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消えゆく町の時代に、“残す覚悟”を問う——町を守るのは制度か、人か
山下正寛 Styling innovation SHIRAKI Nomad
地域の心を未来へつなぐ、白木の縁側をつくる人
広島県広島市
消えゆく町の時代に、“残す覚悟”を問う——町を守るのは制度か、人か
日本はどうなっていくのであろうか。
少子高齢化と人口減少が進み、国の推計では総人口は2070年に8,700万人まで減少し、長期の参考推計では2110年に5,582万人まで縮小する。とりわけ深刻なのが働く世代の減少で、15〜64歳人口は今後、年間60万人規模で減っていくとされている。
だが、失われていくのは、数字だけではない。
人口が減るということは、町の記憶が薄れていくということでもある。誰かが気づいたことを、誰かが黙ってやる。困っている人がいれば、近くの誰かが手を差し伸べる。そんな助け合いの感覚や、土地への誇りや、「ここで生きる意味」を支えてきた地域の心そのものが、いま少しずつ失われつつある。
その現実の中で、広島市安佐北区選出の広島市議会議員であり、Styling innovation SHIRAKI Nomadを運営する山下正寛さんは、地域の心を取り戻そうとしている。白木という土地に根を下ろしながら、地域交流の拠点づくり、多世代が交わる場の運営、そして教育の現場にまで関わり、「町を残す」とはどういうことかを、実践を通して問い続けている。
その原点にあるのは、幼い頃に当たり前のように見てきた地域の風景だった。
家族だけではなく、近所の大人たちにも育てられ、見返りを求めずに動く人たちの背中を見てきた。地域は、サービスを受ける場所ではなかった。自分たちで守り、自分たちで手入れし、次へ渡していくものだった。
しかし、時代は変わった。
核家族化が進み、人と人との距離は遠くなり、自分の町に誇りを持てない空気が広がっていった。そして、その危うさを決定的な現実として突きつけたのが、西日本豪雨だった。町が崩れた。暮らしが壊れた。そこで山下さんの中に生まれたのは、
「この町を残す」
という使命だった。
それは、誰かに言われたからではない。
地位や名誉が欲しかったからでもない。
ただ、自分が生まれ育ち、育ててもらった場所を失いたくなかった。
だからこそ、立ち上がったのである。
この物語は、変わり続ける時代のなかで失いかけた「人が土地に対して持つ責任」を問いかける。
第1章:地域は“家”だった——白木の原風景
山下さんの語る「地域を残す」という言葉には、どこか熱さと同時に、懐かしさのようなものがある。
山下さんが育った広島市安佐北区白木町には、暮らしそのものが、「自分たちのことは自分たちでやる」という思想の上に成り立っていた。
農業をしながら生活し、屋根が傷めば自分たちで直す。柱が腐れば交換する。コンクリートを打ち、小屋を建て、必要があれば電気工事まで自分たちでこなす。今なら専門業者に頼むのが当たり前だと思われることが、当時の白木では暮らしの延長線上にあった。
そうした環境の中で育った山下さんの感覚は、自然と形づくられていった。
山下さんは当時を振り返り、こう語っている。
「人間が誰かがやってくれてることは、人間ならできるかっていうような感覚なんです」
この言葉には、単なる器用さや生活力を超えた世界観がにじんでいる。
誰かに任せきるのではなく、自分たちの暮らしは自分たちで支える。目の前にある困りごとを、自分の手の届かないものとして放置しない。そうした感覚は、日々の生活の中で身についたものだった。
だが、山下さんを育てたのは、家の中の営みだけではない。
むしろ本人が何度も語るように、山下さんの人格の芯を形づくったのは、親だけではなく“地域そのもの”だった。
困っている人がいれば、誰かが助ける。
誰かがやらなければならないことがあれば、気づいた人が動く。
そこに特別な報酬も、見返りもない。だが、そのことを誰も不自然だとは思っていなかった。
「住んでる場所が自分たちの家みたいなもんですかね」
「自分たちの庭を自分たちで綺麗に保つっていう感覚ですね」
地域とは、行政サービスを受けて、守られるものではない。
