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壊れた日々を、「しょうがないよね」と抱きしめて——銀行員から社労士へ、働く人の痛みを知る人の物語
高橋恵美子 ワイエス社会保険労務士事務
「しょうがないよね」から人生を取り戻した社労士
岐阜県岐阜市
壊れた日々を、「しょうがないよね」と抱きしめて——銀行員から社労士へ、働く人の痛みを知る人の物語
あなたは、助けを求めたのに誰も助けてくれる人がいなかった経験はあるだろうか。
銀行の営業店で働いていた頃、高橋恵美子さんには、忘れられない出来事がある。
ATMに現金を補充する時、二人以上で立ち合うルールがあった。
一人で作業して、もしお金が合わなかったら、責任を問われるかもしれない。
だから、高橋さんは周囲に頼んだ。
「立ち合ってもらえませんか」
返ってきたのは、冷たい言葉だった。
「お願いしますって言っても、『忙しいから無理』みたいな感じで言われるんです」
誰も動いてくれなかった。
誰も味方になってくれなかった。
その職場で、高橋さんはうつ病になった。
「3ヶ月ぐらいで病気になりましたね」
そう過去を語るのは、岐阜を拠点に活動するワイエス社会保険労務士事務所 代表・高橋恵美子さん。
現在は、労務相談、社会保険手続き、就業規則、給与計算、助成金、障害年金、ハラスメント外部相談窓口など、会社と働く人に関わる相談を受けている。
そんな彼女は、2年ほど会社に出勤できずその後も休職と復帰を何度も繰り返す時期があった。
その後、年金の仕事をきっかけに社労士という資格に出会い合格した。
「試験がマークシートなら、ワンチャンあるよねと思ったんです」
そう言って笑う。
高橋さんは、会社員として働き続けることに限界を感じていた。
「辞めるには大義名分がほしかったんです。すぐに“自分で切り開こう”と思えたわけではなくて、休んだり戻ったりを繰り返して、もうここにいても同じことになるなって、少しずつ思うようになったんです。嫌だったら、その環境から出ていけばいい。出て、自分で切り開けばいい。ようやくそう思えたんだと思います」
壊れた日々を、綺麗な言葉で飾らない。
「しょうがないよね」と受け止めながら、それでも自分の足で外へ出ていく。
これは、心を壊した一人の女性が、
社労士として、自分の人生を少しずつ取り戻していった物語である。
第1章|必要最小限を、まじめに——自由な少女が受け取った家の温度
父は、建設現場の内装職人職人。
母は、専業主婦。専業主婦の母。
その中で、高橋さんは育った。
両親から何を受け取ったのか。
そう尋ねると、高橋さんは少し考えて、こう言った。
「まじめに必要最小限のことはやっておけ、ということです」
必要なことは、ちゃんとする。
派手ではない。
だが、暮らしの中に根を張るような教えだった。
その一方で、幼い頃の高橋さんには、外へ向かう足があった。
母から聞いた話だという。
小さかった頃、高橋さんは一人で家から抜け出していた。
気がつくと、家の裏にあった庭から外へ出ている。
母が慌てて探す。
すると、ある神社で見つかった。
家からその神社までは、幼い子どもが簡単に行ける距離ではなかった。
それでも、高橋さんは何度もそこへ向かっていた。
行く場所は、いつも同じだった。
「私自身は全く自覚症状はありませんでしたが、本当らしいです」
記憶はない。
親が言うのだから間違いないのだろう。
高橋さんは、そんな距離感で話した。
「何かが見えたか、何かを感じたのでしょうね。私自身は覚えていないのですが、そんな感じだったのかなと思います」
神社に行けば、だいたい一人で遊んでいたという。
「今から考えると、家の庭が狭く閉塞感を感じ、それが嫌で脱走していたのかもしれませんが、よく分かりません。何か感じていたのかもしれません。子どもながらに」
必要なことは、ちゃんとやる。
でも、じっと同じ場所に収まり続けるだけの子どもでもなかった。
高橋さんの中には、父母から受け取った現実感と、どこか外へ向かってしまう自由さが、同じようにあったのかもしれない。
高校卒業後を出る頃、高橋さんは短大へ進んだ。
就職も、強い夢から始まったわけではない。
