく、別の形で受け止めた。

「バッタがたくさんいるねーそれじゃあ、バッタの歌を作って、みんなで歌を歌おう!」

そう言って、ピアノを弾きながら、子どもたちと一緒にバッタの歌を歌った。

そこには、怒られる怖さではなく、受け止められる安心があった。
正しいか間違っているかで切り分けるのではなく、目の前に起きたことを、そのまま受け止める空気があった。

後になって振り返ると、先生の関わり方には、確かな哲学があったのだと長野さんは感じている。

穏やかにいること。
子どもらしくいられること。
正解か不正解かだけで人を見ないこと。
目の前の子どもを決めつけずに見つめること。

「大津先生は、子どもたちを型にはめようとしていなかったんだと思います。みんながその子らしくいられることを、大事にしてくれていたんですよね」

長野さんの原点には、好きなものを否定されず、決めつけられずに見守られた時間があった。

しかし、その穏やかな世界に、初めて大きな問いが差し込んだのは、中学生の頃だった。

大好きだった祖母が、急に体調を崩した。
昨日まで元気だった人が、突然、倒れ、話ができなくなった。
入院して、わずか一か月後。
祖母は天国へ旅立った。

長野さんにとって、それは初めて深く「死」を考えるきっかけだった。

人は、いつかいなくなる。
昨日まで隣にいた人が、明日もいるとは限らない。
どれだけ大切に思っていても、命には終わりがある。

子どもの頃からそばにいてくれた人が、突然いなくなる。
その喪失は、長野さんの心に大きな問いを残した。

「人はどう生きて、どう死んでいくのか」

その問いは、すぐに答えになったわけではない。
ただ、消えることはなかった。

穏やかに見守られて育った少年は、やがて命の終わりを見つめる医師になっていく。

人は、最期まで自分らしく生きることができるのか。
医療は、その人の穏やかな時間を支えることができるのか。

長野さんの歩みは、この問いから始まっていた。

第2章|落ちこぼれだった少年が、初めて本気になった——一枚の新聞記事が開いた医師への道

その問いがすぐに進路へ変わったわけではない。

長野さんは、中学受験に失敗し、公立中学校へ進んだ。
その後、進学校へ進む。

周囲には、勉強に打ち込み、目標を持って進む人たちがいた。
しかし、長野さん自身は、当時の自分をこう振り返る。

「やりたいことが見つからず、落ちこぼれてしまった」

将来の道が、はっきり見えていたわけではなかった。
何かに強く打ち込んでいたわけでもなかった。
日々は流れていく。

高校三年生の時、長野さんに大きな出会いが訪れる。

一枚の新聞記事だった。

そこには、人生の最終段階を迎えた人々と向き合い、看取りの医療に携わる医師・日野原重明先生の姿があった。

記事を読んだ瞬間、長野さんの中で何かが動いた。

「これだ」

そう感じた。

ただ病気を治すだけではない。
命の終わりを見つめる。
人がどう生き、どう死んでいくのかに向き合う。

その現場に、自分も立ちたいと思った。

子どもの頃に経験した祖母の死。
生き物や自然に触れてきた時間。
心の奥に残っていた問い。

それらが、その新聞記事をきっかけに一本につながった。

長野さんは、日野原先生に手紙を書いた。
記事を読んで感じたこと。
自分も、人の死や生き物の死に向き合いたいと思ったこと。
医師という仕事に惹かれたこと。

高校三年生。
医学部を目指すには、決して早いスタートではない。

それでも、その出会いは長野さんの中に火をつけた。

「初めて、やりたいことができたんです」

医師になりたい。
人の命に向き合い、人生の最終段階をどう生きるかに向き合いたい。

それは、安定した資格への計算ではなかった。
祖母の死から残り続けていた問いに、自分の人生で向き合っていくための道だった。

 

医学部への挑戦は、現役では届かなかった。
その後、二年間の浪人生活を経験した。

浪人生活は、長野さんにとって人生で最も苦しい時期の一つであった。

長野さんは、当時をこう振り返る。

「浪人していた二年間は、本当にきつかったですね。毎日、電車に乗って予備校へ行くんですけど、電車の中でお腹が痛くなるんです。行かなきゃいけないのに、途中の駅で降りることもありました。

