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目に見えない価値を、未来へ残す——アート×サイエンス×デザインで創る「自分らしさ」の社会実装
柳川舞 一般社団法人KANSEI Projects Committee×NEKIRIKI Production株式会社×株式会社Kansei Design Limited
感性を信じ、まだ見えない価値を形にするファイター
東京都世田谷区
目に見えない価値を、未来へ残す——アート×サイエンス×デザインで創る「自分らしさ」の社会実装
あなたは、自分の感性をどこまで信じて生きているだろうか。
十年かけて育てた会社が、ある日突然、自分の手から離れていく。ゼロから立ち上げ、地を這うように営業し、香りという目に見えない価値を企業に届け、社員を家族のように育ててきた場所だった。積み上げてきた時間も、信頼も、仕事も、一瞬で崩れていくような出来事だった。
それでも、柳川舞さんには奪われなかったものがあった。それは、自分自身だった。自分の感性であり、在り方であり、目に見えない価値を信じ続ける力だった。
一般社団法人KANSEI Projects Committee代表理事、NEKIRIKI Production株式会社代表取締役、株式会社Kansei Design Limited代表取締役。柳川さんは、アート、サイエンス、デザインの三つを一つに混ぜるのではなく、それぞれの領域で代表を務めながら、香り、音、光など、五感に働きかけるマルチセンサリーデザインを通して、目に見えない感性の価値を社会に実装してきた人である。
「私は、人が何を価値として感じるかに興味があるんです」
柳川さんは、その目に見えない問いに向き合い続けてきた。その道は、決してまっすぐではなかった。異国での結婚と離婚。就職できなかった日々。残金七万円から始めた大学院生活。心が壊れそうになった大失恋。そして、自分を生かすために立ったリング。
育てた会社を失った。信じた人に裏切られた。絶望もあった。人を傷つけるものへの激しい怒りもあった。それでも柳川さんは、ただ奪い返す道を選ばなかった。
「物質的に取られるものは、取られてもいい。でも、その人の信念や在り方は、誰にも取れない」
柳川さんは、痛みの中で、奪われなかったものへ辿り着いていく。これは、痛みも怒りも挫折も抱えながら、それでも自分の感性を閉じず、誰かが自分自身の源泉につながれる場を創ろうとする、生き方の記録である。
そして、この記録は、あなたの中に眠る、まだ名前のついていない感性にも、静かに問いを残してくれるはずだ。
第1章|魚屋と寿司屋のハーフ——信じてくれる家族がいたから、自分の人生を選べた
柳川さんの父は、下関・唐戸市場で魚の仲卸をしている。寡黙で、大柄で、元甲子園球児。多くを語る人ではない。母は、東京の寿司屋の娘として生まれた。江戸っ子で、明るく、よく話す人だ。下関で最初のネイリストとしても活動し、唐戸市場の女将さん会の会長も務めていた。
柳川さんは、自分のことをこう語る。
「私は、魚屋と寿司屋のハーフなんです。そして、自分が魚屋に生まれたことを誇りに思っているんです」

市場にいる人たちの気っぷのよさ。正直さ。人に対して開いていく感じ。その気質は、柳川さんの中にも流れている。親の愛について、柳川さんはこう話す。
「守るというより、いつも全力で応援してくれたんです。手を差し伸べすぎるわけではないけれど、絶対的に信頼してくれている感じがありました」
小学生の頃、柳川さんはバスケットボールに打ち込んでいた。県で優勝するほどのチームにいて、キャプテンも務めた。強い学校から声がかかるほどの実力もあった。柳川さんには、バスケで進路を決めていく未来が見え始めていた。
そんなある時、柳川さんはこんな言葉を受け取る。
「お前は、バスケなら日本一になれるかもしれない。でも、ほかではなれないだろう」
柳川さんは、その言葉を聞いた時、こう思った。
「私の人生を勝手に決められたら困ると思ったんです。私は、もっといろいろなことをやりたかったんです」
バスケが嫌いになったわけではない。努力してきた時間もあった。チームで勝ってきた経験もあった。自分に力があることもわかっていた。それでも、柳川さんはバスケを辞めた。その時、両親はその選択を無理に止めなかった。
