“助けて”が言えないママたちへ——孤独を受け止め続ける、助産師の終わらない歩み

レストハウス やの助産院 代表 arrowfield合同会社 代表社員 矢野妙子

助産師/母子支援・産後ケア・居場所づくり実践者

大分県別府市

“助けて”が言えないママたちへ——孤独を受け止め続ける、助産師の終わらない歩み

 

出産は、祝福される出来事のはずだった。
新しい命が生まれ、家族が増え、誰もが「おめでとう」と言ってくれる。けれど、その祝福のあとに、こんなにも深い孤独が待っているとは思わなかった。

レストハウス やの助産院 代表
arrowfield合同会社 代表社員 矢野妙子。

彼女は今、別府でママたちの居場所をつくり続けている。
原点には、かつて自分自身が味わった、言葉にしがたい孤独がある。

第一子を出産したあと、矢野さんはワンオペ育児の中にいた。夫は子育てに協力的だった。それでも、知らない土地で、頼れる人も少なく、生活の中心が一気に子どもへと移るなかで、心は少しずつ追い詰められていった。

何が苦しいのか、自分でもうまく説明できない。
子どもはもちろん可愛い。けれど、可愛いだけでは越えられない現実がある。眠れない。気が張る。泣きたくなる。誰かに話を聞いてほしい。けれど、そんな弱音を吐くこと自体が、どこか“母親失格”のように感じてしまう。

しかも当時は、「人に頼るのはよくない」「自分のことは自分でなんとかするべきだ」という空気が、今よりずっと濃かった。行政につながることにさえ、どこか抵抗があった。相談したら噂になるのではないか、周りに知られてしまうのではないか。そんな不安が頭をよぎり、結局どこにも頼れないまま、ひとりで抱え込んでいた。

あとになって振り返れば、あの時間こそが、今の自分の原点だったのだと矢野さんは言う。

助産師として、看護師として、たくさんの母と子に関わってきた。けれど、それ以前に、矢野さん自身が「助けて」と言えなかった一人の母だった。だからこそ、妊婦さんや産後のママたちが抱える、正しさだけでは救われない苦しさが分かる。

必要なのは、立派な正論ではない。
「大丈夫ですよ」と軽く励まされることでもない。
まずは、苦しい気持ちを苦しいまま受け止めてもらえること。
否定せずに、話を聞いてもらえること。
“こんなふうに思ってしまう自分でもいいんだ”と、安心できること。

矢野さんがつくろうとしているのは、単なる産後ケアの場ではない。
命を迎えたあと、誰にも頼れずにこぼれ落ちていく心を、もう一度そっと受け止めるための居場所だ。

この物語は、ひとりの助産師の話であると同時に、かつて孤独だった一人の女性が、その痛みを次の誰かを守る力へと変えていくまでの、終わらない歩みの記録でもある。

 

第1章|守られた記憶が、今の原点になった——厳しさの中で見つけた“帰れる場所”

 

矢野さんは、四人兄弟の末っ子として育った。上の兄弟たちとは年が離れていて、物心つく頃にはすでに大人に近い存在だったという。賑やかな家族ではあったけれど、その一方で、家庭の空気にはいつも緊張感があった。

お母さんはとても厳しい人だった。今で言えば“教育ママ”という言葉が近いかもしれない。勉強には厳しく、成績が悪ければ強く叱られる。本人も「あれは今で言えば虐待と言われてもおかしくないぐらいだった」と振り返るほど、強いプレッシャーの中で過ごしていた。

子どもにとって、本来家は安心できる場所であってほしい。けれど矢野さんにとって、家は必ずしもそうではなかった。学校でも傷つくことがあり、心が休まる場所ばかりではなかった。

それでも、壊れずにいられた理由がある。
それは、家庭の外に“守ってくれる人たち”がいたからだ。

矢野さんが育った地域には、濃いコミュニティがあった。子ども会があり、近所同士の関わりが深く、家族だけで完結しない人間関係があった。特に大きかったのは、隣のおばあちゃんの存在だったという。矢野さんはその家によく遊びに行き、そこに行けばどこかほっとできた。

