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夢半ばで終われない——ただの種馬だった壱岐牛を食肉に変え、この島に新しい価値を生んだ85歳が、最後に残そうとしている夢
グルメ宿&タラソ温泉 壱岐牧場 田口靖人
壱岐を愛して魅力を伝える者
長崎県壱岐市
夢半ばで終われない——ただの種馬だった壱岐牛を食肉に変え、この島に新しい価値を生んだ85歳が、最後に残そうとしている夢
「これを残さない限りは、永遠に私の考えは残らないわけですよ」
そう語ったのは、ただの種馬だった壱岐牛をカットし、食肉としての価値へ変えていった男、田口靖人さんだ。半世紀以上にわたって壱岐で挑戦を続けてきた彼が、八十五歳になった今も手放していないものがある。それは、過去の成功でも、名産として知られる壱岐牛そのものでもない。彼が最後に残そうとしているのは、この島がもう一度、自分たちの役割を取り戻し、未来へ夢を手渡していくための「生きた設計図」である。
田口さんは、壱岐の価値を誰より早く信じ、誰も見ていなかった時代に、この島に新しい可能性を根づかせた一人だ。けれど、広まったからこそ見えてきた現実もあった。壱岐牛が名物として独り歩きしはじめたとき、そこに込めたはずの夢までが、少しずつ置き去りにされていくような感覚があったのである。
本来、田口さんがやりたかったのは、牛を売ることだけではなかった。観光と産業が手を取り合い、土地の魅力そのものが価値として循環していく島のかたちを残したかったのだ。だが、新しいことを本気でやろうとする人間は、時に強すぎるほどの熱を持つ。熱が強いからこそ、早すぎる。早すぎるからこそ、誰にもわかってもらえない。田口さんの歩みには、そんな開拓者の孤独が、何度も滲んでいる。
オイルショックで夢が崩れても、牛舎の上で眠るような日々を生きても、休みなく働き、収入のない時間を耐えても、田口さんは自分の中の火を手放さなかった。そして今、その火を「自分の代で燃やし尽くす」のではなく、「次の誰かに渡せる形にしたい」と願っている。信じる人がいれば、夢はまだ具現化できる。その確信が、八十五歳になった今もなお、田口さんを前へ進ませている。
これは、壱岐牛を広めた人物の成功譚ではない。ただの種馬だった牛に手を入れ、食肉として価値を生み出し、理解されなくても、自分のIKIGAIを持ち続けた一人の男が、人生の最後に何を残そうとしているのか。その激しい問いに触れていく物語である。
第1章 幼い頃から、大きな夢を抱く側の人だった——成功の先で、壱岐に賭けた男
田口さんは、壱岐で生まれた。父は軍人。祖父母に育てられた。
祖父は社交的で、その後ろを幼い頃はついて回ったという。
もともと「与えられた場所の中で、無難にうまく生きる人」ではなかった。
幼い頃から、自分の心が動くものにまっすぐだった。人に合わせて器用に立ち回るより、面白いと思ったものに、自分ごと飛び込んでいく。そういう気質が、かなり早い段階からできあがっていたのだと思う。
本人も、高校までは「まっすぐ」だったと振り返っている。けれど、その“まっすぐ”は、ただ従順だったという意味ではない。好きになったものには一直線で、惹かれた世界には深くのめり込む。そういう集中力のある少年だった。山に魅せられ、山岳の世界に心を奪われたのも、その頃である。さらに、当時出会った友人の存在が、田口さんの人生観を大きく揺らすことになる。
その友人は、裕福な家庭に育った子だった。
ある時、その友人が口にした「学士のうちは学生らしく」という言葉に、田口さんは強く心を動かされたという。最初は、親に言われたことをそのまま口にしているだけではないか、とも思った。けれど、その言葉に触れた瞬間、自分の知らない世界が確かに存在していることを、生々しく突きつけられたのだ。育った環境が違えば、見える景色も、当たり前も、人生のスケールも変わる。
