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「身体の真実」を、どこまでも——20年の居酒屋を閉じ、50歳から始めた真理の追求
美林直樹 立腰整体 善九郎
身体を学び直し、真理を追い続ける探究者
福岡県嘉麻市
「身体の真実」を、どこまでも——20年の居酒屋を閉じ、50歳から始めた真理の追求
あなたは、自分の生業を、この先10年、20年、30年と「プロ」として続けていく姿を思い描けるだろうか。
50歳を迎える頃、美林直樹さんは、自分自身にそんな問いを投げかけていた。
約20年間、居酒屋「でぶしょう」を営んできた。経営は一度も赤字にならず、お客様にも恵まれた。続けようと思えば、続けることはできた。
それでも、美林さんには見えなかった未来があった。
「50歳のときに、この生業でこれから10年、20年、30年と、プロとしてやっていく自分の姿が思い浮かばなかったんです」
美林さんにとって仕事とは、ただ続けられればいいものではなかった。
自分は何を本当に面白いと思うのか。
何なら一生懸命に追い続けられるのか。
そして、自分の生業を通して何を残していけるのか。
振り返れば、美林さんは昔から、自分の目で確かめる人だった。周囲から無理だと言われた高校や大学を目指したときも、会社員という生き方が自分には合わないと感じたときも、飲食の世界へ飛び込んだときもそうだった。誰かが決めた正解ではなく、自分自身が「これだ」と思えるものを探し、やると決めたら徹底的にやる。
そして50歳を迎えた頃、その好奇心は、再び美林さんを動かした。2022年1月、YouTubeで偶然目にした一本の動画。そこに映っていたのは、「腰の王子」として身体を研究し、立腰体操を伝える、後に師匠となる人物だった。
しかも、その師匠は自分より年下だった。
年齢も、肩書きも関係なかった。
「これこそ本物だと思ったんです。この人から学びたい、と」
そこから美林さんは、約20年間続けた店を閉じ、身体という新しい世界へ飛び込んでいく。現在は福岡県嘉麻市を拠点に「立腰整体&体操 善九郎」を営み、施術や体操、身体の使い方を伝えている。
けれど、美林さんが探究しているものは、身体だけではない。
自分にとっての真実とは何なのか。
プロとして、一生をかけて追い続けられるものは何なのか。
身につけたものを人へ渡し、その先の未来に何を残せるのか。
一つの疑問に答えが出れば、その先に、また新しい問いが現れる。その問いはやがて、身体から人間へ、人間から生き方へと広がり、さらに大きな「真理」へと向かい始めていた。
これは、50歳を越えてなお答えに安住せず、自分の真実と、生業の意味と、その先にある真理を追い続ける、一人の探究者の物語である。
第1章|自分で考え、自分で動く——自由に育った少年が、自分で道を選び始めるまで
美林さんの人生は、本人に記憶のない、家族から聞いた一つの出来事から始まる。
赤ん坊の頃、飲んだ乳を戻してしまい、命が危ぶまれるほど弱っていた時期があったという。
祖母の家へ連れていかれ、仏壇に手を合わせた。その後、仏壇に供えられていたお茶を二杯飲み、そこから持ち直した——家族は、そんな話を美林さんに伝えてきた。
両親は、美林さんの行動を細かく決める人ではなかった。左利きであっても直すよう強制せず、本人が選んだことを尊重した。「死ぬと思われた子どもだったから、好きにさせてもらえたのかもしれない」と、美林さんは振り返る。
自由に育つ一方で、幼い頃は周囲との違いを強く感じていた。幼稚園から小学校低学年にかけて、からかわれたり、泣いて保健室へ行ったりすることもあったという。
小学校低学年の頃、テレビで『あしたのジョー』を見た。自分より強い相手に立ち向かう姿が目に残った。そこで美林さんは、家で枕に向かって右ストレートを練習するようになった。
そして小学3年生のある日、自分をからかっていた相手を一度殴った。相手は鼻血を出し、それ以降、からかわれることはなくなったという。
