諦めることを諦めた男——地元に希望を取り戻す、生業からはじまる街づくり

株式会社toitoitoi 大島徹也

地域に希望を取り戻す、長崎の共創プロデューサー

長崎県長崎市

諦めることを諦めた男——地元に希望を取り戻す、生業からはじまる街づくり

 

あなたは、失敗しても終わりではないと信じられる場所を、持っているだろうか。

挑戦しようとすると、笑われる。
うまくいかなければ、「だから言ったのに」と言われる。
新しいことを始める人より、何もしない人の方が傷つかずに済む。
そんな空気の中で、人はいつの間にか、挑戦する前に諦めることを覚えてしまう。

株式会社toitoitoi代表取締役・大島徹也さんは、長崎市茂木町を拠点に、NAGASAKI HOUSEぶらぶら、月と海、Mogi Noteなどを運営し、宿泊、飲食、地域拠点づくり、企業研修、外部人材との共創に取り組んでいる。

大島さんが見つめているのは、地域に残る小さな飲食店、カフェ、農家、漁師、旅館、個人店。一人ひとりの「やりたい」を形にする生業だ。

「観光の“光”とは、一人ひとりの生業だと思っています」

二十歳のとき、父を海難事故で亡くした。大阪の不動産会社では自分の力不足に苦しみ、退職後はピースボートで世界を旅した。長崎へ戻ってからは、大学職員として働きながら人に会い続け、やがて師匠との出会いを通じて、観光地ではなかった茂木で宿を始める。

周囲の多くは「失敗する」と言った。最初の数年は黒字にならず、コロナ禍では「地獄を見た」と語るほど追い込まれた。

それでも、大島さんは言う。

「諦めることを諦めたんです」

大島さんが取り戻そうとしているのは、失敗した人がもう一度立ち上がれる空気であり、挑戦する人を孤独にしない地域のつながりである。

続けるためには、仲間がいる。
支え合えるチームがいる。
苦しいときに「それでも一緒にやろう」と言ってくれる人がいる。

大島さんは、宿をつくり、場をつくり、人と人をつなぎながら、その仕組みを長崎の地元にもう一度根づかせようとしている。

これは、諦めることを諦めた男が、地元に希望を取り戻すための物語だ。
そして、諦める理由をなくす挑戦者への、はっきりとしたエールである。

 

第1章|「人はいつ死ぬかわからない」——父の死が教えた、今を生き切る覚悟

大島さんは、長崎県南島原市口之津町で育った。

父は外航船の船乗りだった。半年ほど船に乗り、三か月ほど陸にいる。そんな生活だったという。

海があり、家族があり、地域があった。
大島さんは、田舎の暮らしの中で、自由に育った。

その一方で、早くから外の世界への関心もあった。

中学時代、塾の先生が大島さんに広い世界を見せてくれた。先生は自分の娘を海外留学させたり、海外に触れる機会をつくったりしていた。大島さんは、その姿を通じて、自分の暮らす場所の外にある世界を感じた。

「いろんな世界を見させてもらって、考えるきっかけをくれたんじゃないかなと思います」

外の世界に触れるほど、地元で暮らすことへの問いも生まれていった。

学校という場所には、強い違和感もあった。
数学の先生は数学を教える。授業は進む。偏差値があり、進学があり、いい大学に行き、就職し、幸せになるという空気がある。大島さんは、その流れにどこか納得できなかった。

「数学のことは一生懸命なんだけど、人生のことは何にも分かっていないよなと思ったんです。そういう人が、自分の人生を決めるようで、すごく気持ち悪かった」

単なる反発ではなかった。

本当に人が幸せに生きるために、何を学ぶべきなのか。
田舎で暮らす人たちは、これからどう生きていくのか。
偏差値や進学だけで、人の人生を測っていいのか。
その問いが、まだ言葉にならない形で、大島さんの中にあった。

やがて、大島さんは地元の高校を卒業し、長崎大学へ進学する。
そして二十歳のとき、人生の土台を揺るがす出来事が起きる。
父が海難事故で行方不明になった。

第一報を聞いたときの記憶を、大島さんはあまり覚えていないという。
「茫然としていたと思います。あんまり記憶がないですね」

父の死を、すぐに受け止められたわけではなかった。遺体が見つからなかったこともあり、五、六年は、どこかに流れ着いて生きているのではないかと思っていた。
時間が経って、社会に出てから、父の姿が違って見え始めた。