「友達が金融機関でに就職活動をするというのを聞いて、私も便乗しました。そしたら内定がきたので即決しました」
銀行員になりたいと、幼い頃から思っていたわけではない。
金融の世界に憧れていたわけでもない。
「就職活動するの、面倒くさいよねと思っていました。本当に適当な人間ですよ」
そう言って、高橋さんは笑った。
時代は、バブルが弾けた後だった。
だが、その残り香のようなものがあり、短大卒の採用はぎりぎり残っていたという。
「短大卒の人はギリギリ取れたという感じですね。仮に四大に行っていたら、銀行には就職できなかったかもしれないですね」
高橋さんは、自分が銀行員になったことをこう表現する。
「世の中には突然変異があるじゃないですか。それだと思いますよ」
現場で働く父。
家庭にいた母。
その家で育った高橋さんは、友人に便乗するように金融機関を受け、銀行に入った。
大きな志があったわけではない。
人生をかけて選んだ道というより、流れの中でたどり着いた場所だった。
人生は時に、そういう何気ない入口から大きく動き始める。
銀行という場所で、高橋さんは仕事の面白さも知る。
人に教えてもらう温かさも知る。
そして、誰も味方になってくれない職場の怖さも知ることになる。
第2章|電源の入れ方も分からなかった——銀行の外で知った、仕事の面白さ
銀行に入って4、5年ほど経った頃、高橋さんはコンピュータ管理会社へ出向することになった。
希望して行ったわけではない。
「多分、余剰人員だったんじゃないですかね。首も切れないし、だったら管理会社に行ってもらおう、というのが銀行の考えだったのかもしれません」
出向先は、銀行系のシステム管理会社だった。
銀行の仕事から、いきなりコンピュータの世界へ。
そこでは、最初から何も分からなかった。
ノートパソコン。
フロッピーディスク。
山のように置かれたディスクを前に、「初期化して」と言われた。
初期化という言葉は、なんとなく分かった。
「パソコンの電源の入れ方が分からなかったんです。本当にそのレベルからでした」
一歩外に出ると、知らないことばかりだった。
「自分たちがやってきたことって、世界がこれぐらいあるとしたら、もっとこんな小さい世界なんだなと思いました。全然分からないと思って」
できないことは、たくさんあった。
分からないことも、たくさんあった。
それでも、その職場には教えてくれる人がいた。
「あ、電源はこれです」
そうやって、ひとつずつ教えてもらった。
「いい人たちばかりだったんです。教えてもらいながら、パソコンを見るのが楽しくなりました」
その3年間は忙しかった。
残業も多かった。
今なら問題になるような働き方だったかもしれない。
それでも、高橋さんは振り返ってこう言う。
「すごい忙しかったんですけどね。残業も多くて。でも、すごい楽しかったと思います」
なぜ楽しかったのか。
高橋さんは、銀行の仕事よりも自由だったからだと話す。
「銀行の仕事より、自由で楽しいなという感じでした」
通帳振込の専用端末のサポート。
設置作業。
外へ出て、現場に行く仕事。
銀行の中で決められた業務をするのとは違った。
「外に出られるって思って。それがすごい楽しかったんだと思います」
銀行では、外へ出る部署でなければ基本的に外へ出ることはない。
しかし、その仕事では外へ出られた。
知らないことを覚えられた。
教えてくれる人がいた。
高橋さんにとって、出向先での時間は、忙しくても楽しいものだった。
やれることが増える。
分からなかったことが、少しずつ分かるようになる。
人に教えてもらいながら、自分の世界が広がっていく。
その時間のあと、高橋さんは銀行へ戻った。
本部で仕事をした。
しかし、そこでは手応えがあまりなかった。
「本部で、よく分からない仕事をしていましたね。何してるんだろう、という感じでした」
コンピュータ系の仕事の方が面白かった。
外へ出られる仕事の方が楽しかった。
自分で覚えていく感覚があった。
それでも、会社員である以上、行き先を自分で選べるわけではない。
楽しかった出向先から銀行へ戻り、やがて高橋さんは営業店へ移ることになる。
第3章|「忙しいから無理」——誰も味方になってくれなかった職場
営業店に初めて出勤した日。
高橋さんは、入口に入った瞬間、寒気がしたという。