――自分の外側に、こんな世界があるのか。
その驚きが、田口さんの中にひとつの大きな野心を生んだ。
「日本一の金持ちになる」。
今振り返れば、青年らしい大きな夢だったのかもしれない。だがその言葉には、ただお金が欲しいという以上に、もっと大きな世界を見たい、自分の人生の器を広げたいという、切実な衝動が宿っていた。
大学に入ってからも、「人のするようなことはしたくない」という感覚は、さらに強くなっていった。本人も「へその曲がっとる」と笑っていたが、その自尊心こそが、田口さんの推進力だったのだと思う。みんなと同じ道を、みんなと同じやり方で進むことに、どうしても心が向かない。普通とされる選択肢に対して、どこかで違和感を覚えてしまう。その違和感が、のちに壱岐という島で、誰もやったことのないことへ手を伸ばしていく原動力になっていく。
やがて、家の事情も重なり、田口さんは家業の流れの中に入っていく。
祖父の代から続く商いがあり、家には小さな食堂があった。そこで田口さんは、ただ店を継ぐのではなく、自分なりの発想で、まったく新しい空気を持ち込んだ。当時としてはまだ珍しかったジュークボックスを置き、その前に踊れる空間までつくったのである。その時代、新しかった。単に食事をするだけの場所ではなく、人が集まり、音楽が流れ、気分が切り替わる場をつくったのだ。
店を持つと、田口さんはあっという間に結果を出す。人が集まり、場が生まれ、金が動く。本人の感覚では、毎日、サラリーマンの月収ほどを稼ぐような勢いだったという。ただ商売がうまかったのではない。人が何に惹かれ、どういう空気に金を払うのかを、肌でわかっていたのだと思う。だからこそ、店は単なる飲食の場では終わらなかった。人が夜を過ごし、気分を変え、次の景色を見に来る場所になっていった。
そして田口さんは、その成功の只中で、夜の店に足を運び、そこに集まる“本物のお金持ちたち”と出会っていった。机の上の理屈ではない。教科書の中の成功者でもない。実際に金を持ち、実際に場を動かし、実際に世の中の流れを変えていく人たち。その人たちが何を見て、何に金を使い、どんな言葉で未来を語るのかを、田口さんは自分の目で見た。
それは田口さんにとって、自分が少年の頃に遠くから眺めていた“別の世界”。
自分が大人になって本物のお金持ちたちの只中に入っていく。そこで田口さんは、金そのもの以上に、世界の見方の大きさを学んだ。小さくまとまる人間では、大きな景色はつくれない。人を惹きつける場も、未来を動かす構想も、結局はその人がどれだけ大きな世界を見ているかで決まる。ここでの成功は、田口さんに金をもたらしただけではない。夢のスケールそのものを、一段引き上げたのである。
そして、三十一歳で壱岐に戻る決断をした。
その選択は単なるUターンではなかった。
本人の言葉を借りれば、それは「天職が壱岐にあった」。
生まれ故郷に戻ったというより、自分の次の人生を賭けるために、この島へ帰ってきたのである。しかも、その構想は小さなものではなかった。壱岐で何かを商売として成功させる、という程度ではない。もっと大きく、この島の未来そのものに手をかけるような夢だった。田口さんはそこで、本気で壱岐の可能性を開こうとしていた。
その夢に、最初は賛同する人もいた。
投資家もついた。構想を面白がり、動こうとする人もいた。
だが、時代の大きな波が、それを一気に押し流す。オイルショックである。
世の中全体の空気が変わり、資金の流れが変わり、せっかく動き出そうとしていた夢は、そこで一度崩れた。周囲から見れば、「やっぱり無理だった」という話だったかもしれない。都会に仕事があるのだから、わざわざ壱岐で苦しい道を選ぶ必要はない。そんな声があったとしても不思議ではない。
だが、田口さんはそこで引かなかった。
夢が壊れたからやめるのではない。壊れたなら、その残骸の上で次の一手を考える。やり出した以上、途中でやめることの方が、自分にはできなかったのである。むしろここからが、本当の田口さんの始まりだった。