若い頃は、少しうるさい父だった。揉めることもあった。家族の中で、日常の一部として父を見ていた。

しかし、自分が働くようになって、父が四十年近く船の上で家族のために働いていた重みが分かってきた。

「ずっと船の上で、家族のためにどういう感情で仕事をしていたのかは聞いたことがないので分からないです。でも、大変なこともあったと思うんですよね」

父と男同士で酒を飲む時間もなかった。
父のありがたみを、直接感じる時間も少なかった。
その後悔も残った。

一方で、父は船員保険や保障を家族に残していた。家族が路頭に迷わないように、必要なものを残して旅立った。

大島さんは、そのことを通じて、父から受け取ったものを考えるようになる。

「父が残してくれた意志を引き継いで、自分ができることを社会に還元していこうと思ったんです」

そして、もうひとつの感覚が残った。

「人はいつ死ぬかわからない。だから、自分の短い人生を全うしようと思いました」

人はいつか死ぬ。
だからこそ、先延ばしにしない。
だからこそ、違和感を放置しない。
だからこそ、自分の人生を納得して生きる。

大島さんの地域への挑戦には、父の死から受け取った、今を生き切るという感覚が流れている。

 

第2章|自分の小ささを知った旅——大阪での挫折と、世界で見た信念の人たち

大学卒業後、大島さんは大阪の不動産会社に就職した。

もっと学びたい。
一度、長崎の外に出てみたい。
そんな思いもあり、全国転勤のある会社を選んだ。

その会社には、三年で卒業していくような起業家精神を持った人たちが集まっていた。大島さんはその空気に惹かれ、ここで修行しようと思った。

入社の経緯にも、大島さんらしい行動力がある。九州大学の企業説明会に潜り込み、人事担当者と仲良くなり、入社につなげたという。

しかし、社会に出てからの日々は、思い描いていたものとは違っていた。

 

配属先は大阪。
仕事も遊びも本気の文化があった。
夜中三時まで先輩と飲み、翌日も仕事に向かう。
自分の能力不足も突きつけられた。
「自分の思っていた社会人生活ではなかったですね」

大島さんは、二十代前半から二十五歳頃までを、人生で辛かった時期だったと振り返る。

若い頃は、自分ならできるという根拠のない自信がある。けれど、社会に出ると、できないことが次々に見えてくる。思ったように動けない。成果が出ない。周りの勢いにも飲まれる。
大島さんもまた、その現実の中でもがいていた。

「今思えば、できるわけないんですけど、当時は自分の出来なさ具合に苦しむというか、悩んでいました」

リーマンショックが起き、会社は事業の見直しに入った。人員削減の流れが生まれ、早期退職者を募集することになる。

大島さんは「今だ」と感じ、会社を離れ、違うステージに進もうと思った。

その頃、大阪の街を歩いていて、ピースボート世界一周のポスターを見つける。

ちょうど悩んでいた時期だった。
「アフリカに行きたいなと思ったんです。完全に自分探しでした」

ピースボートの旅は約百日。船で世界を巡った。
そこで出会ったのは、常識を壊してくれる人たちだった。

発展途上国など、日本よりもインフラの整っていない場所で、自分の信念ひとつで道を切り開いている人。
何にも縛られずにただ旅を続ける人。

「自分ってちっちゃいなって気づいたんです」

日本には
電気がある。
水道がある。
ガスがある。
食べるものがある。
帰る家がある。
「日本人はもう幸せじゃないかと。仕事でうまくいかなくてへこんでいる場合じゃないと思ったんです」

そのとき、大島さんの中に、長崎で地域のためにできることをしたいという思いが生まれた。

長崎を出た。
大阪で挫折した。
世界を見た。
信念を持って動く人たちに出会った。

外を見たからこそ、自分の足元が見えてきた。
地元という場所が、ただ帰る場所ではなく、自分が何かを始める場所に変わっていった。

長崎へ戻る理由は、きれいなものばかりではなかった。

旅を続けるお金が尽き、母から「帰ってこい」と言われた。大島さん自身も、戻らなければならない感覚があった。

「よく言えば背中を押された。リアルに言うと、もうそういう選択肢しかなかったというところです」

長崎でチャレンジするには、人も金もない。だから、まずはいろいろな人に会おうとした。生活もしなければならない。行政書士や法律系資格の勉強をし、公務員試験も軽い気持ちで受けた。