誰かが管理してくれる場所でもない。
自分たちの生活そのものであり、自分たちで手入れし、自分たちで守るものだった。
だから、川沿いや道路沿いの掃除を地域で行うことも、特別な奉仕ではなかった。
草が伸びていたら刈る。汚れていたら片づける。
それは「やらないといけないからしょうがなくやる」という発想ではなく、自分の暮らしの場を整える、ごく自然な行為だったのである。
この感覚は、現代の都市生活から見ると遠い。
だが山下さんにとっては、それが原点だった。
人と人が近く、生活と土地が切り離されておらず、助け合いが制度ではなく習慣として息づいていた世界。そこでは、地域は“住む場所”以上のものだった。
しかも、その共同体は息苦しいだけの閉鎖性ではなかった。
長男として地元に残る流れを自然に受け止めながらも、山下さんは地域の中で多くの大人に可愛がられ、育てられてきた。そこには「お互い様」の空気があり、子どもは親だけでなく、地域全体のまなざしの中で育っていった。
第2章:なぜ今、地域は失われていくのか——見返りを求めない心と“守る覚悟”
白木で育った山下さんにとって、地域は最初から「守るべきもの」として意識されていたわけではない。
それはもっと自然なものだった。空気のようにそこにあり、自分を育て、暮らしを支えてくれる存在だった。
けれど、そうした感覚は、ずっと同じ輪郭のまま続いていたわけではない。
山下さんの中で地域へのまなざしが深まっていったのは、むしろ白木の外へ出ていくなかでだった。
中学、高校と成長するにつれて、山下さんの興味は自然と外へ向いていく。
なかでも印象的なのは、高校進学のときの発想だ。多くの人が「家から近い方がいい」と考るなかで、山下さんは逆のことを考えた。
「移動時間が長かったら、出会う人も多いじゃないですか」
移動する時間が増えれば、そのぶん多くの人と出会える。新しい景色を見られる。親友ができるかもしれない。自分の知らない価値観に触れられるかもしれない。
山下さんの中には、若い頃からすでに、「外へ出ることで、自分の世界を広げたい」という直感があった。
実際、その選択はのちの人生にもつながっていく。
通学の中で出会った人たちとの縁は、大人になってからも続いた。自分で選んだ道が、そのまま人とのつながりになっていったのである。
高校卒業後、いくつかの仕事を経験し、その後ホテル業にも携わった。だが、結婚や子育てを見据えたとき、土日が休みではない働き方に限界も感じたという。子どもの行事に出られない。家族との時間が取りづらい。そうした現実を考えた末に、土日休みの大企業への転職を選ぶことになった。
入社した企業では約20年にわたって働き、比較的早い段階で管理職も任されるようになる。さらに30代後半から40代前半にかけては、九州統括として複数の営業所を束ねる立場にも就いた。全国を回り、さまざまな地域の人々と出会い、プロジェクトを立ち上げ、地域ごとの空気や県民性の違いにも触れていった。
外の世界を知ることは、山下さんにとって単なるキャリア形成ではなかった。
広い社会を見れば見るほど、自分の生まれ育った場所の輪郭も、逆にはっきりしていったのである。
福岡には、九州中から人が集まってくる活気がある。
鹿児島には、熱さと勢いがある。
広島には広島の気質があり、そこには保守的な空気もあれば、土地に根づいた独特の感覚もある。
そうした違いを肌で感じながら、山下さんは少しずつ考えるようになっていった。自分たちは、どこで生き、何を守っていくのか、と。
故郷が好きかどうか、住みやすいかどうかという話ではない。土地があり、水があり、山があり、そこで先人たちが暮らしをつなぎ、次の世代へ渡してきた。その流れの上に自分たちは立っている。だとしたら、自分たちの代でそれを途切れさせてしまっていいのか。便利だから、負担だから、面倒だからと手放してしまった先に、次の世代へ何が残るのか。
現代では、地域との関係が大きく変わってしまった。
今は何かあれば、行政がやるもの、誰かがやるもの、という感覚が強くなっている。
もちろん、行政の役割は大きい。制度も必要だ。
地域を自分の家や庭のように感じる感覚が薄れたとき、人は町を“暮らしの場”ではなく、“サービスを受ける場所”として扱うようになる。すると、誇りも責任も少しずつ遠のいていく。