それは今振り返ると、子どもの自分にとっての“避難場所”だったのかもしれない。
家の中に緊張があるからこそ、外のやさしさが身にしみた。
血のつながりがなくても、人は誰かを守ることができる。
そうした感覚を、矢野さんは子どもの頃に体で知っていた。

さらに、お母さん自身もまた、人のために動く人だった。専業主婦でありながら、近所の人の手伝いをしたり、誰かの困りごとに自然と手を差し伸べたりする姿が日常にあった。家庭では厳しくても、外に向けるその背中から、矢野さんは「人のために動く」ということを学んでいった。

そして、お母さんからよく言われていた言葉がある。
「もらった恩は返さないといけない」
「善意はちゃんと回るんだよ」

矢野さんの中にある“恩送り”の感覚は、この頃から始まっている。

子どもの頃は、ただ無意識に受け取っていたものだったのかもしれない。けれど今、その記憶ははっきりと今の活動に繋がっている。ママたちの居場所をつくりたい。地域の中に安心できるつながりを増やしたい。困っている人が、ひとりで抱え込まなくていい空気をつくりたい。そう願う原点には、子どもの頃に自分が“家庭の外の居場所”に救われた経験がある。

厳しさだけでできた人生ではなかった。
その中に確かにあった小さなぬくもりが、今度は自分が誰かのために場をつくる側へと、矢野さんを導いていく。

だが、そんな矢野さんの人生観を、さらに大きく変えることになるのが、次に出会う“命の現場”だった。

 

第2章|命は、ある日突然終わる——看護師として見た、生と死のむき出しの現実

 

矢野さんが看護師になりたいと思ったのは、中学三年生の頃だった。
それまでは、警察官を目指していたという。ところがある時、テレビで看護師のドキュメンタリー番組を見た。その瞬間、心が一気に動いた。

理由を理屈で説明するのは難しい。ただ、「なりたい」と思った。
その感覚は強く、親に反対されても揺らがなかった。看護学校に進む道を選び、自分の感覚に従って進んでいった。

当時の矢野さんは、体型のことをからかわれた経験もあり、人に傷つけられる痛みを知っていた。いじめとまでは言わないまでも、言われた側は忘れない。でも言った側は覚えていない。そんな現実もすでに知っていた。だからこそ、人のしんどさや、見えない傷に敏感だったのかもしれない。

看護の道へ進んだ矢野さんが最初に立ったのは、救命やERの現場だった。そこは、生と死がむき出しのまま流れ込んでくる場所だ。

朝「いってきます」と元気に家を出た人が、交通事故で救急搬送されてくる。ついさっきまで生きていた人が、突然命を失う。そういう光景を、若い頃から何度も何度も見てきた。

人はいつか死ぬ。
そんなことは、誰でも頭では知っている。
でも、救命の現場で突きつけられるのは、「人は明日死ぬかもしれない」ではなく、「今日この瞬間にも、命は終わる」という現実だった。

その感覚は、矢野さんの人生観を大きく変えていった。

どう生きるのか。
何のために動くのか。
自分の命を、何に使うのか。

看護師という仕事は、ただ誰かをケアする職業ではない。命の重みを、日々自分の中に刻み続ける仕事でもある。だから矢野さんは、早い段階から“自分の命の使い方”に対して、ごまかしが利かなくなっていった。

もっといろんな医療を見たい。
もっと広い世界を知りたい。
海外へ行くことも考えたという。

けれど、人生はいつも計画通りにだけ進むわけではない。その流れの中で今のご主人と出会い、結婚し、やがて新しい命を迎えることになる。救命の現場で“命の終わり”を見てきた矢野さんは、次に“命の始まり”と向き合う人生へと歩みを進めていく。

