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人を信じて、裏切られてもいい——Odol合同会社 柴田幸祐が辿り着いた“表現の場”
柴田幸祐 Odol合同会社
ご縁で人生を切り開く人
神奈川県藤沢市
「人を信じて、裏切られてもいい」——柴田幸祐が辿り着いた“表現の場”
「期待しない方が、傷つかない」
いつの間にか、私たちはそんな処世術を身につけてしまった。
職場では適度な距離感を保つ。
飲み会に誘われても、一歩引いて様子を見る。
SNSで繋がっているように見えて、実は誰とも深く関わらない。
本音を言わず、頼りすぎず、信じすぎない。
確かに、そうすれば失敗は減るかもしれない。
騙されることも、期待外れに傷つくことも少なくなるだろう。
けれど、その分だけ——心を震わせるような出会いも、想像もしなかった未来への扉も、一緒に閉ざしてしまってはいないだろうか。
「人を信じた方が、人生は得をする」
何度も聞いたことがある、耳障りのいい言葉。
しかしそれは、ある一人の男が人生をかけて、自分の人生で証明してきた「生き方の戦略」でもあった。
Odol合同会社 代表社員 柴田幸祐。
彼は、カッコイイ生き方を求め続けてきた。
バンドを始めたのも、文化祭で見た先輩たちの姿と、テレビの前で釘付けになったギターヒーローに憧れたからだった。
社会人をしながら小さなギャラリーを作ったのも、一緒にやりたい親友がいて、声をかけたい仲間たちがいたからだった。
初めての転職で飛び込んだ成長企業で待っていたのは、一日二百件近い電話営業の世界だった。
それでも乗り越えられたのは、一流の事業開発や営業のプロが集まる現場に触れたかったからだった。
独立したのも、会社を巣立っていった仲間たちと、いつか同じ視座で再会したときに、胸を張って自分の歩みを話せるようにするためだった。
そして、これまで一緒に仕事をし、刺激を受けた経営者たちに、いつか何かしらの形で恩返しができる自分でいたかったからだった。
柴田が最も大切にしているもの。
それは「ご縁」だった。
ネットワークビジネスに誘われたこともある。
期待していた人に、裏切られたように感じたこともある。
信じたからこそ、傷ついたこともあった。
それでも柴田は、人を信じることをやめなかった。
「裏切られてもいいから、信じ切った方が後悔がない」
その言葉は、きれいごとではない。
痛みを知った人間が、それでも選び直した生き方だ。
そして今、不思議なことが起きている。
二十代の頃に立ち上げた小さな表現の場で出会った若きアーティストたち。
十五年以上も音信不通だった彼らが、南の島で始まった新しい滞在型拠点プロジェクトを通じて、次々と再会している。
かつて別々の場所で出会った人たちが、時を経て、再び一つの場所に集まり、表現の場づくりを共にしている。
これは計算では生まれない。
損得勘定では辿り着けない。
ただ、人を信じ続けた先にだけ、偶然のように現れる景色がある。
これは、人を信じた人生が、どう回収されていくのかの物語である。
合理的に生きることが正解とされる時代に、あえて「人を信じる」という選択をした男の記録。
そこには、私たちが忘れかけていた人生の本質が隠されている。
読み進める前に、あなた自身に問いかけてみてほしい。
「人を信じる人生」と「人を信じない人生」——自分は、本当はどちらを生きたいのか、と。
第1章|人と向き合う原点——透かしていた少年が覚醒するまで
小学生の頃の柴田幸祐は、クールでシャイな性格だった。
運動神経は良かった。
足も速く、学年で二番、三番には入れる。
痩せていて、顔立ちも整っていた。
ただ、自分から前に出るタイプではなかった。
周りを俯瞰しながら、どこか斜に構えた大人のように、周囲を見ていた。
柴田は小学校でサッカークラブに入る。
特別サッカーが好きだったわけではない。