苦しい時に頑張れたのはいくつかの「支え」があったからでした。母がお弁当を作ってくれていたんです。何か特別な言葉をかけられたわけではないんですけど、そのお弁当があるだけで、「私は守られているんだ」とさりげなく支えてもらっている感じがありました。

友達の存在も大きかったです。先に進学してゆく友達もいる中で、自分だけが取り残されているような感覚がありました。でも、『待ってるからね』と言ってくれる友達がいた。その言葉に、何度も救われました。

勉強しなきゃいけない。医学部に届かせなきゃいけない。苦しかったですけど、そこで初めて、自分が本気で何かを目指しているんだと感じたのかもしれません」

本気になったからこそ、苦しかった。
目指すものができたからこそ、届かない現実が痛かった。

それでも、やめなかった。

二年間の浪人を経て、長野さんは岡山大学医学部に合格する。

それは、初めて自分で見つけた「やりたいこと」を、苦しみながらも手放さなかった結果だった。

医学部に入り、長野さんは医師になるための学びを始める。

人の体を知る。
病気を知る。
命の仕組みを知る。

学ぶほど、医療の世界は広く、深かった。
同時に、どれだけ学んでも、すべての命を救えるわけではない現実にも直面することになる。

高校三年生の時に読んだ一枚の新聞記事。
そこから始まった長野さんの道は、やがて「治すことだけが医療なのか」という問いへつながっていく。

 

第3章|正しい医療だけでは、届かない——患者の言葉が突き刺した医師としての未熟さ

医学部を卒業した長野さんは、大阪の市中病院で初期研修を受けた。

医師としての現場が始まる。
教科書で学んできた知識が、目の前の患者さんの治療とつながっていく。

一つひとつが、責任を伴うものだった。

長野さんは初期研修を終えた後、呼吸器内科を専門として選んだ。
大阪や神戸の総合病院で、多くの患者さんを診療し、医師としての土台を築いていった。

患者さんが良くなっていく姿を見た時の喜びは大きかった。

苦しそうだった人が、少しずつ回復し、笑顔を取り戻す。
入院した時には歩くことも難しかった人が、元気になって退院していく。

その瞬間、医師としてのやりがいが確かにあった。

「良くなって元気になっていく人を見ると、本当に嬉しかったんです。自分たちの治療やケアを行うことによって誰かの命が救われるという実感がありました」

そんな日々の中で、長野さんは忘れられない言葉を受け取る。肺がんと闘う、若い女性患者からの言葉だった。まもなくお看取りが近くなったとき、ベッドサイドでその患者は

「私はもうすぐ死にます。後悔はありません、ただ、これ以上、みんなに迷惑をかけたくはない。」

その時、長野さんはとっさに

「そんなこと言わないで!命は一つしかありません。大切に生きましょう。」と答えた。

すると、患者から出た言葉は

「先生は、本当は何もわかっていない。元気なあなたに私の気持ちなんて、わからない」

医師になって三年目の頃だった。

長野さんはそれ以上、何も言うことができず、一礼してその場を立ち去ることしかできなかった。
寄り添っているつもりだった。
患者さんのために、正しいことをしているつもりだった。

しかし、その人の苦しみを本当に理解できていたわけではなかった。

医師として、専門家として、正しいことを言わなければならない。
医学的に間違っていない説明をしなければならない。
根拠に基づいた治療を提案しなければならない。

それも大切なことだ。

ただ、正しい医療が、その人にとって最適な医療になるとは限らない。
根拠を押し通すことが、その人らしい人生を支えるとは限らない。

その患者さんの言葉によって、長野さんは突きつけられた。

医療には、人を救う力がある。
長野さんは現場で、その実感を得ていた。しかし、同時に、人生の最終段階を迎えた人に何ができるのか?という問いについては、葛藤を抱えたままであった。2012年、長野さんは新天地、沖縄で新たな挑戦を決意した。
若手医師の教育に熱心な沖縄県立中部病院で働くことになった。

