何回でも直すけん、次はもっと飛ばせ——子どもに背中を見せる建設社長の生き方

何回でも直すけん、次はもっと飛ばせ——子どもに背中を見せる建設社長の生き方

久保晃 株式会社Ku-boハウス

子どもに背中を見せる建設社長

山口県下関市

何回でも直すけん、次はもっと飛ばせ——子どもに背中を見せる建設社長の生き方

あなたは、子どもたちに見せられる背中を持っているだろうか。
大人は、思っている以上に見られている。
言葉だけではない。
行動も、表情も、態度も、失敗した人への接し方も、誰かに頼られた時の向き合い方も。
子どもは、それを見ている。
そして、受け取っている。
株式会社Ku-boハウスで総合建設業を営む久保晃さんは、子どもを「白」だと表現する。

「子どもって、色で言うたら白だと思ってるんですよね。どの大人に出会ったか、どの環境で育ったかによって、その子の色はできてくると思っているんです」

PTA活動に関わり、おやじの会で学校を整え、ミニバスケットボールの指導者として子どもたちと向き合い、地域の行事にも顔を出す。仕事では現場に立ち、見積もりをつくり、打ち合わせをし、補助金や申請ごとまで一人で担う。
その日々の根っこには、ひとつの軸がある。
子どもたちに、かっこいい大人の背中を見せること。
久保さんは、子どもたちに「失敗を恐れず挑戦しなさい」と言う。だから自分も挑戦し続ける。子どもたちに「考えなさい」と伝える。だから自分も考え続ける。子どもたちに「夢を持ちなさい」と語る。だから自分も、夢や目標を持ち続ける。

「子どもたちに言っている手前、自分がやってないじゃん、とはなりたくないんです」

その言葉には、自分が言ったことを自分の人生で引き受ける覚悟がある。
そんな久保さんの人生は、まっすぐな道ではなかった。
それでも久保さんは、誰かに頼られると考え始める。
自分の腕で、自分に何ができるかを探し始める。
これは、人に頼られることで自分を磨き、地域の中で子どもたちに“かっこいい大人の背中”を残そうとする、一人の男の生き方の記録である。
そしてあなたに、かっこいい大人とは何なのかを見つめ直させてくれる物語である。

第1章|借金の電話を受けた少年——絶望の中で知った「なってはいけない大人」

久保さんは、山口県萩市で生まれ育った。
幼い頃からスポーツ少年であり、小学校ではサッカー、野球、陸上をしていた。
足がめちゃくちゃ速かった久保さん。
小学校5年生で100メートルを12秒台。
6年生では12秒前半。
中学1年生では11秒台。

「スポーツは何でも得意でしたね。どうやったらこうなるかなって考えるのが好きだったから。考えたらすぐ行動するので、スポーツに向いている体だったんだと思います」

父は左官職人。昔ながらの職人。休みも少なく、黙々と働く人だったという。
母は、前に出るというより、陰ながら応援してくれる存在だった。
父について、久保さんは「ほったらかしに近かった」と振り返る。
「自分に責任を持って、自分でやれよという感じでした」

その一方で、久保さんの幼少期には、子どもには重すぎる出来事があった。
父が騙され、借金を背負うことになった。
まだ小学生だった久保さんの家に、毎日のように借金の電話がかかってきた。
「親父がいない時もあって、それを僕が出ていたんです。『お父さんはいません』って。『本当はいるんだろうが』と言われながら、『本当にいません』って答えていました」

父は仕事をしていた。
それでも、借金を背負ったことで荒れた。
家の空気が変わる。
父が塞ぎ込む。
荒れていく姿を見る。
久保さんは、その中でひとつのことを心に刻んだ。
「僕はそれを見てきて、こういう父親には、大人になった時になってはいけんなっていうのが確立したんです」