なんとなく入って、なんとなく続けていた。
そのチームが次第に強くなり、全国大会に出場するレベルまで成長すると、チームは一軍と二軍に分かれることになった。
柴田は二軍に配属され、キャプテンを任された。
二軍には、様々なタイプの選手がいた。
太っていて走るのが苦手な子。
ガリガリに細くて当たり負けする子。
背は高いがボールタッチが不器用な子。
とにかく足が遅い子。
共通点は、「一軍に選ばれなかった」という事実だけだった。
練習中、誰も積極的に声を出さない。
パスミスが起きても、特に何も言わない。
チーム全体に、どこか諦めたような空気が流れていた。
最初、柴田は面倒に感じていた。
自分はリーダータイプではない。
なぜ自分がキャプテンに選ばれたのかも、よくわからなかった。
しかし、練習を重ねるうちに、考えが変わっていった。
このままでは、チームは良くならない。
太っている子も、足が遅い子も、それぞれサッカーをやりたくてここにいる。
何もしないでいる自分の方が、問題なのかもしれない。
そう思った柴田は、行動を変えた。
今まで出さなかった声を出すようになった。
「ナイス!」
「ドンマイ!」
「もう一回いこう」
たったそれだけのことだった。
けれど、少しずつチームの雰囲気が変わっていった。
他のメンバーも声を出すようになり、ミスした仲間に「ドンマイ」と声をかけるようになった。
いいプレーには「ナイス!」が飛ぶようになった。
劇的に強くなったわけではない。
一軍に勝てるようになったわけでもない。
それでも、練習中の空気は確実に変わった。
この経験で、柴田は一つのことに気づいた。
自分が動かなければ、何も変わらない。
人と関わらなければ、場は変わらない。
この小さなチームでの体験が、後の人生で「人との関わり」を重視する原点になっていった。
第2章|人に惹かれて動く——音楽と“誰とやるか”の人生
中学時代、柴田には特に熱中したものがあった。
音楽だった。
文化祭で、柴田の青春が動き出した。
学校の体育館。
先輩たちが、当時の柴田がまだ触れたことのなかった洋楽ロックをコピーして演奏していた。
普段とは違う先輩たちの姿。
体育館に広がる熱気。
その光景に、柴田は強い衝撃を受けた。
「あっち側に行きたい」
理屈ではなかった。
ただ、直感的にそう思った。
すぐにエレキギターを手に入れた。
お年玉などで貯めたお金でギターを購入し、当時の音楽雑誌を毎月買って読み込んだ。
コードを覚え、曲をコピーし、友達の家で練習する日々が始まった。
理由を深く考える前に、「やりたい」が先に立っていた。
中学校ではサッカー部にも入っていたが、放課後や休日はギターに時間を使うようになった。
CDを繰り返し聴き、好きなバンドのフレーズを耳で拾っては真似をした。
高校に進学してからも、中学時代の友人たちとの関係は続いていた。
放課後に集まる友人の家。
その中に、クラシックギターを使って、繊細な指弾きと弾き語りを披露する友人がいた。
柴田が好んでいたのは、激しいエレキギターのカッティングやリードソロだった。
一方で、その友人が奏でる音は、生音の柔らかさと繊細さがあった。
まったく違うスタイルだった。
だからこそ、その音色に惹かれた。
やがて二人は、路上で歌うようになった。
特別な準備はしていない。
許可も取っていない。
ただギターを持って現地に向かい、歌い始めた。
人が立ち止まるかどうかも、やってみるまでわからなかった。
「まずやってみる」
それが、自分たちのスタイルだった。
ある日、予想外のことが起きた。
地元情報誌の記者から声をかけられたのだ。
路上で活動する若いミュージシャンを探しているという。
断る理由もなかった。
面白そうだと思い、話を受けることにした。
音源もない高校生デュオだったが、後日、雑誌に掲載された。
本人としてはカッコよく写ったつもりだった。
けれど、紙面に載っていたのは、熱唱しすぎて顔がひん曲がった自分だった。