「親は、私が決めたことを信じてくれていたんだと思います。何かを押しつけるのではなくて、私が選ぶことを見ていてくれた。だから、バスケを辞める時も、私の人生を私が決めることを許してくれていた感じがありました」

そんな両親の愛情を象徴するような出来事が、高校時代の三者面談で起きる。
「怖い先生に、けっこうボロクソに言われたんです。私のことを頭ごなしに批判して。でも、そこで親が先生に怒って帰っちゃったんです」
母親は、「あなたに私の娘の何がわかるんですか」と先生に言い放った。自分たちが育てた娘に、絶対的な自信を持っていた。だから柳川さんも、誰かに批判されたからといって、その言葉をすべて自分の価値として飲み込まずにいられた。
「成績が悪いとか、勉強ができないとか、良い学校に行かなければいけないとか、そういうことを言われたことは一度もなかったんです。極端に言えば、自分の名前が漢字で書ければいい、くらいの感じでした」
柳川さんは、そう笑う。けれど、何も言われなかったからこそ、自分で考えた。このままではまずい。自分で学ばなければならない。勉強は、誰かから褒められるためのものではなく、自分の人生を自分で広げるためのものになっていった。
両親が本当に大切にしていたのは、成績や肩書きではなかった。
「勉強ができるかどうかより、人様に迷惑をかけてはいけない。人を傷つけてはいけない。そこは、ずっと心の中にありました」
自分の人生は、自分で選んでいい。でも、人を意図的に傷つける生き方だけはしてはいけない。その感覚は、後の人生で柳川さんが何度も戦う時にも、決して手放さない軸になっていった。
やがて柳川さんの視線は、日本の外へ向かっていく。図書館で海外の暮らしの本を読んだ。広い家。大きな冷蔵庫。オープンな人間関係。日本の外には、まだ見たことのない暮らし方があるように見えた。
「日本の中で、平均的な人間をつくろうとしている感じが、合わなかったんです。窮屈だし、自由に生きたかった。もっと広い世界で、自分が何者なのかを試したかったんです」
誰かに決められた道を、そのまま歩くことへの違和感。バスケの道を手放した時に感じた、「私の人生を勝手に決められたら困る」という感覚。それは消えずに残っていた。
「人間の人生って、自分で切り開くものじゃないですか。私は、自分で選びたかったんです」
下関・唐戸市場で育ったこと。魚屋と寿司屋のハーフとしての誇り。バスケの道を手放したこと。そして、両親が自分を信じてくれたこと。その全部を持ったまま、柳川さんは日本の外へ出ていく。
行き先は、オーストラリア。絶対に自分を信じてくれる両親のまなざしを背中に、柳川さんはまだ見ぬ世界へ踏み出した。

第2章|結婚、離婚、残金7万円——魚屋の誇りを武器に、異国でMBAを掴む
柳川さんがオーストラリアへ渡った時、最初に抱いていた夢は、映画監督になることだった。
「何でもない人の、何でもない人生が一番素敵だと思ったんです」
柳川さんにとって、人生は誰かに用意されるものではなかった。メルボルン大学でロシア語と言語学を学び、異国で暮らし、働く。その時間の中で、自分がこの先どう生きていくのかを探していった。
オーストラリアで、柳川さんは十九歳で結婚した。そして、二十代半ばで離婚を経験する。異国で生きること。結婚すること。離婚すること。その一つひとつが、柳川さんの人生に重なっていった。
大学を卒業した後、就職は決まらなかった。言語学を学び、異国の言葉と文化に触れてきた。それでも、その学びをすぐ仕事に結びつけることは難しかった。
「良い大学を出て就職できなかったのは誤算でした。言語学を学んだことは自分にとって大切だったけれど、それだけで仕事をつくっていくのは難しい。自分の人生をちゃんと切り開いていくには、ビジネスを学ばないといけないと思いました」
誰かに道を用意してもらうのではなく、自分で次の道をつくるしかなかった。そこで柳川さんが目指したのが、シドニー大学の大学院だった。MBAを取得し、感性や言葉だけではなく、それを社会の中で動かす力を身につけようとした。
「自分が何を感じているかだけでは、社会では形にならない。価値があると思うものを届けるには、ビジネスの力が必要だと思ったんです」
問題は、お金だった。銀行口座には、七万円程度しかなかった。親に頼る選択も、柳川さんの中にはなかった。
「離婚もしていたので、親に甘えたくなかったんです。自分で選んでここまで来たから、自分でなんとかするしかなかった」
その時、柳川さんの中に浮かんできたのが、魚屋だった。柳川さんにとって、それは自分の中に確かにある武器だった。