沖縄での医師生活は、刺激に満ちていた。

若い医師たちと切磋琢磨する。
教えながら、自分も学ぶ。
目の前の患者さんに向き合いながら、医療者として何を大切にするべきかを考えていく。

呼吸器内科医として経験を積み、専門性を深め、教育にも関わる。
医師としての腕を磨き、患者さんを助ける実感もあった。

それでも、あの患者から言われた言葉はずっと長野さんの胸の奥に残り続けていた。

自分は世の中の役に立てているのだろうか?本当に苦しむ人の気持ちを理解できているのだろうか??

そんな日々の中で、長野さんは自分の人生を大きく変える考え方「ユニバーサル・ホスピスマインド(UHM)」に出会うことになる。

 

第4章|正しさだけでは、人は穏やかになれない——コロナ禍で残った問いと、独立への決断

 

世界全体を揺るがす出来事が起こった。

新型コロナウイルスの流行だった。

命を守るために、人と人が引き離される。
感染を防ぐために、家族が会えなくなる。
最期の時間さえ、隔てられてしまう。

長野さんが考え続けてきた「穏やかに生きる」という問いは、コロナ禍によって、さらに切実なものになっていく。

コロナ禍で、病院の中にはこれまでとは違う緊張が流れた。

命を守るために、人と人を離さなければならない。
感染を防ぐために、面会を制限しなければならない。
医療者は防護服をまとい、患者さんと家族の間には、会いたくても会えない距離が生まれた。

それは、医療として必要な判断だった。

感染を広げないこと。
命を守ること。
病院の機能を止めないこと。

どれも必要だったし、どれも間違ってはいなかった。

しかし、長野さんの胸には問いが残った。

本当にこれが、その人にとっての望む最期なのだろうか。

家族に会えないまま、亡くなっていく人がいた。
触れられないまま、別れの時間を迎える人がいた。
声をかけたい人がいるのに、そばに行けない家族がいた。

医療は、命を守るために最善を尽くしている。
その一方で、人生の最後に、その人が本当に大切にしていたものを守れているのか。

長野さんは、何度もその問いに立ち止まった。

「何もできない」

その感覚があった。

正しいとされることを、必死にやっている。
それでも、目の前の人の孤独や、家族の苦しみに対して、自分は何ができているのか。

正しいことをやらなければならない。
でも、その正しさは、本当にその人に向いているのか。
医療として正しいことと、その人の人生にとって大切なことは、いつも重なるのか。

その問いは、長野さんの中に残った。

その頃から、長野さんの思いは、少しずつ在宅医療へ向かっていった。

「病院でできる医療はもちろん大切です。一方で、人生の最後に“家に帰りたい”と思う人がいるんです。家族と一緒に過ごしたい。住み慣れた場所で、いつもの空気の中にいたい。病気を抱えたままでも、最後まで自分の人生を生きたい。そう願う人たちがいる。

そういう人たちのところへ訪問したいと思うようになりました。病院の中で待つのではなく、その人が暮らしてきた場所に行って、そばにいたいと思ったんです」

病院から地域へ。
治療の場から、暮らしの場へ。
患者さんが一人の生活者として過ごしている場所へ。

長野さんは、そこに自分の医療を重ねていきたいと考えるようになった。

そして、2023年。
長野さんは独立し、在宅支援診療所「いきがい在宅クリニック」を開設した。沖縄には、在宅医療を担う医師がまだ多くなかった。
家で過ごしたいと願う人がいても、それを支える仕組みや人手が十分にあるとは言えない。

そこに医師として立つ意味を感じた。

ただ、長野さんが独立を決めた理由は、事業としての勝算だけではなかった。

大きかったのは、人との出会いだった。

いきがいを軸に活動している看護師がいた。
福祉の現場で、人の暮らしと最期に向き合ってきた仲間がいた。
目の前の人がどうすれば穏やかに過ごせるのかを、同じ熱量で考えている人たちがいた。

