世の中が楽しくなればいい——過去をすべて「よし」として、地域に音楽をつなぐ

世の中が楽しくなればいい——過去をすべて「よし」として、地域に音楽をつなぐ

柳澤宏之 とよた・音楽の大河プロジェクト

音楽を通して、人と地域をつなぐ音楽文化の担い手

愛知県豊田市

世の中が楽しくなればいい——過去をすべて「よし」として、地域に音楽をつなぐ

あなたは、これまで自分が選んできた道を、どこまで「よし」とできるだろうか。

あの会社に入っていなかったら。
あの人と出会っていなかったら。
あの失敗をしていなかったら。
人生を振り返れば、いくらでも「もし」は浮かんでくる。
柳澤宏之さんは、それを否定しようとはしない。過去に戻れば、別の選択肢があったと思うこともあるという。

ただ、今はこう考えている。
「過去は、すべてよしとするということですね。過去に引きずられない。今を悔やむことなく生きていける。それが一番かなと思います」

愛知県豊田市で「とよた・音楽の大河プロジェクト」を運営する柳澤さんは、地域にクラシック音楽を届けるコンサートの企画やアートマネジメントに取り組んでいる。
前身の「益富クラシックファン倶楽部」は、2022年までに40公演を実施した。
一方で、柳澤さんは「アマチュア無線サポーターズ豊田」の代表も務めている。

柳澤さんの人生をたどると、人に言われた道を素直に歩いた少年時代、内申書をきっかけに選んだ高専、会社で「できない」と力不足を吐露した経験、PTAから始まった地域活動、そしてレコード鑑賞会から40公演へ広がった音楽活動がある。
一見ばらばらに見える歩みを、柳澤さんは「過去はすべてよし」と受け止めている。今考えているのは、自分が続けてきたものを、どう次の人へ渡していくか。
これは、過去に引きずられず、今できることを続けながら、その先を誰かへ託そうとする一人の生き方の記録である。

第1章|「行くんだよ」と言われたら行った——知らない場所へ入っていった少年時代

幼い頃の柳澤さんは、自分の意見を強く押し通す子どもではなかったという。
「『こうだよ』『こうするといいよ』と言われたら、『そうかな』って。そのまま従っていました。嫌だと言うことは、あまりなかったですね」
柳澤宏之さんの活動の様子

地元の保育園から県外の小学校へ進む。家族から「この学校へ行くよ」と言われれば、その学校へ行った。
小学1年生の二学期からは、独りで汽車に乗って小学校へ通った。周囲の子どもとは違う環境だったが、不思議だとも、嫌だとも思わなかった。
柳澤さんは当時を「何も考えていなかったとも言えます」と笑う。

小学校から中学校への進学を除き、柳澤さんは知らない子どもや青年がいる環境へ何度も飛び込んできた。

柳澤さん自身は、その経験が今、「一人でどんな組織や集団にも入っていける素養」につながっていると振り返っていた。
父は地方銀行の銀行員だった。
数年おきに支店を転勤し、仕事柄、多くの人と接していたという。家庭で頻繁に人生訓を語る父ではなかった。

その中で、柳澤さんが覚えている言葉がある。
「やるなら、とことんやれ」

組織に入ったなら、自分にできる範囲で責任を持てるところまでやる。小さな組織でも、中間の組織でも、自分が引っ張れる立場を目指してみる。
「こうしなさいと言われた覚えは、あまりないです」

父は社交的な人でもあった。
銀行員として外へ出れば、多くの人と話す。親戚が集まる場でも、面白い話をして、その場を和ませていたという。
柳澤さんは、その姿を自分の現在と重ねる。

「自分がお客様になるんじゃなくて、ホスト側としてみんなを楽しませるような感覚は、たぶん父から映っているんじゃないですかね」

強い教育方針を言葉で受け取ったわけではない。
知らない場所へ行く。まず周囲を見る。その中へ入る。頼まれた役割をやってみる。
その時々に与えられた場所へ入り、やると決めたならその環境と、とことん向き合っていた。

柳澤宏之さんの活動の様子

第2章|内申書が変えた進路——選んだあとは、その道を歩いていく

中学校から高校へ進む頃、柳澤さんの進路を左右したものがあった。
内申書である。
当時、公立高校の入試では学校内での成績が重視されるようになっていた。

柳澤さんが通っていた学校には、学力の高い生徒が多かったという。その中で自身の順位を考えると、希望する県立高校への進学は難しいと判断した。
「その時は、『なんで内申書なんかあるんだよ』と思いますよね」