「大人のいいところは盗めればいいし、悪いところは真似しなければいい」

子どもの頃から久保さんは、大人をよく見ていた。
スポーツの指導者たちの中にも、「こういう大人になりたい」と思える人がいた。地域にも、朝の挨拶に立つ人、子どもを見守る人、黙って支えてくれる大人たちがいた。
久保さんは言う。
「良い大人って、子どもの頃はなかなか気づかないものかもしれない。でも僕は、子どもの頃から『この大人はすごいな』とか、『こういう大人にはなってはいけないんだ』とか、身近にいたので気づいていました」

大人には、真似したい背中がある。
同時に、真似してはいけない背中もある。
子どもは白い。
久保さんは、その白さが大人の背中によって色づいていくことを、生活の中で知っていった。

第2章|救ってくれたのはバスケットだった——荒れた少年が、自分の人生を選び直した日

小学生の頃に家庭の苦しさを見た久保さんは、中学に入る頃グレていった。
酒やタバコ。
夜のスナック。
半分ヤクザのような大人の家に出入りすることもあったという。
「正直、その当時、反社会のチンピラ、半分ヤクザみたいな家の出入りもしていました。学校が終わって、ここの家に泊まるわとかね」

久保さんは、荒れた時期があった。
調子に乗った時代があった。
後輩がついてきて、神輿を担がれるような感覚もあった。
ただ、久保さんはそこで線を越えなかった。
「悪さって、窃盗したり、殴ったり、泥棒に入ったり、そういうのは一切したことないです」

危うい場所の近くにいた。
そちら側へ進む可能性もあった。
その時、久保さんを引き戻したのがバスケットだった。
もともとは陸上で結果を出していた。中学でも陸上部に入り、周囲からは「絶対に陸上をやるべきだ」と言われていた。足が速く、記録も出ていた。中国・四国で4位になるほどだった。
ただ、久保さんの中では、陸上に対する気持ちが少しずつ離れていった。
記録はいつか止まる。
個人で自分に負荷をかける競技よりも、チームで勝つことに心が向くようになった。

「元々僕は、チームプレーの方が好きだったんだろうなと思います。みんなでわいわい言いながら、ああじゃねえ、こうじゃねえって言う方が好きだったんだと思います」

中学2年の秋。
陸上からバスケットへ移ることを決めた。
バスケット部には、1年生から3年生まで60人ほどいた。スラムダンク世代。競技人口も多く、簡単にレギュラーになれる状況ではなかった。
それでも、久保さんは短い期間で頭角を現す。
3年生が引退し、自分たちの代になると、久保さんはレギュラーになった。試合でも活躍し、下関の名門高校から特待で声がかかった。

「たぶん、そこが人生で一番大事なターニングポイントじゃないかなと思います」

地元を離れ、下関の高校へ進む。
親元を離れ、寮生活を始める。
それは、ただ学校が変わったという話ではなかった。
久保さんにとっては、自分の人生を自分で選び直した瞬間だった。
「バスケットのおかげで、親元を離れて、自分が生まれ育った地域を出ることができました。そこで環境が変わって、それまで続いていた悪い縁も全部切れた。それが、僕にとっては本当に大きかったんです」

同じ市内の高校に進んでいたら、昔のつながりから抜け出せなかったかもしれない。環境を変えたから、バスケットにかけることができた。
高校では本気でバスケットに打ち込んだ。
国体の選手にも選ばれた。
実業団チームから誘いもあった。
名門大学からも特待で声がかかった。
スポーツで生きてきた久保さんにとって、次の道が見えかけていた。
その道を止めたのが、怪我だった。

ヘルニア。
無理を重ねてきた体が、限界を迎えた。
バスケットで生きていく道が、閉じていく。
私はこの話を聞きながら、しばらく言葉が出なかった。
久保さんにとって、バスケットは、荒れた時期から自分を引き戻してくれたものだった。
地元を離れ、悪い縁を切り、自分の人生を選び直すきっかけになったものだった。
自分の力で未来を切り開けると、思わせてくれたものだった。

その道が、怪我で終わる。
努力が足りなかったわけではない。
気持ちが弱かったわけでもない。
才能がなかったわけでもない。
これは、どれほど苦しかっただろうかと思う。
「引きずらんことはないんです。人間だから。でも、切り替えが早いやつの方が勝つと思っていました」