友人たちは爆笑した。
家族は、それでも嬉しそうに何冊か買ってくれた。
オリジナル曲が何曲かあるだけの、素人の高校生二人。
それでも「やれば何かが起きる」ことを実感した瞬間だった。
ただ、一人では何も始まっていなかった。
目の前に信じられる人がいた。
一緒にやりたいと思える人がいた。
誰かと一緒に動くことで、人生は楽しい方向に進んでいく。
柴田は、まだ言葉にはできなかったかもしれないが、そのことを体で感じ始めていた。
第3章|かっこいい大人たちが教えてくれた——音楽を“生き方”に変えるということ
大学に進学した柴田の生活の中心は、学校だけではなかった。
むしろ、学校が終わった後に通うライブバーでのアルバイトの方が、彼の人生に大きな影響を与えていった。
十九歳の頃、柴田は「毎日音楽に触れたい」という一心で、ライブバーの門を叩いた。
毎晩ミュージシャンが演奏する店。
音響の手伝いができるかもしれないと思って飛び込んだ。
実際には、音響に触れる機会はほとんどなかった。
ホールに立ち、ドリンクを作り、お酒の勉強をし、大人のお客さんと話し、毎晩ジャンルの異なるイベントに立ち会う日々。
学校で仲間たちと話す時間も面白かった。
けれど、この場所で過ごす時間は、それとはまた違う濃さがあった。
そこに集まっていたのは、音楽を自分たちなりに続ける大人たちだった。
昼間は会社員として働き、夜になると楽器を持って集まってくる人たち。
プロとして音楽一本で生計を立てているわけではない。
有名なCDを出しているわけでもない。
それでも、お互いの無理のないペースで音を鳴らし、仲間と笑い合い、心から楽しそうに過ごしていた。
「こういう大人でいいじゃないか」
柴田は、素直にそう思った。
自然体で、大事にしているものを守っている。
年齢を重ねても好きなことを続けている。
一緒に時間を過ごしたい仲間と、笑いながら音楽を楽しんでいる。
その姿が清々しかった。
そして、心からかっこよく見えた。
このアルバイト体験は、柴田の人生観を大きく変えた。
それまで音楽は、デビューすること、有名になること、憧れの場所で演奏することが正解だと思っていた。
一旗あげることが、音楽をやる意味だと思っていた。
しかし、目の前の大人たちは違った。
音楽は、必ずしも職業にしなくてもいい。
人生を彩る活動として続けていけばいい。
第一線で活躍し続けることだけが正解ではない。
信じたものを続けることに価値がある。
信じた人と一緒にやることに意味がある。
そう思うようになった。
しかし、大学三年生の夏、予想外の出来事が起きた。
海外から帰国した翌日、時差ボケのまま久しぶりのアルバイトを終えた帰り道。
自転車で走っていた柴田は、車との事故に遭った。
気づいたときには、体は自転車ごと飛ばされていた。
初めての走馬灯のような感覚。
体がスローモーションで飛んでいくように感じた。
冷静になったと思ったのも束の間、血が流れ、視界も意識も朦朧としていく。
駆けつけた救急隊員の深刻な表情を見て、ただごとではないとわかった。
右足のすねの骨が、真っ二つに折れていた。
普通なら折れないはずの場所だった。
緊急で手術を受け、金属を入れ、数ヶ月間の入院生活を送ることになった。
動きのあった大学生活は、そこから卒業まで一気に止まった。
人生の歯車が、見事に狂った。
周りの友人たちが就職活動を始める頃、柴田は企業説明会に行くことすらできなかった。
松葉杖をついた状態で、面接会場へ向かうことも難しかった。
通常の春採用は、断念せざるを得なかった。
そもそも、就職について深く考えていたわけでもなかった。
しかし、入院中の病室で、母親が就職に関するパンフレットを持ってきた。
なんとも言えない表情で、それを差し出してきた。
一人病室で冊子を眺めながら、柴田は初めて、社会に出て働くことを真剣に考えた。
親孝行もしないといけない。