「私は魚屋だから、魚のことはわかります。仕事は全部します。最低賃金でいいので、学費と教科書代を出してください」
柳川さんは、シドニーのフィッシュマーケットにある日系企業へ向かい、そう交渉した。契約書も自分で作った。朝から夕方まではフィッシュマーケットで働き、夜は大学院へ通う。魚屋で働き、学び、また働く。その生活を続けながら、MBAを取得していった。
「お金がないから行けない、という選択がなかったんです。自分に何があるかを考えたら、魚屋だった。だったら、それを使って道をつくればいいと思ったんです」
簡単だったわけではない。お金がなくても夢は叶う、という綺麗な話でもない。柳川さんは、足りないものを数える前に、自分が持っているものを見た。「ない」ものを見続ければ、道は閉じていく。「ある」ものを見つけた時、そこから次の一歩が生まれる。
柳川さんは、自分の中にあった魚屋の誇りを武器にした。そしてその力で、次の道を開いていった。

第3章|3分だけ、心に隙間ができた——失恋とリングが教えた、自分で勝ちを決める生き方
MBA取得後、柳川さんは日本へ戻った。そして、オーストラリア総領事館、のちにオーストラリア大使館で商務官として働くことになる。扱う領域は、ワイン、スポーツ、オーガニック、エンターテインメント、アートと幅広かった。柳川さんは、オーストラリア企業が持つ価値を見つけ、日本の企業や市場へつなげていった。
「オーストラリアで学んで、暮らして、その国の面白さも知っていたので、それを日本につなげる仕事はすごく自然だったんです。ただ物を売るというより、その背景にある価値をどう届けるかに興味がありました。ものを売るには、価値のわかるストーリーを伝えないといけないと思ったんです」
仕事では、目の前に問題があっても動けた。考え、交渉し、次の手を探すことができた。けれど、柳川さんにも、どうしても自分の力だけでは立てなくなる時があった。
大失恋だった。
「仕事はいろいろあっても、どうにかできると思えるんです。でも、自分が一緒に生きたいと思った人と生きられないとなると、なかなか生きるのが大変になるんです」
人を愛する時にも、柳川さんは加減を知らなかった。人生を共にしたいと思った人へ、持っているものをすべて差し出す。その関係が終われば、心は粉々になった。柳川さんは、当時の自分を「こっぱみじんだった」と表現する。
頭の中には、悲しみや不安や、答えの出ない問いがあふれていた。何をしていても、同じことを考えてしまう。眠っても、次の日になればまた苦しさが戻ってくる。昔から身体を動かしていた柳川さんは、何かに救いを求めるように運動を始めた。
けれど、エアロビクスでは足りなかった。もっと強く、目の前のことだけに集中しなければ、頭の中にあるものは止まらなかった。そこで始めたのが、ボクシングだった。
「三分ぐらいは集中できたんです。十二ラウンドくらいやると、汗も、鼻水も、涙も、いろいろなものが出るじゃないですか。そうすると、ちょっとだけ自分の中に隙間ができたんです。それが楽だったんですよ」
次の日になれば、また頭の中は不安や悲しみでいっぱいになった。すると柳川さんは、もう一度ジムへ向かった。
「しんどい時って、いろいろなことを心配しすぎて、頭も心もパンパンになっているんです。その中に少し隙間をつくるために、ボクシングをやっていた感じです」
柳川さんは、それを八か月続けた。そして、プロボクサーになった。自分を守るために始めたボクシングが、気づけばプロのリングへとつながっていた。
試合に出るようになると、柳川さんの中に、もう一つの思いが生まれた。もう一度、自分を信じられる自分になりたい。心が壊れる時、人は相手だけでなく、自分自身まで信じられなくなる。自分には価値がないのではないか。自分は弱い人間なのではないか。そんな思いが、心の奥へ入り込んでくる。
プロになって間もない頃、柳川さんは、世界王者とのエクスビションマッチに臨んだ。柳川さんはフェザー級。当時、日本人女性では選手の数が少ない階級だった。相手がいないため、圧倒的な実績を持つチャンピオンと向き合うことになった。
客観的な勝ち負けだけを見れば、勝てる相手ではなかった。だから柳川さんは、リングへ上がる前に、自分の中で勝利の条件を決めた。
「勝てる相手ではありませんでした。でも、一歩も後ろに下がらず、一度も目を逸らさなかったら、私の勝ちだと決めたんです」