長野さんは、そんな人たちに出会った。

彼らが学んでいたのが、エンドオブライフ・ケア(ELC)協会が提唱する、ユニバーサル・ホスピスマインド(UHM)という考え方だった。

UHMの大事な考え方は

・目標は本人、家族、関わる人が「穏やか」であること

・苦しんでいる人は自分の苦しみを「わかってくれる人」がいるとうれしい

・「わかってくれる人」とは励ましやアドバイスではなく、話を否定せずに聴いてくれる人

・解決できる苦しみがある一方で、解決が難しい苦しみ(スピリチュアルな苦しみ)が存在すること

・苦しみがあっても「支え」があれば穏やかになれる。支えには三つの種類があること。

・誰かの支えになりたいと思う人こそ、一番、支えを必要としていること。

長野さんは雷に打たれたような衝撃を受けた。

「私は苦しむ人のことを理解したいと思い、苦しんでいた。でも相手にとって「わかってくれる人」になれていたのだろうか・・」

「解決できない苦しみがあることを知り、それを受け入れながらも、穏やかになれる方法を考え続けることをしたい」

UHMを継続して学び、伝えることが長野さんのもう一つのライフワークになった。

 

「人とのご縁があったからこそ、沖縄で開業する道を選びました」

この人たちとなら、考え続けられる。
目の前の人が穏やかでいられる道を、共に探し続けられる。

そう思えた。

医師がいる。
看護師がいる。
福祉、介護職の人がいる。
家族の不安を受け止め、その人の「いきがい」を最期まで見つめようとする人たちがいる。

それぞれの専門性は違う。
役割も違う。

だが、向いている方向は同じだった。

どうすれば、この人は穏やかに過ごせるのか。
どうすれば、家族も置き去りにされずに済むのか。
どうすれば、人生の終末期が、ただ死を待つ時間ではなく、最期まで生きる時間になるのか。

在宅医療は、その人の生活に入り、その人の家族に触れ、その人の人生の流れの中に入っていく医療である。

だからこそ、UHMを共通言語にするチームが必要だった。
そして、ただ能力のあるチームではなく、同じ問い、「思い」を持ち続けられるチームが必要だった。

長野さんの医療は、病院の中から、暮らしの中へと広がっていく。

患者さんが「ただいま」と言える場所へ。
家族が、最期の時間を共に過ごせる場所へ。
人生の終末期にあっても、その人が穏やかに生きられる場所へ。

長野さんたちの挑戦は、同じ志を持つ仲間と共に始まった。

第5章|穏やかな人を、一人でも増やすために——ユニバーサルホスピスマインドを次世代へ

いきがい在宅クリニックで、主に行っているのは、訪問診療である。
在宅での看取りにも向き合い、病院ではなく、住み慣れた場所で最期の時間を過ごしたいと願う人たちを支えている。

ただ、長野さんが見つめているのは、病気だけではない。

その人が、どこで過ごしたいのか。
誰と一緒にいたいのか。
どんな時間なら、少しでも穏やかでいられるのか。

医学的な正解だけでは、答えが出ない場面がある。
本人の思いがあり、家族の不安があり、医療者としての責任がある。

だからこそ、長野さんは簡単に決めつけない。
わかったつもりにならずに聴くことを大切に診療を行っている
その人が最期まで穏やかに生きられる道を、現場で考え続けている。

そして、長野さんの活動は、診療だけにとどまらない。

ユニバーサルホスピスマインド(UHM)を次世代に伝えるため、エンドオブライフ・ケア(ELC)協会認定の「いのちの授業認定講師」の資格を取り、地域の小中学校へいのちの授業をするようになった。これまで沖縄県内、県外で30校、5000人以上の前で授業を行った。

また、琉球大学を始め、大学へ授業へ行き、いのちの授業を紹介。

長野さんの授業を受けた大学生が今度は彼ら自身が講師となり、UHMを学ぶサークル「ヨリドコロ」を立ち上げ、自ら学び始めた。現在、部員、卒業生は30人を超えた。

思いが次世代へと受け継がれてゆく。長野さんにとってこれほど嬉しいことはなかった。

「人間の心は目に見えるものではないし、時には非合理的で弱いもの。それでも、人間の弱さこそ、ともに繋がり合えた時、温かいものとなるのではないか? 心を育てる教育を今こそやりたいんです」