ちゃんと働くことも考えなければいけない。
同時に、ライブバーで見た大人たちの姿を思い出していた。
何歳になっても、自分のペースで、好きなことを続けている大人たち。
自分も、音楽だけで食べていくことは今は諦めよう。
でも、音楽は自分の人生の表現として関わり続けていこう。
柴田は、そう覚悟を決めた。
周りと同じレールに乗るタイプでは、昔からなかった。
王道のヒーローより、癖のある脇役に惹かれる。
トップシェアの会社よりも、色濃い人たちがいて、チャレンジングなことをしている場所に共感してしまう。
大きな事故は、皮肉にも「他の人と違う人生を受け入れる覚悟」を与えてくれた。
好きなことを、誰とやるのか。
その軸を持って、自分なりの道を歩めばいい。
柴田は、みんなより一足遅れて、秋採用から就職活動を始めた。
第4章|理想と現実の狭間で——“好き”から“稼ぐ”へ舵を切った日
秋採用で、柴田は五十名規模のWeb制作・ブランディング会社に就職した。
新卒は柴田一人だけだった。
その分、先輩たちに可愛がられ、デザイン、コーディング、ディレクション、セールスなど、各領域の基礎を短期間で叩き込まれた。
その後、企画営業職として配属される。
カッコよく言えば、Webプロデューサーのような役割だった。
初めての社会人としての仕事は、驚くほど楽しかった。
チームで一つの作品を作り上げ、クライアントに提案する。
深夜まで働き、徹夜で企画書やデザインを作ることもあった。
今の時代であれば、厳しい働き方だと思われるかもしれない。
それでも当時の柴田は、苦に感じていなかった。
むしろ、バンドで曲を作っていた感覚に近かった。
みんなで一つのものを作り上げていく工程が、何より楽しかった。
「こんな働き方があるんだ」
「こんな仕事でお金がもらえるなんて、最高だ」
心からそう思えた。
しかし、二年半が経つ頃、一つの課題が見えてきた。
制作チームと意見を出し合い、成果物を作る工程は最高だった。
クリエイティブのプロたちと働くのは刺激的だった。
経営陣とも近い距離で仕事をさせてもらい、その経験は今の柴田を構成する財産になっている。
ただ、会社を存続させるための売上や利益を作る営業組織の在り方には、まだ改善点があると感じていた。
営業チームは少人数だった。
月間の売上目標を読み上げることもなく、大きな案件が決まっても「おめでとう、すごいね」で終わる。
数字に対する予実管理や、週次・月次の振り返り。
どうやって受注につなげたのかという再現性の議論。
そうしたものは、ほとんど行われていなかった。
営業成績は出ていた。
昇給にも応じてもらった。
人間関係も良好で、居心地は抜群に良かった。
それでも、どこか物足りなかった。
制作の現場には、一流の技術と情熱を持った人たちがいた。
一方で、営業として「この人のようになりたい」と心から思える、雲の上の存在のようなセールスのプロには、まだ出会えていなかった。
柴田は、仕事を通じて関わる外部の営業担当者たちを見ながら、次第に感じるようになった。
どこの現場に行っても通用する営業のプロたちは、普段どのように仕事に向き合っているのだろう。
本気で数字と向き合っている人たちの中で、自分はどこまでやれるのだろう。
もっとシビアな環境で、自分の限界値を確かめてみたい。
その欲求が、日に日に強くなっていった。
「もっとガツガツした営業の世界に身を置こう」
そう思った柴田は、当時勢いのあった大手IT企業の求人に目を留める。
正社員ではなく、契約社員としての採用だった。
しかし、柴田はそこに大きなこだわりを持たなかった。
安定した雇用よりも、圧倒的なスピードで成長している会社の懐に飛び込めることの方が魅力的だった。
居心地の良さよりも、変化を選んだ瞬間だった。
配属されたのは、自社サービスの営業部門。
そこで待っていたのは、一日八十通話を達成要素とし、そのために二百件近い架電を求められる電話営業の世界だった。