久保さんは、そう振り返る。
自分が積み上げてきたものの重さを知っていたからこそ、そこで止まり続ける怖さも知っていた。
その時、久保さんの中にあったのは、大切な人と一緒にいる未来だった。
高校2年生から付き合っていた彼女がいた。
のちに妻となる、その人もバスケットをしていた。
久保さんは、自分の中でひとつの決断をする。

「俺はバスケットを辞めようと思う。早くお金を貯めて、結婚して、自分の子どもたちに自分のやりたいことをやってもらいたい。スポーツでも、どんなことでもいいから」

夢を失った先で、久保さんは次の夢を持った。
久保さんは、23歳で結婚すると目標を決めて働き始める。18歳で社会に出て、目標に向かってお金を貯めた。
最初の仕事は、海上土木の会社だった。
さまざまな現場で働いた。
なぜその仕事を選んだのか。
久保さんの答えは明確だった。

「早く結婚したいから、早くお金を貯めたかったんです」

父の借金の経験もあり、お金の怖さも知っていた。
目的があれば、逆算して動く。
「目的が決まると、目標とか夢とかが決まると、僕は逆算だと思っているんです」

そして久保さんは、23歳で結婚した。
25歳で長女が生まれた。
その4年後に長男が生まれ、さらに4年後に次女が生まれた。
家族を持つ。
子どもを育てる。
自分が追いかけてきた夢を、今度は子どもたちが思い切り追えるようにする。
久保さんは、自分の夢を子どもに押しつけたかったわけではない。

スポーツであっても、別の道であってもいい。
子どもたちが、自分で選んだことに本気で向かえる環境をつくりたかった。
スポーツで救われた少年は、大人になり、子どもたちを支える側へ進み始めた。

第3章|安定より、熱のある人を選んだ——職人として学び続けた14年

海上土木の仕事を6年ほど続けた頃、会社が不景気の煽りを受けた。
「結婚して子どもが生まれたのに、自宅待機ってすごい困るんです。もうこれではダメだ、他に行こうと思いました」

久保さんは、先陣を切って辞表を出した。
当時を振り返り、会社の対応に違和感があったと話す。
「ちゃんと共有されていて、僕らの意見を拾ってくれたり、一緒に考えようかと寄り添ってくれるなら安心感があった。でも、言ってもダメだねとなると、自分たちの役割がない状態になるんです」

この経験も、今の久保さんにつながっている。
若い人をどう扱うか。
生活をどう考えるか。
仲間の声をどう聞くか。
会社の都合だけで人を動かすと、人は離れていく。
久保さんは、その後、造船会社に入った。船に乗っていた経験があり、溶接もできたため、生活費を稼ぐためにすぐ働ける仕事だった。
その後、大手製造メーカーのグループ会社に入社する。タイヤをつくるための金型を扱う会社だ。

ここで久保さんは、金型の職人として仕上げ作業を担った。
2年目には、10年のベテランと一緒に呼ばれ、現場を引っ張る役割を期待された。役職はなくても、人を動かす力、作業体制を整える力が評価されていた。
収入も評価も安定していた。
家族を持つ久保さんにとって、申し分のない環境だった。
その頃、久保さんに声をかけた人がいた。
のちに建築の師匠となる人だった。
その人とは、地域のお祭りを通じてつながっていた。久保さんの9歳上の先輩で、高校時代から知っている存在でもあった。もともとは大工の会社に勤めていたが、独立して自分の会社を始めていた。

独立して2年ほど経った頃、その師匠が久保さんに言った。
「若い衆がほしい。建築の道をやらないか」

誘われたのは、まったく違う世界だった。
木を扱う世界。
家をつくり、直す世界。
大工として、現場に立つ世界。
年齢は28歳頃。
家族もいた。
長男が生まれた時期でもあった。

