好きな人と、誰かの人生をつくる——「おもろやり」で正しい工事を届ける三代目の信念

中根義将 株式会社しらかわ工芸社

「おもろやり」で正しい工事を届ける三代目

兵庫県神戸市

好きな人と、誰かの人生をつくる——「おもろやり」で正しい工事を届ける三代目の信念

 

あなたは、目の前の仕事を心から面白がれているだろうか。

条件が良ければ楽しい。評価されれば頑張れる。好きな仕事なら夢中になれる。そう思うことはあっても、置かれた環境そのものを、自分の意思で面白くすることは簡単ではない。

宮城県仙台市に、一棟の建物がある。その建物が完成し、1階にセブンイレブンが開店した日、最初の客になったのは、当時、現場監督として工事に携わっていた中根義将さんだった。

何もなかった場所に建物が生まれ、明かりが灯り、人が働き始める。その場所で、誰かの仕事と暮らしが動き出す。

「今でも、その建物の近くに行くと、当時の人たちの顔が鮮明に浮かぶんです」

建物を見て蘇るのは、完成した瞬間だけではない。共に現場へ立った人たちの顔と、その場所から誰かの新しい時間が始まった記憶である。

神戸市で株式会社しらかわ工芸社を率いる、三代目代表取締役・中根義将さん。大林組の現場監督として7年間働いた後、祖父の代から続く会社へ戻り、現在は外装修繕や公共工事、現場監督の育成などに取り組んでいる。

中根さんが人生で最も大切にしているのは、「おもろやり」という自らつくった言葉だ。

関西弁の「おもろい」と、「思いやり」を重ねた言葉である。

「面白い仕事って、別にあるわけじゃないと思うんですよ。目の前のことを楽しめるか、面白いと思えるかは、自分で決められますよね」

自分だけが楽しいのでは足りない。一方で、思いやりを優先するあまり、自分が苦しみ続ける働き方も、中根さんは良しとしない。

自分が楽しもうとするからこそ、目の前の人の役に立とうとする。その両方を手放さないことが、「おもろやり」の核にある。

その価値観は、経営者になって突然生まれたものではない。日常の中に遊びを見つけた祖父と両親。縁に導かれて進んだ建築の道。三度の災害を通して生まれた、生きることへの問い。家業に戻って背負った会社と社員の人生。そのすべてが、「おもろやり」という一つの言葉につながっている。

これは、与えられた道をただ歩くのではなく、目の前の道を自分で面白くしながら、仕事を誇りへ変えてきた一人の経営者の物語である。

第1章|普通の日々を、普通で終わらせない——祖父と両親から受け継いだ「面白がる力」

中根さんは、祖父の代から続く塗装会社の三代目として生まれた。

「二代目の次は、三代目が継ぐんだよと言われて育ちました。だから、夢に向かって生きてきた、という感じではないんです」

家業への強い反発や、決められた人生への息苦しさはなかった。両親は、いずれ家業を継ぐ道を自然に示しながらも、日々の選択まで縛るような人ではなかったからだ。

習い事も、部活動も、アルバイトも、やりたいことは自由にやらせてもらった。自分で考え、興味を持ったことへ積極的に動く。その土台は、幼い頃の環境の中で育っていった。

一方で、進路を明確な夢から逆算してきたわけでもない。人と出会い、影響を受け、その時々で面白そうだと感じた方向へ進んできた。

かつては、幼い頃から夢を持ち、そこへ向かって一直線に生きる人を羨ましく思ったこともあったという。自分には語れるほど明確な夢がない。行き当たりばったりに見える自分の人生と比べ、眩しく感じた時期もあった。

 

しかし、中根さんの家庭には、夢という遠くの目標とは別の、生きるための大切な知恵があった。

それは、今いる場所を最大限に楽しむことだった。

父親は、家族で旅行に出かけると、行きと帰りで同じ道を選ばなかった。同じ道を戻れば早く、迷うことも少ない。別の道を通れば、行きには見えなかった景色に出会える。

日々の食料品の買い物でも、ただ商品をカゴへ入れるだけでは終わらない。会計前になると、「全部でいくらになるか」を当てるゲームが始まる。何気ない買い物が、家族で楽しむ小さな遊びに変わった。

祖父もまた、普通のものを普通のまま見ない人だった。

手先が器用な職人であり、ご飯を食べるときには「こうやって食べたら、もっとおいしい」と工夫する。家の壁紙を眺めて、人の顔に見える模様を探す。誰もが見過ごすような日常の中から、面白さを拾い上げていた。