電話の内容はすべて録音される。
通話メモも書く。
メールも送る。
チャットも流れる。
一時間ごとに進捗を確認される。
一日の終わりには、やるべき数字ができていなければ帰れないような空気があった。
月末には、達成者と未達成者の差がはっきりと見える場もあった。
同じ環境で戦う契約社員たちは、入っては辞め、入っては辞めていった。
かなり過酷だった。
達成基準も厳しかった。
単月で達成しても、それを継続することはさらに難しい。
キャリアの見通しも簡単には描けなかった。
普通に考えれば、希望を見出しづらい環境だった。
それでも柴田は、そこに残った。
高いレベルで働く人たちが、組織の中にいたからだ。
学ぶことに限界がない環境だった。
この環境を乗り越える価値があると思った。
三ヶ月連続で営業目標を達成すると、営業セミナーの講師を任される仕組みもあった。
導入からクロージングまで、約一時間のセミナー構成を徹底的に叩き込まれる。
百人以上を前にした登壇。
地方での営業活動。
自治体と連携する動き。
営業として、事業を作る現場に近い経験も積んでいった。
長い仕込みの時期を経て、柴田は契約社員から正社員に登用される。
多くのメンバーが退職していく中で、掴み取った正社員登用だった。
自分だけでなく、一緒に苦しい思いをして戦ってきた仲間たちに対しても、「やってやったぞ」と言えるような瞬間だった。
正社員になってからも、柴田はキャリアを重ねていった。
新しい領域で働き、その都度スキルを身につけた。
周囲からの評価も得た。
固定収入も増え、大企業の正社員という社会的な看板も手に入れた。
しかし、八年間その会社で働く中で、柴田の中には静かな違和感が生まれていく。
それは、希望していた部署への異動が叶わなかった時のことだった。
社内の公募制度を使い、自分がもっと力を発揮できると思う事業に手を挙げた。
面談でも熱い想いを伝え、最終段階まで進んだ。
やれることはやったつもりだった。
周りにも、その想いを毎日のように語っていた。
しかし、結果は通らなかった。
会社には会社の事情がある。
人事には理由があり、全体最適がある。
頭では理解していた。
けれど、心は納得しなかった。
その瞬間、柴田はふと思った。
「このまま、会社が決めたコントロールできないレールの上で生きていくのか?」
どれだけ成果を出しても、最終的に自分のキャリアを決めるのは自分ではない。
配属先も、携われる事業も、会社の都合と責任者の判断で決まっていく。
自分がどんなに「ここでやりたい」と思っても、人生の方向が自分の手を離れて決まっていく。
安定した給料。
大企業という看板。
社会的な信用。
手放すには惜しいものばかりだった。
だからこそ、毎日悩んだ。
第5章|信じて踏み出す——営業で独立し、“人で生きる”と決めた理由
「自分の人生は、自分で決める」
そう思えるようになったのは、最初から強い決意があったからではない。
そうできない苦しさを、身をもって味わったからだった。
会社に対する反発だけではなかった。
自然な流れだった。
これまでの人生を振り返ると、柴田はいつも人との出会いによって動いてきた。
ギターヒーローに憧れてバンドを始めた。
共にやりたい仲間がいたから、路上に出た。
仲間がいたから、小さな表現の場も作った。
その原点を忘れず、これからも同じでいいはずだと思った。
「自分がこれからも関わっていきたい人と、仕事をしたい」
そう思ったとき、会社という枠組みの外に出る選択肢が見えてきた。
二〇一九年、柴田は独立した。
社員として雇用される選択肢から、一度外れてみることにした。
どうなるかの保証はない。
安定収入もない。
そもそも仕事が来るかもわからない。
しかし、一つだけ確信があった。
自分が信じる人と繋がり続けていれば、挨拶と雑談の中から、お願い事や仕事は生まれる。