地域は「関わるもの」ではなく「必要なときに使うもの」に変わっていった。
そして、その先に生まれるのが、「この町には何もない」という感覚である。
本当は、何もないわけではない。
山もある。水もある。土地もある。歴史もある。そこに積み重ねられてきた人の営みもある。だが、それらが自分の暮らしや誇りと結びつかなくなると、町はただ不便な場所にしか見えなくなる。かつて守るべきものだった土地や家や墓も、いまや維持費のかかる負担として映りやすい。
地域とは、自然に残るものではない。
誰かが残してくれるものでもない。
そこに生きる者が、自分ごととして引き受け、守ろうとしたときにだけ、はじめて未来へ渡っていく。
白木で育ち、外の世界を見て、社会の中で働き、多くの土地の空気に触れてきたからこそ、山下さんはそのことを強く感じるようになった。
第3章:西日本豪雨——町が崩れた日、“残す使命”が生まれた
「地域を守りたい」
その覚悟が生まれる決定的な出来事がある。
西日本豪雨。
それまで山下さんは、地域への思いを抱きながらも、会社員としての道を歩んでいた。
外の世界を見たからこそ、自分が生まれ育った土地を見つめる目も、少しずつ深くなっていったのだと思う。
だが、その思いはまだ、内側にある感覚だった。
大切だとは思っている。
守らなければいけない気もしている。
けれど、それを自分の人生の中心に据えるほどの“実感”には、まだなっていなかった。
その感覚を一変させたのが、2018年の西日本豪雨だった。
当時、山下さんは九州にいた。
仕事の拠点も九州にあり、日々の業務に追われる中で、地元から異変の知らせが届く。雨がひどい。白木が大変なことになっている。連絡を受けて地元に戻った山下さんが目にしたのは、これまで当たり前にそこにあった町の風景が、大きく崩れてしまった姿だった。
町が、暮らしが壊れていた。
人々の生活が、昨日までの延長にはない場所へ追い込まれていた。
山下さんは傍観者ではいられなかった。
地域の人たちと話し合い、まず立ち上げたのがボランティアセンターだった。
そのときの判断は、とてもシンプルだったという。
「行政を待ってたら遅くなるんで、じゃあとりあえず自分たちで立ち上げよう。
誰かの指示を待つのではない。
制度が整うのを待つのでもない。
目の前で困っている人がいて、町が壊れているなら、自分たちで動くしかない。
それは白木で育った頃から体に染みついていた、「気づいた人が動く」という感覚の延長線上にあった。
実際に、地域の人たちとともに立ち上げたボランティアセンターには、多くの支援者が集まってきた。
SNSで発信すると、週末には100人、200人という単位で人が駆けつけた。しかもそれは地元広島の人だけではなかった。東京など遠方からも、多くの人たちが手を貸しに来たのである。
この光景は、山下さんにとって大きな意味を持った。
町が崩れ、苦しい現実を突きつけられる一方で、そこにはまだ、人が人を助けようとする力が残っていたからだ。
山下さんは、その経験を通して、日本人の中にまだ失われていないものを見たのだと思う。
損得ではなく、見返りでもなく、困っている人がいれば動く。
遠く離れた土地のためであっても、必要だと思えば足を運ぶ。
「見返りを求めない心」は、過去の思い出の中だけにあるものではなかった。災害という極限の中でなお、それは生きていたのである。
だが同時に、その現場で山下さんは、もっと厳しい現実も痛感したはずだ。
この町は、放っておけば本当に失われてしまう。
誰かが守らなければ、次の世代に渡せないかもしれない。
自分が育てられてきた場所、自分の価値観を形づくってきた場所が、ただ“仕方のないこと”として崩れていくのを見過ごすわけにはいかなかった。
その思いが、やがて市議会議員へ「立候補」という選択へつながっていく。
山下さんは最初から政治家になりたかったわけではない。
議員という肩書きに憧れがあったわけでも、名誉が欲しかったわけでもない。あくまでそこにあったのは、町を守るために、自分に何ができるのかという問いだった。
山下さん自身、その動機を非常に率直に語っている。
「議員になりたいというよりは街づくりの一環として」