その次に始まるのが、牛小屋の上で眠りながら、ただの種馬だった牛を食肉としての価値に変えていく、あまりにも泥臭い日々だった。
第2章 ただの種馬を食肉に変えた男——牛小屋の上で眠り、壱岐牛の“0”をつくった日々
オイルショックで大きな夢が崩れたあと、田口さんが次に手を伸ばしたのは、華やかな再起ではなかった。
もっと泥臭く、もっと現実的で、しかも誰もその価値に気づいていない領域だった。
それが、牛である。
ただし、最初から「壱岐牛を名産にしよう」と考えていたわけではない。
田口さんが向き合ったのは、当時まだ“ただの種馬”としてしか見られていなかった牛だった。それをカットし、食肉として売れる価値へ変えていくこと。そこに、新しい可能性を見たのである。つまり田口さんは、壱岐牛を“持ってきた人”というより、まだ価値として認識されていなかった牛を、食肉としての価値に転換した起点の人と呼ぶ方が近いのだと思う。
実際、一番最初は四十頭の牛を仕入れ、それを生産に使うつもりだったという。けれど、現実はそう簡単には進まなかった。土地の条件も、採算も、島の流通も、何もかもが手探りだった。今のように「ご当地牛」という言葉に価値が乗る時代でもない。牛はまだ“ブランド”ではなく、むしろ「売れないもの」の側にあった。だからこそ、そこに賭けるという選択そのものが、すでに常識の外側だったのである。
しかもその挑戦は、想像以上に過酷だった。
田口さんは、その頃の自分を振り返って、「牛小屋の上で寝ていた」と語っている。
生活そのものが牛と一体になっていたのだ。生き物を育てるということは、休みのない時間を引き受けるということでもある。誰かが代わりに世話をしてくれるわけではない。朝も夜もなく、牛の状態に意識を向け続ける。しかも、田口さんにとってこの生活は、義務というより、どこか「はまっていた」時間でもあったという。好きでやっていた。楽しかった。ぜいたくも知っている人間が、同じ熱量のまま「この生活」に入っていける。その振れ幅の大きさこそ、田口さんという人の異常な強さだったのだと思う。
だが、好きだからといって楽なわけではない。
むしろ、その日々は、普通の感覚では耐え難い生活だった。全財産に近い感覚で牛に賭け、そこから先は休みなし。売れるまで金も回らない。遊ぶ時間は消え、収入もない。本人の言葉を借りれば、「1年収入なし、休みなし」で働いていたことになる。未来が見えていたとしても、それだけの条件で働き続けられる人はそういない。しかも田口さんは、場をつくり、夜の店で遊び、人を集め、華やかな時間も知っていた人である。
田口さんが止まらなかった理由は単純で、「やる」と決めてしまったからである。
やり始めた以上、途中でやめることの方が苦しい。だったら、どう売るか、どう回すか、どう持ちこたえるかを考えるしかない。田口さんの生き方にはいつも、この「もうやるしかない」という腹の括り方がある。
最初から、島の誰もがその価値を理解していたわけではない。
壱岐は魚の島である。
最初から受け入れてはくれなかった。そこで彼は、店で待つのではなく、自分から売りに出た。移動販売車をつくり、肉を積んで、島の人たちのところへ持っていったのである。しかも、その売り方は受け身ではなかった。かなり強引だった、と本人も笑う。粘り強く、「一個食べてみろ」と言い切る。買わないならそれでもいい。でも、食べればわかる。そういう押しの強さで押し切っていった。
だが、その強引さは、ただの営業力ではなかった。
背景には、味への確信があった。
自然食の考え方にも影響を受けながら、牛に与えるものにも気を配っていたという。鮮度にも自信があった。移動販売の冷蔵設備も整え、見た目にもきれいな状態で届ける工夫をした。つまり田口さんは、根性だけで押したのではない。本物だから押せたのである。そして実際、食べた人の反応が、その確信を裏づけていく。