後に矢野さんが性教育の中で、「命をどう使うか」という話を子どもたちに伝えるようになるのも、きっとこの時期の体験が流れ込んでいる。性教育とは、単に体の仕組みを教えることではない。どんなふうに生きるのか、自分の体をどう大切にするのか、人とどう関わるのかを伝えることでもある。そうした視点の根っこには、矢野さんが若い頃から見続けてきた“命の有限さ”がある。

生きていることは、当たり前ではない。
今日という一日も、明日という未来も、約束されていない。
だからこそ、今ここにある命をどう使うのかが問われる。

この感覚があったからこそ、矢野さんは後に、迷いながらも自分の信じた道を選び続けることができたのだろう。
だがその価値観を、もっとも切実な形で自分ごととして味わうのは、出産と育児を経験してからだった。

 

第3章|産んだあとが、いちばん苦しかった——ワンオペ育児が教えた、孤独の正体

 

二十五歳で結婚し、二十七歳で第一子を出産した。
新しい家族が増えることは、人生の大きな喜びのはずだった。けれど、その喜びのすぐそばで、矢野さんは深い孤独を感じていた。

夫は協力的だった。そこに嘘はない。
けれど、子育ては“協力的な夫がいる”だけで楽になるほど簡単ではない。仕事もある。夜遅くなる日もある。土日も自分の活動で家にはいない。生活は止まらない。その中で、子どものことを中心に回り始めた日常を、母親である自分が主に引き受けることになる。

しかも、その頃の矢野さんには、周囲とのつながりがほとんどなかった。知り合いが少なく、気軽に頼れる相手もいない。困った時に「ちょっと聞いてほしい」と言える相手がいない。何かあった時、どこに助けを求めたらいいのかも分からない。

もっと言えば、助けを求めること自体が怖かった。

当時は、「人に頼ったらだめ」という価値観が今よりずっと強かったという。母親なんだから頑張るべき。自分のことは自分でなんとかするべき。そんな無言の圧力が社会全体にあった。だから、しんどいと感じても、その苦しさを外に出せない。弱音を吐くことに、罪悪感があった。

行政につながることにさえ、抵抗があった。
相談したら、どこかで噂になるのではないか。知られたくないことまで広がってしまうのではないか。そんな不安がよぎってしまう。すると余計に、自分の中だけで抱え込むしかなくなる。

子どもは可愛い。
でも、正直しんどい。
眠れない。
終わりが見えない。
これで合っているのかも分からない。
みんな普通にやっているように見えるのに、どうして自分だけこんなに苦しいんだろう。
泣きたい。でも、泣いてはいけない気がする。
助けてほしい。でも、助けてと言うことすら申し訳ない。

矢野さんは、この感覚を体の中で知った。

そしてこの経験を通して、ママたちが本当に求めているものが何かを、痛いほど理解したという。

それは、正しい答えではない。
育児書のようなアドバイスでもない。
「大丈夫ですよ」と軽く励まされることでもない。

まず必要なのは、
「苦しいよね」
「それはつらいよね」
と、苦しい気持ちを苦しいまま受け止めてもらうことだ。

解決策は、そのあとでいい。
何が正しいかを教えられる前に、まず今の自分の気持ちが否定されないこと。話を聞いてもらえること。認めてもらえること。そこに、初めて人は少しだけ呼吸ができる。

矢野さんが今、妊婦さんやママたちに対して「否定せずに聞くこと」を何より大切にしているのは、この時の自分自身の体験があるからだ。

自分が欲しかったものを、自分は次の人に手渡したい。
同じ思いをするママを一人でも減らしたい。
それが、今の活動のいちばん深い原点になっている。


孤独を知っている。
言えない苦しさを知っている。
だからこそ、言葉になる前のしんどさにも気づける。

そしてこの気づきは、やがて「もっと深く関わりたい」「もっと本質的に支えたい」という思いへと変わっていく。
命を迎えるだけでは終われない。
産んだあとに孤立していく人たちを支える側へ。
その歩みは、助産師という新しい道を選ぶ決断へとつながっていく。