「目の前にある普通のことを、普通じゃなく楽しむ人でしたね」

人の悪いところより、良いところを探す。頼まれたことを簡単には断らない。同じことをするなら、その中に楽しさを見つける。

中根さんは、言葉ではなく、そう生きる家族の背中から「面白がる力」を受け取った。

前へ進めたのは、どこへ行けば面白いかではなく、今いる場所をどう面白くするかを、家族の姿から知っていたからだった。

第2章|夢を決めなくても、目の前には本気だった——縁に導かれた建築への道

中根さんが進路を決めるとき、建築系以外の道はほとんど考えなかった。

工業高校へ進み、その後は福井大学建築建設工学科で学ぶ。大学進学も、本人が強く望んだものではなかった。高校卒業後は、どこかで働くことも考えていたという。

そんな中根さんに、母親は「絶対に大学へ行きなさい」と勧めた。

「今思えば、大学へ行かせてもらえて本当によかったです。そこには親の愛情があったんだと思います」

高校ではラグビー部に所属した。大学でも続けるつもりだったが、福井大学には正式なラグビー部がなかった。そのとき声をかけてきたのが、アメリカンフットボール部のコーチだった。

「熱烈に口説いてもらえたのがきっかけでした。それも、すごく良かったと思っています」

ラグビー経験者でもあるコーチから、「アメリカンフットボールでしか学べないこともある」と誘われた。その言葉に心が動き、中根さんは入部を決めた。

自分で緻密に計画して選んだ道ではない。人に誘われ、縁を受け取り、面白そうだと感じた場所へ飛び込んだ。

そして、その選択が大林組への入口になる。

大学4年生のとき、アメリカンフットボール部のつながりを通して、大林組のリクルーターがやってきた。

「建築系の学生はいないか。説明会だけでも来てほしい」

そう声をかけられ、話は驚くほど早く進んだ。

大林組を他社と比較して選んだわけでも、企業研究を重ねたわけでもなかった。受けたのは、その一社だけだった。

「説明会だけでも、と言われて行ったら、そこからあれよあれよという間に決まっていきました」

入社後、最初は東京へ配属された。大きく華やかなオフィス。地方から出てきた青年にとって、新鮮な毎日だった。

しかし、現場へ出ると空気は一変した。

「最初は、なかなかインパクトが強かったですね。オフィスとは違う、現場の生の空気がありました」

荒い言葉が飛び交い、職人たちが真正面から意見をぶつける。塗装会社の家に生まれていても、家業の現場を詳しく見たことはほとんどない。職人の世界を初めて肌で知る日々だった。

千葉県船橋市の自宅から、現場まで電車で約1時間。毎朝4時51分の始発に乗った。終電になる日も、徹夜する日もあった。

だからといって、ただ長時間働くことを正義にはしなかった。

職人と食事へ行く日は、始発で誰もいない現場へ入り、先に仕事を終わらせる。「今日は帰ろう」と決めた日は、新人であっても残業せず、上司より先に帰ることもあった。

自分で段取りを組み、自分で時間をつくる。その働き方は、のちに『スマートゼネコンマン』という著書へつながっていく。

怒られることもあった。相性の合わない人に出会い、うまく付き合えず苦しんだこともある。それでも、大林組時代を振り返った中根さんの口から出た言葉は、次のようなものだった。

「本当に毎日、楽しかったですね」

目の前の仕事を面白いと思えるかどうかは、自分で決められる。中根さんは、建設現場でその感覚を確かなものにしていった。

第3章|「いつ帰ってくるんだ」——三度の災害と、祖父の一言が変えた人生

仕事は楽しかった。大きな会社で、規模の大きな建物をつくる。職人と力を合わせ、自分の段取りによって現場が動いていく。自分が社会の役に立っているという実感もあった。

そんな日々の中で、中根さんの胸には少しずつ一つの問いが生まれていた。

中根さんは小学生のとき、神戸で阪神・淡路大震災を経験した。大学進学後には、福井豪雨による水害に遭った。そして社会人になり、仙台で働いていた時期に東日本大震災が起きた。

