逃げる人生を、ここで終わらせる——臆病だった男が、家族の生業をつくるまで

木村洋平 木村財博株式会社

逃げる人生を終え、家族の生業をつくる経営者

福岡県福岡市

逃げる人生を、ここで終わらせる——臆病だった男が、家族の生業をつくるまで

あなたは、失敗することが怖くて、本気になる前に逃げたことがあるだろうか。

努力しても、結果が出ないかもしれない。
勇気を出しても、笑われるかもしれない。
積み重ねたものが、すべて無駄になるかもしれない。

その痛みを味わうくらいなら、最初から挑戦しないほうがいい。「本気を出していないだけだ」と言える場所にとどまっていたほうが、自分を守れる。

木村洋平さんも、長い間そうやって生きてきた。

福岡県嘉麻市で育ち、勉強にも運動にも自信を持てなかった。努力して報われなかったとき、自分の価値まで否定されることが怖かった。だから、何かに本気で取り組むことを避け、臆病な自分を隠すために強がった。

高校卒業後はトヨタ関連企業に就職し、自動車の鈑金に約20年間携わった。二交代勤務を続け、妻と3人の子どもを支えながら懸命に働いた。

安定した収入があった。家族がいた。会社に残れば、その先の人生もある程度は見えていた。

それでも、心の中から消えない問いがあった。

「このまま、自分の人生を終えていいのだろうか」

現在、の代表取締役として、博多駅近くで本わらび餅専門店「はか多笑毘」を営む木村さん。保存料や着色料を使わず、店で手づくりした本わらび餅を、自ら店頭に立って届けている。

職人として育ったわけではない。
和菓子業界での経験もなかった。
経営について、十分な知識があったわけでもない。

それでも40歳を前に、長く勤めた会社を離れ、事業を引き継いだ。

怖さはあった。

経営者になった今も、不安は消えていない。孤独を感じる日もある。製造、接客、集客、資金繰り。華やかな理想だけでは越えられない現実が、毎日押し寄せる。

それでも、もう逃げるだけの人生には戻りたくなかった。

木村さんが大切にしている言葉は「独立自尊」だ。

自らの力で立ち、自分を尊び、努力によって人生を切り開く。
その姿を、何よりも家族に見せたいと願っている。

これは、弱い自分を隠してきた一人の男が、逃げる人生を終わらせ、
家族に残せる生業をつくろうとする物語である。

第1章|弱い自分を見たくなかった——臆病さを強がりで隠した少年時代

木村さんは、福岡県嘉麻市で育った。

父と母、一つ上の姉との4人家族。幼い頃は自由に過ごしていたが、成長するにつれて、家族の関係は少しずつ難しくなっていったという。

両親は厳しく、木村さんは家の中でも親の顔色をうかがっていた。

「親にもびびっていました。いつもコソコソしていたような気がします」

勉強が得意だったわけではない。
運動ができたわけでもない。
夢中になって続けているものもなかった。

本人の言葉を借りれば、「特徴のない、普通の子」だった。

ただ、自分には何もないという感覚を心のどこかで恐れていた。

「今振り返ると、私はずっと逃げていたんだと思います。勉強ができるわけでも、運動ができるわけでもない。自分でも、できないことは分かっているんです。でも、そこを見ないようにしていました。努力して報われなかったら、『自分は本当にできない人間なんだ』と認めるしかなくなるじゃないですか。それが怖かった。失敗して落ち込むくらいなら、最初からやらない。逃げていたほうが、自分を否定しなくて済むから楽だったんですよね。本当は臆病なのに、それを隠すために強がっていたんだと思います」

中学生になると、その強がりは行動にも表れるようになった。
反抗的になり、問題行動も重なった。

弱いと思われたくなかった。
怖がっている自分を見られたくなかった。
何もできない自分を認めたくなかった。

だから、先に強いふりをした。

高校は、就職にも進学にも対応する総合学科へ進んだ。しかし、家庭からは「大学には行かせられない」と伝えられていた。木村さん自身も、早く働いてお金を稼ぎたいと考え、卒業後は就職する道を選んだ。

