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「やっぱり、人が好きなんだと思う」——妻と歩んだ日々、料理から人と社会をつないだ人生
料理研究家スマイリー スマイリークッキングスタジオ
妻との歩みを、人と社会へつなぐ料理研究家
福岡県糟屋郡
「やっぱり、人が好きなんだと思う」——妻と歩んだ日々、料理から人と社会をつないだ人生
「25歳までしか生きられないかもしれないけど、それでもいいの?」
結婚する頃、スマイリーさんはそんな言葉を聞かされていた。中学生の頃に出会った、一つ年上の女性。後に妻となるその人は、幼い頃から1型糖尿病を患い、入退院を繰り返していた。それでも二人は結婚した。
やがて妻は、大きな身体的リスクを抱えながら一人息子を産んだ。
「十月十日、血へどを吐きながら、一人の男の子を授けてくれました」
その後も、「あと3年」「あと2年」と何度も余命を告げられたという。それでも、その期限を越えるたび、妻は隣にいた。25歳頃、スマイリーさんは念願のフランス料理店を開く。ようやく料理人として夢を形にした頃、妻の糖尿病による合併症が進み始めた。
「『俺は料理のために生きるんだ』なんて言っていたら、妻は亡くなっていたと思います」
スマイリーさんは、妻と生きながら料理を続ける方法を選んだ。家族を養うため、父が経営する家業の鉄工所でも働いた。そこで捨てられていく金属を残し続け、それは後にメタルアートになった。
現在、一般社団法人スマイリージャパン代表理事として活動する料理研究家・スマイリーさん。行政、大学、企業、NPO、メディアと連携し、食育、福祉、食品ロス、地域づくりなど、料理を入口に活動を広げてきた。一見すると、ばらばらに見える。
「みんながコーヒーを一杯飲む時間とか、映画を一本観る時間を、自分の活動に使おうと思ったんですよ」
働き、家族を支え、その中に残された時間を自分の活動に使う。それを40年近く続けてきた。妻はその間、透析、臓器移植、失明を経験し、晩年には要介護5となった。そして2025年、中学生から人生を共にしてきた妻を見送った。
「自分なりに、やることを全部やったという感じだったんでしょうね」
その後は、何も手につかない日々が続いたという。さらに翌年、妻が最後に迎えた愛犬も亡くなった。
「この家に俺一人で、これからどうするんだって」
64歳を迎える直前だった。そんなスマイリーさんに、今も自分を動かしているものは何かと尋ねた。
「やっぱり、人が好きなんだと思います」
その歩みの先で出てきたのが、「人が好き」という言葉だった。これは、一人の人と生きることを選びながら、自分の人生も続けてきた、一人の男の物語である。
第1章|「こんなふうにはならない」——父への反発と、中学生で出会った人
スマイリーさんは、末っ子として育った。幼少期について尋ねると、父への複雑な感情を隠さなかった。
「本当は父親をいいように言いたいんだけど、逆でね。人に暴力を振るうし、お金も残さない。最終的には絶縁しました」
父は鉄工所を経営していた。一方、家庭ではスマイリーさんが反面教師とする存在でもあった。
「こんなふうにはならない、とは思っていましたね」
母について聞くと、「優しい人でしたよ」と短く答えた。そんな少年時代に出会ったのが、後に妻となる女性だった。妻は一歳年上。幼い頃から1型糖尿病を患い、入退院を繰り返していた。学校へ十分に通えない時期もあったという。
「ちょっと身体が弱くて、体育に出ない時があるぐらいでした」
二人が付き合い始めるきっかけをつくったのは妻だった。バレンタインデーにカップケーキを渡されたという。
「向こうから告白されたんですよ」
スマイリーさんも、以前から彼女が気になっていた。妻のどこが好きだったのか。何度か尋ねると、少し照れながら答えた。
「改めて見ても、かわいい人でしたよ」