その一戦で、柳川さんは、自分の勝ちを自分で決めるという基準を手にした。
「戦うルールは、私が決めるんです。絶対に叶わないような相手とやる時も、今の自分なら、ここまでできたら勝ちだという基準を自分でつくる。それが、自分の人生にとっての勝ちなんだと思います」
他人がつくった勝敗だけで、自分の人生を測らなくていい。何をもって前進とするのか。どこまで踏み込めたら、自分を認められるのか。柳川さんは、リングの中で、その基準を自分でつくることを覚えた。
その後、再び失恋を経験した柳川さんは、今度はキックボクシングへ向かった。三十歳でプロボクサーになり、三十三歳ではプロキックボクサーになった。タイへ渡り、ムエタイの修行にも挑んだ。
砕けるほど人を愛し、壊れるたびに、また身体を動かした。柳川さんにとって格闘技は、人を倒すためのものではなかった。心の中に隙間をつくり、自分への信頼を取り戻すものだった。
その身体感覚は、商務官として向き合っていた仕事にもつながっていく。人は、説明だけで動くのではない。頭で理解するより先に、身体が反応することがある。柳川さんが特に惹かれていったのが、アートだった。
「アートって、説明しづらいんです。何に役立つのか、どれだけ売上につながるのか、なぜ必要なのか。そう聞かれても、すぐに数字で答えられるものではないんです」
それでも、アートがある場では、人が変わった。
「場にアートが入ると、人の表情が変わるんです。会話が生まれ、笑いが起きて、知らない人同士が話し始める。みんな元気になるんです」
その姿勢を象徴するような出来事がある。オーストラリアのビキニブランドを、日本でプロモーションした時のことだ。ただ水着を並べて、「これはオーストラリアのブランドです」と紹介するだけでは、その魅力は伝わりきらない。
柳川さんが届けたかったのは、商品そのものだけではなかった。そのブランドが持つ自由さ。身体を肯定する明るさ。海の近くで生きるオーストラリアらしい開放感。そうした空気まで含めて、日本の人たちに感じてもらいたかった。
「素敵なものには、素敵だと感じられる場が必要なんです」
柳川さんが考えたのは、日本でもトップクラスのアクロバティックな技術を持つポールダンサーを呼ぶことだった。公的な機関のイベントである。周囲に戸惑いがなかったわけではない。
「大使館のイベントで、ポールダンサーを呼ぶのか」
そんな反応もあった。「大使が出席するイベントで、ビキニが外れたら首だぞ」と、冗談まじりに心配する声もあった。けれど柳川さんにとって、それは奇をてらうための演出ではなかった。
オーストラリアのビキニブランドが持つ、身体の美しさ、自由さ、開放感。その魅力を、その場で感じてもらうための方法だった。柳川さんは、なぜ身体表現が必要なのか、音楽や動きや空気まで含めた体験が、どのようにブランドの価値を伝えるのかを説明した。
最終的に、企画は実現した。イベントは大盛況になった。
「目の前で人が動いて、音楽があって、みんなが見て、笑って、話し始める。そうすると、ただの商品紹介じゃなくなるんです。その場で感じたことが、あとから人の中に残っていくんです」
その場にいた人たちは、商品名だけを覚えたわけではなかった。「あのイベント、面白かったよね」「あの空気、すごかったよね」。場で起きたことが人の記憶に残り、言葉になって広がっていった。
「記憶に残る体験は語られるんです。出来事になると、みんながあとから話す。伝説みたいになっていくんです」
素敵なものを、素敵なものとして届ける。そのためには、説明だけでは足りない。人がその場で感じ、身体が反応し、誰かに話したくなること。柳川さんは、リングでも、アートの場でも、身体で感じたものが人を動かすことを見てきた。
「アーティストが食べていけないような国はダメだと思うんです。創造性に乏しい国は、退屈だし、発展しないと思うんです」
アートにお金が流れる仕組みをつくりたい。目に見えない価値が、社会の中でちゃんと扱われるようにしたい。その問いの先で、柳川さんは香りと出会う。
「香りは見えないけれど、アロマオイルがあって、機械があって、空間に入れられる。アートとデザインの間にある感じだったんです」
二〇一一年、柳川さんは外資系の香りブランディング会社の日本法人をゼロから立ち上げる。空間に香りを入れ、人の記憶や感情に働きかける。当時、それはまだ理解されにくい領域だった。