美林さんがその記憶から残したのは、暴力の是非よりも、自分の状況を変えるために考え、準備して、行動したという感覚だった。困ったとき、誰かが状況を変えてくれるのを待つより、自分にできることを考えて試す。その後の進路でも、仕事でも、美林さんは同じように「やって確かめる」選択を重ねていく。
中学校を終え、高校進学を考えたときもそうだった。周囲からは難しいと言われ、判定も厳しかった。美林さんは自分が行くと決めた学校を変えず、勉強して嘉穂東高等学校へ合格した。
一度、自分で決めて動けば、状況は変えられる。
当時はまだ、人生哲学と呼べるほど言葉になっていなかった。美林さんの中には「人に決めてもらうより、自分でやって結果を見る」という感覚が残っていった。
第2章|「無理」と言われても、まずやってみる——浪人、工学部、会社員で知った自分の輪郭
高校を卒業した後、美林さんは大学進学を目指した。現役でそのまま進んだわけではなく、一年間の浪人を経験している。
当初の偏差値は38ほどだったと振り返った。目標にしていた大学へ行くには届かない。そこから勉強を続け、最終的に64ほどまで上がったという。進学先は工学部電気工学科。
数字以上に美林さんの記憶に残っているのは、周囲から難しいと言われたものへ、自分で決めて取り組んだことである。
大学では、関心が教室の外へ大きく広がった。英語がほとんど話せない状態で、米国カリフォルニア州Apple Valleyへ約1か月のホームステイに出た。その半年後にはWhittier Collegeで約1か月の語学留学を経験し、アルゼンチン人やスイス人の学生と寮生活をした。
留学後には、一人で車を走らせた。途中で車が廃車になる事故まで経験したという。その経験も含めて旅は続き、ラスベガスやグランドキャニオンを訪れた。卒業旅行では海外旅行が初めての友人たちを連れて、米国西海岸をレンタカーで巡った。
大学の成績について、美林さん自身は「半分くらいしか授業に行っていなくて、成績は最下位でした」と笑う。物理が好きで電気工学科へ進みつつ、関心は教室の外にも広がっていた。友人にも助けられながら卒業した。
大学卒業後、業務用製氷機などに関わる仕事に就き、修理やメンテナンスの現場を経験する。
仕事そのものから得たものは大きかった。お客様の現場へ行けば、機械を直すことだけで終わらない。相手が何に困り、何を必要としているのかを考えなければならない。一方、会社という組織の中では、自分が正しいと思う対応と周囲の考えが重ならない場面もあった。人間関係や仕事の進め方で摩擦が重なり、体調を崩したこともあったという。
美林さん自身、会社員という働き方は自分には向いていなかったと振り返る。そして約4年4か月勤めた会社を退職した。その後は友人の会社を手伝う時期を挟み、29歳のとき、自分で飲食店を開くために居酒屋へ入った。
それまで調理の仕事をした経験はない。29歳で、完全な新人からのスタートだった。周囲から見れば、大学で電気工学を学び、機械に関わる仕事まで経験した人が、いきなり飲食の現場へ入る。積み上げてきた経歴をそのまま伸ばす選択ではなかった。
美林さんにとっては、自分で店をやりたいなら、必要なことを覚える。それだけだった。厨房に入り、料理を覚え、現場を知る。約2年半働き、そのうち一年あまりはキッチンスタッフとして経験を積んだ。そして自分の店を開いた。

第3章|「お金も、経験も、人脈もない」——20年の居酒屋で磨いたプロの基準
店の名前は「でぶしょう」。開業時を振り返り、美林さんは「お金もない、経験もない、人脈もない」と笑う。飲食業界で長い修業を積んできた料理人でもなかった。その状態から店を開き、多くの人に助けられながら、営業を続けた。
「でぶしょう」という店名にも、美林さんらしい発想があった。自分のような「出不精」な人間でも、「この店なら出かけて行きたい」と思える店をつくる。それを開店時から一つのコンセプトにしていたという。
その哲学が、最も分かりやすく表れていたのが店のメニューだった。