トヨタ関連企業の工場に入り、自動車の鈑金に携わる。

そこから約20年。

用意された場所で働き、求められた仕事をこなし、給料を受け取る日々が始まった。

だが、その人生の中で最初の変化が生まれる。

本当に強くなりたい。

弱い自分を隠すのではなく、今度こそ正面から向き合いたい。

その思いが、木村さんを格闘技の世界へ向かわせた。

第2章|殴られても、死にはしない——格闘技で知った「逃げずに立つ」という感覚

21歳の頃、木村さんはキックボクシングを始めた。

格闘技の世界では、強がりは通用しない。

リングに立てば、相手の拳も蹴りも実際に飛んでくる。怖がっていることも、技術が足りないことも、身体を通して突きつけられる。

木村さんは何度も打たれた。痛い思いをし、ボコボコにされながら、それでも練習を続けた。

「それまでは、本当は弱いのに、ずっと強がっていたんです。でも、強がっているだけでは何も変わらない。本当に強くなりたいと思って、キックボクシングを始めました。当然、最初はボコボコにされます。怖いし、痛いし、思うように動けない。でも、何度も殴られているうちに、『これだけボコボコにされても、死にはしないんだ』と分かったんです。そこで一つ、吹っ切れました。怖いから逃げるのではなく、怖くても向き合えばいい。技を覚え、練習して、少しずつ戦えるようになると、自信もついてきました。あの経験で、逃げずに戦うという感覚を初めて知った気がします」

恐怖そのものが、完全に消えたわけではない。

拳が飛んでくれば怖い。負ければ悔しい。思うように身体が動かない日もある。

それでも、怖さを抱えたまま、その場に立ち続けることはできる。

強いふりをするのではなく、自分の弱さを認めたうえで、強くなるために努力する。少年時代にはできなかったことを、木村さんは格闘技を通して初めて経験した。

21歳頃、木村さんは結婚し、家庭を持った。

やがて3人の子どもに恵まれ、家族を支える立場になる。

工場での勤務は、昼と夜を繰り返す二交代制だった。身体への負担は小さくなかったが、与えられた仕事を懸命に続けた。

当時の木村さんには、会社で働き続けることが正しい道に見えていたという。

今のように、インターネットを開けば、転職や独立、事業承継といった情報がいくらでも手に入る時代ではなかった。身近に経営者がいたわけでも、自分で商売を始めた友人がいたわけでもない。