そこで選んだのが、入試制度の異なる国立高専だった。
もともと工学系へ進みたい気持ちはあった。本当は電気科に行きたかったが学力が足りず、最終的には機械工学を学び、設計製図、材料力学など、技術者として必要な基礎に触れていった。
進路を変えるきっかけになった内申書。

当時は納得できなかった。しかし、今振り返れば、その制度があったから高専へ行き、その後の人生へ続いた。
「内申書にもいい面、悪い面はあると思います。でも結果として、それがあったから今の高専に行ったわけですから」

選択した後は、そこにいつまでも引っかからなかった。
高専卒業後、柳澤さんはトヨタ自動車へ入社する。
最初からトヨタ自動車だけを目指していたわけでもない。先に石油精製プラントに関わる別の仕事を受けるなど、いくつかの可能性の中から就職先を決めたという。

会社員になった当初は、指示された仕事を一つずつこなした。
しかし、職場や役割が変わるにつれ、設備導入のための予算を取り、企画書を作り、上司へ説明する仕事も増えていく。
そこで一度、なかなか通らなかった企画が通ったことがあった。
なぜ今回は通ったのか。
柳澤さんは、自分の資料を振り返った。
まず全体像を示す。そこから細部へ入る。そのうえで、なぜこの設備が必要なのかを説明する。それまでの資料では、いきなり「この設備が必要です」という話から入ることが多かった。

「最初のビジョンがなかったんですよね。何のためにやるのかという全体像を示して、そのあとに細部へ落としていく。その時に一つ、やり方として得たものです」

その後は、この順序で説明することが増えた。
本人は「普通の人なら、すいすいやっているような話です」と何度も断った。
一度うまくいかなかった。違いを考えた。やり方を変えた。次から使った。
会社員時代には、そうした小さな修正を何度も繰り返していった。

第3章|「これは、できない」——期待に応えられなかった経験が残したもの

会社員時代、柳澤さんには今も記憶に残る仕事がある。
バブル崩壊の頃だ。
トヨタ自動車は、多くの関連企業や取引先とともにものづくりを行っている。当時、関係する企業の現場へ入り、仕事のやり方に無駄がないかを一緒に見直す活動が進められていた。
柳澤さんは本来の所属とは異なるものの、現場経験を積む意味もあり、その活動に加わった。

集められていたのは、改善や問題発見に長けた人たちだった。
その中で、複数の企業で共通して使えるリスクマネジメントの書式やチェックリストをまとめる話が出た。
そして柳澤さんに、
「お前、まとめろ」
と役目が回ってきた。

手をつけてみた。
しかし、まとまらない。
自宅へ仕事を持ち帰り、考え続けた。
「頭の中がぐるぐる回るだけで、全然まとまらないんです。これはあかんな、と」

期待されて任された仕事だった。できないと言えば、期待に応えられない。
詳しい人に相談すると、「できないなら、できないと言った方がいい」と言われた。
その言葉を聞き、柳澤さんは役割を果たせないことを正直に伝えた。最終的には別の人へ担当を交代してもらったという。

「恥ずかしながら、そういうことがありました」

自分にできなかった仕事があった。誰かに助けてもらった。役割を代わってもらった。
後に柳澤さん自身も管理する立場になった。
そこで、人には言いにくいことがあるという前提で接するようになったという。

「何か困っている話なんだろうな、という感覚で声をかけます。怒って詰めたところで、なかなか言えないこともありますからね」

仕事の中では、自分のミスによって相手へ迷惑をかけたこともあった。お互いの理解が食い違ったこともある。そんな時、柳澤さんはメールだけで済ませないようにしてきた。
会える距離なら会う。難しければ電話をする。

「メールで『ごめんね』と送っても、本当にそう思っているのか分からないじゃないですか。少なくとも電話で肉声で話す。一番いいのは、直接会うことですね」

お願いがある時も同じだった。
相手との間に何か問題が起きた時ほど、できるだけ直接話す。
できなかった仕事。迷惑をかけた経験。相手の話を聞かなければ分からなかったこと。
そうした出来事も含めて、今の柳澤さんは「過去をすべてよし」としている。

第4章|頼まれて入った地域活動が、40公演になった——レコードから始まった音楽の場

音楽活動の始まりに、大きな決意があったわけではない。
会社で音楽事業を任されたわけでもない。
子どもが中学生だった頃、PTA役員を頼まれたことが入口だった。
副会長や会長などの役割を担ううちに、中学校区の地域コミュニティにも関わるようになる。
そこからさらに、地域の将来課題について考える活動にも「入ってくれ」と声をかけられた。
「私の場合、そういうのは多いんですよ。頼まれて入りました、というのは」
月に一度、地域の人たちと話し合った。
自分たちが暮らす地域に、どんな課題があるのか。