中学校を卒業し、高校は別々になった。それでも関係は続いた。高校卒業後、スマイリーさんは料理の道を選ぶ。
「料理が好きだったんですよ」
辻調理師専門学校へ進み、フランス料理を学んだ。本人は、辻静雄が築いた教育の中で、フランス料理の「エスプリ」を学んだと振り返る。そして二人は、20歳になる前後で結婚した。
妻の病気が軽くないことは分かっていた。結婚する頃には、長く生きられない可能性についても聞かされていたという。
「『25歳までしか生きられないかもしれないけど、それでもいいの』という話はありました」
その話を聞いたうえで、二人は結婚した。その後も、医師から「あと3年」「あと2年」と余命を告げられる場面が何度もあったという。3年を過ぎても妻は生きている。また余命を告げられ、その期限も越えていく。
「そのうち、『また始まったな』って思うようになるんですよ。だって、その時も生きてるんだから」
やがて二人の間に、一人息子が生まれた。妻にとって出産は大きな身体的リスクを伴った。主治医からも、相応の覚悟が必要だと伝えられていたという。スマイリーさんは、その時のことをこう振り返る。
「十月十日、血へどを吐きながら、一人の男の子を授けてくれました」
妻自身が何を考えていたのかについて、スマイリーさんは断定しない。
「僕の子どもを産みたいという気持ちはあったんじゃないですかね。自分が生きた形を残したいという気持ちもあったかもしれない」
そして最後に、
「感謝していますよ」と話した。
第2章|「料理のために生きていたら、妻は亡くなっていた」——25歳の店と、変わった夢の形
20代半ば、スマイリーさんは念願だったフランス料理店「ラ・パルコ」を開いた。自分の店を持ち、料理長として厨房に立つ。料理人として描いてきた夢が形になった。同じ頃、妻の糖尿病による合併症が進んでいった。
店は店舗付き住宅だった。厨房の向こう側には、妻と幼い息子の生活がある。
妻の看護が必要になる。息子との生活もある。店も開けなければならない。
「『俺は料理のために生きるんだ』なんて言っていたら、妻は亡くなっていたと思います」
店の経営も次第に苦しくなった。そこでスマイリーさんは、料理との関わり方を変えていく。
「料理で妻の病気を何とかできないかと思ったんですよ」
26歳頃、料理研究家という立場で活動を始めた。名刺をつくって人に渡すと、決まって尋ねられたという。
「何の仕事ですか?」
それでも、料理研究家と名乗り続けた。店の厨房で一皿をつくることから、食材、身体、健康、暮らしまで考える方向へ、活動の範囲は広がっていく。後にスマイリーさんが語る「料理の哲学・料理の科学・料理の芸術」という考え方も、長い実践の中で形になっていった。
一方、家族との生活には収入が必要だった。スマイリーさんは、家業である鉄工所で働き始める。機械加工やシステム、プログラミングなどに関わった。
そこでは、父との確執が再び表面化する。自分の工場を持とうと、独立の準備を進めた時期があった。自分なりに資金も投じたという。最終的には、父から兄の下で会社を支えるよう求められ、計画していた独立は実現しなかった。
「やりたいことはありましたよ。そこは綺麗事じゃなくて、ドロドロした部分もある」
自分がやりたいこともある。家業もある。妻と息子との生活もある。その中で、スマイリーさんは会社を辞めずに働き続けた。
「自分の悩みとは関係なく、働かないといけないですからね」
そこで使ったのが、一日の中に残された小さな時間だった。
「9時から5時まで働く。家族のことは全部やる。その後に、みんながコーヒーを一杯飲む時間とか、映画を一本観る時間を、こういう活動に使おうと思ったんですよ」
一日に一、二時間。料理研究家として動き、学び、人に会う。その暮らしを何年も続けた。
生活そのものを大きく変えることが難しい中で、残された時間を自分の活動に使った。その時間から、さらに二つの活動が生まれていく。