「かなり強引な売り方をしているな」と思っていたところに、あとから電話がかかってくる。怒られるのかと思ったら、返ってきたのは「こんな美味しい肉初めて食った」という声だった。その一言で、疲れが吹き飛んだという。理解されないまま始めた挑戦が、ようやく誰かの舌の上で事実になった瞬間だった。
この積み重ねこそが、壱岐牛の“0”だったのだと思う。今のようにブランド名だけで価値が通る時代ではない。名前の前に、まず味で勝たなければならなかった。しかも、その味を信じてもらうには、島の空気そのものを少しずつ変えていく必要があった。田口さんがしていたのは、肉を売ること以上に、「ただの種馬だった牛を、食卓に並ぶ価値へ変える」という意味を島に植えつけていく作業だったのである。
壱岐牛が本当に価値を持つようになったのは、その後、農家さんたちが努力を重ね、品質を磨き上げていったからだと、田口さんははっきり認めている。自分は最初に手をつけた。最初の起点は置いた。けれど、その後の壱岐牛を“いまの壱岐牛”に育てたのは、農家さんたちの力だと敬意を込めて語るのである。これは、ただ謙虚なのではない。0から1をつくる人間が、1を10にした人たちの努力を正面から称えている。
田口さんがつくったのは、牛だけではない。
「まだ価値になっていないものを信じる」という、最初の勇気そのものだった。
そしてその勇気があったからこそ、後の壱岐牛がある。
第3章 牛の次に、島を味わう場所をつくった——田口さんが宿を開いた理由
壱岐牛の起点をこの島に置いたあと、田口さんはそこで立ち止まらなかった。
田口さんが本当に残したかったのは、牛そのものではなかったからである。牛はあくまで入口だった。壱岐の良さを、この島の空気を、この土地にしかない時間の流れを、人にちゃんと体で感じてもらうこと。そこまで届かなければ、自分が最初に抱いた夢には届かない。そう思っていたのだと思う。
だから田口さんは、牛の次に観光へ向かった。
農家さんたちが牛を磨き、自分は島の魅力を伝える側に回る。その役割分担の中で、壱岐全体の価値を高めていこうとしていたのである。自分がやるべきことと、人が担うべきことを見極め、その上で全体を動かそうとする。視線が、最初から島全体に向いているのだ。
そして一番大きかったのは場所への惚れ込みだった。
海があった。
風があった。
空が抜けていた。
鳥の声が聞こえた。
そして、その場に立ったときに、「ここはただの海辺じゃない」と身体が先に反応したのだという。
この場所には、人の気持ちを変える力がある。
忙しさで固くなった心を、ふっとほどく力がある。
ただ泊まるための場所ではない。
人がここに来て、景色を見て、風を感じて、食べて、眠って、それだけで「生き返った」と思えるような場所にできる。田口さんは、その価値に気づいた。
しかも田口さんの中では、その景色は単なる“自然の美しさ”では終わっていなかった。
若い頃からずっと憧れていたリゾートの感覚、外の世界で見てきた華やかさ、自由さ、開放感。そういうものと、この場所の空気が重なっていたのである。田口さんにとってこの場所は、ただ壱岐の一角ではなかった。当時のハワイを感じるような、胸がひらく場所だったのだ。
だからこそ、宿をやる意味が生まれた。
儲かりそうだからではない。
部屋を埋めればいいからでもない。
この景色を、誰かに渡したかったのである。
この風を知ってほしかった。
この海を見てほしかった。
この土地には、こんなに人を緩める力があるのだと、実際に来て、過ごして、感じてほしかった。
商品は送れる。
肉は発送できる。
だが、この空気だけは送れない。
だから、人に来てもらうしかない。
宿とは、田口さんにとって、そのための器だった。壱岐そのものを味わってもらうための入口だったのである。
この発想の根っこには、若い頃から持ち続けてきたリゾート観がある。