その一つが高齢化だった。
高齢化が進み、新しく住む人が入ってこなければ、地域の活力は落ちていく。では、新しい人から「ここに住みたい」と思ってもらうには何が必要なのか。
里山や寺など、地域資源をPRしようという人がいた。地図をつくろうという案も出た。
その中で柳澤さんは、音楽を担当した。

「音楽の文化活動が盛んな街だと思ってもらえるようなイベントをやりましょう、と」

最初からプロの演奏家を大勢招けるような予算はない。
そこで始めたのが、レコードだった。
柳澤さん自身もレコードを持っていた。周囲に聞けば、「うちにもあるよ」という人がいた。
レコードを持っていても、家ではもう聴く機会が少ない。それなら持ち寄って、みんなで聴けばいい。
小さなレコード鑑賞会を100回続けて、音楽による地域活動が動き始めた。
やがて、生の演奏を届けるコンサートへ発展する。
前身となった「益富クラシックファン倶楽部」は、豊田市益富地区出身の若手音楽家を中心に演奏会を企画し、2022年までに40公演を実施した。

ピアノとヴァイオリンから始まり、弦楽四重奏など、企画する編成も少しずつ広がった。
回数も増えた。
柳澤さんには、一年に一度だけ大きな演奏会をする考えはなかったという。

「年に一回やって、『音楽文化が盛んな街です』と言っても、なかなかそうは見えないですよね。しょっちゅうやっている街だよね、と思ってもらいたかったんです」

続けるうちに、活動は大きくなっていった。
演奏者が増える。企画も増える。一公演あたりの規模も大きくなる。
当然、必要なお金も増えていく。
地域コミュニティの公的な予算で賄える範囲を超え、組織から活動の規模を考え直してほしいと言われた。
柳澤さんは笑って振り返る。

「要は、やりすぎました。やりすぎたつもりはないんだけど、やりすぎました」

そこで、元の地域には一つの演奏会を残し、それ以外の活動を外へ持ち出すことにした。
行政や地域組織の枠組みに依存せず、もっと自由に企画できる形にする。
そうして2023年4月、「とよた・音楽の大河プロジェクト」が設立された。
現在はクラシック音楽のコンサート企画・開催だけでなく、アートマネジメントの研究や、次の企画・運営の担い手を増やす活動も掲げている。
始まりは、頼まれて入ったPTAだった。

そこから地域の会議へ入り、地域の魅力を考え、家にあったレコードを持ち寄り、やがて40公演を企画するまでになった。
なぜ、そこまで時間も手間もかけられるのか。
「入ったら入ったで、仲間ができるじゃないですか。そこで何か話をしていたら面白い。楽しいんですよね」

第5章|「夢というより、まだ課題です」——自分がいなくても続く形をつくる

現在の柳澤さんには、一つの大きな課題がある。
活動をどう引き継ぐかである。
自分が永遠に活動を続けられるわけではない。
現在の運営メンバーも協力してくれている。
ただ、柳澤さんと同じだけの時間や熱量を持って、全体を引っ張る人がすぐにいるわけではない。

「お手伝いならできる、という人はいるんです。でも、このプロジェクトを引っ張っていくところまでは、なかなか難しいですね」

柳澤さんが一つの可能性として考えているのは、これまで演奏会へ出演してきた豊田市出身の音楽家に、将来、責任者として入ってもらうことだ。
ただし、渡せば終わりではない。引き継いだ人が続けられる状態にしなければ意味がない。
そこで必要になるのが、収支である。
柳澤さん自身は、多くの時間をボランティア的に使ってきた。
しかし、次の人にも同じ条件を求めれば、継続は難しい。

「経営として成り立つと、人に移せるわけです。今のやり方じゃなくて、もう少し現実的なやり方にしないと引き継げないと思います」

コンサートを開きたいという気持ちだけでは、次には渡せない。
どの規模なら続けられるのか。どの程度の収入と支出なら成り立つのか。誰が責任を持つのか。柳澤さんは、それを考えている。

「夢っていうよりも、まだ課題の状態ですね」

もし引き継ぐ人が見つからなかった場合も考えている。これまで何をやってきたのかを記録に残す。過去の企画や経験を、次の人が使えるような状態にしておく。
「ああいう人がいて、10年間やっていたよね、と。それぐらいでも記録に残して、次の人が使えるようにしておく」