 

IKIGAI×グリーフミュージック プロジェクト

長野さんの趣味はヴァイオリン・ヴィオラを演奏することだ。大学時代にオーケストラに所属し、仲間たちと腕を磨いた。音楽の経験を、命の限られた医療の現場にも生かすことができれば。そう考え医師になってからは、病院や患者のベッドサイドに楽器を持参し演奏するようになった。

医師として命の現場に立ちながらも、音楽が人の心に触れる力を感じていた。

体が思うように動かなくなった人。
言葉を発することが難しくなった人。
痛みや不安の中にいる人。
人生の終わりを前に、静かに時間を過ごしている人。

そんな人の前で音楽が空間を振動させる・・鳴る。

患者の表情が変わることがある。
目に涙が浮かぶことがある。
手が少し動くことがある。
言葉にならなかった思いが、音に触れた瞬間、言葉を超えてこぼれてくることがある。

長野さんは、音楽が持つ力をこう語る。

「音楽には、医療だけでは届かないところに届く力があると思っています。薬で痛みを和らげたり、酸素で呼吸を助けたり、医療にできることはもちろんあります。

でも、人が最期に求めているものは、痛みがないことだけではないと思うんです。懐かしい記憶だったり、大切な人との時間だったり、自分が生きてきた証だったり。言葉にならない感情に、音楽が触れる瞬間がある。体は動かなくても、心が動くことがある・・」

今年新たに始めた試みがIKIGAI×グリーフミュージックプロジェクトである。人生の終末期にある人たちのもとへ、プロの演奏家と医療スタッフが協働し生演奏を届ける活動だ。

音楽は、患者さんだけに届くものではない。

長野さんは、グリーフミュージックプロジェクトを通して、そこに関わる家族や医療者、そして演奏する音楽家自身にも、大きな意味が生まれると感じている。

「演奏する人にとっても、すごく大切な時間になると思っています。自分の音が、誰かの表情を変える。家族の涙になったり、笑顔になったり、記憶になったりする。なにより、演奏する、されるの関係性を超え、音楽を通して新たな対話、物語が生まれている。演奏する私たちもたくさんのギフトをいただいている。

それは、演奏家にとっても貴重な経験となり、これからの生きがいになると思うんです」

長野さんがつくろうとしているのは、そんな循環である。

一人の人生の終末期が、ただ悲しみだけで終わるのではなく、そこに関わる人たちの心にも、何かを残していく。

音楽は、その時間を少しだけ穏やかなものに変えてくれる。

長野さんの夢

長野さんが実践するユニバーサルホスピスマインドがある。

ユニバーサルホスピスマインドとは、前述のように、看取りの現場から生まれた、解決が難しい苦しみがあっても穏やかになれる支えを見つけ応援する力、自分自身を認め大切にできる心のありようである。この考え方は医師やホスピスで働く人だけのものではない。
解決できない苦しみを抱えた人のそばで、その人が少しでも穏やかに生きられるように関わる心のあり方である。

病気を治せないことがある。
死を止められないことがある。
悲しみを消せないことがある。
家族の後悔を、すべて取り除くことはできない。

それでも、そばにいることはできる。
話を聴くことはできる。
わかったつもりにならず、理解しようとし続けることはできる。
その人が大切にしてきたものを、一緒に見つめることはできる。

長野さんは、そのマインドを広げたいと考えている。

「ユニバーサルホスピスマインドは、特別な誰かだけのものではない。家族も、地域の人も、若い医療者も、学生たちも、誰かの苦しみを前にした時に持つことができる心のあり方だと思うんです」

長野さんが見ている未来は、クリニックの数を増やすことではない。

長野さんは、はっきりと語る。

「大きくしたいというより、このマインドを広げたいんです。クリニックを増やしたいというより、UHMを学べる場所にしたい。若い人たちや学生たちにも伝えていきたいんです。