居酒屋なのに、刺身がない。
焼き鳥もない。
どちらも居酒屋では定番中の定番だ。それでも美林さんは、あえて出さなかった。
刺身は、仕入れから提供まで丁寧に向き合おうとすれば、それだけの時間と手間がかかる。焼き鳥も、本気でやるなら「焼き」を極めなければならず、そこに力を注げば他の料理にまで手が回らなくなる。
「居酒屋なら普通はあるから」という理由だけで、中途半端なものを出すことはしたくなかった。
「一生懸命できないものは、したところで身にもならないし、時間の無駄なんです。できないものは、する必要がない」
何でもできる店を目指すのではない。
やると決めたものには、とことん向き合う。
そこまで向き合えないものなら、たとえ世間では「あるのが当たり前」でも手放す。
美林さんにとってプロであることは、できることを増やし続けることではなかった。自分が本気で向き合えるものを見極め、そこに力を注ぎ切ることだった。この姿勢は、やがて仕事そのものを選び直すときにも現れることになる。
大きなきっかけになったのは、コロナ禍だった。それまで店を切り盛りする毎日を送っていた美林さんに、自分自身と向き合う時間が生まれた。当時、50歳を迎えようとしていた。
「今の仕事を続けられるのも、あと10年くらいかもしれない」
約20年間、居酒屋を続けてきた。経営がうまくいっていなかったわけではない。むしろ、一度も赤字になることなく、お客様にも支持されていた。だからこそ、美林さんが考えたのは、「この店をどう立て直すか」ではなかった。
これから先、自分は何をプロとして追い続けたいのか。
60歳になったとき、その先の70歳、80歳まで、自分が死ぬまで学び続け、極め続けられる生業は何なのか。
「50歳のときに、この生業でこれから10年、20年、30年と、プロとしてやっていく自分の姿が思い浮かばなかったんです」
続けられるかどうかではなく、追い続けられるかどうか。美林さんの中で、仕事を見る基準そのものが変わり始めていた。そんな時期に出会ったのが、身体の世界だった。
2022年1月。YouTubeで偶然、「腰の王子」ことフィジカリストOuJiの動画を目にする。身体の動き、その考え方に触れた瞬間、美林さんは強く惹きつけられた。
「これこそ本物だと思ったんです」
もっと知りたい。
この人から学びたい。
コロナ禍から続いていた「これから何を極めて生きるのか」という問いに、一つの道が見えた瞬間だった。その動きは早かった。
2022年3月には、今後の事業を見据えて合同会社善九郎を設立。6月から立腰トレーナー養成講座を受講し、居酒屋を続けながら身体について学び始める。2023年1月には「立腰整体&体操 善九郎」として活動を開始。そして同年4月、約20年間続けてきた「でぶしょう」の暖簾を下ろした。
もともと美林さんには、店を始めた頃から決めていたことがあった。好きなロックバンド・BOØWYのように、「人気があるうちに終わりたい」。だから、店が支持されているうちに終えた。
20年続けたものにしがみつくのではなく、残された人生で、自分がどこまでも極めていけるものへ進む。美林さんは50歳を越えて、新しい分野で「プロになる道」を選び直した。
20年近く積み上げたものを手放し、50歳を越えて「経験なし」の仕事へ入る。本人にとっては、無謀な賭けというより、また「知りたいものが見つかった」という感覚に近かった。
高校受験でも、大学受験でも、飲食への転身でもそうだった。周囲の評価より、自分で確かめてみる。今度の対象は、身体の真実だった。

第4章|50歳で、年下の師匠から学ぶ——肩書きを外した先にあった「本物」
身体の世界へ進んだ美林さんが、師匠について話すとき、その言葉には迷いがない。師匠は、自分より年下だった。それでも「教えてもらう」ことに、美林さんは何の抵抗も感じなかったという。人を見るとき、美林さんが基準にしているのは、年齢でも肩書きでもない。