「何か一つの手段として議員になったらできることも増えるかなっていう感覚」
大企業を辞めて未知の世界に飛び込むことには、大きな不安がつきまとう。しかも当時の山下さんは安定もあった。家族もいた。だが、それでもなお、その場所にとどまることより、自分の町のために動くことを選んだのである。
もちろん、その決断は簡単なものではなかったはずだ。
選挙のこともよく分からない。何が合法で何が違法かも分からない。議員という仕事の輪郭すら、まだ十分には見えていない。そんな状態から、本を読み、調べ、家族、当時19歳だった息子さんと一緒に準備を進めていった。
それは覚悟を決めた人の動きだった。
地域が壊れたとき、自分はもう“守ってもらう側”ではいられない。
誰かがやるのを待つのではなく、自分がやる側に回らなければいけない。
西日本豪雨は、町を壊した。
同時に、山下さんの中に眠っていた責任感を、使命へと変えた。
地域を大事だと思うだけなら、多くの人ができる。
懐かしい原風景を語るだけなら、それもできる。
だが、崩れた町を目の前にして、自分の人生ごと差し出す覚悟を決める人は、そう多くない。
山下さんは、この出来事を通して、“地域が大事だ”と考える人から、“地域を守るために行動する人”になったのである。
そこにあったのは、この町を残したいという純粋な思いだった。

第4章:ノマドは施設ではない——人と地域をつなぎ直す“現代の縁側”
市議会議員への立候補。
だが、最初の挑戦は落選であった。
けれど、その結果によって山下さんの使命が消えたわけではなかった。
むしろ、そこで問い直されたのは、政治という形だけが町を残す方法なのか、ということだった。
もともと山下さんにとって、議員になること自体が目的ではなかった。
町を守るために、自分に何ができるのか。その問いの一つの答えが、当時は政治だったのである。だからこそ、落選は終わりではなく、別の手段を探す起点になった。
その後、山下さんは会社を立ち上げる。
背景には、これまでの仕事を通じて築いてきた人とのつながりがあった。落選後、いくつもの経営者から「会社を立ち上げたら仕事を出すよ」と声がかかったという。政治の道で届かなかった場所に、今度は民間から関わっていく。その流れの中で、次の一歩が見えてきた。
それが、拠点をつくることだった。
実は、後のノマドになる建物は、もともと立候補時の選挙事務所として借りていた場所だった。
使っていくうちに、山下さんの中で感覚が育っていく。ここはただの事務所では終わらない。こういう場所があれば、地域の人が集まれる。人と人がつながれる。仕事も情報も交わせる。地域にとって必要なのは、単に何かを提供する箱ではなく、交流の核になる拠点なのではないか、と。
そこで山下さんは、この建物を買う決断をする。
そこに最初から明確な採算の見込みがあったわけではない。利益の出る施設をつくりたかったわけでもない。欲しかったのは、地域交流の場であり、自分たちの活動の拠点であり、人と仕事がつながっていく場所だった。
その構想に重なったのが、低酸素装置との出会いだった。
建物の購入に関わった縁の中で、地元広島の企業が開発した国産の低酸素装置を知る。海外製が多い分野で、まだどこにも入っていない試作段階の機械だったという。山下さんが惹かれたのは、低酸素そのもの以上に、地元企業の技術力と、その装置がこの場所の“核”になり得る可能性だった。
つまり、ノマドは低酸素ジムをやりたくて始まったわけではない。
先にあったのは、地域の中に人が集まる理由をつくりたいという思いであり、低酸素はその核の一つとして導入されたにすぎない。
ノマドは、まず「人が集まる場所をつくる」という目的があり、そのために必要な要素を組み合わせていった結果、生まれた拠点なのである。
「ノマド」という名前にも、その思想が表れている。
場所に縛られず、人が行き来し、情報が流れ、各地へ広がっていく。そんな自由さを持ちながら、一方で地域に根を下ろす拠点でもある。あえて「白木ノマド」と地名を入れたのは、白木だけに閉じた場所ではなく、将来的には他の地域にも同じような拠点が生まれていく構想があったからだ。
ここでは認知症カフェが開かれる。
子どもを預かる日がある。
地域のおばあちゃんたちが手伝いに来る。