震災発生時、中根さんは金沢へ出張していた。その後、2週間ほど体育館で過ごした。仙台へ戻ると、車も家も失い、仕事道具だけが手元に残ったという職人もいた。

仕事も、家も、昨日までの日常も、一瞬で失われることがある。その現実は、胸の奥にあった問いをさらに大きくした。

人生の節目ごとに、当たり前だった暮らしが突然崩れる光景を見てきた。

「なんとなく、いつか自分も死ぬんだろうなと思ったんです。いつか死ぬなら、このまま働いていていいのかな、という気持ちはありました」

働くことが嫌だったわけではない。むしろ、充実していた。だからこそ、問いは単純ではなかった。

楽しく、恵まれている今のまま人生を終えたとき、本当に後悔しないのか。自分が受け取ってきたものを、どこへ返すのか。

そんなことを考えていた年の暮れ、神戸の実家へ帰省した。

それまで祖父は、一度も「会社へ帰ってこい」と言ったことがなかった。家業を継げと迫ったこともない。その祖父が、初めて口にした。

「いつ帰ってくるんだ」

「おじいちゃんに初めて頼られた、というのがあったんです。それが嬉しかったんだと思います」

中根さんは、その一言を帰るタイミングだと受け取った。

すぐに会社を辞めたわけではない。会社にも、任されていた仕事にも恩がある。

退職の約9か月前、上司へ意思を伝えた。

「来年の3月で辞めます」

決意したからこそ、急に背を向けることはしなかった。残された時間で自分の仕事を終え、世話になった会社へ筋を通す。丸7年をやり切り、2015年3月に退職した。

家族からは反対の声もあった。収入は下がる。大企業で積み上げたキャリアや安定も手放すことになる。それでも、中根さんには不思議なほど不安がなかった。

「俺だったらできる、という感覚がずっとありました。無鉄砲だったのかもしれません。でも、実家も近いし、何とかなるだろうと思っていました」

しらかわ工芸社へ入ると、最初の半年間は職人として現場に立った。前職では監督する側だった人間が、今度は自分の手を動かす。しかも、社長の息子という立場である。中根さん自身、周囲との接し方に気を遣う毎日だった。

それでも、「こちらの方がいい」と思えば、相手が誰であっても意見を伝えた。大林組時代も、家業へ戻ってからも、その姿勢は変わらなかった。

最初から何でもできたわけではない。職人から厳しく怒られることもあった。それでも距離を置かず、自分から近づいた。

「ものすごく怒られた次の日でも、普通に、何事もなかったかのように話しかけに行くんです」

負けず嫌いだからこそ、翌日には見返したいという気持ちが湧いたのだ。

その姿勢の原点には、両親との記憶がある。

どれほど激しく喧嘩をし、ひどいことを言ってしまった翌日でも、母親はいつも通り朝食を用意してくれた。怒りを翌日まで引きずり、何度も責め続ける人ではなかった。

昨日は昨日。今日は今日。

中根さんが自分から近づき続けると、職人たちも少しずつ心を開いた。「成長したな」「やるじゃないか」。そんな言葉をもらえることが、何より嬉しかった。

現場監督から職人へ。大企業から地域の会社へ。

環境が変わっても、中根さんは目の前の場所を面白がり、本気で向き合うことをやめなかった。

第4章|「俺だったら、できる」——31歳で背負った会社と、人を活かす経営

家業へ戻ってから、中根さんは経営を学ぶため、複数の経営者団体へ足を運んだ。そこで経営計画書の存在を知り、自分なりに会社の未来をまとめて父親へ見せた。

その計画書を読んだ父親から、思いがけない言葉が返ってきた。

「代わろう」

入社から2年。中根さんが31歳のときだった。

父親自身は、祖父が脳梗塞で倒れたことをきっかけに、急遽会社を継いでいた。準備する時間も、選ぶ余地もほとんどなかった。

だからこそ、自分の息子には同じ思いをさせたくない。自分が元気なうちに任せ、困ったときには支えられる状態で代を渡したい。その愛情と、中根さんの覚悟が重なった。

代表になって見えた会社の現実は、簡単なものではなかった。就任当時、会社は3期連続の赤字に加え、債務超過の状態にあった。

「もう少し早く帰っていたら、防げたこともあったのかなと思ったことはあります。でも、早く戻っていたら、そのときの自分には経営する実力がなかったかもしれません」

中根さんが最初に手をつけたのは、保険をはじめとする支出の見直しだった。当時の会社にとって負担の大きい契約もあったという。必要性を一つひとつ確かめ、不要なものを整理した。

