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ご縁をつなぎ、喜びを増やす——受け取った恩を次の人へ渡す経営者の歩み
太田政樹 太田印刷株式会社
受け取った恩を次へつなぐ印刷会社の4代目経営者
静岡県磐田市
太田政樹 太田印刷株式会社さんのプロフィール
太田政樹 太田印刷株式会社
受け取った恩を次へつなぐ印刷会社の4代目経営者
静岡県磐田市
ご縁をつなぎ、喜びを増やす——受け取った恩を次の人へ渡す経営者の歩み
自分が受け取った親切を、あなたなら誰に返すだろうか。
パソコンスクールの経営者と、寝具メーカーの社長。二人を引き合わせたとき、当人たちは、その組み合わせに戸惑ったという。扱う商品も、仕事の内容も違う。パソコンを教える人と、布団や毛布をつくる人の間に、どんな接点があるのか。
彼には、それぞれの仕事の先にいる人が見えていた。スクールへ通う生徒さんも、寝具を購入するお客様も、年齢層が近い。互いの得意なことを紹介し合えば、二人の仕事に新しい広がりが生まれると考えたのだ。
「お二人は、すごく相性がいいと思いますよ。最高のビジネスパートナーになると、僕は思います」
静岡県磐田市で、創業100年を超える太田印刷株式会社の4代目代表取締役を務める太田政樹さん。名入れカレンダーやチラシなどの各種印刷物、看板、ホームページの制作を手がけている。
また、資産コンサルティングを行う合同会社縁の代表であり、ビジネスコミュニティ「Dreams(ドリームズ)」の運営者でもある。静岡や名古屋を中心に、経営者・事業者の交流会の運営、ビジネスマッチング、協業先の紹介など、人と仕事をつなぐ活動を続けている。10年以上続けてきたその活動では、相手の仕事を知り、強みを知り、力になれる人を紹介することを大切にしている。
最初から人のために動くことを中心に据えていたわけではない。かつては、自分が数字を上げ、結果を出すことで精いっぱいだった。家業に入った理由も、長く練った承継の計画とは違うものだった。
仕事を辞めたことを打ち明けた日の、母の涙。お礼を申し出た自分へ、返す相手を教えてくれた先輩。それぞれの場面で出会った人から、太田さんは何かを受け取り、その後の行動を変えてきた。
いま、人をつないだ先で仲間が喜ぶことを、自分の喜びとして受け取る。
その関わり方にたどり着くまでには、
仕事にも遊びにも本気になりながら、人に教わってきた時間があった。
第1章|隣の席から、毎日が変わり始めた
太田さんは、印刷会社を営む家庭に生まれた。母は真面目で、石橋をたたいて渡るような堅実な人。父は人付き合いが好きで、誰とでも友達になってしまうような社交的な人だった。人を楽しませ、周りを温かく迎え入れる父の姿は、経営者となったいまも身近にある。
「母の堅実さっていうのも大事だと思いますし、父は人との付き合い、関係、コミュニケーションをすごく大事にするんです。そういったところは、すごく学ばせていただきました」
父は、前の経営者として会社を支える会長でもある。55歳になった太田さんは、いまも父の器にかなわないと感じているという。その尊敬を、幼い頃から同じように言葉にできていたのかといえば、本人の答えは率直だ。
「してないですよ。いろんなことがあったからこそ、だんだん人間が丸くなってきた感じですね」
小学生の太田さんは、近所の子が泣かされていると、上級生にも向かっていくような子どもだった。1年生くらいの自分が、5、6年生に向かっても、勝てる見込みはほとんどない。それでも、見過ごせずに出ていくところがあった。
一方で、勉強は苦手だった。算数は少しできたものの、1、2年生の頃の成績はよくなかったという。0点のテストを学校の換気口に捨てて、叱られたこともある。そんな日々が変わり始めたのは、3年生の席替えだった。
たまたま隣になったのが、勉強も運動も得意な同級生だった。その子と関わるうちに、勉強や運動を楽しむ感覚に触れた。できなかった自分を振り返る太田さんは、変化を大きな決意として説明しない。
「その子の影響を受けて、勉強も運動も楽しいんだよって。ルーティンが変わったような気がしまして。そこから、4年生、5年生、6年生のときは、学級委員に常に選ばれるような自分になっていたんです」