 

第4章|“もっと寄り添いたい”を諦めなかった——33歳で助産師となり、産後ケアへ向かった理由

 

出産を経験したあと、矢野さんは産婦人科に看護師として勤め始めた。
そこで初めて、助産師という仕事の奥深さに強く惹かれていく。看護師としてできることと、助産師だからこそできることは違う。命の始まりに、もっと深く関わる人たちがいる。その姿が、矢野さんにはとても大きく映った。

「自分も助産師になりたい」

そう思い立ち、その想いを胸に助産学校で学び直し、33歳頃に助産師となった。
子どもを育てながら、再び学びの場に戻る。決して簡単な選択ではなかった。

昼間は家庭があり、子育てがある。自分の時間ができるのは、子どもが寝たあとの夜遅い時間だった。それでも勉強した。夫と二人三脚で時間をやりくりし、助け合いながら乗り越えた。一年間、生活の中心はほぼ助産学校だったという。

それほどまでに惹かれた助産師の仕事は、実際に就いてみるとやはり面白かった。
看護師としての経験があるからこそ、命を広く見る視点もある。赤ちゃんから高齢者まで幅広く関わってきた経験が、助産師としての土台にもなった。

けれど、助産師として働く中で、矢野さんはある“見えてはいけない現実”を見てしまう。

病院では、妊娠中から出産までは手厚く関わることができる。出産の瞬間も支えることができる。だが、赤ちゃんが生まれ、退院したあと、関係は一気に薄くなってしまうことが多い。医療者側はそこで一区切りになる。けれど、ママたちの現実はそこから始まる。

そのことに気づいたのは、病院の外だった。
スーパーなどで、かつて出産を担当したママたちに偶然会う。立ち話をする。すると、出産後の生活のしんどさが次々とこぼれてくる。

夜眠れない。
誰にも頼れない。
赤ちゃんのことが不安で仕方ない。
孤独だ。
しんどい。
でも、こんなこと誰にも言えない。

矢野さんはかつての自分を思いだした。
辛かった。一人で孤独だった。

妊娠と出産だけを見ていては、母親たちの人生は支えられない。むしろ本当に必要なのは、そのあとだった。

「産後を支える場所が必要だ」
「これはやらないといけない」

そうした思いは、確信に変わっていった。

さらに矢野さんは、助産の現場だけでなく、より複雑な社会の現実にも触れていく。母子保護の施設、DVから逃れてくる人たちのシェルター、児童養護施設、乳児院、望まない妊娠を抱える若い子たち。

同じ思いをしてほしくない。
その思いから、矢野さんは性教育の学びにも踏み出していく。

矢野さんにとって性教育とは、単に“性について教えること”ではなかった。生理や妊娠の仕組みだけを教えるものでもない。自分の体を知ること。人との関わり方を知ること。自分の気持ちを大切にすること。命がつながるということを知ること。つまり、人生と価値観そのものに関わる学びとして捉えている。

だから、学校から依頼を受けると、単に知識を話すのではなく、その学校が何を必要としているかを丁寧に聞き、テーマを組み立てる。小さな子には体のパーツを知ることから始める。中高生には、命の話や人との関係の話まで含めて伝える。

看護師になったのも、助産師になったのも、性教育を始めたのも、矢野さんはいつも“衝撃”を受けた場所から動いている。何かを見て、感じて、そのままにはしておけなくなる。そして、自分の人生を動かしていく。

ただ優しいだけでは、ここまでの行動はできない。
自分の感性に嘘をつかない強さがある。
「見てしまった以上、なかったことにはできない」
その在り方が、矢野さんを少しずつ、病院の外へ、地域の中へと押し出していった。

命の始まりに立ち会うだけでは足りない。
産んだあとの孤独も、子どもたちの未来も、性のことも、地域のつながりも、全部つながっている。
そう気づいてしまったら、もう元には戻れない。