同時に、会社全体の収益構造にも手を入れた。売上を増やすことだけに目を向けず、利益がどこに残り、資金がどこから出ていくのかを見直していった。

その結果、就任1年目で黒字化し、2年目には債務超過を解消した。

ただ、そこで経営が安定したわけではない。コロナ禍をはじめ、いくつもの要因が重なり、会社は再び利益面で厳しい時期を迎えた。

一度は数字を立て直したからこそ、その先にある課題も見えてきた。会社を持続させるには、目先の収支を整えるだけでなく、誰と、どんな組織をつくり、次の世代へ何を残すのかまで考えなければならない。

「ようやく、ここからですね」

中根さんは現在を、会社の第二創業期と捉えている。収益構造を整える段階を経て、次に向き合っているのは、社員一人ひとりが力を発揮できる組織をどうつくるかという問いである。

そのなかで重要なテーマになっているのが、「人を活かすこと」と「人に依存すること」の違いだ。

「その社員のビジョンと会社のビジョンが重なっていれば、滅多に離れることはないと思うんです。もし別の道へ行くとしても、同じ役目の人間を育ててから辞める、という感じになると思います」

中根さんが見ているのは、売上の比重だけではない。社員と会社が、同じ未来へ向かっているかどうかである。

もちろん、すべての社員と最後まで同じ道を歩めたわけではない。考え方が重ならず、会社を離れた人もいた。

人を大切にすることと、誰にでも居続けてもらうことは同じではない。その現実も受け止めながら、中根さんは、共に進むための言葉と対話を積み重ねている。

そのためには、社長の頭の中にある思いを言葉にしなければならない。指針書をつくり、日々の行動を理念と一致させる。理念から外れる行動があれば、命令で押さえつけるのではなく、時間をかけて話す。

効率だけを考えれば、遠回りに見える。それでも中根さんは、人間にしかできない仕事を残そうとしている。

「AIができるような仕事は、いずれAIやロボットがやるようになります。だから、AIができない人材になろうと伝えています」

会社の指針として「超属人性」を掲げる一方で、特定の社員に仕事が集中すれば、その人が休めなくなる危険もある。

個人の力を活かすことと、社員が無理なく働ける環境をつくること。その両立は簡単ではない。中根さん自身、「できている部分と、まだできていない部分がある」と率直に語る。

やりたい人は挑戦すればいい。早く帰りたい人の給与を、それだけで下げることはしない。成果を出した人には還元する。それぞれの意欲を尊重しながら、健康を損なう働き方にはしない。

現在、主要メンバーは9人。野球チームのように、役職で上下をつくるのではなく、一人ひとりにポジションと役割を持たせようとしている。自分がチームに必要とされていることを感じられる配置を考えているのだ。

採用面接も、社長一人では決めない。社員たちが面接し、皆が「一緒に働きたい」と思えば採用する。

社員から「いい子なので採用しましょう」という声が上がっても、そこで話を終わらせない。

「じゃあ採用しよう。でも、給与と社会保険料を合わせるとこれくらいかかる。今期の営業利益が下がれば、みんなの賞与も減るよね。それでも採用する?」

すると社員も、「自分の賞与が減るのか」と立ち止まって考えるという。

誰かを雇うことは、その人の生活を引き受け、自分たちの利益を分け合うことでもある。現実を知ったうえで迎えると決めたなら、育てる責任も社長だけのものではなくなる。

人を活かす経営に、完成形はない。

中根さんは社員と一緒に考えながら、会社の次の形をつくろうとしている。

第5章|好きな人と、ものづくりをする——正しい工事を誰もが手にできる社会へ

第二創業期を迎えたしらかわ工芸社が掲げているのは、「正しいリフォーム工事を世の中に届ける」という使命である。

ここでいう「正しい」とは、会社が売りたい商品を売ることではない。業者側が優れていると考える工事を、一方的に勧めることでもない。

「お客様が望む未来を実現するための工事を提案する。それを、僕たちは正しいリフォーム工事と定義しています」

自分たちが良いと思っていても、相手が望んでいなければ正しいとは言えない。目の前にある傷みだけを見るのではなく、その人が建物をどう使い、そこでどんな暮らしや仕事を続けたいのかを知る。