隣にいる人が変わり、日々の過ごし方が変わった。学級委員を任されることも増え、勉強も少しずつ楽しくなっていった。太田さんが、自分の人生の節目として最初に挙げたのは、この出会いである。
進学校に入ってからは、再び遊びに夢中になった。大学受験では、受けた大学にすべて不合格となる。担任から浪人を勧められても、もう1年勉強する自分を想像できず、別の進路を選ぶことにした。
名古屋の建築の専門学校だった。家業は印刷であり、建築との直接のつながりはない。建物への強い憧れがあって進んだのかと聞かれた太田さんは、その時点の自分を飾らない。
「まだ就職したくなかったから。何にも考えてないというか、なんとなく、建築」
学校の外ではアルバイトをし、給料がたまると仲間と4人で名古屋の街へ繰り出した。目的は、女性に声をかけて遊びに行くこと。ナンパの経験がなく、そう簡単にはうまくいかなかった。
友人たちが疲れ、お金がないと言い始めると、太田さんは自分が出すからと誘い続けた。それでも最後は仲間たちがついてこられなくなり、一人で街へ出かけるようになる。
「僕、本気でナンパしてるんで」
その本気は、声をかける角度にまで及んだ。最初は正面から話しかけていたが、相手の足を止めて会話をするのは難しい。そこで、斜め45度後ろから同じ方向へ歩いた方が、長く話せることに気づいた。うまくいかなければ、話しかけ方も立ち位置も修正する。
さらに専門学校の3年生になると、名古屋のテレビ塔前の待ち合わせ場所で、もう一つの方法にたどり着いた。今度は、ただ声をかけるだけでは足りず、ある役を演じることにしたのだ。
「僕はそこで待ってないのに、待ってるふりをしている。彼女が来ないという設定で、なかなか彼女が来なくてイライラしている男性を演じてた感じですかね」
待ち合わせの約束はしていないので、待てど暮らせど、誰も来ない。そこに、本当に彼氏が来ずに待っている女性がいれば、声をかける。自分も彼女を待っていることにして話すうちに意気投合し、一緒に遊びに行ったこともあったという。
アルバイトで資金を用意し、友人の分まで出し、声をかける角度を変え、ついには待ち合わせの設定まで用意する。当時の試行錯誤を振り返る太田さんの言葉にも、遊びへの力の入れようが表れている。
「本当に小さなことですけど、努力するんですよ。遊びに関しても努力するっていう感じですかね」
ただ、遊びに熱中する自分のまま、働く責任を引き受けられるかは別の話だった。学校を出て入った建設会社で、太田さんはその責任に直面することになる。
第2章|母を泣かせた自分が、仕事をすると決めるまで
建設会社で任されたのは、現場監督の仕事だった。現場では職人たちと関わり、花札をすることもあった。初めは負けていたが、やり方を覚えて修正するうちに、半年ほどで自分の方が強くなったという。人と遊びながら関係をつくった。
やがて上司から、一つの現場を任せると告げられた。数千万円規模の仕事だった。太田さんには、それを引き受ける自信がなかった。
「当時、自信がない自分はどうしたかっていうと、会社を辞めちゃったんですよ」
退職したことを、両親には言えなかった。母は弁当も用意してくれていた。太田さんは作業着を着て家を出て、海を眺め、仕事を終えたように夕方になると帰る。そんな生活を、3か月ほど続けたという。
その頃、友人から、大阪で居酒屋を始めるので手伝ってほしいと声をかけられた。太田さんは大阪へ行くことにし、そこで初めて、会社を辞めていたことを両親へ打ち明けた。母は泣き、父からは家の会社へ来るように言われた。
居酒屋へ行く話を取りやめ、家業に入ったのは12月だった。自分から継ぎたいと申し出たのではなく、それまでの行動の結果として入ることになった。太田さんは、その入り口をはっきりと覚えている。
「二十歳を超えて母親を泣かしちゃったんで、ちょっとこれはいけないなと。自分として、やっちゃいけないことだなと思って。うちの会社に入れていただいた以上、両親に迷惑をかけちゃいけないなと思ったんです」
入社後、いくつかのお客様を担当することになった。与えられた仕事は半日ほどで終わり、午後には時間が空いた。以前の自分なら遊んでいたかもしれない。その時間に、太田さんは会社の仕事を学び始めた。
入社から3か月ほどたった頃、家業の強みが見えてきた。名入れ用のカレンダーを、メーカーから直接仕入れられることだった。同業の印刷会社からも注文が来る。その仕入れの仕組みを使って、新しいお客様へ提案できると考えた。