普通は、働いてから休む。
だが田口さんは、そうではなかった。
リゾートしたいから働く。
その感覚を持っていた。
人は、行きたくなる場所があるから頑張れる。
心が震える場所があるから、日常を踏ん張れる。
ただ稼ぐためだけに働くのではない。
生きる喜びを感じる場所があるから、人はまた前へ進める。
田口さんは、自分がそういう場所に惹かれてきたからこそ、わかっていた。
だから壱岐でも「泊まれる場所」ではなく、また帰ってきたくなる場所をつくりたかったのである。
もちろん、現実は甘くなかった。
夢はあっても、金が潤沢にあるわけではない。
牛で走り切ったあとだから、次の展開に使える資金は限られていた。
銀行へ行く。担当者に話をしても、反応は鈍い。前例がない。初めてだから難しい。理解が追いつかない。そういう空気が返ってくる。
田口さんはそこで黙らない。
できないなら、できないとはっきり言えばいい。
初めてだから断る、というのは理由にならない。
そう言って、企画書を出し、自分の考えをぶつけていく。
道がないなら、言葉でこじ開ける。
理解されないから諦めるのではなく、理解されるまでぶつかる。そういう人だった。
そして実際に、そこには宿が生まれていく。
海が目の前にあり、鳥の声が聞こえ、歩けばビーチに出る。波は穏やかで家族でも来やすい。景色があって、食があって、休む場所がある。ただ機能として整っているのではなく、壱岐の魅力がそのまま立ち上がる場所になっていた。田口さんがつくりたかったのは、こういう場所だったのだと思う。人を泊める場所ではない。人の記憶に残る場所だった。
田口さんの中では、最初から全部がつながっていた。
牛だけでは足りない。
宿だけでも足りない。
壱岐の魅力が、産業と観光と体験の中でひとつの流れになること。
そこまで行って、初めて地域は残る。
田口さんは、最初からずっとその全体を見ていたのである。
この島の景色そのものを価値に変えたかったからだ。
本気で島を良くしたいと願うからこそ、今度は「何を入れ、何を守るのか」という、もっと厳しい問いに向き合うことになる。
にぎわえばいいのか。
誰でも呼べばいいのか。
それとも、この景色と品を守るために、拒まなければならないものもあるのか。
田口さんの夢は、ここからさらに深い孤独へ入っていく。
だがそれでも、この人は引かない。
自分が惚れたこの場所を、最後まで守り抜きたかったからである。
第4章 壱岐を本気で良くしたかった——本気でいることの代償
宿をつくり、牛を育て、観光へ戻った。
田口さんは、自分の事業だけを守っていればよかった人ではない。
むしろ、自分の手が届く範囲を超えて、壱岐そのものをどうすれば良くできるのかを考えてしまう人だった。
だが、地域全体の話になると、途端に物事は進まなくなる。
自分ひとりで決めて、自分ひとりで責任を負えば進められることも、地域の話になると止まる。誰も本音を言わない。号令を出さない。反対はする。だが、その反対に責任を持とうとはしない。田口さんが長く見続けてきたのは、そういう現実もあったという。
田口さんが繰り返し語るのは、「役割分担」という言葉である。
国がやること。
行政がやること。
民間がやること。
その線引きが曖昧なままでは、地域は良くならない。制度だけ増やしてもだめだ。補助金だけあってもだめだ。実際に動く人がいて、責任を取る人がいて、現場で汗をかく人がいて、初めて地域は前に進む。ところが現実には、その“やる人”が認められない。開拓者が認められない。リーダーシップを取るべき人も育たない。田口さんが一番苦しんできたのは、まさにその構造だった。
だから、言葉も自然と強くなる。
田口さんは、「こうしたいなら、ちゃんと言え」と言う。
口を濁しながら、裏で不満だけを言うのではなく、こうしたいからこうしてくれと真正面から言えばいい。自分では旗を振らず、責任も持たず、それでも場を動かした気になる。そんなやり方では、何も変わらない。田口さんにとって、それは理屈ではなく、長年の現場の実感だった。