実際、独立後の仕事は、人とのご縁から生まれていった。
二十代の頃に作った小さな表現の場で出会った人。
イベントを通じて繋がっていた人。
久しぶりに会話をしたところから、仕事につながった人。
「この人と一緒にやりたい」と思える経営者たちに、自分から声をかけたり、相手からオファーをもらったりした。
感覚としては、学生時代にバンドを組んだときと同じだった。
この人とやりたい。
この人となら、面白いものが作れるかもしれない。
その直感を信じて動いていった。
もちろん、すべてが順調だったわけではない。
信頼していた人から、もう仕事の連絡をもらうことはないだろうと思うこともあった。
「この人なら」と思っていた相手に、裏切られたように感じる瞬間もあった。
人を信じるということは、同時にそうしたリスクも受け入れるということだった。
それでも柴田は、考えを変えなかった。
むしろ、裏切られてもいいと思うようになっていった。
信じたことで生まれたものの方が、圧倒的に大きかったからだ。
仕事は、人からいただく声からしか生まれない。
信じなかった場合、そもそも何も始まらない。
「人を信じて裏切られることより、信じないことで失うものの方が大きい」
それは、柴田が仕事や営業という立場で人と向き合い続けた結果、辿り着いた現実的な結論だった。
そして、独立後の新しい章として、柴田はまた大切な出会いを得ていく。
自分の看板や過去の紹介に頼らず、ゼロから仕事獲得に向けた提案を行った。
オンライン上で出会った会社に、自らプレゼンテーションをし、業務委託として関わる機会を得た。
そこで出会った経営者たちは、それぞれ異なる思想を持ちながらも、人や事業に伴走する姿勢を大切にしていた。
一人は、新しい営業のあり方を広めようとする切れ味のある人物だった。
もう一人は、関わるすべての人を幸せにするという思想を持ち、周囲から愛され、慕われる人物だった。
その組織のあり方を聞いたとき、柴田は直感した。
一社目の制作会社で感じた、チーム一丸となって成果物を作る楽しさ。
ライブバーで見た、責任を持ちながら好きなことを続ける大人たちの自由さ。
その両方が、ここにはあるのではないか。
また、柴田の中で点がつながっていった。

第6章|ご縁は巡る——信じ続けた人生が“表現の場”として回収されるまで
独立してから数年。
柴田の生活には、また新しい潮流が生まれていた。
それは、移動しながら働くというスタイルへの関心だった。
国内外で、場所に縛られずに働く人たちを目にする中で、自分でも生活を崩さない範囲で挑戦してみたいと思うようになった。
昔から、よく通ってきた南の島があった。
若い頃から何度も訪れていた場所だった。
縁あって、柴田は海のある街と南の島を行き来する二拠点生活を始めることになる。
きっかけは、外出も移動も制限された時期だった。
海外に行くこともできない。
家から出ることも、お店に行くことも、当たり前ではなくなった。
そんな中、宿泊費が大きく下がり、自治体による支援もあった。
昔から、お金をかけずに計画を立てることが得意だった柴田は、「環境を変えれば人生も変わるはず」という直感を信じて、南の島に一ヶ月滞在した。
目の前に広がる青い海。
薄着で過ごせるぬるい空気。
せかせかしない時間の流れ。
そして、そこに集まる行動的で前向きな人たち。
在宅で変わらない景色を見続ける毎日とは、まったく違う感覚があった。
灰色だった日常が、少しずつカラフルになっていくようだった。
その場所で、柴田は人生において大切なパートナーとも出会う。
最初は、共通の音楽の趣味が合う友人のような距離感だった。
お互いに人生の経験があり、家族のことも、仕事のことも、過去のことも話せた。
共通点も多く、なんでも話せる相手として、少しずつ距離が近づいていった。
物理的な距離は離れていた。
それでも、不思議と関係性は途切れなかった。