目の前の人が少しでも穏やかにいられるために、自分には何ができるのか。その問いを持てる人が増えたら、救われる人も増えていくと思っています」

その先にあるのは、ユニバーサルホスピスマインドを学べる場づくりである。

診療をするだけではない。
看取りをするだけでもない。
そこに関わる医療者が学び、学生が学び、地域が学び、次の世代へ思想が渡っていく場所。

いきがい在宅クリニックは、長野さんにとって、人が最期まで穏やかに生きるために何ができるのかを考え続ける場所である。
そして、その問いを次世代へ渡していく場所である。

長野さんは、自身のIKIGAIについて、こう語る。

「患者さんを診ることも、家族と向き合うことも、音楽を届けることも、仲間とチームをつくることも、若い人たちに伝えていくことも、全部つながっているんです。

人生の終末期を前にした人が、一人でも穏やかに過ごせるように、自分に何ができるのかを考え続けること。それが、自分にとってのIKIGAIなのだと思います。

答えは、いつも簡単には出ません。どれだけ経験を積んでも迷うことはありますし、何が本当にその人のためなのか、わからなくなることもあります。

それでも、考えることをやめたくないんです。その先にしか、その人にとっての穏やかさは見えてこないと思っています」

治すことだけが、医療ではない。
死を待つ時間でもない。
人生の終末期に、その人の「生きる」を支え続ける心。

その心が、若い世代へ、地域へ、音楽家へ、家族へ、未来へ広がっていく。

そしていつか、誰かが人生の終末期を迎えるとき、そばにいる誰かがこう思える社会になっていく。

「この人が少しでも穏やかでいられるために、私は何ができるだろうか」

その問いを持つ人が一人増えるだけで、誰かの最期は温かい時間に変わり、その穏やかさは少しずつ世界の平和へとつながっていく。

長野宏昭さんは、今日もその問いを胸に、命のそばへ向かう。

一人でも多くの人が、穏やかに、最期まで生きられるように。

あとがき

私は、自分の正しさで人を見てしまうことがある。

こうした方がいい。
それは違う。
きっと、こっちの方がいい。

そう思った瞬間に、相手の人生ではなく、自分の物差しで物事を見ていないだろうか。

人の苦しみは、外から見るよりずっと深い。

言葉にできる痛みもあれば、言葉にした瞬間にこぼれ落ちてしまう痛みもある。
大丈夫と言いながら、本当は大丈夫ではない人がいる。
もう覚悟はできていると言いながら、それでも誰かにわかってほしい人がいる。
頑張ってと言われるたびに、もう十分頑張ってきたのに、と心の中で崩れている人がいる。

私は、そこまで見えているだろうか。

目の前の人のためにと言いながら、相手の沈黙を待てているだろうか。
答えを急がず、その人の奥にある言葉にならない声を聞こうとしているだろうか。
自分の当たり前を、一度手放せているだろうか。

長野さんの生き方に触れて、私は「考える」という行為の深さを痛感した。

医師としての正解がある。
家族としての願いがある。
社会としての普通がある。
本人にしかわからない苦しみがある。

その全部が重なった場所で、簡単には答えの出ない問いを考え続ける。

わかったふりをしない。
何もできない自分に打ちのめされながら、それでも目の前の人が少しでも穏やかでいられる道を探し続ける。

その姿勢に、私はプロフェッショナルの本質を見た気がした。

プロフェッショナルとは、正解をたくさん持っている人のことだけではない。
自分の正解が届かない場所に立たされた時、それでも逃げずに考え続けられる人なのだと思う。

あなたは、大切な人の苦しみを前にした時、自分の当たり前を手放せるだろうか。
あなたは、何もできないと感じる場面でも、それでもその人のために考え続けられるだろうか。

すぐに答えは出ない。
けれど、すぐに答えを出さないところから、本当の関わりは始まるのかもしれない。

考えて、考えて、考え続ける。

その先に、みんなが穏やかに生きられる社会が少しずつ広がっていく。

長野さんの物語は、私にそう問いかけてくれた。

IKIGAIコネクター
尾﨑弘師

長野さんブログ

 

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