その中で、大学職員の試験に合格する。

ただ、中に入ったからこそ見えたものがあった。
「公務員が嫌いというより、制度が良くないと思ったんです。決まるのが遅い。進むのが遅い。変わらない」

中の人には良い人も多い。けれど、制度が動きを鈍らせる。やる気のある若手から辞めていく。次の行き場がない人たちが残る。そんな現実も見た。

この経験は、後に政治への思いにつながっていく。

大島さんは、地域に危機感を持っている。
危機感を口にする人はいる。
文句を言う人もいる。
政治が何もしてくれないと語る人もいる。

でも、実際にリスクを取って動く人は多くない。

「政治は仕組みを作る場所であり、町を作っているのは、暮らしている一人ひとりですよね」

町は誰かが変えてくれるものではない。
そこに暮らす人が、自分ごととして関わるもの。
政治は、そのための仕組みをつくるもの。

大阪での挫折も、世界での旅も、長崎大学職員として見た制度の現実も、すべてが大島さんの中でつながっていった。

第3章|観光地ではない町で、宿を始めた——師匠との出会いと、99%に笑われた挑戦

長崎大学職員として働きながら、大島さんは人に会い続けた。

その中で、一人の師匠と出会う。早期退職をして、私財をかけて村づくりをしている人だった。地域で何かをつくり、自分の手で場を育てている人だった。

大島さんは、その方に、自分が考えている街づくりの話をした。

今ある不動産を活かす。地域の良さをそのまま残していく。古い建物をうまく使い、個人店が輝き、町並みに価値が生まれていく。個人の個性が町に魅力をつくる。そんな街づくりができたらいい。

すると、その経営者は言った。
「俺もそれをやりたい。大島君やってみないか」
二十九歳のときだった。

大島さんは、大学職員を辞める。
そして、茂木で宿を始める道へ進む。
NAGASAKI HOUSEぶらぶら。
のちに大島さんの活動の中心となる宿だ。

ただ、始めた場所は観光地ではなかった。
観光地で宿をつくるなら、すでに人の流れがある。
そこにどう選んでもらうかを考えればいい。
しかし、観光客がほとんどいない場所では、まず人を呼び込むところから始めなければならない。
大島さんは、その難しさを分かっていた。
周囲の反応も厳しかった。
「知り合いの99%から、失敗するぞと言われていました」

観光地ではない場所で宿を始める。
人の流れがない場所に、人を呼ぶ。
地域にまだ見えていない価値を、外の人にも伝えていく。
それは簡単な挑戦ではなかった。

実際、最初の四、五年は黒字にならなかったという。

ここで、大島さんの中にあったのは、単なる宿泊事業への関心ではなかった。建物を活かし、人が集まり、地域の生業とつながり、町全体に価値が生まれる流れをつくることだった。

しかし、思いがあることと、事業として続くことは別の話である。

宿を運営するには、現実がある。
人件費がある。
管理費がある。
集客がある。
地域との関係がある。
思いだけで経営は続かない。大島さんは、その事実を時間をかけて知っていった。

大島さんにとって大きな転機になったのは、背中を押してくれた師匠の死だった。
街づくりへの思いを受け止め、「大島君、やってみないか」と機会をくれた人だった。
観光地ではない茂木で、宿を始めるきっかけを与えてくれた人でもある。

しかし、その師匠は肝臓がんで亡くなった。

巡り巡って、その建物と思いが、大島さんのもとへ回ってきた。
そのとき、大島さんにまったく不安がなかったわけではない。

それまで後ろ盾になってくれていたオーナーがいなくなる。
自分で会社を持ち、不動産を買い取り、経営者として前に立つ。
その重みは、決して小さくなかった。
大島さんは当時を振り返り、こう語る。
「オーナーという後ろ盾がいなくなる不安はありました。でも、どうしようと考えても仕方がない。運営はすでにしていたので、なるようになると思っていました」

怖さよりも、受け継いだものをどう守るか。
そこに意識が向いていた。
大島さんにとって、建物はただの不動産ではなかった。
師匠が託してくれた機会であり、地域に残された可能性であり、これから自分が形にしていくべき約束でもあった。