工事は、その未来を実現するための手段である。

中根さんがこの使命を掲げる背景には、リフォーム業界の構造に対する危機感がある。

建物は、人が長い時間を過ごし、生活や仕事の土台となる場所だ。それにもかかわらず、一定金額未満の工事では建設業許可がなくても請け負えるため、十分な知識や経験を持たない事業者が参入することもできる。

誰を信じ、どの工事を選べばいいのか。消費者が自分だけで見極めるのは難しい。

だからこそ、正しい工事を特別な人だけのものにせず、誰もが手にできる社会にしたい。

会社としては、外壁、屋根、屋上などの外装修繕へ軸足を移した。何でも請け負うのではなく、自分たちが責任を持って価値を届けられる領域へ集中する。

一方で、地元の人から寄せられる水漏れや鍵、窓の不具合など、「どこへ頼めばいいか分からない」小さな困りごとには、暮らしの修繕として応えている。

さらに、公共工事や大規模修繕にも挑み、中根さん自身は大きな現場で培った知識を次の世代へ渡している。

「自分が指導している子が成長する。それは、やっぱり面白いです」

誰かが成長し、できなかったことができるようになる。その人と一緒に、形のなかったものを形にしていく。そこにも「おもろやり」がある。

中根さんにIKIGAIとは何かを尋ねると、飾り気のない答えが返ってきた。

「好きな人と、ものづくりをすることでしょうね」

つくったものに明かりが灯る。店が開く。人が集まる。そこで誰かが働き、生活し、新しい時間を重ねていく。

建物だけが残るのではない。

一緒につくった人の顔が残る。その場所を使う人の人生が始まる。そして、自分の仕事が誰かの力になったという実感が、自分の中にも残っていく。

「『おもろやり』は、目指すものというより、自分の価値観なんです。正しい工事を誰もが手にできる社会にする。その活動の中で、『おもろやり』を大切にしていくということですね」

「おもろやり」は、会社が到達すべき目標ではない。正しい工事を届けるために、中根さんが日々の判断で立ち返る価値観である。

自分が面白がる。だから、本気で向き合える。

相手を思いやる。だから、独りよがりにならない。

その両方を大切にしながら、正しい工事を誰もが手にできる社会をつくっていく。

中根さんのものづくりは、建物が完成したところでは終わらない。

その場所で誰かの人生が動き出したとき、仕事は自分と相手の人生を豊かにするIKIGAIへと変わるのだ。

あとがき

中根さんとの対話を通して、私は「仕事を面白がる」とは、気分よく働くこと以上の意味を持つ言葉だと感じた。

仕事には、自分で選べないことがある。環境、役割、目の前の課題、人間関係。思い通りに進む日ばかりではない。だからこそ問われるのは、その状況をどう受け取るかだ。

中根さんは、そこに「おもろやり」という言葉を置いている。

自分が面白いと思えること。
目の前の人の力になること。

この二つが重なったとき、人は仕事に深く向き合えるのだと思う。

面白さは、誰かが用意してくれるものだろうか。条件が整ってから、初めて見つかるものだろうか。

中根さんの人生は、その問いに一つの答えを示しているように感じた。

目の前の仕事の中に面白さを見つける。自分の仕事が誰かの役に立っていると実感する。その積み重ねが、困難な場面でも前へ進む力になる。

ただ、自分だけが面白がって終われば、それは独りよがりにもなり得る。

だから「おもろい」の隣に、「思いやり」がある。

自分の提案が相手の望む未来につながっているか。自分の仕事が誰かの安心や喜びを増やしているか。そして、自分の頑張りが周囲の誰かを置き去りにしていないか。

そう問い続ける姿勢まで含めて、「思いやり」なのだと思う。

中根さんが向き合う経営の問いも、そこにつながっている。人を活かすこと。利益を守ること。仲間と未来をつくること。そのすべてについて、社員と対話しながら答えを探し続けている。

話を聞き終えたあと、私の中には一つの気づきが残った。

目の前の仕事が面白くなるのを待つのではなく、自分から面白さを見つけにいく。そして、その力を誰かのために使う。そこから仕事への誇りが育ち、やがてIKIGAIへつながっていくのだと思う。

中根さんから受け取った「おもろやり」という言葉は、今度は私たちに問いを渡している。

あなたは今、何を面白がっているだろうか。
その面白さを、誰のために使いたいだろうか。

その答えの中に、あなた自身のIKIGAIが眠っているのかもしれない。

IKIGAIコネクター
尾﨑弘師

 

しらかわ工芸社ウェブサイト

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