収入も安定している。
評価もされている。
家族を守らなければならない。
その状況で、畑違いの建築の世界へ飛び込むことは、簡単な決断ではなかった。
妻も当然、不安を口にした。
「もう勘弁して」

それは責める言葉というより、家族を守る側としての本音だった。
久保さん自身も、まったく悩まなかったわけではない。
ただ、師匠の言葉には、人を動かす熱があった。
単に「人手が足りないから来てほしい」という話ではなかった。
自分の会社を本気でつくっていこうとしている人の熱。
若い人を育て、仕事を通して人間を育てようとする熱。
建築という仕事に、自分の人生を懸けている人の熱。

久保さんは、その人柄に動かされた。
「師匠の熱意が激アツだったんです。人柄で選びました」

条件だけを見れば、残った方がよかったかもしれない。
それでも久保さんは、熱のある人のそばに行くことを選んだ。
自分がどんな技術を身につけるかだけではない。
どんな人のもとで学ぶか。
どんな大人の背中を見ながら、自分も大人になっていくか。
鉄の世界から、木の世界へ。
安定した環境から、未知の現場へ。

評価される側から、また一から学ぶ側へ。
もう一度、自分をつくり直す道を選んだ。
その会社は、大工として家をつくり、直す会社だった。
建築だけでなく、人としてどう生きるか、社会とどう向き合うかを学ぶ機会があった。
その一つが、青年塾だった。
久保さんは、師匠についていく形で、そこに参加する機会を得た。

「日本を変えるというと大げさかもしれないけど、自分たちが身近でできることがあるんじゃないか、気づけることがあるんじゃないかということを、自分の仕事を通じて考えていくんです」

そこには、熱い人たちがいた。
経営者。
社員研修で来ている人。
政治家を目指す人。
地域を変えようとする人。
久保さんは、熊本で政治家を目指す人の応援に行き、自転車に乗って選挙活動を手伝ったこともある。建築の勉強で、スペインのバルセロナに行ったこともある。
大工の技術だけではなかった。

人の熱に触れた。
社会を見る目を学んだ。
自分の仕事を通して何ができるのかを考え続けた。
「大工だけじゃなくて、考え方とか、自分が知らなかったことの発見だったりとか。社会人としての勉強にものすごくなっているところです」

その会社に、久保さんは14年ほど勤めた。
木の扱い方。
現場の段取り。
お客さんとの向き合い方。
家をつくること、直すことの責任。
久保さんは、ひとつずつ現場で覚えていった。
職人として腕を磨くだけでなく、仕事そのものをつくる経験も積ませてもらった。

その時間があったからこそ、久保さんの中に少しずつ芽生えていった思いがある。
自分でも、やってみたい。
それは、急に湧いた野心ではなかった。
誰かに勝ちたいという気持ちでもない。
師匠のもとを離れたいという不満でもなかった。
むしろ逆だった。
学ばせてもらった。

育ててもらった。
いろんな現場を経験させてもらった。
人としても、職人としても、たくさんのものを受け取った。
だからこそ、自分の城を創りたくなった。
師匠にとっても、久保さんはただの社員ではなかった。
右腕のような存在になっていた。
久保さん自身も、そのことは分かっていた。

独立すれば、収入も仕事も保証されない。
それでも、心の中にある「自分でやってみたい」という思いは消えなかった。
「一度しかない人生、自分でやってみたいという思いが芽生えてきたんです」

41歳の頃、久保さんは独立を決める。
「どうなるか分からないけど、やってみたいんですよね」

その言葉は、軽い挑戦の言葉ではない。
自分の人生を一度、自分の責任で動かしてみたいという言葉だった。
久保さんは、子どもたちに「挑戦しなさい」と伝えてきた。
失敗を恐れず、自分で考えて動きなさいと伝えてきた。
その言葉を、自分自身にも向けた。
子どもに挑戦しろと言うなら、自分も挑戦する。
考えろと言うなら、自分も考えて動く。