全く知らない人から急に多くの反応が集まることよりも、実際に一緒に動き、活動を理解した人が支え、そこから次につないでくれる方がいい。
「私たちの活動を知ってもらって、その先から外へ広がっていく形がいいです。脚色された形での広まり方は、あまり好みません」

必要な人と関わる。一緒に活動する。その中から次の担い手が生まれる。続けられる仕組みをつくる。
柳澤さんは、その途中にいる。
そして取材の最後、柳澤さんに「IKIGAIは何ですか」と聞いた。

「IKIGAIね。なぜ頑張れるか……」

少し考えた後に出てきたのが、こんな言葉だった。
「世の中が楽しくなればいいんじゃないですかね。自分がイベントをやったり、何かをやったことで、それが人に楽しみを与えていると感じられれば、それはIKIGAIだと思います」

本人は「大したことじゃないんですよ」と言う。
けれど、時間を使う。お金を使う。人に声をかける。会場を押さえる。演奏者と調整する。お客様が来る場所をつくる。
そして、その場で誰かが音楽を楽しむ。

「過去をすべてよしとする」という価値観。

自分で選んだものもある。親から与えられたものもある。周囲の人から方向を示してもらったこともある。当時はうっとうしいと感じた人もいた。できなかった仕事もある。思ったようにいかなかったこともある。

「そういう人がいたから、そういうことがあったから、今があるんだろうと思っています。その人のことを、今は別に悪く思うこともないですね」

過去は変わらない。
「今こうして自由に活動できている。肉体的にも、精神的にも、周囲の方々との交流も含めて、今あることを幸せに思っています。もっと幸せになることもあるのかもしれないけれど、今の自分が最大限やっている上では、もうこれが幸せの極みだと思っています」

柳澤さんの活動は、まだ完成していない。
引き継ぎという課題と向き合う今を、柳澤さんは「幸せの極み」と語る。

柳澤宏之さんの活動の様子

あとがき

柳澤さんとの対話を終えたあと、私の中に残ったのは、「過去をすべてよしとする」という言葉だった。
過去をよしとするというのは、起きた出来事を美しい思い出に変えることではない。
内申書に納得できなかったことも、会社で「できない」と認めた経験もある。地域活動だって、本人の言葉を借りれば「頼まれて入った」ことから始まった。

それでも柳澤さんは、それらを切り離さない。
なぜなら、その一つひとつがあって、今の自分がいるからだ。
私はこの言葉を聞きながら、過去との向き合い方について考えた。

人はどうしても、うまくいかなかった出来事を消したくなる。もっと違う選択ができたのではないかと考えることもある。
けれど、その出来事を消した先にいるのは、今の自分ではない。
良かったことも、悔しかったことも、自分では選べなかったことも含めて受け取ったとき、ようやく過去は「後悔」ではなく、自分が歩いてきた道になるのかもしれない。

あなたには、まだ「なかったことにしたい」と思っている過去があるだろうか。
もしその出来事も含めて今の自分がいるのだとしたら、いつかあなたも、それを「よし」と言える日が来るだろうか。

もしかすると、過去のすべてを「よし」とできたとき、人はどんな今であっても、その今を自分にとって一番幸せな時間にできるのかもしれない。

IKIGAIコネクター
尾﨑弘師

WRITER PROFILE

尾﨑弘師 (おざき ひろし)

IKIGAIコネクター/IKIGAI JAPAN 主宰/株式会社ミトミト 代表取締役

これまで延べ1,500人以上に「生きがい(IKIGAI)」をヒアリングし、経営者を中心に100本以上の長編インタビュー記事を執筆。経営者インタビューメディア「IKIGAI JAPAN」を運営し、人生・価値観・哲学・仕事への想いを取材・言語化し、次世代へ残す活動を続けている。

掲げるのは、「その人の人生は、誰にもコピーできない。だからこそ、残すべき価値がある。」という考え方。AIによってコンテンツが大量生産できる時代だからこそ、その人にしかない経験や思想、技術、物語こそが差別化資産になると考えている。

さらに、発掘したIKIGAIをブランド・採用・集客・営業へつなげ、経済の力へ変える「IKIGAIマーケティング」を実践。インタビューによる価値の発掘・言語化を起点に、Webサイト・漫画LP・アニメーションなどのクリエイティブ制作から、広告運用・営業設計まで一気通貫で支援し、「その人だから選ばれる」マーケティングの仕組みを構築している。

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