実際、その苛立ちは何度もあった。
地域の合併の時も。
観光協会で海の家を設立するときも。
協力しなければ島はまとまらない。
だが、反対した人が、そのまま居座る。
その構造ではうまくいくはずがないと、田口さんは何度も感じてきた。
本質を言えば言うほど、田口さんは浮いていく。
ここに、孤独がある。
ただ仲良くしたいだけなら、黙っていればいい。
波風を立てたくないなら、少し曖昧に言えばいい。
けれど田口さんには、それができなかった。なぜなら、地域を本気で良くしたいと思っていたからだ。適当に流して済むなら、ここまで怒らない。本当に残したいものがあるから、どうしても言葉が鋭くなる。どうしても相手の機嫌より筋を優先してしまう。その不器用さが、田口さんという人の魅力でもあり、同時に孤独の原因でもあった。
それが最もよく表れているのが、海の家をめぐる一件だった。
田口さんは最初から反対していた。
にぎわえばいいわけではない。客が増えればいいわけでもない。何を入れ、何を入れないかで、その土地の品は決まる。田口さんには、海辺の空気が荒れていく未来が見えていた。実際、ほかの地域で同じような例も見てきた。夜通し騒ぐ。柄が悪くなる。大事なお客さんが離れていく。そうなってからでは遅い。だから止めようとした。
「何もしないよりいいじゃないか」
「にぎわえばいいじゃないか」
田口さんも、ただ反対していたのではない。
ずっと一貫して、「島には観光しかない」と思っていた。
だったら観光を、本気で守らなければならない。
だが観光を守るとは、何でも入れることではない。短期の利益に飛びつかず、来てほしい人が来たくなる空気を整えることだ。土地の価値とは、そうやって守るものだと、田口さんは信じていた。だから、ただにぎわいを増やすやり方には、どうしても乗れなかったのである。それぞれの正義がぶつかったのである。
壱岐がどうすれば良くなり、どこから壊れていくのか。
そのことを深く深く考え続けていた。
田口さんの人生は、どれだけ人に止められても、孤独になっても、火は消えなかった。
本気で島を良くしたいと思っている人間が、一人でも言葉をやめなければ、その地域はまだ終わらない。田口さんは、その可能性を最後まで捨てていない。だからこそ今も、「残したい」と言う。自分の思いつきではなく、生き方そのものとして掴んできたものを、次の誰かに渡したいと願っているのである。
第5章 半世紀以上この島で商いをしてきた——それでも田口さんが最後に残したい夢
半世紀以上、この島で商いをしてきた。
牛に手を入れた。
宿をつくった。
観光に賭けた。
人が来る場所をつくろうとした。
島の未来を本気で考え、時にぶつかり、時に孤独になりながら、それでも歩みを止めなかった。
それだけやってきた人なら、もう十分だと言ってもおかしくない。
壱岐牛は名を持った。
宿もつくった。
この島に、自分なりの爪痕も残した。
けれど田口さんは、そこで人生を締めくくろうとしているわけではない。
八十五歳になった今も、なお「これを残さない限りは、永遠に私の考えは残らない」と言う。
その言葉には、過去を誇る響きよりも、まだ終われない人間の切実さが宿っている。
なぜ、ここまで「残すこと」にこだわるのか。
その答えは、田口さんが語ったIKIGAIの中にある。
田口さんは、自分の人生で一番大事にしている価値観を問われた時、「生まれた以上は何か一つは世の中のためになる男になりたい」と語っている。しかもその言葉は、順風満帆な時に軽く口にしたものではない。自分では頂点を極めたように思えた時期に、それでもなお「何も残してないんじゃないか」と感じた経験の中から、掴み直した言葉だった。
ここに、田口さんのIKIGAIがある。
それは、ただ自分が楽しいことをするという意味ではない。
成功することでもない。