一度きりの人生を、自分で選ぶ。
株式会社Ku-Boハウスの道は、そうして始まった。

第4章|かっこいい大人でいるために——指導者として、地域の大人として、背中を見せる

独立の前後も、久保さんは仕事だけに生きていたわけではない。
子どもたちのスポーツ、PTA、おやじの会、地域活動。
頼まれたことに応えているうちに、学校や地域の中で役割が増えていった。
ミニバスケットボールでは、女子のアシスタントコーチを5年ほど務めた。
久保さんが大事にしていたのは、答えを先に渡しすぎないことだった。

「あの時、どうするのがよかった?」

「なんでそう思った?」

「じゃあ次はどうする?」

子どもたちに、まず考えさせる。
練習では、低学年の子どもたちにチーム分けを任せることもあった。自分たちでチームをつくり、短い作戦会議をする。誰が誰につくのか。どう攻めるのか。子どもたちは、自分たちで話し合いながら動いていく。

「『あれしなさい、これしなさい』と言われる方が、子どもも楽なんです。でも、質問のように投げかけると、向こうは考えないといけない」

勝つためだけではない。
考えること。
話し合うこと。
自分で決めて動くこと。
久保さんは、その時間を大切にしていた。
PTA活動も、最初から大きな役割を求めていたわけではない。頼まれたことに応えていくうちに、学校との関わりが深くなった。中学校では評議員として関わり、クラブチームでは相談役や事務局、ときにはBチームの監督のような役割も担った。
子どもの話を聞く。

保護者の話を聞く。
問題が起きた時に、まず状況を受け止める。
自分にできることを考える。
久保さんの“かっこいい大人”像は、特別なことを語る大人ではない。
失敗を責めるだけで終わらせない。
次にどうするかを一緒に考える。
必要な時には、自分の腕を差し出す。

その象徴のような出来事がある。
ある休日、久保さんは家族で小旅行に出かけていた。
仕事から少し離れ、家族との時間を過ごしていた昼頃、学校の先生から電話が入った。
ただ事ではない声だった。
学校のグラウンドで、野球部の子が練習中に打ったボールが、高いフェンスを越えた。
ボールはそのまま飛んでいったのではなく、一度ワンバウンドして、グラウンドの下にある家に当たり、家の一部を壊してしまった。
家の方は、かなり怒っていた。

先生たちも、どう対応すればいいか困っていた。
久保さんは、状況を聞いてすぐに言った。
「僕が一人で行くから、先生は学校で待っていてください」

家族との時間の途中だった。
それでも久保さんは、自分が行くと決めた。
現地に向かい、怒っている家の方と向き合った。
まずは話を聞いた。
相手が怒るのも当然だった。
久保さんは、自分の仕事を伝えた。
自分は、こういう仕事をしています。

壊れたところは、責任を持って直します。
子どもも、わざとやったわけではありません。
どうにか、こらえてもらえませんか。
そう話した。
怒っている相手を、言葉だけでなだめようとしたのではない。
自分の腕で直すと約束した。
大人として、責任を引き受ける姿勢を見せた。

学校には、材料代だけをお願いした。
手間代はいらないと伝えた。
後日、久保さんは準備をして、壊れた箇所を直しに行った。
久保さんは家を直し、場を収めた。
そして、ボールを当てた子どもを呼んだ。
子どもは緊張していた。
怒られると思っていた。

自分の打ったボールで人の家を壊してしまった。
先生からも、親からも、近所の人からも責められるかもしれない。
久保さんはその子に言った。
「おじちゃんが何回でも直すけん、次はノーバウンドで飛ばせ」

打ったことを責めるだけなら簡単だった。
「気をつけろ」と叱るだけなら、すぐに終わった。

でも、それだけでは、その子の中に怖さだけが残るかもしれない。
久保さんは、そうしなかった。
壊れたものは、大人が直す。
迷惑をかけたら、きちんと謝る。
そして次は、もっと遠くへ飛ばせばいい。
その子は今、大学で野球を続けているという。
久保さんが後にその子と会った時、その子は覚えていた。