矢野さんの挑戦は、この頃から「助産師として働くこと」を越えて、「社会の中に足りないものを自分で作ること」へと変わっていく。

 

第5章|別府の母になる——“一人にしない”を地域ごと形にする終わらない挑戦

 

産後ケアの必要性を感じ始めたのは、今から十年ほど前のことだという。
孤立するお母さんたちは、これからもっと増えていく。産後こそ支えるべきなのに、その受け皿があまりに少ない。その危機感を、矢野さんは職場にも伝えた。けれど、思うような理解は得られなかった。

「このままではだめだ」

そう思った時、矢野さんの中にあったのは、文句を言って終わる選択肢ではなかった。
環境がないなら、自分でつくる。
必要なものが存在しないなら、自分が始める。
その発想は、これまでの人生の延長線上にあった。

もともと助産師には開業権がある。いつか独立するイメージがまったくなかったわけではない。けれど、実際に開業へ向けて動き始めると、その道は想像以上に厳しかった。


大学を出たエリート助産師ではない自分が開業することへの露骨なバッシング。
「潰す」とまで言われるような圧力もあった。

必要だからやろうとしているだけなのに、どうしてここまで否定されなければならないのか。
法律を破っているわけでもない。
ただ、自分が必要だと信じたことをやろうとしているだけなのに。

それでも、矢野さんは折れなかった。
というより、折れられなかったのかもしれない。
ここでやめてしまったら、あの時の自分と同じように、誰にも頼れずに苦しむママたちが、また置き去りになる。そう思ったからだ。

一度、別の場所で働きに出た時期もあった。人に傷つけられたあとだったから、正直、人への信頼も揺らいでいたのだと思う。けれど、その職場でまた別の優しさに出会い、人に救われた。

人に苦しめられた。
でも、人に救われもした。
その両方を知っているから、矢野さんのまなざしは単純ではない。誰かを一方的に理想化することもないし、逆に人間を諦めてもいない。人は傷つけもするし、助けもする。それを知ったうえで、それでも人の間にあたたかさを増やそうとしている。

そうして大分で初めてエリートでない人が立ち上げた助産院で、矢野さんはママたちの本音に向き合い続けてきた。

しんどい。
誰かに頼りたい。
泣きたい。

まずは、そのまま聞く。
ただ受け止める。

矢野さんがママたちにとって大きな存在になっているのは、どんなことでも受け止めてくれる母性を感じているからであろう。

そしてその活動は、すでに助産院の中だけには収まっていない。
ママ会、地域の公民館、温泉、高齢者との関わり、防災、学校での性教育。矢野さんの足場は、少しずつ地域全体へと広がっている。

別府には温泉があり、公民館があり、人が集まる場所がある。そこにママたちが来る。高齢者もいる。子どももいる。世代が混ざり合う。孤立していた人たちが少しずつ顔を上げる。子どもたちが笑う。地域のおじいちゃんおばあちゃんが見守る。そうした小さなつながりが、結果として町の温度を上げていく。

さらに矢野さんは防災士でもある。
災害が起きた時、母子が安心して避難できる場所は、実は多くない。だから、いずれは産後ケアができるだけでなく、一時的な避難場所としても機能するような施設をつくりたいと考えている。ママたちだけでなく、地域全体の“シェルター”になるような場所。心も体も、ひと息つける場所だ。

 


矢野さんが目指しているのは、「助産院をつくること」そのものではなく、地域の中に“孤立しなくていい空気”を増やすことなのだ。

実際、その姿勢は経営にも現れている。
arrowfield合同会社の代表としてスタッフを抱え、経営者として数字と向き合う。けれど矢野さんは、お金の話を隠さない。月次の数字も見せる。会社に何が足りないのかも話す。「働いているだけが価値じゃない。どれだけ困りごとを解決できるかが価値なんだよ」と伝える。