香りにお金を払う意味。空間に香りを入れる価値。ブランド体験としての香り。柳川さんは、それを一つひとつ説明し、提案し、形にしていった。
リングで、自分の勝ちを自分で決めたように。誰もまだ価値を認めていない場所へ、自分の基準を持って踏み込んでいった。

第4章|勝つためではなく、生み出すために戦う——会社を失って変わったファイターの哲学
リングに立てば、そこには自分と相手しかいない。殴るか、殴られるか。格闘技を通して、柳川さんの中にあった恐怖の基準は変わっていった。
「リングに立ったら、二人しかいないじゃないですか。殴るか、殴られるかという場所にいたので、大企業へ一人で入っていくことは、怖くなかったんです」
柳川さんが香りという目に見えない価値を企業へ届けようとした時、相手は名の知れた大企業だった。会議室には、専門知識と経験を持つ人たちが並んでいる。実績のない新しい領域を、一人で説明しなければならない。
「本当に価値があるのか」「なぜ必要なのか」「効果を証明できるのか」。問いは次々に飛んできた。下からお願いするだけでは、対等な議論にはならない。かといって、自分の正しさを押しつけても、新しいものは生まれない。
柳川さんは、自分が大切だと思うものを真正面からぶつけた。
「私が正しいと言いたいわけではないんです。間違っている可能性は、いつも半分あると思っています。ただ、自分が大切に思っているものを本気でぶつけてみないと、向こうからも何も出てこないんです」
柳川さんにとって、議論とは相手を論破することではなかった。自分の考えを隠さずに差し出し、相手の本音を引き出すことだった。時には、大企業の担当者と、会うたびに喧嘩に近い議論を重ねた。三年にわたり、顔を合わせるたびに意見をぶつけ合った相手もいた。
「向こうも本気だから、私も本気になるんです。適当なものでいいと思っている人とは、深いところまで行けない。でも、新しいものを生み出さなきゃいけないと思っている人は、こちらが本気でぶつかると、本気でぶつかり返してくるんです」
まだ認められていない感性の価値を、大きな企業へ真正面から突きつける。それが柳川さんのファイトスタイルだった。
議論を重ねるうちに、担当者は柳川さんの理解者になっていった。
「私が外からバチバチにやったとしても、担当者はそれを理解した後、今度は社内へ戻って戦わなきゃいけないんです」
理解した担当者は、目に見えない価値へ予算をつけ、前例のない取り組みを社内で認めてもらわなければならない。最初から仲間だったわけではない。本気でぶつかり合ったからこそ、互いの覚悟が見え、リスペクトが生まれた。格闘技の試合が終わった後、敵だった相手と抱き合うように。
柳川さんは、企業の中にいるファイターたちと、目に見えない価値を形にしてきた。香りという目に見えない価値の可能性を信じ、地を這うように道をつくった。そこには、家族のような社員がいた。取引先がいた。信じて積み上げてきた関係があった。
柳川さんにとって、その会社は、自分が信じた価値を社会の中で証明していく場所だった。
会社を立ち上げて、十年目。柳川さんは、自分がつくった会社から追われる形になった。
「十年、この地を這いつくばって築き上げた会社を、一瞬にして持っていかれたんです。香りという目に見えない価値を、誰もまだわからないところから、一社一社に説明して、理解してもらって、やっと形にしてきた会社でした。社員も育ててきたし、取引先との信頼も積み上げてきた。私にとっては、ただの会社じゃなかったんです。みんなでつくってきた大切な場所だったんです」
肩書きが変わるだけなら、まだ耐えられたのかもしれない。お金の問題だけなら、別の痛み方だったのかもしれない。
「会社を取られたというより、自分の人生の一部を引き剥がされたような感覚でした。そこに仲間がいて、育ててきたものがあって、大切にしてきた価値があった。それが、自分の手から離れていく。見ていることしかできない。その感覚が、本当に苦しかったんです」
柳川さんは、それまで、目の前に障害物が現れれば向かっていった。壊れそうになれば、リングに立った。大企業に否定されれば、真正面から議論した。けれど、この時だけは違った。
契約上の関係で、そこから一年間、同じ領域で動くことができなかった。積み上げてきた経験を使って、別の形で立て直すこともできない。
「動きたくても、動けなかったんです。何かを始めることもできない。取り返すこともできない。ただ、止められている感じでした」