「僕は、年上だからすごいとか、年下だから教わらないとか、そういうのがないんですよ。肩書きがどうとか、有名かどうかとか、どれだけお金を持っているかとかも関係ない。自分が見て、素直に『この人はすごいな』と思えるかどうか。すごいと思ったら、年下でも教えてもらえばいい。それだけなんです」
年齢を重ねるほど、人は教える側になっていく。これまでの経験もある。自分なりの成功もある。いつの間にか、「知らない」と言ったり、年下に頭を下げたりすることが難しくなることもある。
美林さんには、その壁があまりない。
すごい人は、すごい。
分からないものは、教えてもらう。
その一方で、「すごい人が言っているから」という理由だけで、何でも信じるわけでもない。むしろ、そこから美林さんらしい探究が始まる。
肩書きが立派でも、その人にしか当てはまらないものなのか。他の人がやっても同じことが起こるのか。自分の身体で試したらどうなるのか。美林さんが「本物」を見るとき、大切にしているのは再現性だった。
「その人だけにできるなら、その人がすごいだけかもしれないじゃないですか。僕がやっても変わるのか、人にやっても変わるのか。自分でやってみて、人にもやってみて、実際にどうなるのかを見る。僕は肩書きより、そっちの方を信じたいんですよね」
だから、立腰についても学んで終わりではなかった。自分の身体を使い、試し、確かめる。そのうえで施術や体操の指導へ取り入れていった。
痛みや不調についても、美林さんは身体そのものをすぐに「悪い」と決めるのではなく、普段の身体の使い方や筋肉の緊張の偏りなど、見直せるものがあると考えている。
既存の医療や整体について語る言葉は、ときに強い。美林さん自身が一貫しているのは、誰かの言葉をそのまま正解にするのではなく、疑問を持ったら学び、自分の身体で試し、起きたことを確かめることだった。
そして、学べば学ぶほど、自分がすごいとは思えなくなるという。その理由も、師匠の存在にあった。
「僕の師匠は、これの100倍すごいと思っています。自分が少しできるようになって、周りから『すごい』と言ってもらうことがあっても、まだまだ先の世界をずっと見せてもらっている。だから天狗になれない。それは、僕にとってすごくありがたいことなんです」
50歳を越えても、まだ自分のはるか先を歩く人がいる。美林さんにとって、まだ先の世界を見せてもらえること自体が「ありがたい」ことだという。だから今も、美林さんは師匠のもとへ通う。
もっと身体を知りたい。もっと技術を高めたい。
自分が受け取ったものを、自分だけのものにするつもりもない。屋号に「立腰」という言葉を掲げているのも、その思いからだった。
「僕が立腰を広めていくことは、師匠への恩返しにもなるし、自分の仕事にもなる。自分だけが良ければいいという形じゃなくて、お互いにとって良い形が一番いいと思うんです。僕の名前を残したいというより、立腰を知る人が増えて、使える人が増えて、それが残っていく方が僕は嬉しいんですよね」
学んだものを囲い込むのではなく、次へ渡していく。自分だけが得をするのでも、師匠だけが得をするのでもない。受け取ったものを自分なりに磨き、人へ渡すことで、また次へつながっていく。
20年近く一つの店を続けてきた50歳の男が、年下の師匠からもう一度、学ぶ側に立った。そこにあったのは、年齢や肩書きへのこだわりではない。
「知らないなら、知りたい」
「すごい人がいるなら、学びたい」
そして、教わったものが本物なのか、自分自身で確かめたい。美林さんは今も、完成した人として立とうとはしていない。まだ先があることを知りながら、学ぶ人であり続けている。

第5章|笑顔を増やしながら、終わりのない真理へ——この先も問い続ける理由
今、美林さんのもとを訪れる人たちの悩みはさまざまだ。何十年も身体の不調を抱えてきた人。いくつもの場所へ相談しても変化を感じられなかった人。医師から「手術しかない」と告げられ、不安を抱えている人もいるという。
美林さんは、そうした一人ひとりの身体を見ながら、普段どのように身体を使っているのか、どこに緊張が生まれているのかを確認し、施術や立腰体操を通して向き合っている。