だから、やめるという選択肢は浮かばなかった。
「覚悟は、やり始めたときから決まっていました」

NAGASAKI HOUSEぶらぶら。
月と海。
Mogi Note。
宿は、ただ泊まる場所から、人が関わり続ける入口へと変わっていった。
人が泊まり、食べ、語り、地域の事業者と出会い、外部人材や企業が関わる。
大島さんは、師匠から受け継いだ場所を、地域に人と仕事と挑戦が循環する場へと育てていった。

第4章|思いと経営を両輪に——コロナ禍の地獄で見えた守り方

大島さんは、コロナ禍を「地獄」と表現した。

宿泊業、観光業、飲食を含む地域の事業にとって、コロナ禍はあまりにも大きな打撃だった。人の移動が止まる。宿泊客が減る。地域に流れていたお金の循環が止まる。

大島さんはそのとき、やめるという選択肢は浮かばなかったという。

その理由を、大島さんは語った。

「父と師匠が残してくれた、大切な宝物じゃないですけれど、そういったものを大切にしたいと思っていました」
大島さんにとって、守りたかったのは建物だけではなかった。そこに込められた思いであり、志だった。

宿はただの箱ではない。
建物はただの不動産ではない。
誰かが何かを願い、誰かが託し、誰かが支えてきた時間がある。
その受け取ったものを、簡単に手放すことはできなかった。

ただ、守りたいものがあるなら、経営の辻褄も合わせなければならない。
志と収益は、切り離して考えられない。
大島さんは、こう語る。
「経営と思いは両輪です」

思いがある。
残したいものがある。
守りたい人がいる。
そのために、経営を磨く必要がある。

コロナ禍をきっかけに、大島さんは運営体制を見直した。撤退するところは撤退し、戦い方を変えた。
「今の現状でやっていくのは限界が来ていると分かったので、運営するやり方、戦い方を変えました」
その見直しが、現在の黒字化につながった。
大島さんは今、田舎の宿でも勝てる一つのモデルをつくったと考えている。
それを、本人は「AI×Only One戦略」と表現する。

AI時代には、多くのソフトやコンテンツが再生可能になっていく。文章も、画像も、アイデアも、ある程度は作れるようになる。だからこそ、そこにしかない土地、建物、意思、体験価値が重要になる。

「箱は箱でしかないんです。その中身をどう活用するかが腕の見せ所だと思っています」

長崎の海。
茂木の町。
そこにある建物。
地元で採れた魚。
小さな飲食店。
犬と泊まれる宿。
釣りや体験。
企業研修や研修合宿。

それらを組み合わせ、Only Oneのプランとして発信していく。大手ができないサービスを、小さな地域だからこその掛け算でつくる。

思いだけでは、守れない。
経営だけでも、残らない。
その両輪を回すことが、地元に希望を取り戻すための道だった。

第5章|小さな生業に、希望を灯す——諦める理由をなくす地域経営へ

大島さんが考える「暮らし続けられる街」とは、どんな場所なのか。

その問いに対して、大島さんは長崎の話として語った。

長崎には、小さな事業者がたくさんいる。九割を超える事業者が小規模事業者だという。飲食店、カフェ、農家、漁師、旅館、個人店。大島さんが見つめているのは、その一人ひとりの営みである。

「観光の“光”とは、一人ひとりの生業だと思っています」

観光という言葉は、光を観ると書く。
大島さんにとって、その光は名所や建物だけを指すものではない。そこで暮らし、働き、自分のやりたいことを形にしている人たちの生業そのものだ。

長崎の価値は、歴史や食と語られることが多い。
大島さんは、その本質に、一人ひとりの生業の歴史を見ている。
その小さな営みを支えることが、暮らしを守ることにつながる。
暮らしを守ることが、町を守ることにつながる。
そして、大島さんは言う。
「諦めることを諦めたんです」
この言葉の後に、大島さんは、続けるために必要なものを語った。

仲間が必要だ。
チームが必要だ。
支え合う仕組みが必要だ。

ビジネスで困ったとき。
家庭で苦しんでいるとき。
学校で苦しんでいるとき。
誰かが支え合えるセーフティーネットが必要だと考えている。

それをビジネスの言葉で言えば、シンクタンク。
社会の言葉で言えば、支え合うコミュニティ。
地域の言葉で言えば、和の心を取り戻す活動。

大島さんは、「残す」という言葉よりも、「取り戻す」という表現が近いと語った。

昔の農村社会には、閉鎖性もあった。面倒なしがらみもあったかもしれない。
それでも、そこには支え合うコミュニティがあった。

誰かが困ったときに、誰かが動く。
自分だけがよければいいという発想ではなく、地域全体で暮らしを支える感覚があった。

今の時代だからこそ、その価値をもう一度見直したい。
大島さんは、そう考えている。

大島さんの挑戦は、宿や観光の領域にとどまらない。
現在は、地域の未来をより良くしていくために、経営だけでなく、政治や行政の領域からも社会に関わる道を模索している。 