戦うことで、自分を取り戻し、前へ進んできた。その柳川さんから、戦う場所そのものが奪われた。会社を失い、お金も失った。けれど、柳川さんの怒りの芯は、そこではなかった。
「自分が会社を取られたことよりも、自分の社員を傷つけられることの方が嫌だったんです。人を傷つけてまで何かを得ようとする人間に、私はどうしても納得できなかったんです」
怒りは消えなかった。けれど、外へ向かって何かをすることはできなかった。
「だったら、自分の中を見るしかないと思ったんです」
柳川さんは、内省の旅に出た。そこで、自分の怒りを見た。傷つけられた悲しみを見た。相手を許せないという、自分の中にある正義も見た。
「このままだと、また同じことが起きると思ったんです」
相手が悪い。自分は被害者だ。裏切られた。奪われた。そう言い続けることはできた。実際に、そう感じるだけの出来事でもあった。けれど、その場所に留まり続けても、自分の人生は変わらない。
柳川さんが見つめたのは、相手をどう変えるかではなく、自分がどう変わるかだった。
「相手を変えるんじゃなくて、自分が変わらないといけないと思ったんです。このままの自分でいたら、また同じことが起きる。だから、自分の中を見ないといけなかったんです」
格闘技を通して、自分で勝ちの基準を決めることを覚えた。大企業との仕事では、強い相手と対等に向き合うことを覚えた。そして会社を失った後、柳川さんは「何のために戦うのか」を問い直した。
「戦って勝つことが目的になったら、何の意味もないと思ったんです。たとえ勝っても、残るものなんてない。残るものがあるとしたら、その出来事から何を学ぶかだけだと思ったんです」
それは、戦うことをやめるという意味ではなかった。柳川さんは、今もファイターである。ただ、誰かを倒すための戦いを手放した。自分の正しさを証明するための戦いを手放した。
「ファイターというのは、自分が正しいことを証明するための存在ではないんです。本当に豊かなものや、新しいものを生み出すための戦いがあるんです」
正義を握りしめ、相手を倒すことに人生を使わない。関わる人たちが、まだ見たことのない価値を生み出すために戦う。その先で、ようやく見えてきたものがある。
「物質的に取られるものは、取られてもいい。でも、その人の信念や在り方は、誰にも取れない」
会社を失ったこと。お金を失ったこと。信じていた関係が崩れたこと。人を傷つけるものへの怒り。何もできなかった一年。そして、内省の旅で見つめた、自分自身の弱さと正義。
「私の中に、自分の正義があったんだと思います。人を傷つけることは許せない。大切にしてきたものを壊されたくない。でも、その正義を握って戦い続けても、何も生まれないんです。相手を倒すことが目的になったら、自分の人生までそこに持っていかれてしまう。だから、この出来事から自分が何を学ぶのかを見ないといけないと思いました」
柳川さんが考える平和もまた、戦いが一切ない状態ではない。
「平和って、みんなが手をつないで、お花畑にいることじゃないと思うんです。ぶつかることがあったとしても、相手へのリスペクトがあって、最終的にお互いにとって良い道を探す。それが平和だと思うんです」
感性は、人によって違う。違うからこそ、意見はぶつかる。けれど、違いを消すのではなく、本気で向き合い、互いにとって新しい道を探す。勝者と敗者をつくるのではなく、まだ存在していなかった価値を生み出す。
柳川さんの戦いは、そのためのものへと変わった。傷は、なかったことにはならない。怒りも、きれいに消えるわけではない。けれど、その痛みさえも、柳川さんが人の感性に向き合うための深さになっていった。
奪われたものは、確かにあった。それでも、奪われなかったものがある。何を感じるのか。何を許せないのか。何を美しいと思うのか。どんな在り方で生きていきたいのか。
過去の挫折も、葛藤も、絶望も、そのすべてが、柳川さんに刻まれていった。

第5章|感性は、奪われなかった——資本主義の中から、商業の意味を変えていく
会社は自分の手から離れた。お金も失った。信じていた関係も崩れた。それでも、柳川さんから奪われなかったものがある。
感性だった。
何を美しいと感じるのか。何に心が動くのか。何に違和感を覚えるのか。何を許せないと思うのか。どんな在り方で生きていきたいのか。その中心までは、誰にも奪われなかった。