太田さんが始めたのは、自ら名付けた「勝手に見積もり作戦」だった。知らない会社へ飛び込み、近所で印刷会社を営んでいること、価格を比較したいものがあれば見積もりを出せることを、30秒ほどで伝える。長く話を聞かされるのが自分は苦手だから、相手への挨拶も短くした。
その間に見ていたのが、事務所に掛かっているカレンダーだった。訪問先の社名を入れたものがあれば、その会社にはカレンダーをつくる需要がある。太田さんは絵柄を覚えて帰り、厚いカタログから同じ商品を探し、価格を調べて見積もりを用意した。
「カレンダーを印刷されている会社かどうか、見に行かないと分からないんですよ。会社に入っていかないと。なので、片っ端から知らない会社に入っていって、見させていただいていたんです」
2週間ほどしてから、もう一度訪ねる。前に伺った際にカレンダーを見かけたこと、地元で顔の見える印刷会社として対応できることを伝え、比較用の見積もりを置いてくる。すでに取引のある業者との関係にも配慮しながら、価格が合えば検討してもらうという提案だった。
相手が必要としているものを確認し、同じ商品をいくらで届けられるかを示す。その方法で、年間60件の新規受注につながったという。印刷の仕事を始めたばかりの自分が仕事を取ってくるようになり、社員にも仕事ぶりを見てもらえるようになった。
「真剣に遊んでいく中で、自分の強みとか、勝ち方とか、そういったところを修正しながら整えていく。その感じで、結果を出していったということですね」
母を泣かせた日に決めたことを、太田さんは空いた午後の使い方から変えていった。会社の強みを調べ、自分の足でお客様を探す。家業の仕事に、日々の行動で向き合い始めた。
第3章|お礼を申し出た青年に、先輩が渡したもの
印刷の仕事をするなかで、太田さんはいくつかの団体に参加するようになった。最初の一つが、地域の青年会議所だった。自分より仕事のできる経営者から、地元で仕事をするなら入った方がいいと誘われたのがきっかけである。
1回目、2回目は関心を持たなかった。別々の3人から同じ会を勧められたところで、調べてみようと思った。太田さんには、「3」という数字を判断の節目にするところがある。参加するときも、まずは3年間頑張ってみるつもりだった。
ところが、入ってみると縦の関係が厳しく、戸惑うこともあった。自分が思い描いていた魅力を見つけられず、3年目には辞めようと考えていた。その頃に参加した県全体の委員会で、後の自分の関わり方を変える先輩に出会う。
新人向けの研修に関わる委員会だった。地元の会で自分が講師をするか、委員会の仲間に来てもらって研修を開くか。どちらかを担うことになり、太田さんは委員会の人たちの力を借りようとした。
「自分で先生なんてできないので、委員会の人たちに力を借りて、うちの会に来てもらって研修をしてもらおうと思っていたんです」
委員会へ行くと、太田さんはいきなり、地元へ来て研修をしてほしいと頼んだ。引き受けてもらうまでに、委員会の中でどんな相談があったのかを知ったのは、研修が終わってからだった。
委員会の人たちも、研修を専門の仕事にしているわけではなかった。互いに学び合うために集まっており、ほかの地域へ出向くことには負担もある。太田さんの依頼を受けるかどうか、スタッフの意見は賛成3人、反対3人に分かれたという。
最後に判断をしたのが、委員長だった。太田さんが頼んでくれたのだから、気持ちよく行こう。その一票で、研修の実施が決まった。そうして来てくれた人たちによって、地元の研修は大いに盛り上がった。
事情を聞いた太田さんは、感動した。自分が深く考えずに頼んだことを、相手は相談し、時間を使い、引き受けてくれていた。何かお返しをしたいと思ったものの、何をすればよいのか分からず、そのまま委員長へ尋ねた。
「いろいろあった中で来てくれたというのを聞かせていただいて、僕、感動しましたと。何かお礼、お返しをしたいと思うんですけど、僕にできることはないですかねって、聞いたんです」
返ってきたのは、お返しはいらないという答えだった。委員長は、太田さんもいずれ仲間を引っ張る立場になるだろうと見てくれた。そして、太田さんのように仲間から何かを頼まれたとき、自分がしたように、その人のために気持ちよく全力で動いてほしいと伝えたという。