経済と幸福を両方高める。
チャレンジしやすい社会をつくる。
混沌としたモヤモヤした状況を打破する。

その言葉は大きい。
けれど、大島さんが見ているものは、いつも足元にある。
小さな生業を守ること。
挑戦する人を孤独にしないこと。
失敗しても終わりじゃないと信じられる空気をつくること。
諦める理由を、一つずつなくしていくこと。
それが、大島さんにとってのIKIGAIなのだ。

大島さん自身の生業は、誰かの生業を守るためにある。
一人ひとりの光を見つけ、その光が消えないように、宿をつくり、場をつくり、人をつなぎ、仕組みをつくる。

地元に希望を取り戻すとは、特別な誰かだけが輝く町をつくることではない。
小さな店も、漁師も、農家も、旅館も、挑戦する若者も、もう一度「ここで生きていける」と思える理由を増やしていくことなのだ。

諦めることを諦めた男は、今日も長崎の地で、人と人をつなぎ続けている。
誰かの生業に、もう一度、希望の火を灯すために。

 

あとがき

大島さんの話を聞き終えたあと、私の中に残った言葉がある。
「諦めることを諦めたんです」

最初に聞いたとき、その言葉は、強い意志を表す言葉のように響いた。
どんな困難があっても折れない。
どんな状況でも続ける。
そんな覚悟の言葉として受け取った。

だが、大島さんの人生を辿るほどに、その言葉の意味はもっと深いところにあるのだと感じた。

父を失った痛み。大阪で自分の力不足に苦しんだ時間。世界を旅して、自分の小ささに気づいた瞬間。長崎に戻っても、人もお金も十分ではなかった。観光地ではない茂木で宿を始め、周囲の多くに失敗すると言われた。コロナ禍では地獄を見た。

それでも、大島さんは歩みを止めなかった。
それは、ただ根性があるからではない。
一人で何でも背負えるほど強いからでもない。
大島さんの中で、諦めるという選択肢そのものが、少しずつ消えていったのだと思った。

人は、IKIGAIとつながったとき、諦める理由が消えるのかもしれない。

お金がないから。
時間がないから。
仲間がいないから。
失敗したら恥ずかしいから。
まだ準備ができていないから。

人は、やらない理由をいくらでも見つけられる。
挑戦しない方が、傷つかずに済む。
何もしなければ、失敗もしない。

でも、自分の命を使いたいものに出会ってしまったとき、人はもう元には戻れない。
それをやるか、やらないかではなくなる。
どんな形になっても、やる。
時間がかかっても、やる。
倒れそうになったら、仲間と支え合ってでも、やる。
それが、人生をかけるということなのだと思う。
大島さんの「諦めることを諦めた」という言葉には、そうした覚悟があった。

そして、その覚悟は一人だけのものでは終わらない。
続けるためには、仲間がいる。
支え合えるチームがいる。
苦しいときに、本音で話せる関係がいる。
誰かが倒れそうなときに、手を伸ばせる仕組みがいる。
大島さんがつくろうとしているのは、そういう社会なのだと感じた。

地元に希望を取り戻すとは、町を一気に変えることだけではない。
目の前の生業を守ること。
挑戦する人を笑わないこと。
失敗した人を一人にしないこと。
「もう一回やってみよう」と言える空気をつくること。

その小さな積み重ねが、町を変え、日本の未来を変えていく。

あなたは、何を諦めかけているだろうか。
それは本当に、諦めるしかないものだろうか。

あなたは、何に人生をかけたいだろうか。

 

諦めることを諦めた男の歩みは、私たちに教えてくれる。
人生をかけるとは、特別な才能を持つことではない。
自分のIKIGAIと共に、もう逃げないと決めることなのだと。

IKIGAIコネクター
尾﨑弘師

株式会社toitoitoi ウェブサイト

 

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