いま柳川さんは、アート、サイエンス、デザインの三つを軸に活動している。三つを一つの組織へまとめなかったことにも、理由がある。柳川さんが守ろうとしているのは、それぞれの領域が持つ純度である。
アートは、商品を売るためだけに存在するものではない。サイエンスもまた、企業に都合の良い結果を出すためのものではない。研究を始める時点では、良い結果が出るか、悪い結果が出るかはわからない。期待していた効果が確認できず、商売につながらない可能性もある。それでも、見えた事実をそのまま受け取らなければ、研究の意味はない。
「スポンサーからお金をもらって、そのスポンサーに都合の良い結果を出そうとしたら、研究ではなくなってしまうんです。悪い結果が出るかもしれない。その中立性を保たないと、真実には近づけないと思っています」
だから柳川さんは、研究を独立した一般社団法人で行う。そこで見えたものを、論文やレポートとして残す。価値が認められ、実際の空間や事業として届ける段階になれば、デザイン会社が形にする。
アートで人の心を動かす。サイエンスで、目に見えない反応を中立に確かめる。デザインで、社会の中に使える形として届ける。三つを分けることは、事業上の都合ではない。アートとサイエンスの純度を、商業の都合から守るための仕組みだった。
そして柳川さんは、資本主義の外へ逃れようとしているわけではない。
「社会活動家と言われることもあるんです。でも、私が変えたいのは社会というより、商業なんです。私は商売が好きだから」
利益を出すことを否定しているのではない。商品を売ることも、企業が成長することも否定していない。けれど、利益を上げることだけが目的になり、誰がどのように豊かになるのかが置き去りにされる商業には、違和感がある。
本来、商売は人を喜ばせるものだった。物を買うことで気持ちが変わる。誰かと過ごす時間が豊かになる。自分を少し好きになれる。人が人を思い、その人が何を喜び、何に困っているのかを考える。その結果として、お金が循環していく。
柳川さんが商業へ取り戻そうとしているのは、そうした人間の感覚だった。
「人が豊かになることが価値だと思うんです。企業は、お金を払って使ってくれる人が、どうしたら本当に喜ぶのかをもっと真剣に考えないといけない。商品ではなく、価値をお金に結びつけるんです」
その思想を象徴する仕事の一つが、ある大企業との喫煙空間に関する研究だった。求められたのは、喫煙者と非喫煙者が共存できる空間だった。
喫煙者が快適になれば、煙や臭いを嫌う非喫煙者が不快になる。非喫煙者を優先すれば、喫煙者は社会から追いやられたように感じる。どちらかを満足させようとすれば、もう一方が不幸になる。
柳川さんは、何度も実験計画を書き直した。考えても、考えても、両者が共存する未来が見えなかった。そこで柳川さんは、タバコというものが、もともと人間にとって何だったのかを考えた。
かつてタバコは、祈りや儀式の中で使われ、天とつながる神聖なものとして扱われた文化もある。それがなぜ、人を分断するものになったのか。答えを探すため、柳川さんはアメリカへ渡った。
現地の先住民文化に触れ、人の縄張りや儀式、異なる立場の者が共存するための境界について考えた。そこで見えてきたのは、どちらか一方の領域を快適にするだけでは、共存は生まれないということだった。必要なのは、双方が混ざり合い、互いに配慮できる中立的な場所だった。
柳川さんは、喫煙室の中ではなく、その外側を設計した。共有する通路へ植物を置き、香りや音を使う。喫煙者だけを快適にするのでもない。非喫煙者だけを守るのでもない。互いの存在を感じ、配慮しながら過ごせる体験をつくり、研究によって人の反応を確かめた。
「感性を研究するというのは、人が人を知ることなんです。どうしたらこの人は喜ぶんだろう。どうしたら違う人たちが一緒にいられるんだろう。それをどこまで真剣に考えられるか。その中に、ゼロから一があるんです」
それは、データだけを取る研究ではなかった。喫煙者を知る。非喫煙者を知る。どちらかを正しいと決めるのではなく、それぞれの感覚の中へ入っていく。人が人を理解しようとするところから、これまでになかった価値を生み出す。
それが、柳川さんの呼ぶ「感性価値」だった。
柳川さんが創ろうとしているのは、香りのある美しい空間だけではない。人が、自分の感性を取り戻せる場。自分自身の源泉につながれる場。押し殺してきたものを、もう一度感じ直せる場。そして、自分らしく生きていいのだと、身体で思い出せる社会。