自分に返す代わりに、同じ関わり方を次へつなぐ。それが最高の恩返しになる。太田さんの回想に残っているのは、そんな言葉だった。
「仲間に同じようなことを言われることが、太田くんも多分あると思うよって。そのときに、気持ちよくその子のために全力でやる。そんな素敵な仲間たちがいるんだということを、継承していってくれって言われたんです」
辞めようと思っていた会の中に、こんな人がいた。太田さんは参加を続けると決め、委員会へ積極的に通うようになった。自分の担当に限らず、準備や裏方の仕事にも手を挙げた。まず、その場で自分にできることを増やした。
やがて、地域の会の理事長をやりたいと考えるようになる。立候補し、その役を引き受けたのは38歳のときだった。活動に時間を使い、年間の大半を会社の外で過ごすことになった。
それまで自分で抱えていた仕事を、そのまま持ち続けることは難しかった。太田さんは、社員へ仕事を託した。外へ出るために必要となったその判断は、人に任せる経験にもなったという。
「さすがに、300日も僕が外を空けるとなると、人に任せないと仕事が回らなくなっちゃった。離さざるを得なくなって、社員に仕事を託したんですよね」
その年の売上は、自身の長い印刷業の経験の中でも上位に入るものだったという。人のために動いたからそうなったのか、その因果を太田さんも言い切らない。いま振り返ると、そういう面もあったのかもしれないと受け止めている。
手元の数字を追い、自分で仕事を抱えていた時間の先に、仲間のために動き、社員に仕事を任せる時間ができた。先輩の言葉を受け取ったあと、太田さんは、実際の関わり方を少しずつ変えていった。
第4章|仕事も遊びも学びにして、知らない街へ会いに行く
太田さんが人との関わり方を学んだ相手は、団体の先輩だけではなかった。飛び込み営業で訪ねた先にも、理想にしていた経営者がいた。仕事ができ、そのうえで遊ぶことにも本気になれる人だった。
「僕がやりたいのは、仕事もできて遊びもできる、そんな自分になりたいというところがありまして。仕事と遊びが両輪でできている経営者になりたいと、常々思っていたんです」
その社長に気に入ってもらい、飲みに誘われるようになった。初めて一緒に出かけた日、太田さんは羽目を外し、飲みすぎてしまう。帰りのタクシーでは社長の肩で眠り、自宅の近くで起こしてもらった。翌日、叱られた。
そこから教わったのが、場を見て、一手二手先を読むことだった。お店のママたちが、相手に合わせてどう会話をしているか。お客様が帰ろうとする頃に、どう移動の手配を整えているか。太田さんは、同席する場でその動きを見るようになった。
「その方が求めていることとか、好みの会話を上手にしゃべっているんですよね。そろそろお帰りになるなというときには、代行の用意をしたりして、一手二手、常に先手で動いているんです」
相手が言葉にして頼む前に、状況を見て準備する。会話と段取りが、目の前の人の過ごしやすさを変えていく。太田さんは、そういうふうに仕事も進めるのかと、遊びの場で学んだという。
社長自身も、自分を先にさらけ出して、相手が安心して関われる場をつくっていた。昼間の仕事ぶりと、夜の人との接し方。その両方を近くで見せてもらった。
「まず自らの手の内というか、素性を見せると、相手が安心するんですよね」
その社長は、いまは亡くなっている。太田さんが教わったのは、会話をうまく進める言い回しに加え、相手が求めていることを見て、自分から動くという関わり方だった。
一方で、太田さんには、自分の仕事を広げたいという思いもあった。資産に関するコンサルティングの会社を立ち上げると、さまざまな人とつながる必要を感じた。どんな仕事の人も、お客様になる可能性がある。団体に参加することと併せて、自分で人が集まる会をつくることを選んだ。
「いろんな人とのつながりがつくりたかったので、いろんな団体に入るのもいいですけど、自分が立ち上げてしまった方が早いかなと思って。自らつくっちゃおうと思ったんですかね」
10年ほど前には、名古屋でもコミュニティを立ち上げた。ただ、人を集める以前に、その街で人を知る必要があった。当時の太田さんには、名古屋に知り合いと呼べる人がほとんどいなかったという。
平日は二つの会社の仕事がある。太田さんは土日祝日を使い、浜松から始発の新幹線で名古屋へ向かった。朝から開かれている交流会、異業種の集まり、経営を学ぶ研修など、人に会える場へ出かけた。