有名になることでもない。
生きているうちに何か一つ、世の中のためになるものを残すこと。
自分が動いたことで、誰かの役に立つ形を残すこと。
そして、できればそれが自分ひとりの満足で終わらず、次の時代にも受け継がれていくこと。
田口さんにとってのIKIGAIとは、そういう“残す責任”を引き受けて生きることだった。
だから、田口さんが本当に残したいのは、
「この島はこうすれば良くなる」という生きた感覚であり、自分が現場で転びながら掴んできた、壱岐の未来の設計図である。
何を育てればいいのか。
何を入れて、何を入れてはいけないのか。
誰がどの役割を担えば、この島の魅力は死なずに済むのか。
その答えを、田口さんは理屈ではなく、自分の人生そのもので確かめてきた。
田口さんが求めているのは、単なる後継者ではないのかもしれない。
本当に欲しいのは、数字だけでは見えない価値を信じられる人だ。
景色に惚れ込める人だ。
土地の品を守ることの意味がわかる人だ。
そして何より、「まだ価値になっていないものを信じる」勇気を持つ人だ。
田口さん自身がそうであったように、周囲にすぐ理解されなくても、自分の中の火を消さずに持ち続けられる人。
その人に出会えた時、この人の夢は“過去の物語”ではなく、“未来へ渡る火”になるのだと思う。
八十五歳。
「最後に残したい夢」。
夢半ばで終われない。
この島で燃やし続けてきた火を、次の誰かが受け取れる形にして渡したいのである。
生まれた以上、何か一つは世の中のためになるものを残したい。
その願いを、八十五歳になった今もなお、田口さんは手放していない。
あとがき
田口さんのお話を伺っていて、IKIGAIを持ち続ける人は、決して生きやすい人ばかりではないということを強く感じた。
むしろ、本気で何かを残したいと願う人ほど、周囲とぶつかる。
見えているものが人より少し先にあるからこそ、まだ誰にもわかってもらえない。
「そこまで言わなくてもいいのに」と思われることもある。
「もう十分やったでしょう」と言われることもある。
それでも言わずにいられない。やめずにいられない。
なぜなら、その人には守りたいものが見えているからである。
田口さんは、まさにそういう人なのだと思う。
ただの種馬だった牛を食肉としての価値に変えた人、宿をつくった人、観光に賭けた人。そう整理することはできる。だが、それだけでは足りない。田口さんは、目の前の事業を成功させること以上に、この島に何を残せるのかを問い続けてきた人だった。
だからこそ、喜びの場面でも、成功の場面でも、どこかでずっと「まだ終われない」という感覚が消えなかったのだろう。
田口さんが語った
「生まれた以上は何か一つは世の中のためになる男になりたい」
という言葉は、とても重い。
それは現場で転び、孤独になり、時に理解されず、それでもなお火を消さずに生きてきた人の実感である。
好きなことをする、楽しく生きる、というだけではない。
自分の人生が、誰かの未来の役に立つ形で残っていくこと。
その責任まで引き受けて、生きようとすること。
それがIKIGAIに繋がっていくのだろう。
時代が変わっても、土地が変わっても、最後に残るのは、きっとこういう人の火なのだろう。
すぐに理解されなくても、扱いづらい熱だと思われても、その火を持った人がいたから、地域は簡単には空っぽにならずに済んできた。
田口さんの人生は、そのことを証明している。
夢半ばで終われない。
その言葉は、執着ではない。
自分の人生が、まだ誰かに渡せるものを持っていると信じている人の言葉である。
あなたは、何を残したいだろうか。
そして、その火を、誰に渡したいだろうか。
私は壱岐の風を感じ、田口さんの情熱を生で感じたからこそ思った。
伝え続ければ、いつか誰かに火を繋ぐのだと。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師