「あっ、すごい嫌な予感がする。なんだろう、この違和感と思いました」
その感覚は、見事的中!外れなかった。
営業の仕事には慣れていなかった。
ずっと現場から離れていたこともあり、覚えることは多かった。
だが、その職場には教えてくれる空気がなかった。
「もう、言うの3回目なんですけど、と言われたりしました」
上司も、周囲の人たちもきつかった。
ベテランが多く、下から支えてくれる人はいなかった。
「下から来る人はいないな、という感じでした。
みんながみんな、まあまあきつい人、という感じでした」
分からない。
聞けない。
責められる。
頼んでも動いてもらえない。
そんな毎日が続く中、ありえない出来事がおきた。
ATMに現金を補充する時、二人以上で立ち合うルールがあった。
全社で決まっているルールだった。
だから、高橋さんは周囲に頼んだ。
「立ち合ってもらえませんか」
返ってきたのは、冷たい言葉だった。
「お願いしますって言っても、『忙しいから無理』みたいな感じで言われるんです」
誰も立ち合ってくれなかった。
高橋さんは、上の人に相談するしかなかった。
「動かないんだったら、上の人を動かすしかないと思ったんです」
その場面を、高橋さんは「いじめです」と表現した。
「一人で現金補充しに行って、それでATMのお金が合わなかった時に、責任を突きつけられるので」
高橋さんは、その職場でうつ病になる。
「3ヶ月ぐらいで病気になりましたよね」
その後は、休んだり、少し出社したり、また休んだりを繰り返した。
最初はどうすればいいか分からなかった。
そしてメンタルクリニックの存在を知り、当時の主治医に話を聞いてもらった。
先生は、休職制度があるなら休みましょうと言ってくれた。
診断書を書いてもらい、会社を休むことになった。
そこから、長い時間が始まる。
「2年ぐらい、会社に出られなくて、ほぼ寝たきりの状態でした」
何もしていなかったのかと聞かれても、はっきりとは分からない。
ただ、病院には定期的に通っていた。
「先生が割と話を聞いてくださる良い先生だったので」
病院へ行く。
話を聞いてもらう。
少しずつ、体が楽になっていく。
体が少し起こせるようになってからは、週に1回、会社へ行くリハビリのような時間が始まった。
「何をするわけでもなく、ただ身体を動かして、出勤できる体制を少しずつ作りましょうということでした」
半日勤務をさせてもらうこともあった。
しかし、すぐに戻れたわけではない。
うつ病は何度もぶり返した。
休職と復帰を繰り返す日々は、10年ほど続いたという。
「休んだり、復帰したりを繰り返していました。10年くらい続いたのかもしれません」
会社の制度にも助けられた。
休職中、手当のようなものが出ていた。
健康保険組合独自の制度も手厚かった。
「長く休職して、手当のようなものが出ていたのは大きかったです。普通の健康保険組合に比べたら、恵まれていました」
人を苦しめる環境がある。
一方で、人を支える制度もある。
高橋さんは、その両方を経験した。
誰も立ち合ってくれなかった職場。
話を聞いてくれた病院の先生。
休むことを支えた制度。
少しずつ出勤するために関わってくれた医療関係者。
その経験の先で、高橋さんは、会社の外へ出るための道を見つけていく。
それが、社労士という道を知るきっかけになっていく。
第4章|「ワンチャンあるよね」——辞めるための大義名分が、社労士だった
うつ病と休職を繰り返す中で、高橋さんは年金に関わる仕事に出会った。
老齢年金。
障害年金。
遺族年金。
年金にはいくつもの種類があり、当時の職場には年金アドバイザーの資格を持つ人もいた。
高橋さんは、まず年金アドバイザー3級に興味を持った。
勉強を重ねて合格する。
その後、年金相談会の名簿を見ていた時、あることに気づいた。
ある人は「相談員」と書かれている。
ある人は「先生」と書かれている。
その違いを聞いた。
「先生って書いてあるのは、社労士の資格を持っている人だよ」
調べてみると、試験はマークシートだった。
「試験がマークシートなら、ワンチャンあるよねと思ったんです」
高橋さんは、社労士の資格に可能性を感じた。
「その部署にいても、もうしょうがないよねっていう。また再発するな、みたいな。でも、辞めるには大義名分がほしいなと思ったんです」