第3章|一日二時間を、40年——妻の身体から始まった学びと、捨てなかった「ペケ」
妻の病状が進むにつれ、スマイリーさんは料理だけでは対応できない身体の問題にも向き合うようになった。ある時、妻が眠れなくなった。薬を使っても十分に眠れず、医師へ相談する中で、肩甲骨周辺のケアについて教えられたという。
家に帰り、妻の身体に触れた。本人の記憶では、その夜、妻は久しぶりによく眠ることができた。別の日には排尿の問題について相談し、今度は仙骨周辺について教えられた。妻の身体に触れると、妻が訴えていた症状にも変化があったという。
スマイリーさんには疑問が残った。
「毎日こんなに薬を飲んでいるのに、素人の僕が身体に触ったら変化が出る。『先生、これ何なんですか』って聞いたんですよ」
そこから、身体そのものを知りたいとカイロプラクティックを学び始める。
仕事にするためではなく、妻の身体を少しでも知りたかった。海外の専門書を辞書で引きながら読む。無料のセミナーがあれば参加する。家へ帰れば、また妻の身体に触れた。
「頸椎が7本、胸椎が12本、腰椎が5本。毎日触っていたら、覚えますよね」
学びを続ける中で、セミナーの講師から声をかけられた。
「生徒としてじゃなくて、講師として入ってほしい」
平日は家業で働き、家族との時間も必要だった。空いていたのは日曜日の午前中ほどだったという。
その条件で講師を始め、17年間続けた。さらに、自らスクールも運営するようになった。妻をきっかけに始めた学びが、他の人へ教える技術になっていった。
もう一つの活動は、鉄工所の現場から生まれた。精密な金属加工では、わずかなズレで何時間もかけた部品が使えなくなる。使えない部品は「ペケ」になる。
捨てられていく部品を、スマイリーさんは残した。
「俺はずっと取っていたんですよ。40年間、倉庫に」
明確な作品の構想があったわけではない。それでも残していた。やがて、余った金属や不良品をボルトとナットでつなぎ、作品へ変えていくようになった。
メタルアートである。料理研究家、カイロプラクティック、メタルアート。スマイリーさん自身は、それぞれの経験を別の分野へ持ち込み、組み合わせてきたと話す。
「こっちのものを、こっちへ持ってきて、融合させてアウトプットする。そこは自分でも得意だと思います」
鉄工所で身につけた精密加工の感覚を身体へ触れる場面に生かす。金属加工の経験を料理器具へ持ち込む。料理で培った感覚を作品づくりに使う。三つの活動は、そうして少しずつ重なっていった。
その間も、妻の病気は進んでいた。透析を続け、再び厳しい余命を告げられた時期があった。
そこで知ったのが、臓器移植という選択肢だった。可能性は非常に低いと説明されたという。それでも移植を希望し、登録した。
一度、臓器提供の連絡を受けて、息子とともに病院へ向かった。しかし適合せず、手術には至らなかった。その後、再び連絡が入る。今度は適合した。
妻は膵臓と腎臓の同時移植を受けたという。
移植を振り返る時、スマイリーさんが強く語ったのは、提供された命への責任だった。
「そうやって延ばしてもらった命を、俺が粗末に扱えるわけないじゃないですか」
移植後も、病気との生活は続いた。
妻は視力を失い、身体の自由も少しずつ失っていく。将来、妻が歩けなくなることを考え、自宅にはスロープを設けた。自家用車も福祉車両へ替え、地域医療や介護サービスの力も借りた。晩年、妻は要介護5となった。
自宅の改修、福祉車両、地域医療、介護サービス。妻との暮らしの中で、スマイリーさん自身も医療、介護、福祉の仕組みと深く関わるようになった。同じ頃、長く積み重ねてきた活動も、より多くの人や社会へと広がっていく。

第4章|「ボランティアは枯渇する」——善意を、続く仕組みに変えていく
料理研究家としての活動は、行政、大学、企業、NPO、メディアへと広がっていった。食育や商品開発、高齢者向けの料理教室、料理を通した婚活企画、食品ロスへの取り組みなど、扱うテーマも増えていく。その中で、スマイリーさんが繰り返し考えるようになったことがある。