「基本的に、どこへ行っても駄目だったとか、何十年も良くならなかったとか、お医者さんから『手術しかない』と言われた人が来るんです。そういう人が3回ぐらいで終わることもある。僕もずっと通わせる気はないんです」
美林さんによれば、数回の施術でいったん通院を終えるケースもあるという。施術を受け続けてもらうことより、自分の身体について知り、日常の中でも自分で整えられるようになってほしい。そのため、施術と並行して体操や身体の使い方も伝えている。
そして、美林さんが向き合うのは、不調を抱えた人たちだけではない。すでに、一流を目指す若い選手たちとも身体を通して関わっている。
小学4年生の頃から見てきた柔道選手は、現在小学6年生になった。
「この子とは、『オリンピックの代表を目指してやろうね』って話をしています」
もう一人、身体の使い方を伝えているのがプロボクサーだ。美林さんによれば、その選手はデビュー戦で、ジャブによって相手の鼻を折りTKO勝ちしたという。今は「4年以内に日本チャンピオンを目指そう」と話しながら、身体の使い方を一緒に磨いている。
長く不調を抱えている人と、一流を目指して身体を磨く人。現在の活動の中には、美林さんがこれから広げていきたいことが、すでにいくつも始まっている。
これから何をしたいのか。
そう尋ねると、美林さんは三つの方向を挙げた。
一つ目は、スポーツでも音楽でも、一流になりたいと願う人を支えることだ。一流を目指して努力している人が、自分の力をもっと発揮できるようにする。怪我や伸び悩みを抱えている人にも、身体の使い方という角度から新しい選択肢を渡したいという。
苦しみながら練習量だけを増やしていくより、自分の身体を知り、動かし方を変えることで、楽しみながら上を目指せる人を増やしたい。柔道選手やプロボクサーとの取り組みは、その未来へ向けた実践でもある。
二つ目は、立腰体操やセルフケアを広げていくことだ。自分の身体の状態に気づき、自分で整える方法を持つ。教わった体操を生活の中で続け、その変化を自分自身で確かめていく。
美林さんは、それによって身体が楽になれば、心にも余裕が生まれると考えている。笑顔が増える。人に向ける言葉が変わる。家族や周囲の人にも優しく接する余裕が生まれる。
身体を入口に、一人の変化が身近な人へと広がっていく。美林さんが増やしたいのは、そんな日常の中にある笑顔だ。
三つ目は、長く不調に悩み、どこへ相談しても希望を持てなくなっている人の不安を軽くすること。「もう仕方がない」と諦めそうになっている人に対して、身体の状態を一緒に見ながら、まだ自分にできることがあると知ってもらう。自分の身体で起きていることへの理解が深まれば、不安が少し軽くなることもある。施術で結果を出すことだけを目標にせず、その人自身が身体と向き合う方法まで渡していく。
三つの方向は、それぞれ対象も目的も異なる。それでも、美林さんの口から何度も出てきた言葉があった。
「笑顔を増やしたい」
そこで、美林さん自身にとってのIKIGAIとは何かを尋ねた。少し考えたあと、返ってきた答えは一つには絞られなかった。
「笑顔を増やすことって、最近すごく楽しいんです。それがIKIGAIかなと思うんですけど、真理の追求なのかなとも思うんですね」
「笑顔を増やすこと」と「真理の追求」。一見、違う方向を向いているようにも見える二つが、美林さんの中では同時に存在している。
本を読む。人から学ぶ。身体を動かす。自分で試す。人にも試してみる。そして、起きた変化をもう一度考える。
本人は、これまでの経験や学びについて、かつてはばらばらだった「点」が、少しずつ「円」のようにつながってきた感覚があると話す。けれど、そこで探究が終わるわけではない。
身体はなぜこの構造になっているのか。人はどうすれば本来の身体を使えるのか。さらに問いを追い続ければ、最後には「人はなぜいるのか」というところまで行くのではないか——美林さんは、そんなことまで考えている。
答えはまだ分からない。