厳しいようでいて、その根っこにあるのは愛だ。
本気で相手の人生を考えているから、きれいごとだけで済ませない。
嘘をつかない。
ないものはないと言う。
危ういものは危ういと言う。
それでも、一緒に前へ進もうとする。

だから人がついてくるのだろう。
助産師としても、経営者としても、地域の人としても、矢野さんの根っこにはずっと同じものが流れている。
それは、「受け取ったものを次へつなぐ」という感覚であり、「一人にしない」という意志であり、「必要なら自分が場になる」という覚悟でもある。

別府の母。
そう呼びたくなるのは、きっと年齢や立場だけの話ではない。
矢野さんは、目の前の一人を包みながら、その背後にある家族、地域、未来までも見ている。だから、その存在は少しずつ個人を超えて、町の“あたたかさ”そのものになっていく。

孤独だった一人の母の歩みは、今や別府という町の居場所をつくる挑戦へと広がっている。
そしてその挑戦は、まだ途中だ。
終わらない。
終わらせるわけにはいかない。
なぜなら、今日もまた“助けて”が言えないまま、ひとりで頑張っているママがいるからだ。

「私のIKIGAIは、ママたちが笑顔になり、みんなで笑っていられる状態をつくること」

今日も矢野さんは進む。

みんなの笑顔を受け止める、“母”として。

 

あとがき|受け止める人がいるだけで、人はもう一度笑える

 

人って、正しいことを言われたからって、救われるわけじゃない。
特にママになったばかりの人ほど、本当はしんどいのに、先に「大丈夫です」って言ってしまう。
泣きたいのに笑う。
限界なのに頑張る。
自分のことは後回しにして、子どものためならと無理をしてしまう。
誰かに頼りたいはずなのに、頼ることにすら申し訳なさを感じてしまう。

私は、そこに母親の強さだけじゃなくて、この社会がずっと押しつけてきた見えない我慢もあると感じた。

矢野さんのすごさは、助産師としての技術や経験だけではない。
自分自身がかつて孤独だったこと。助けてと言えなかったこと。苦しかったこと。傷ついたこと。そうした過去を、ただの痛みで終わらせず、次の誰かを守る力に変えているところにある。

過去に文句を言うのではない。
環境のせいにして終わらない。
「なかったなら、自分でつくる」
その覚悟で動いている。

普通は、苦しんだ人ほど閉じたくなる。守りたくなる。もう傷つきたくないと思う。
でも矢野さんは、その逆をやっている。
自分の痛みを、人を守る力に変えている。

今の時代は、情報も正解も簡単に手に入る。
だけど、人の心が本当に欲しがっているのは、正しさの前に「わかるよ」と言ってくれるぬくもりなんじゃないか。
大丈夫じゃない時に、「大丈夫じゃなくていいよ」と言ってくれる人なんじゃないか。
矢野さんは、それを肩書きや理屈ではなく、生き方そのもので体現している。

子どもが元気で育つ社会をつくりたければ、まずお母さんが安心できる社会をつくらなければいけない。
お母さんが笑える場所が増えれば、子どもも笑う。
家庭があたたかくなる。
家庭があたたかくなれば、地域の空気も変わる。

「私のIKIGAIは、ママたちが笑顔になり、みんなで笑っていられる状態をつくること」

この言葉に、矢野さんの人生は全部詰まっている気がした。
自分が味わった孤独も、悔しさも、傷も、全部なかったことにせず、それでも前に進んで、今度は誰かの笑顔のために使っていく。
それは現実を知っている人にしかできない、ものすごい挑戦で、ものすごく愛のある生き方だ。

 矢野さんは今日も、言葉になる前の痛みを受け止め続けている。
誰かを一人にしないために、自分が場になる。
みんなの笑顔を守るために、自分が動く。

こうした輪が広がれば、この社会はもっとあたたかくなる。


IKIGAIコネクター
尾﨑弘師

 

レストハウス やの助産院ウェブサイト

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