「ボランティアは枯渇するんですよ」
善意だけで活動を続けようとしても、時間やお金を使い続ければ、いつか続けられなくなる。
「持っている人が、持っていない人に分けるだけなら、持っている人が持たなくなった時に終わるでしょう」
そこでスマイリーさんが考えたのが、誰かのためになることと、参加する人が利益を得ることを両立させる仕組みだった。その考えが表れた一つが、九州産業大学の教授らと取り組んだ北欧文化の企画である。北欧の文化や福祉の考え方を日本へ伝える催しだったが、一度目は思うような結果にならなかったという。
次に、大学の学園祭と組み合わせ、東日本大震災への支援にもつなげた。農家や家具関係者など、実際に商売をする人にも参加を呼びかけた。
そして出展者へ伝えた。
「チャリティーだからって考えなくていい。自分の商品をちゃんと売れ」
商品が売れる。新しい人とつながる。そこから取引が生まれ、利益の一部を社会へ戻す。イベントが終わったあとにも仕事や関係が残れば、次の活動にも参加できる。
「そうやって電話が鳴るようになったら、またやろうと思うでしょう」
善意を一度きりで終わらせず、続けられる仕組みにする。会社員としてシステムに関わってきた経験も、この考え方に重なっていた。
「俺はシステムをつくっているだけ」
人と人、活動と企業、社会課題と商売をつなぎ、一つの企画が終わったあとにも次の関係が残る形を考える。2019年には、『毎月つくる、世界の料理』という点字カレンダーの料理レシピを監修した。毎月異なる国の料理を紹介し、紙面に加えて音声や動画からも料理へアクセスできる仕組みがつくられた。
「ここに何部、こっちにも何部って、家内と一緒に配りましたよ」
妻自身も視力を失っていた。
その時の妻について尋ねると、
「喜んでいましたよ」
と答えた。二人三脚だった、とも話した。妻との生活の中で考え、学んできたことが、こうした活動を通して別の人にも届けられていった。
スマイリーさんにとって、料理は食べ物をつくる技術だけに留まらない。人との出会いや学び、地域へ出るきっかけにもなる。日本サステイナブル・レストラン協会の活動にも関わり、食品ロスや食材調達、働く人の環境など、食を取り巻く課題へ視野を広げた。
「レストランって、教科書にもなるんですよ」
店で食べたものを家で再現する人がいる。食材の背景に興味を持つ人もいる。今まで捨てていた部分を料理に使えば、その方法が家庭へ伝わることもある。料理を通して、人の行動が変わる可能性がある。
40年の活動では、企画がうまくいかないことも、自分自身が動けなくなることもあったという。
「そこで腐らずに、『これは駄目だったんだな。じゃあ次はこうしよう』ってやらないと、最初のベクトルからそれるんですよね」
鉄工所で「ペケ」になった金属を残し、後に作品へ変えたように、うまくいかなかった経験も次へ使う。同じ方法に固執せず、形や関わる人を変えながら続ける。その積み重ねが、40年という時間になった。

第5章|妻がいない人生を、もう一度始める——64歳でたどり着いた「人が好き」
60歳で、スマイリーさんは長年続けた家業での仕事を終えた。日中の仕事で生活を支え、その外側で料理研究家、カイロプラクティック、メタルアートを続けてきた生活が変わる。一般社団法人スマイリージャパンで活動し、料理や身体について発信する拠点も持った。
そして2025年。妻が63歳で亡くなった。中学生で出会い、若くして結婚して以来、病気、移植、失明、介護と、生活の形を何度も変えながら共に生きてきた。
「自分なりに、やることを全部やったという感じだったんでしょうね。受け入れていたんだと思います」
妻を見送ったあと、約一年間、何も手につかなかったという。
「毎日、500ミリの缶ビールを3本開けるみたいな生活でした」
そんなスマイリーさんに、仲間が声をかけた。