「感性を開くと、その奥にあるつながりや空気感や、人の気配みたいなものが見えてくる。効率とか数字とか正解性だけで見ていると、見えなくなるものがあるんです。でも、人が本当に動くのは、そういう見えないものに触れた時なんですよね。だから私は、香りや音や光を使って、人が自分の中にある感覚をもう一度開けるような場をつくりたいんです」
柳川さんが変えようとしているのは、感情や感性が後回しにされる商業である。その商品や空間によって、人は本当に豊かになるのか。人が喜ぶとは、どういうことなのか。
柳川さんは、資本主義の外側から批判するのではなく、その内側へ入り、問い続ける。研究の純度を守りながら、商業の中で感性を価値として認めさせる。
ボランティアではなく、利益だけでもない。人の心を動かすことと、お金が正しく循環することを両立させる。簡単な挑戦ではない。それでも柳川さんは、資本主義の中へ感性という異物を差し込み続ける。
では、柳川さんにとってのIKIGAIとは何か。
「人が自分自身の源泉につながって、心から笑ったり、解放されてキラキラして、喜びを感じながら自分自身を表現していくこと。そういう場を見るのが、私のIKIGAIです」
アートも、サイエンスも、デザインも。香りも、音も、光も、空間も。大企業との議論も、純度を守るための仕組みも。すべては、その瞬間のためにある。
人が自分自身に戻る。本当は感じていたものを思い出す。押し殺していたものが、ふっと息を吹き返す。その人の表情が変わり、心から笑い、自分の中にある力が再び動き始める。
会社は奪われた。けれど、感性は奪われなかった。
柳川さんは、その奪われなかった感性を使って、誰もが自分自身の源泉につながる場を創ろうとしている。目に見えない価値を、社会に残る仕組みへ変えていく。
勝つためではない。誰かを倒すためでもない。関わる人たちが、まだ見たことのない豊かさを生み出すために。
柳川さんは今も、自分の決めたルールで、意味のある戦いを続けている。
未来のために。

とびっきり明るいお母さまとの2ショット
あとがき
柳川さんの話を聞きながら、私はずっと考えていた。形のないものを信じるとは、どういうことなのだろうか。
柳川さんは、目に見えない力を信じてきた人だった。そして、信じるだけで終わらせなかった。アートで人の心を動かし、サイエンスで見えない反応を見つめ、デザインで社会に実装していく。感性という目に見えないものを、次の時代へ残る仕組みに変えようとしている。
私はそこに、目に見えないものを未来へ残す覚悟を見た。
感じるだけでは、消えていく。美しいと思ったものも、心が動いた瞬間も、誰かの中に生まれた小さな火も、社会に示されなければ、その人の中だけで終わってしまう。だから言葉にする。だから形にする。だから仕組みにする。
まだ誰も信じていないものを社会に差し出すには、ものすごいパワーがいる。正解がない場所へ進むには、孤独もある。説明しても伝わらないものを伝え続けるには、狂気に近い情熱がいる。
だからこそ、柳川さんの言葉が胸に残っている。
「答えがないなら、その人のエネルギーを信じるしかない」
答えがある世界なら、誰でも進める。道がある場所なら、誰でも歩ける。けれど、まだ道がない場所へ進む時、人が最後に信じるものは、その人の中にある熱なのだと思う。
柳川さんは、勝てるはずのない相手を前に、自分の勝ちを自分で決めた。一歩も下がらないこと。一度も目を逸らさないこと。他人が決めた勝敗ではなく、自分が何を守れたのかを、自分の基準にした。
誰かがつくったルールだけで、自分の人生を測る必要はないのかもしれない。自分が何を信じ、何を守り、何を未来に残したいのか。その基準を自分の中に持つことが、自分の人生を生きるということなのかもしれない。
あなたの中にも、誰にも説明できないけれど、確かに感じているものがあるはずだ。なぜか惹かれるもの。どうしても許せないもの。美しいと感じるもの。守りたいと思うもの。
まだ言葉にならないその反応の中に、あなた自身の真実が眠っているのかもしれない。
あなたは、何を信じて生きていきたいだろうか。
その問いの先に、あなた自身のIKIGAIの入口があるのかもしれない。
この物語が、あなたの感性の扉をそっと開きますように。そして、あなた自身の真実へ向かう道が、少しでも明るくなりますように。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師