だから、知りたい。
美林さんがインタビューの中で何度も見せたのは、「知らないことを知る」ことそのものへの強い好奇心だった。簡単に答えが出る問いよりも、いつまで経っても答え切れないものを追いかける。その探究を、これからも続けていきたいという。
そしてもう一つ、美林さんが未来へ残したいと話したものがある。日本人が大切にしてきた考え方や在り方だ。美林さんは「日本が好きなんです」と話す。
自分だけが良くなることを求めるより、相手にとっても自分にとっても良い形を探す。受け取ったものを自分だけで抱えず、次の人へ渡していく。立腰を広めたいという思いの先にも、「文化として残ってほしい」という願いがある。
そして今、美林さんの中では、これまで別々に見えていた経験や学びが、少しずつ一つの円につながり始めているという。身体のことを知れば、もっと知らないことが出てくる。人について考えれば、やがて「人はなぜいるのか」という問いにまで行き着く。
だから、美林さんはこれからも学び続ける。自分の身体で試し、確かめ、そこで得たものを目の前の人へ還していく。そして、その人の表情が少しでも明るくなれば、また次の問いを追いかける。
知らないことを知りたい。
もっと深く確かめたい。
そして、学んだものを誰かの笑顔へつなげたい。
自分の知らない世界に心を躍らせながら、美林さんは進んでいる。
答えのない問いを追い続け、その途中で出会う人の笑顔を、一つずつ増やしながら。

あとがき
あなたは、自分が選んだ生業に、どこまで人生を注げるだろうか。
そして、その生業を極めた先で、誰のどんな笑顔を生み出したいだろうか。
美林さんとの対話を終えて、私の中に残ったのは、この問いである。
身体について学ぶ。自分で試す。人にも試す。結果が出ても、そこで満足せず、さらに深い世界へ進んでいく。
50歳を越えても、自分よりすごいと思う人がいれば素直に頭を下げて学ぶ。その姿から感じたのは、プロとして自分の生業を探究し続ける人間の強さであった。
どこまで技術を磨くのか。
どこまで深く知ろうとするのか。
どこまで自分の生業に向き合い続けるのか。
そして何より、そこで磨いた力を、誰のために使うのか。美林さんが見ている先には、いつも人がいる。
長年の不調に苦しんできた人が、もう一度希望を持つこと。
一流を目指す若者が、自分の可能性をさらに広げていくこと。
身体が楽になった人が笑顔になり、その笑顔が家族や周囲へ広がっていくこと。生業を極めることと、人を笑顔にすることがつながっているのである。
私は、お金や権威、年齢や時間に関係なく、自分が選んだ生業をひたすら極め、その力を誰かのために還していく姿勢に、日本人が大切にしてきた一つの心があると考えている。
職人が技を磨き続けることも、料理人が一皿を追求することも、人の身体と向き合い続けることも、その根には同じものが流れているのかもしれない。
もっと良いものをつくりたい。
もっと深く知りたい。
もっと目の前の人に喜んでもらいたい。
仕事は、すべてどこかで誰かの笑顔につながっている。
そのつながりを感じながら、自分の生業を磨くのか。
それとも、そのつながりを意識しないまま仕事を続けるのか。その違いによって、次の世代に残っていくものも変わっていく。
一人の人間が生涯をかけて生業を極め、その技術だけでなく、そこに込めた姿勢や心まで次の人へ渡していく。そうして受け継がれたものが、やがて文化になっていくのではないだろうか。
だから、美林さんの歩んできた人生は、私たちにも問いかけている。
あなたは、この人生で何を極めていくのか。
そして、その生業を極めた先に、誰のどんな笑顔を残していくのか。
自分の仕事の先にいる誰かを想い、今日よりもう一歩だけ深く、自分の生業と向き合ってみる。その積み重ねこそが、自分だけのIKIGAIを形づくり、次の世代へ残る仕事になっていくのだと私は信じている。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師