働くとは、会社に入り、そこで一生懸命に役割を果たすことだった。

給料も安定していた。若くして家庭を持った木村さんにとって、その環境は家族を守るための大切な基盤でもあった。

だからこそ、簡単には手放せなかった。

30歳を迎える頃から、木村さんは少しずつ外の世界を意識するようになる。

目の前の仕事が嫌いだったわけではない。会社がすべて悪かったわけでもない。

それでも、同じ一日を繰り返す中で、胸の奥に違和感が残った。

「給料はよかったんです。でも、何か楽しくないというか。一生これをしていくのかな、と考えるようになりました」

工場で身につけた技術は、その現場では必要とされる。

しかし、会社という場所を一歩出たとき、自分には何が残るのだろうか。

自分の名前で仕事を得られるわけではない。
商品をつくり、自分の力で売る方法も知らない。
どこに行っても生きていける技術を持っているという実感もない。

格闘技を通して、逃げずに立つ感覚は覚えた。

けれど、自分の人生を自分で決めることは、まだできていなかった。

家族を守らなければならない。
安定した収入を失うわけにはいかない。
未経験の世界で何ができるかも分からない。

進みたい気持ちと、動けない現実。

その間で、木村さんは長い時間、足掻き続けることになる。

第3章|見えてしまった未来——尊敬する上司を失い、「自分の生業」を求めた日々

工場には、木村さんが心から尊敬する上司がいた。

仕事中は厳しく、目標に対して一切の妥協を許さない。一方で、仕事を離れれば、驚くほど優しかった。

ただ指示するのではなく、達成すべき目標と、そこへ向かうための道筋を示す。その人が「こうしよう」と言えば、周囲が自然とついていくような力があった。

しかし、その上司が脳梗塞で倒れた。

命は取り留めたものの、左半身に麻痺が残り、退職を余儀なくされた。

目指していた背中が、職場からいなくなった。

「その人は、8割くらい厳しい人でした。でも、ただ厳しいだけではなくて、目標を達成するために何をすればいいのか、きちんとプロセスを示してくれるんです。その人が『こうしよう』と言えば、みんながついていく。仕事を離れたら、本当に優しかった。人として格好よくて、自分もこうなりたいと思っていました。でも、その人が脳梗塞で倒れて、左半身に麻痺が残り、会社を辞めることになった。自分が目指していた人が、突然いなくなったんです。そこから、ここに残った先の自分を考えるようになりました。10年後、20年後の先輩を見れば、自分がどこに行くのかも想像できる。尊敬する人もいなくなり、このままここにいても、自分の先のビジョンが見えない。それが大きかったですね」

木村さんは、自分より10年、20年先を歩く先輩たちの姿に、将来の自分を重ねるようになった。

このまま勤め続ければ、どのような役割に就くのか。
60歳を迎えた後、どのように会社で過ごすのか。
何を支えに働き続けることになるのか。

それが、ある程度想像できてしまった。

定年を迎え、役職を離れた後も、再雇用で会社に残る。仕事に大きな意味を見いだせないまま、ただ時間が過ぎるのを待つ。

それも一つの働き方である。

しかし、その場所にいる自分を想像したとき、木村さんは耐えがたいものを感じた。 

「辞めたい」

でも、やりたいこともない。

すでに妻と3人の子どもがいた。これから教育費も生活費もかかる。自分一人の人生であれば、失敗しても自分が苦しめばいい。だが、木村さんの選択には、家族の暮らしがかかっていた。

悶々とする生活を続けていく中で、木村さんは、一つ上の姉を病で亡くした。

姉は肺がんを患い、全身へ転移した。3年間の闘病の末、亡くなった。

人は、いつまでも生きられるわけではない。

今ある日常も、家族と過ごせる時間も、決して当たり前ではない。その事実を、木村さんは家族の死から受け取った。

38歳頃、京都の鈴虫寺を訪れた木村さんは、幸福地蔵の前で願った。

「自分の仕事が欲しい」
「自分の生業が欲しい」

「工場で働きながら、ずっと頭の中では『どうにかしたい』と考えていました。でも、毎日は決まった動きの繰り返しです。自分には生業がない。今持っている技術も、その会社、その場所だから発揮できるものであって、外の世界で通用するものではないと感じていました。鈴虫寺へ行ったとき、お地蔵さんに『自分の仕事が欲しいです。自分の生業が欲しいです』とお願いしたんです。それくらい、ずっと探していたんですよね。自分の力で立てるものが欲しかったんだと思います」