日中だけで切り上げず、夜の集まりにも参加する。帰りは、浜松へ戻れる最終の新幹線に乗った。土曜日に帰宅し、日曜日もまた始発で出かける。月曜日が祝日なら、それをもう一度繰り返した。
「22時14分の新幹線が、浜松に帰ってこられる最後の新幹線でしたので、そこまでに会える場とか、会える人と徹底的に会って。最後の新幹線で一回自宅に帰って、また始発で出ていく感じですね」
そうして通い続けた期間は、3年間に及んだ。人に会い、相手を知り、また別の人に会う。少しずつ、仕事の地域を広げたい人や、人とのつながりを求める人が、太田さんを紹介してくれるようになった。
活動を広げるなかでは、移動や参加に使う費用にも限りが見えてきた。さらに人と会うため、負担を抑えて参加できる場を探し、会う人に尋ね続けたこともある。人をつなぐ活動を続けるために、使える時間とお金、その両方を考えながら、参加する場を選んできた。
第5章|身近な人の喜びが、自分の存在を確かにする
太田さんが交流会で勧めているのは、協業できる相手を探すという見方だ。参加者の多くは、自分の商品やサービスのお客様に出会うことを期待してやってくる。その場で売ろうとすると、互いの提案がすれ違うこともある。
一緒に力を発揮できる人を探せば、つながり方が変わる。自分の仕事をよく知ってもらうことで、目の前の相手が、その先にいる誰かを紹介してくれるかもしれない。太田さんは、その可能性も含めて相手を見る。
「自分のパートナー、自分と一緒にやったら力になってくれる人を探すといいですよ、という視点で参加するといい。場合によっては、その方に自分の仕事を伝えることで、お相手の後ろにいる仲間を紹介してもらう感覚ですね」
冒頭のパソコンスクールと寝具メーカーを引き合わせたときも、その視点があった。スクールには、60歳以上の生徒さんが多かった。写真を年賀状に入れたり、身近な用途でパソコンを使ったりするために通い、先生に暮らしの話をする人もいた。
寝具メーカーは、自社で直接販売する形ではなく、加盟店を通じて商品を届けていた。加盟店の店主にも、その先のお客様にも、高齢の人が多い。太田さんは両者の仕事を知っていたため、年齢層と、それぞれが届けられるものの違いに接点を見つけた。
スクールの生徒さんに、体の悩みや睡眠への関心があれば、寝具を紹介できる。一方、寝具の加盟店のなかにパソコンを学びたい人がいれば、スクールを紹介できる。そう考え、太田さんは、互いを紹介した際にお礼が生まれる仕組みまで相談した。
結果として、スクール側は新たに寝具を紹介できるようになり、売上につながったという。メーカー側からは、パソコンを学びたい加盟店の人をスクールへ紹介することができた。仕事内容だけを並べたときには見えなかった接点が、双方の仕事を知ることで形になった。
「その方のことを知れば知るほど、強みとか、こんな方とつながりたいとか、こんなことができるというのが見えてくる。そうすると、この方とどなたかがつながると相性がいいんだな、というのが、だんだん見えてくるんですよね」
紹介して終わることに加え、どうすれば互いの仕事にとって役に立つのかまで考える。太田さんは、自分の交流会を「結構おせっかい」と表現する。そのおせっかいには、相手の仕事や求めていることを知ろうとする時間が含まれている。
「そんなことをしてあげると、二人が喜んでくれるんですよ。僕はそこに対して、お金をくださいなんて言わないので」
その後、つないだ相手から、新しい人や情報を紹介されることもあるという。太田さん自身の仕事を広げたいという思いと、目の前の人の役に立ちたいという思い。その両方を持ちながら、人との関わりを重ねている。
人生で大切にしていることを聞くと、太田さんは、生まれてきた以上、悔いのないように全力で挑戦することと、人のために関わることを挙げた。けれど、その価値観が昔からあったのかと尋ねると、すぐに否定する。自分が売上を上げ、結果を出すことを優先していた時期も、自分の過去として残っている。
「相手のことを気にしている場合じゃなくて、自分が上がっていかなきゃ、というようなタイプでしたよ。どちらかというと」
いまも事業を経営し、人と会い続けている。その太田さんに、IKIGAIは何かと尋ねると、「難しいな」と考えながら、身近な人のことを挙げた。