たまに連絡を取り合い、人生の近くにいる特別な存在になっていった。
やがて柴田は、南の島で仕事をしやすい環境を作るために、滞在できる拠点を作ろうと考えた。
そこは単なる宿泊場所ではない。
暮らす。
働く。
地域とつながる。
そのすべてが自然に共存する場所にしたかった。
物件探しにも、パートナーは立ち会ってくれた。
様々な物件や契約形態の話があった。
無理のない範囲で、二人でイメージを膨らませながら話を進めていった。
どんな空間にしようか。
誰に関わってもらおうか。
そう考えているとき、柴田はふと思った。
「どうせだったら、自分の知る人や昔の繋がりに声をかけてみよう」
二十代半ばの頃、柴田は親友と一緒に小さなギャラリーを作ったことがあった。
毎月二人でお金を出し合い、一年以上かけて準備をした。
雑居ビルの一室を借り、週末だけ開くアートギャラリー兼ショップを、自分たちなりに始めた。
秘密基地のような、ちいさな表現の場だった。
そこには、まだ駆け出しだった若いアーティストたちが作品を出してくれていた。
そのうちの一人は、今では南の島を拠点に活動する、名の知れたアーティストになっていた。
当時は会社員をしながら絵を描き、柴田たちのギャラリーに参加してくれていた。
あれから十五年以上。
新しい拠点の件で、柴田はダメ元でメッセージを送ってみた。
返ってきたのは、意外な言葉だった。
「もちろん覚えています」
十五年以上会っていなかったのに、記憶はしっかりと繋がっていた。
同じような再会は、他にも起きた。
二十代の頃に小さなギャラリーで写真を展示してくれた写真家。
昔から音楽の場でつながっていた表現者。
かつての縁が、時間を超えて、新しい拠点のビジュアルや空間づくりに関わってくれることになった。
予定を合わせていたわけではない。
狙って仕掛けたわけでもない。
偶然が重なったように見える。
けれど、久しぶりなのに、どこか「続き」のようだった。
初めて一緒にものづくりをするのに、もう長い付き合いがあるような安心感があった。
打ち合わせを重ね、部屋を彩るアートや空間のコンセプトについて、一緒に考えていく。
どういう絵が合うのか。
どういう写真が必要なのか。
どういう空気をまとった場所にしていくのか。
柴田にとって、その時間こそが、心が踊る時間だった。
若い時代を一緒に生きた仲間。
表現を続けるかっこいい人たち。
音楽の場でつながっていた人。
新しい土地の事情を丁寧に教えてくれる人。
そして、最も近くで支えてくれるパートナー。
バラバラだった人生の点が、一つの場所に集まっていった。
なぜ、こんなことが起きたのか。
偶然。
タイミング。
運。
そう言ってしまえば、それまでかもしれない。
でも、柴田自身は、それだけだとは思っていなかった。
一つひとつの縁に対して、「その人とまた一緒に何かをやれたら」と本気で願っていた。
いつかどこかで、もう一度交わる日は来ると信じていた。
そこに過度な期待はなかった。
それでも、糸を完全に切ることはしなかった。
切ろうと思ったことがあっても、どこかで許せる自分が来るかもしれない。
また好転する日が来るかもしれない。
そう思いながら、何年でも待つ。
人を信じるというのは、相手をコントロールすることではない。
見返りを求めて縁を持ち続けることでもない。
ただ、自分の中で、その人との可能性を完全には閉じないということなのかもしれない。
二十代にやってきたことが、人生二周目のように、再びつながっていく。
その嬉しさは、柴田にとって、これ以上ない喜びだった。
大きな名誉や財産を求めることには、もうあまり興味がない。
会社を大きくして、従業員をたくさん雇うことにも、上場を目指すことにも、無理な資金調達をすることにも、強い関心はない。
最低限、自分が倒れずにいること。
責任が持てる範囲で、家族、仲間、尊敬する仕事のパートナー、表現者たちと関わり続けること。