それから1年もたたないうちに、知人を通じて話が届いた。

博多駅近くにある、わらび餅店を引き継がないか。

木村さんが求め続けてきた「自分の仕事」が、突然、具体的な形を持って目の前に現れた。

第4章|怖いまま、会社を辞めた——未経験で引き受けた博多のわらび餅店

話を聞いた木村さんは、前のオーナーと会うことになった。

木村さん自身には和菓子事業の経験がなかったが、店には働いている人がいて、受け継ぐべき商品と設備もあった。

最初に店を見たとき、「自分にもできるかもしれない」と感じたという。

前のオーナーは体調を崩しており、その後、亡くなった。

誰かが引き継がなければ、事業そのものがなくなってしまう可能性があった。

しかし、木村さんを動かしたのは、失われる事業への惜しさだけではない。

博多という土地で、和菓子を届けることに大きな可能性を感じた。

博多駅には、国内外から多くの人が訪れる。仕事で来る人、旅行で来る人、日本文化に触れるため海外から来る人もいる。

その場所から、博多の新しい土産として、わらび餅を届けられるかもしれない。

一方、事業を引き継ぐには、相応の資金が必要だった。

長年勤めた会社を辞め、安定した給与を手放さなければならない。和菓子づくりも、店舗経営も未経験。家族には、これからさらにお金がかかる。

条件だけを並べれば、挑戦しない理由はいくらでもあった。

木村さんは、妻に相談した。

30代に入ってから、「このままでいいのだろうか」と何度も口にしていた。外の世界が気になることも、自分の仕事を持ちたいことも、妻は長くそばで聞いてきた。

「子どもが3人いて、これから一番お金がかかる時期でした。会社に残れば給料も安定しているし、生活も守れる。でも、先輩たちを見れば、この先の自分が想像できてしまう。60歳で定年を迎え、そこから5年間、役職もなく、何の意味も見いだせないまま会社にいる。そうなった自分を想像したときに、めちゃくちゃ嫌だったんです。妻には、会社を辞めたい、自分の仕事を持ちたいと、ずっと話していました。事業を引き継ぐ話が来たとき、妻が『そこまで言うなら、やってみればいいんじゃない。人生は一回なんだから、自分がやりたいことをやってみたらいい』と言ってくれたんです。もちろん怖かったです。でも、今は40代で、まだ元気で健康です。ここで挑戦しなかったら、後で絶対に後悔する。人生は一回だから、一度は自分の力でやってみたいと思いました」

木村さんは、約20年間勤めた会社を辞め、事業を引き継いだ。

恐怖を克服してから決断したわけではない。

怖いまま、踏み出した。

しかし、決断した瞬間に物語が美しく完成したわけではなかった。
むしろ、本当の苦しさは、経営者になってから始まった。

売上が足りなければ、自分の責任になる。
集客ができなければ、自分で方法を考える。
何かを決めるとき、最後に判断するのも自分である。

「本を読んでいると、『経営者は孤独だ』『経営者は不安だ』と書いてあるじゃないですか。会社員の頃は、そんなことはないだろうと思っていました。でも、実際にやってみると、本当に孤独だし、不安だし、怖い。気持ちがすごく上がることはなくて、ずっとローテンションのまま、地道にやらなければいけないことをやっている感じです。ただ、今は情報がなかったという言い訳はできません。調べれば、情報はいくらでもある。その情報を取りに行き、やるべきことを一つずつやる。その先で、どんな結果が出るのか。まだ分かりませんが、今はそれを続けるしかないと思っています」

事業を引き継いだからといって、すべてが順調に進んでいるわけではない。

現在は、アルバイト2人と、妻の力を借りながら店を運営している。

木村さん自身も製造に入り、接客をし、店頭に立つ。利益は決して厚くなく、つくれる数にも限りがある。情報があふれる時代だからこそ、届けたい人に店の存在を知ってもらうことも簡単ではない。

それでも、目の前の仕事を続けている。

怖さを消すのではなく、必要な情報を集め、やるべきことを一つずつ積み重ねる。

格闘技を始めた頃と同じだった。

殴られない場所へ逃げるのではない。
怖くても、その場に立つ。
できないことを認め、できるようになるまで続ける。

今、木村さんが向き合っている相手は、逃げたくなる自分自身である。

第5章|木村家のパイオニアになる——博多の街から、世界へ届けたいもの

木村さんが見据えている未来がある。

「世界に届ける、博多の地から」

その言葉は、自分たちの生業を未来へつないでいくために掲げた、折れない旗でもある。

現在、木村さんが営む「はか多笑毘」では、保存料や着色料を使わず、手づくりした本わらび餅を提供している。

大きな未来を見据えながらも、まず向き合うのは目の前の店だ。経営を安定させ、地元の人に愛される場所へ育てていくことから、その挑戦は始まっている。

自ら店頭に立ち、訪れた人に食べてもらう。「おいしかった」と感じた人が、家族や友人、仕事先への土産として手に取ってくれる。

その積み重ねから、地元で愛される店にしていきたいと考えている。

そして、いつか博多駅や福岡空港で、「博多の土産といえば、このわらび餅」と認識される存在になる。その先には、海外も見据えている。

その始まりはいつも店頭にある。

自分でわらび餅をつくる。
店を開ける。
訪れた人に声をかける。
商品を手渡す。
また来たいと思ってもらう。

世界へ向かう道も、その一つひとつの先にしかない。

木村さんが、ここまで頑張る理由は何なのか。

IKIGAIを尋ねると、返ってきた答えは、事業でも、わらび餅でも、世界進出でもなかった。

「家族ですね」

現在、木村さんは妻、3人の子ども、妻の母と暮らしている。

「私のIKIGAIは、やっぱり家族ですね。今は自分が家族の長として、妻と子ども3人、それから妻の母と一緒に暮らしています。家族がいなかったら、ここまで頑張らなくてもいいと思うんです。先祖のうち、誰か一人でも欠けていたら、私はいなかったわけです。だから、感謝があります。両親とのことは、これから自分が向き合っていかなければならない課題だと思っています。そのうえで、今の家族を大切にしたい」