「そろそろ動こうよ」
少しずつ外へ出るようになった。妻の介護を通して知った、自分が暮らす地域にも目が向いた。それまで別の地域で行政や大学と活動してきたが、妻が要介護になったことで、自宅の周囲にある医療や福祉、人のつながりを知ったという。
今度は、自分が暮らす地域で何ができるのかを考え始めた。料理教室や食品ロス、地域食堂、一人暮らしの高齢者が家から出るきっかけづくり、若い世代の出会い。これまでの経験を、身近な地域でも使おうとしている。
そして2026年の夏、妻が最後に望んで迎えた愛犬も亡くなった。妻を見送ったあとに一緒に暮らしてきた愛犬までいなくなり、家にはスマイリーさん一人が残った。一方で、仕事の相談をする人や活動を共にする仲間が、今も家を訪れる。
「毎日、人が来る。それって嬉しいですよね」
インタビューの最後、IKIGAIを尋ねた。お金も、時間も、肩書きも、一度すべて横に置いた時、何が自分を動かしているのか。少し考えて、スマイリーさんは答えた。
「IKIGAIって、やっぱり人が好きなんだな、俺もね」
人と話し、誰かと何かをつくる。自分がやってきたことを渡し、相手が喜び、そこからまた別のつながりが生まれる。その繰り返しを、スマイリーさんは続けてきた。これからについて話す時、ボートの話をした。
「ボートって、後ろを向いて漕ぐでしょう。未来は見えない。でも、今まで通ってきた景色は見える。過去を見ていれば、『これはぶれているな』とか、分かると思うんですよ」
妻が今の自分を見たら、何と言うだろう。そう尋ねると、迷いなく答えた。
「『頑張りなさい』って言ってると思いますよ。私はもう死んだから、あなたはあなたで頑張りなさいって」
64歳。次にどこへ着くのかは、本人にも分からない。それでも、これまで通ってきた景色を見ながら、スマイリーさんはまた人のいる方へ進もうとしている。

あとがき
スマイリーさんとの対話から、私は一つの問いを受け取った。
「人を愛することは、どこまで社会につながっていくのだろうか。」
スマイリーさんの人生の大きな選択を聞いていると、何度も妻との暮らしが出てきた。料理との向き合い方を変えた時も、身体について学び始めた時も、介護や福祉と深く関わるようになった時も、そこには妻がいた。
妻の身体を少しでも理解したいと学ぶ。暮らしを続けるために工夫する。介護を通して、医療や福祉、地域の人たちとつながる。その出発点にあったのは、目の前にいる大切な一人との生活だった。
そこで積み重ねた経験は、やがて妻との暮らしを越えていく。料理は食育や福祉へ広がり、食品ロスや地域活動へつながった。視覚に障がいのある人へ料理を届ける取り組みや、行政、大学、企業との活動にも形を変えていった。一人の人を大切にしたいという気持ちから始まった行動が、時間をかけて別の誰かのためにも使われていく。
私は、その広がり方が強く心に残った。スマイリーさんの歩みを見ていると、愛は「想うこと」と同時に、知ろうとし、学び、動き、続ける力にもなる。その過程で身につけた知識や経験は、自分の中だけに残るものではない。誰かへ渡した時、また別の人の生活や社会へと広がっていくことがある。
妻を見送った今、スマイリーさんは「人が好きなんだと思う」と語り、64歳からもう一度、人のいる場所へ向かおうとしている。社会のために何か大きなことをしようと考える前に、目の前の人を大切にすることから始まるものもある。
その人のために知ろうとする。自分にできることを、一つ増やしてみる。そんな行動を続けた先で、いつか自分の知らない誰かにまで届くことがある。
あなたには今、本気で大切にしたい人がいるだろうか。その人への愛から始まった一歩が、人や社会へ広がっていく。私は、スマイリーさんの人生から、そんなIKIGAIの形を受け取った。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師