そして、自分の周りに、心が踊るきっかけを届け続けること。
表現する人と、応援する人が集い、ゆるやかで熱量のある経済圏を育てていくこと。
それが、柴田幸祐が二拠点生活と新しい表現の場づくりを通じて気づいた、大事なことだった。
大げさに言えば、この先の人生のテーマと呼べるものに触れたのかもしれない。
今後、それはまた形を変えるかもしれない。
けれど、この時点で得た感覚は、今後の人生の大きな道標になった。
ここにインタビューという形で文字に残せていることも、後に振り返って見返すことができる、柴田幸祐の人生観の記録である。
人を信じるという選択は、すぐには報われない。
信じたのに、続かなかったご縁もある。
期待したように返ってこなかった関係もある。
けれど、ご縁は消えることなく、どこかに積み上がっていく。
そしてある日、想像もしなかった形で人生に返ってくる。
新しい表現の場を通じて、十五年前の仲間と再び現在地を確かめ合う。
パートナーと一緒に生活を整え、かつては未開拓だった場所が、第二のホームのように大切な場所になっていく。
人を信じた人生は、人で回収される。
柴田幸祐は、今後もそのことを証明し続けていくのだと思う。
あなたも人を信じたその先に、あなただけの共鳴の音色を鳴らせる瞬間が訪れるはずだ。

あとがき
この原稿を書きながら、何度も自分に問いかけた。
「お前は、本当に人を信じて生きているのか」と。
傷つかないように防御線を張り、損をしないように計算し、コスパを重視して無駄な関係を断捨離する。
確かに、それは安全で効率的な生き方だ。
しかし、柴田さんの人生は、その真逆を行く。
裏切られるリスクがあっても飛び込む。
すぐに結果が出なくても繋がり続ける。
効率よりも、「誰とやるか」という感情を優先する。
一見すると、不器用で遠回りに見える。
「そんなことをしていたら、バカを見るよ」と笑う人もいるかもしれない。
けれど、率直に思う。
かっこいい。
粋だ。
人らしさこそ、自分を守る最大の武器なのかもしれない。
そして、「この人だ」と信じた縁を守り抜くことが、将来自分の人生を彩っていくのだと感じさせてくれた。
人を信じることは、種まきに似ていた。
今日信じて、明日すぐに芽が出るわけではない。
時には嵐に打たれ、踏みつけられることもある。
「やっぱり無駄だった」と諦めたくなる夜もあるはずだ。
それでも信じ続ける。
「また一緒にやれたら」と本気で願い続ける。
そうすれば、想像もしなかった美しい花が咲く日が来る。
柴田さんの人生が美しいのは、成功したからではない。
人を信じ続けた結果、人生が「人」で満たされているからだ。
彼が作ろうとしている表現の場は、単なる事業ではない。
彼の人生そのものが結晶化した場所なのだと思う。
皆さんは、「人を信じる」ことを忘れてしまうことはないだろうか。
SNSで繋がっているように見えて、実は誰とも深く関わっていない。
表面的な関係を維持しながら、心のどこかで「裏切られないように」と距離を取っている。
でも、それで本当に満たされるのだろうか。
もし今、あなたが誰かを信じることに躊躇しているなら。
もし、過去の裏切りがトラウマになっているなら。
もし、「どうせ無理だろう」と諦めかけているなら。
柴田さんの物語を思い出してほしい。
人を信じるという選択は、すぐには報われない。
けれど、それは消えることなく積み上がり、ある日、想像もしなかった形で人生に返ってくる。
誰かを信じてみる。
声をかけてみる。
「また一緒にやりたい」と伝えてみる。
その先に、あなただけの「表現の場」が待っているかもしれない。
人を信じて、裏切られてもいい。
もしあなたが信じる勇気の一歩を踏み出せたら。
次の美しい音を奏でるのは、きっとあなた自身だ。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師