「本当に覚えてますよ。おじちゃんが下の家を直してくれたやつでしょ」

久保さんが直したのは、壊れた家だけではなかった。
失敗した子どもが、そこで小さくならないように。
挑戦する気持ちを失わないように。
大人として、責任の取り方と、次へ進む勇気を同時に見せた。
「自分で手に職をつけて、誰かを喜ばせることができる。ハッピーになってくれたりするのがダイレクトに伝わる。そういう職業を最終的に僕は選んだ理由なのかなと思います」

久保さんは、自分の腕で人の困りごとを直す。
そして、その背中を子どもたちに見せている。

第5章|ペンキの跡に、未来が残る——大人の背中が地域を育てる

久保さんが地域活動に関わり続ける理由は、子どもたちにかっこいい大人の背中を見せたいからだ。
その思いは、中学校の「おやじの会」の活動にも表れている。おやじの会は、学校の困りごとを地域の大人たちが自分たちの手で整えていく活動だ。平成28年に立ち上がり、子どもが卒業した後も関わり続けるOBが多くいる。

「大人の活動を見ていた子どもたちが、自ら手伝いたいと言ってくれた時は、何よりも嬉しかったんです」

令和4年度には下駄箱のペンキ塗り。
令和5年度には、古くなってさびが出ていた階段手すりのペンキ塗り。
父親たちが養生をし、下塗りまで準備する。
そして、生徒たちが仕上げのペンキを塗る。
ペンキを塗りながら、子どもたちと話す。
「好きな子おるんか?」

「言ったんか?」

「付き合わんのか?」

普段なら話す機会の少ない大人と子どもが、同じ場所で手を動かす。
先生と保護者が一緒に汗をかく。
子どもたちが、自分たちの学校を自分たちの手で良くしていく。
久保さんは、それも地域のコミュニティだと話す。
「今まで話せなかった子どもたちと接することで、会話ができるんですよね」

やがて、生徒たちの方から声が上がった。
「僕たちもこの学校でお世話になったので、何か手伝わせてください」

「卒業する前に、何か残したいです」

大人が命令したわけではない。
子どもたちが、大人の背中を見て、自分たちも動きたいと言い出した。
ペンキの跡に残るのは、色だけではない。
「自分たちの場所は、自分たちで良くできる」という感覚だ。

中学校PTAは、このような取り組みなどが評価され、令和5年度の優良PTA文部科学大臣表彰を受けた。
地域活動は、すぐに仕事につながるものではない。
時間もかかる。
休日も使う。
それでも久保さんは、自治会の役員をし、お祭りの準備をし、学校のペンキを塗り、子どもたちのバスケットに関わり、困っている人の相談を聞いてきた。
その積み重ねが、少しずつ信用になっていった。

「信用をつけるまでには、すごい時間がかかる。でも信用をなくすのは一瞬です。10年、15年、20年とやってきたことが、自分の仕事とリンクしだすんです」

今、株式会社Ku-Boハウスとしての仕事は広がっている。
本来なら数人で回すような仕事を、久保さんは一人で抱えている。
「正直、今そこが一番きついんです。体は一個だから」

だからこそ、これからは仲間を増やしたいと話す。
一緒に考え、一緒に動き、困った時には話し合える関係をつくるためだ。
その未来の一つとして、木工所の構想もある。
機械のある工場を引き継ぎ、仕事の精度を上げる。
仲間が集まれる場所をつくる。
ものづくりの幅を広げる。
久保さんは、その場所を「基地」と表現した。

「昔の男子のワクワクする言い方で言ったら、基地ですよね」

久保さんが目指しているのは、自分だけが大きくなる未来ではない。
自分に出会った人が、少しでもハッピーになること。
お客さんが、リフォームの時間さえ楽しみにできること。
仲間が、自分の仕事に誇りを持てること。
子どもたちが、挑戦を恐れないこと。

「僕に出会った人を、もっともっとハッピーにさせたい」

久保さんのIKIGAIは、「人に頼られること」だ。
「人に頼られたり、相談を受けたりすると、そのことが頭から離れなくなるんです。どういう順序で解決していったらいいのかなと考えてしまう。それが僕の原動力になっています」