家族がいるから、働く理由が生まれる。
守る人がいるから、簡単に諦めるわけにはいかない。

だからこそ、自分の代から、家族に違う背中を残したい。

木村さんの頭には、今も尊敬する上司の姿がある。

仕事には厳しい。
しかし、人には優しい。
進むべき方向を示し、周囲を引っ張っていく。

かつて誰かの背中に憧れた木村さんは、今度は自分が、子どもたちに背中を見せる側になった。

「10年後は、まず店の経営をきちんと安定させたいです。そのうえで、自分が木村家の中心となり、家族から尊敬されるような人になりたい。新しい道を切り開く、木村家のパイオニアですね。自分たちの生業を持ち、それで家族が食べていけるようにしたい。昔、工場にいた上司のように、仕事には厳しいけれど、人には優しい。進む道を示し、背中で歴史を語れるような、格好いい大人になりたいんです。自分がどう生きたのかを、言葉ではなく、背中で家族に残せる人になりたいですね」

怖くても逃げなかったこと。
安定を手放して挑戦したこと。
苦しいときにも店を開け続けたこと。
家族のために、自分たちの生業をつくろうとしたこと。

その生き方を、次の世代へ残そうとしている。

独立自尊。

木村さんは、福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉に惹かれてきた。

最初は、人は誰もが平等であるという言葉として受け取っていた。しかし学ぶうちに、その奥に、自ら学び、努力し、自分の力で立つという意味を見いだした。

人は、生まれたときから何もかも同じではない。

持っている環境も、能力も、与えられる機会も違う。

だからこそ、与えられなかったものを嘆くだけではなく、自分の足で立つために努力する。

木村さんにとって「独立自尊」は、完成された人間が掲げる立派な理念ではない。

臆病で、逃げて、強がってきた自分を知っているからこそ、今日も立ち返るための言葉である。

木村さんの挑戦は始まったばかりだ。

店の経営は安定の途中にある。
博多土産として定着したわけでもない。
世界へ届く道筋が、すべて見えているわけでもない。

それでも、もう自分の人生から目をそらしてはいない。

博多の小さな店に立ち、自らの手でわらび餅をつくり、一人ひとりに手渡していく。

その一つひとつが、木村家の新しい歴史になっていく。

あとがき

木村さんの話を聞きながら、私は自分がボクシングをしていた頃のことを思い出していた。

リングに上がる前、怖さが完全になくなることはない。どれほど練習を重ねても、拳が飛んでくる怖さも、負ける怖さも残っている。

それでも、リングへ上がる。

木村さんも、何も怖くなかったから会社を辞めたわけではない。

約20年間勤めた会社を離れ、未経験の和菓子事業を引き継ぐ。そこには妻と3人の子どもの暮らしもかかっていた。

進みたい。
でも、家族を守らなければならない。
挑戦したい。
でも、失敗するかもしれない。

その間で揺れながら、木村さんは自分の足で一歩を踏み出した。経営者になった今も、不安や孤独が消えたわけではない。それでも、博多の小さな店に立ち、わらび餅をつくり続けている。

その葛藤こそ、美しいと私は感じている。

守るべきものがありながら、自分のため、家族のため、そして未来のためにもがきながら進んでいく姿。葛藤があるからこそ、受け継がれてきた生業や日本の大切なものは、次の世代へ残っていく。

そして、この葛藤こそが人間らしさであり、人の心を動かす力なのだと思う。

迷いも怖さも抱えたまま、それでも家族の先頭に立ち、自分たちの道を切り開いていく。
その姿を、言葉ではなく背中で次の世代へ渡していく。

 

あなたは今、何を守り、どんな未来へ進もうとしているだろうか。
迷いながら選ぶその一歩も、いつか誰かの心を動かし、次の世代へ渡すメッセージになるのかもしれない。 

IKIGAIコネクター
尾﨑弘師

 

はか多笑毘ウェブサイト

 

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