「仲間が何か喜んでくれたり、家族が喜んでくれたり。自分の仲間たち、身近な方が喜んでくれると、何かすごく嬉しいですよね」
たとえば交流会で、以前かけた一言が励みになった、そこからやる気になれたと伝えてもらうことがある。自分にとっては小さな関わりでも、相手の中には残っていた。そのことを知ると、自分がここにいる意味を感じられるという。
「僕からすると何もないんですけど、そんな温かい言葉をいただけると、自分が存在していてよかったなって思えるので。そこにお金がついていれば、さらにいいですけど、別にお金がなくてもいいという感じですね」
かつて、何を返せばよいか分からずにいた太田さんへ、先輩は次の仲間のために動くことを教えてくれた。いま太田さんは、相手の仕事を聞き、力になれそうな人を思い浮かべ、自分からつないでいる。その先で誰かが喜び、その言葉が太田さんへ届く。
自分の一言や紹介が、身近な人の次の行動につながる。その喜びを受け取りながら、太田さんは今日も、人と会う時間をつくっている。

あとがき
お礼を申し出た太田さんに、先輩は、次に同じような仲間が現れたら、その人のために気持ちよく動いてほしいと伝えた。その話を聞いて、私は、受け取った親切の行き先について考えた。
助けてくれた人へ返そうとする気持ちが、まだ会っていない誰かのために動く力へ変わる。そこに、人との関わりが続いていく一つの形を感じた。
誰かに助けてもらった記憶には、うれしさと一緒に、まだ何も返せていないという気持ちが残ることもあると思う。
受け取ったものが大きいほど、何をすれば釣り合うのか、考えてしまうこともある。先輩が太田さんに託したのは、同じだけのお礼を返すことよりも、いつか誰かに頼られたとき、その人のために動くことだったように思う。太田さんの歩みから、受けた恩を次の人へ、未来へとつないでいく「恩送り」の姿を感じた。
受け取った親切を思い返すとき、その人が何をしてくれたかに加えて、どんなふうに自分を受け止めてくれたかも大切なのだろう。
忙しい中で話を聞いてくれたこと。うまく言葉にできない相談にも付き合ってくれたこと。そんな記憶が、自分が誰かと向き合うときの、支えになることもありそうだ。
私もいま、一人の人生から受け取ったことを、こうして言葉にしている。
話してくれた人へ感謝を伝えるとともに、その人が大切にしてきたものを、まだ出会っていない読者へ届けたいと思う。この文章を読んだ誰かが、自分を助けてくれた人を思い出すなら、それもまた、この対話の続きになるのかもしれない。
家族にかけてもらった一言、仕事で手を貸してくれた人、何気なく話を聞いてくれた友人。暮らしの中を振り返れば、自分の中に残っている誰かの関わり方が、見つかることもあるだろう。
その中から、自分がこれからも大切にしたいものを一つ選んでみてもいいと思う。
あなたが受け取ってきた優しさを、これから誰に、どんな形で渡していきたいだろうか。
あの日、自分を助けてくれた人の温かさが、今度は自分の手を通して、誰かの日々へ届きますように。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師
WRITER PROFILE
尾﨑弘師 (おざき ひろし)
IKIGAIコネクター/IKIGAI JAPAN 主宰/株式会社ミトミト 代表取締役
これまで延べ1,500人以上に「生きがい(IKIGAI)」をヒアリングし、経営者を中心に100本以上の長編インタビュー記事を執筆。経営者インタビューメディア「IKIGAI JAPAN」を運営し、人生・価値観・哲学・仕事への想いを取材・言語化し、次世代へ残す活動を続けている。
掲げるのは、「その人の人生は、誰にもコピーできない。だからこそ、残すべき価値がある。」という考え方。AIによってコンテンツが大量生産できる時代だからこそ、その人にしかない経験や思想、技術、物語こそが差別化資産になると考えている。
さらに、発掘したIKIGAIをブランド・採用・集客・営業へつなげ、経済の力へ変える「IKIGAIマーケティング」を実践。インタビューによる価値の発掘・言語化を起点に、Webサイト・漫画LP・アニメーションなどのクリエイティブ制作から、広告運用・営業設計まで一気通貫で支援し、「その人だから選ばれる」マーケティングの仕組みを構築している。