社労士は、その大義名分だった。
すぐに「自分で切り開こう」と思えたわけではない。
会社員として働き続けることへの限界を感じていった。
高橋さんは、当時の感覚をこう話す。
「辞めるには大義名分がほしかったんです。すぐに“自分で切り開こう”と思えたわけではなくて、休んだり戻ったりを繰り返して、もうここにいても同じことになるなって、少しずつ思うようになったんです。嫌だったら、その環境から出ていけばいい。出て、自分で切り開けばいい。ようやくそう思えたんだと思います」
社労士試験は、年に1回。
高橋さんは3回受けた。
3年かけて、資格を取得した。
資格を取った後、最初はどこかに就職しようと考えた。
企業の人事や労務関係の仕事に就けないか。
そう考えた。
しかし、企業の人事・労務職は経験者採用が多い。
「資格を持っているだけでは、採用してもらえませんでした」
だったら自分で開業しよう!そうなると、自分でやるしかなかった。
「就職できないなら、自分で開業してやるしかない、という感じになりました」
独立することに怖さはなかったのか。
そう聞くと、高橋さんは、会社員に戻る方が怖かったという。
「サラリーマンはもうできないだろうと思いました。仮に転職がうまくいっても、また再発させてしまったらという思いもありました」
こうして、高橋さんは社会保険労務士として独立する。
開業1年目は、とにかく交流会へ行った。
「交流会は最初の1年、すごい異業種交流会に参加していました。すごい行って、すごい名刺を配って。本当にそんな感じでした」
けれど、そこから直接つながった仕事は、1件か2件ほどだった。
「やみくもに配っても仕方ないんだなと思いました」
それでも、何人かは気にかけてくれた。
紹介してくれる人がいた。
ホームページから問い合わせが来ることもあった。
「一期一会なんだと感じていました」
たまたま出会った人が、次の縁をつないでくれることもある。
高橋さんが、岐阜の人だと分かると、「ちょっと紹介するから待って」と言われ、別の人を紹介してもらった。そこから不思議と仕事が入りはじめてという感じでした。
その方に出会っていなければ、こうして社労士を続けていたのかもわかりませんね。
名刺を大量に配っても、つながらないことがある。
一つの出会いが、次の仕事につながることもある。
高橋さんの「一期一会」は、開業して、動いて、配って、うまくいかなくて、それでも人に気にかけてもらう中で、少しずつ残っていった言葉だった。
第5章|楽しく正しく稼ぐ——自分を壊さず、人間らしく働くというIKIGAI
最後に、高橋さんに聞いた。
高橋さんにとってのIKIGAIは何ですか。
少し考えたあと、高橋さんの口から出てきたのは、仕事の話ではなかった。
「推しがいっぱいいる。推し活ですね」
さらに、こう続けた。
「遊びは遊び、仕事は仕事、みたいな感じで生きています」
社労士として、会社と人の相談に向き合う。
労務の問題を聞く。
手続きをする。
就業規則を整える。
時には、経営者の個人的な悩みまで受け止める。
だが、高橋さんは自分の人生を仕事だけで埋めようとはしていない。
推しがいる。
遊びがある。
最近では、マシンピラティスも始めた。
自宅の近くに店舗ができ、週に2、3回通っているという。
始めてから1ヶ月ほど。
体は硬い。
やっている最中は、しんどい。
それでも、終わった後の爽快感がある。
「ちょっと極めたいなと思うようになりました」
その言葉は、軽やかだった。
かつて、会社に行けなくなった時期があった。
2年ほど、ほぼ寝たきりのような状態だった。
休職と復帰を繰り返し、会社員として働き続けることに限界を感じた。
だからこそ、今の高橋さんの言葉には、不思議な説得力がある。
仕事だけで自分を証明しない。
苦しみだけで人生を語らない。
推し活も、ピラティスも、遊びも、自分の人生の中にちゃんと置いている。
今後の目標を聞くと、高橋さんはこう答えた。
「まずは目標、月商100万。個人事業主で月商100万ですね。実は継続できる目途が立ったら次の目標も考えています」
大きな組織にしたい。
人をたくさん雇いたい。
全国展開したい。
そういう言葉ではなかった。
一人でやる。
無理をしすぎない。
でも、ちゃんと稼ぐ。