子どもと高齢者が同じ場所にいて、誰かが誰かの役割を担う。
そこには、かつて地域の中に自然にあった助け合いの風景が、形を変えて息を吹き返している。
昔の地域共同体を、そのまま復元することはできない。
けれど、その中にあった良さを、今の時代に合う形で組み直すことはできる。ノマドがやっているのは、まさにその再編集である。
この施設の役割は、失われた地域のつながりを、現代の暮らしの中でもう一度機能させるための拠点である。
一度落選し、政治だけでは届かなかった場所に対して、山下さんは民間から手を伸ばした。
その結果として生まれたノマドは、人と地域をつなぎ直す“現代の縁側”になっているのである。
第5章:未来へ残すのは、土地ではなく“循環する仕組み”——教育と町の繋がりの構想
民間ではノマドという拠点をつくり、人と人が交わる場を生み出した。
そして次の選挙で山下さんは当選し、今度は行政の側からも町に手を入れられる立場を得た。
山下さんが達成したいのは、単に施設を運営することでも、議員として実績を積むことでもない。政治か民間か、どちらか一方で地域を変えようとしていたのでもない。必要なのは、制度でしかできないことと、暮らしの現場でしかできないことの両方をつなぎ、町の中に“循環する仕組み”をつくることだった。
その構想が、表れているのが、学校と連携したキャリア教育である。
しかもそれは、単発の職業体験ではない。山下さんが語っていたのは、小学校3・4年生ごろから地域の作物や仕事に触れ、5・6年生になると「どう売るか」「どう伝えるか」「いくらで売るのが適正か」まで考え、中学生になる頃には地域全体の価値や課題まで見渡していくような、連続した学びの設計だった。
ここで山下さんが子どもたちに渡そうとしているのは、仕事の知識そのものではない。
商売を通じて、学んでいる意義を知ることである。
学校では、算数も国語も図工も社会も学ぶ。
だが教室の中だけにいると、それが何のために必要なのかは見えにくい。
ところが、地域で育てたものを「売る」となった瞬間、それぞれの教科は急に輪郭を持ち始める。
値段を決めるには計算がいる。
利益を考えるには原価が分からなければならない。
魅力を伝えるには言葉がいる。
手に取ってもらうには見せ方がいる。
町の中で何が作られ、どう流通しているのかを知るには社会の視点がいる。
商売は、学びを現実につなげられる。
実際、広島市立三田小学校では、令和5年度から起業体験活動に取り組み、生活科や総合的な学習の時間を軸に、地域の農家、観光農園、キャリアコンサルタント、税理士と連携しながら学習プログラムを組んでいる。
地域で育てたナスやイチゴなどを題材に、販売計画の作成、販促物づくり、収穫・梱包、販売体験、収支計算、振り返りまで、一連の流れを実地で経験している。さらに市立商業高校のイベントで販売し、高校生から接客も学ぶ。こうした実践は、広島市立三田小学校と砂谷中学校が令和7年度キャリア教育優良学校等文部科学大臣表彰を受ける形で、公的にも高く評価された。
地域の人たちがどんな思いで作っているのかを知ること。
作物一つできるまでにも、時間がかかる。
土をつくり、天候を見て、失敗もしながら、ようやく育つ。
そこには手間もある。工夫もある。待つ時間もある。
それを知らなければ、人はただ「安いから買う」「高いからいらない」としか思えない。
けれど自分で作り、自分で売り、その背景にある苦労まで見たとき、値段の意味は変わる。
安いだけでは意味がない。
誰かが思いを込めて作っているからこそ、その価値に見合った対価が必要なのだという感覚が、子どもたちの中に生まれてくる。
そこから先に見えてくるのが、地産地消の意味を肌で実感することである。
地域で作られたものを、地域の人が買う。
そこにお金が回る。
すると、作っている人の誇りが守られる。
地域の仕事が続く。
町の中で経済が循環する。
これは道徳として「地元を大事にしましょう」と教えられて分かるものではない。自分で売ってみて、買ってもらって、地域の人の顔を見て初めて分かる。
山下さんが目指している教育は、まさにその“実感”の教育なのである。
学校が社会とつながるだけではない。
地域そのものが教育の場になっていくのだ。