頼られたら、学ぶ。
分からなければ、聞く。
必要なら、会いに行く。
自分の能力を上げる。
「頼まれごとは、試されることだと思っています」

お金のためだけでは、ここまで動けない。
人のためになると思えるから、自分を磨き続けられる。
ペンキを塗る背中。
壊れた家を直す腕。
仲間を増やそうとする未来。
相談を受けたら、頭から離れなくなる性分。
全部が、久保さんのIKIGAIとしてつながっている。

かっこいい大人とは、頼まれた時に動く人だ。
困っている人の前で逃げない人だ。
子どもたちの前で、誰かのために汗をかける人だ。
久保さんは今日も、その背中を地域に残している。

あとがき

久保晃さんの話を聞きながら、私は何度も胸の奥が熱くなっていた。
人は、誰かに頼られた時、自分の限界を超えるのかもしれない。
自分のためだけなら、ここまで動けない日がある。
お金のためだけなら、踏ん張れない夜がある。
評価のためだけなら、面倒な相談から逃げたくなる時もある。
でも、目の前に困っている人がいる。
自分を頼ってくれる人がいる。

自分の背中を見ている子どもたちがいる。
その瞬間、人はもう一歩だけ強くなれる。
久保さんは、子どもたちに「挑戦しろ」と言う。
だから、自分も挑戦する。
子どもたちに「考えろ」と言う。
だから、自分も考え続ける。
子どもたちに「失敗していい」と言う。

だから、失敗した子どもを責めるだけでは終わらせない。
野球部の子にかけた言葉が、私は忘れられない。
「おじちゃんが何回でも直すけん、次はノーバウンドで飛ばせ」

こんな大人に出会った子どもは、きっと失敗を恐れすぎない。
謝ることを覚えながら、もう一度バットを振る勇気を持てる。
壊したら直せばいい。
迷惑をかけたら謝ればいい。
それでも、次へ進んでいい。
久保さんは、完璧な人生を歩いてきた人ではない。
苦しい家庭の記憶もある。

荒れた時期もある。
怪我で夢を失った経験もある。
安定を捨てて飛び込んだ不安もある。
独立してからの重さも、今も抱えている。
そのすべてを通って、久保さんは「かっこいい大人でいる」と決めている。
かっこいい大人とは、
自分の言葉に、自分の行動を合わせ続ける人だ。

あなたは、誰に頼られる大人でありたいだろうか。
あなたは、子どもたちにどんな背中を残したいだろうか。
あなたは、自分の腕を、誰のために磨いているだろうか。
久保さんの物語は、その問いを差し出してくる。
子どもは白い。

だからこそ、私たち大人がどんな色で生きるのかが問われている。

IKIGAIコネクター
尾﨑弘師

WRITER PROFILE

尾﨑弘師 (おざき ひろし)

IKIGAIコネクター/IKIGAI JAPAN 主宰/株式会社ミトミト 代表取締役

これまで延べ1,500人以上に「生きがい(IKIGAI)」をヒアリングし、経営者を中心に100本以上の長編インタビュー記事を執筆。経営者インタビューメディア「IKIGAI JAPAN」を運営し、人生・価値観・哲学・仕事への想いを取材・言語化し、次世代へ残す活動を続けている。

掲げるのは、「その人の人生は、誰にもコピーできない。だからこそ、残すべき価値がある。」という考え方。AIによってコンテンツが大量生産できる時代だからこそ、その人にしかない経験や思想、技術、物語こそが差別化資産になると考えている。

さらに、発掘したIKIGAIをブランド・採用・集客・営業へつなげ、経済の力へ変える「IKIGAIマーケティング」を実践。インタビューによる価値の発掘・言語化を起点に、Webサイト・漫画LP・アニメーションなどのクリエイティブ制作から、広告運用・営業設計まで一気通貫で支援し、「その人だから選ばれる」マーケティングの仕組みを構築している。

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