そこには、高橋さんがたどり着いた働き方の輪郭がある。
昔の高橋さんは、環境に苦しんだ。
自分ではどうにもならない空気の中で、心を壊した。
会社に戻ろうとして、また苦しくなった。
「しょうがないよね」と受け止めるまでに、長い時間がかかった。
だから今は、自分を壊す働き方には戻らない。
誰かに合わせすぎて、自分を見失う場所には戻らない。
ちゃんと稼ぐ。
でも、楽しく稼ぐ。
そして、正しく稼ぐ。
高橋さんは言った。
「楽しく正しく稼げば、それは幸せです」
稼ぐことを悪いことにしない。
楽しむことを後ろめたいことにしない。
仕事をするために、自分を犠牲にしすぎない。
人の役に立つために、自分を壊さない。
高橋さんの歩いてきた道を聞いたあとだと、その言葉はただの目標ではなく、生き方に聞こえてくる。
仕事には、誠実でいたい。
でも、自分の人生も手放したくない。
約束したことを守る。
できないなら、説明する。
間違えたなら、誠実に対応する。
そして、AIの時代になっても、高橋さんの考えは変わらない。
社労士の仕事も、これから便利になっていく。
電子申請も増える。
AIで文章を作ることもできる。
手続きの一部は、もっと簡単になるかもしれない。
それでも、最後に必要なのは人だ。
何を入力すればいいのか。
出てきたものが正しいのか。
その会社に合っているのか。
その人の事情に合っているのか。
そこを見極めるには、知識だけでは足りない。
人を見る目がいる。
現場を見る感覚がいる。
痛みを想像する力がいる。
楽しく、正しく稼ぐ。
それは、高橋さんが長い時間をかけてたどり着いた働き方だった。
高橋さんにとってのIKIGAIは、仕事だけの中にあるのではない。
誰かの役に立つこと。
自分の生活を守ること。
推しを楽しむこと。
身体を動かすこと。
誠実に稼ぐこと。
そして、人としておかしいことを、おかしいと言えること。
その全部が、高橋さんの今を支えている。
働くことは、自分を削ることではない。
稼ぐことは、誰かを傷つけることではない。
人の役に立つことは、自分を犠牲にすることではない。
楽しく、正しく稼ぐ。
高橋さんのその言葉は、壊れた日々を越えた先で、ようやく手にした静かな哲学のように聞こえた。

あとがき|自分に合う環境を、自分でつくる
高橋さんの話を聞きながら、私は何度も「環境」という言葉を考えていた。
人は、どこで働くかによって変わる。
誰と働くかによって変わる。
何を許され、何を責められ、何を当たり前とされるかによって、心の形まで変わってしまう。
人を壊すのは、仕事の量だけではない。
忙しさだけでもない。
そこに味方がいないこと。
分からないと言えないこと。
助けてほしい時に、助けてほしいと言えなくなること。
その積み重ねが、人の心を静かに追い詰めていく。
高橋さんは、その環境の中で壊れた。
会社に行けなくなり、寝たきりのような日々を過ごし、休職と復帰を何度も繰り返した。
その過去があるからこそ、高橋さんは今、自分に合う環境を自分でつくっているのだと感じた。
人は、自分に合わない環境にいる時、自分が悪いのだと思ってしまう。
自分が弱いから。
自分ができないから。
自分が我慢できないから。
自分が社会に向いていないから。
同じ人間でも、環境が変われば、生きやすさは変わる。
同じ能力でも、周りにいる人が変われば、発揮され方は変わる。
同じ心でも、守られる場所と削られる場所がある。
だから、自分が壊れた時に、最初に責めるべきは自分ではないのかもしれない。
「この環境は、本当に自分に合っているのか」
「ここで壊れるまで頑張ることが、本当に正しいのか」
「自分が息をできる場所は、他にないのか」
そう問い直すことも、人生を守るために必要なのだと思う。
あなたは、自分に合わない場所で、自分を責め続けていないだろうか。
壊れるまで頑張ることを、正しさだと思い込んでいないだろうか。
本当はもう、自分に合う環境をつくり始めてもいいのではないだろうか。
人は環境に壊されることがある。
でも、人は環境をつくり直すこともできる。
環境が整った瞬間、そこにIKIGAIがあるのかもしれない。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師