ここで山下さんが見ているのは、「職業教育」というより、もっと広い意味での継承である。
どう働くか。
どう価値を生むか。
どう人に伝えるか。
そして、どう地域の中で役割を持つか。
そうしたことを、教科書ではなく、関わりの中で受け渡していくのである。
その根底にあるのは、子どもだけを変えようとしても意味がない、という考え方だ。
山下さんは繰り返し、大人が動かなければ子どもも動かないと語っていた。
礼儀、躾、感謝、責任。
それらは親がどう頭を下げるか。先生にどう感謝を示すか。地域の大人が、困っている人にどう手を差し伸べるか。そうした日々の姿の中でしか、本当には継承されていかない。
だからこそ、山下さんが地域に必要だと考えているのは、IKIGAIを持って動く大人たちの存在そのものだ。
実際、ノマドで行われている認知症カフェや子どもの預かりの場にも、その思想は通っている。
高齢者が子どもを支え、子どもがまたその場で役割を持つ。
困っている人がいれば、声をかける人がいる。
誰かが必要とされ、誰かが支える。
その小さな循環が積み重なることで、町はただ“住む場所”ではなく、生きる意味を持てる場所になっていく。
山下さん自身のIKIGAIについて尋ねたとき、返ってきたのは、
「みんながやっぱりやりたいことを思いっきりできるための仕組み作りをすることです」
人がその人らしく生きようとしたときに、それを後押しできる環境を整えたい。地域の中で、やりたいことを思いきりやれる仕組みをつくりたい。それが山下さんにとってのIKIGAIである。
政治も、ノマドも、教育も、そのための手段なのである。
未来へ残すべきものは、土地だけではない。
建物だけでもない。
人が育ち、役割を持ち、支え合いながら生きていける仕組みである。
山下正寛さんが残そうとしているのは、まさにその循環だ。
そしてその循環は、教育にも、地域にも、次の世代にも、日本の心がつながっていくのである。

あとがき
山下さんのお話を伺っていて、何度も胸の奥を打たれたのは、「地域を残す」という言葉の重さだった。
私は、地域を“あるもの”として捉えていた。
生まれたときからそこにあって、なくならないもの。
誰かが守ってくれるもの。
行政や制度が、どうにか維持してくれるもの。
どこかで、そんなふうに思ってしまっていた。
けれど山下さんの言葉に触れていると、それがいかに危うい思い込みだったのかを思い知らされる。
地域とは、ただ存在しているものではない。
そこに生きる人が、自分ごととして引き受け、手をかけ、守ろうとしたときにだけ、次の世代へ渡っていくものなのだ。
そして山下さんが守ろうとしているのは、土地や建物だけではない。
その町に流れてきた空気であり、見返りを求めずに動く心であり、誰かが誰かを自然に支える感覚である。日本人が持っている和の心なのかもしれない。
目には見えない“地域の心”そのものを、未来へ残そうとしているのだと思う。
今は、効率や合理性が求められる時代である。
便利さを選ぶことも、自由を求めることも、決して悪いことではない。
だがその一方で、便利さの裏側で何を失ってきたのかを、私たちは一度立ち止まって見つめ直さなければならないのかもしれない。
誰かに任せることに慣れすぎた結果、自分の暮らす場所に対して責任を持つ感覚まで薄れてはいないか。
“自分さえよければ”の先に、次世代へ何を残せるのか。
山下さんの生き方は、そんな問いを、まっすぐ私たちに投げ返してくる。
教育も、地域交流も、政治も、ノマドも、すべては「誰かが思いきり生きられるようにするための仕組みづくり」へとつながっていた。
誰かの可能性が立ち上がる土壌を整えるために動く。
その姿勢に、私はとても深いIKIGAIを感じた。
時代がどれだけ変わっても、最後に町を残すのは、人である。
もっと言えば、自分の場所に責任を持とうとする人の覚悟である。
山下正寛さんの歩みは、そのことを力強く教えてくれた。
だから私は、この言葉を残したいと思う。
地域とは、誰かに残してもらうものではない。
そこに生きる者の覚悟によって、未来へ残されるものである。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師


