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待っていても何も変わらない——孤独を観察力に変え、人が育つ場をつくる技術者の視点
尾川俊司 株式会社エンターシステム
技術より先に、人を見つめ続けるエンジニア
大阪府大阪市
待っていても何も変わらない——孤独を観察力に変え、人が育つ場をつくる技術者の視点
あなたは、自分に与えられなかったものを、誰かに渡そうとしたことがあるだろうか。
守られなかった時間、声をかけてもらえなかった記憶、お金がなくて諦めるしかなかった夢。そうした痛みは、人の心を蝕むことがある。自分を守るために、他人と関わらないようになることもある。
株式会社エンターシステム 代表取締役・尾川俊司はその痛みを誰かを育てる力に変えた男である。
大阪・新大阪を拠点に、物流、半導体、工場システム、検査装置など、社会の裏側を支えるソフトウェア開発に向き合ってきた。
彼は幼少期ずっと一人だった。親は家に帰ってこない。お金もだしてくれない。学校ではいじめられる。中学時代から働き、自分の昼食代を稼ぐ日々。
一人でいる時間が長かったからこそ、観察した。父の機嫌を読み、通りを歩く人を眺め、虫や魚の動きを観察し、やがて工場で働く人の姿を見た。その積み重ねの先で、尾川さんは技術の本当の意味へ辿り着いていく。
「人のことを考えないと、人のためのものは作れないなと思ったんです」
尾川さんにとって、技術は自分を誇るための武器ではない。人を楽にし、人を育て、人が誰かのために動けるようになるための手段である。だから未経験者を育てる。だから同業他社の社員にも教える。だから学生にも、経営者にも、求められれば知識を惜しみなく渡す。
返ってこなくてもいい。その人がどこかで誰かを喜ばせるなら、それでいい。
尾川さんは、人生で一番大切にしている価値観を問われたとき、こう答えた。
「結局、人のために何ができたか。何を残したか。ただそれだけですね」
この物語は、待っていても何も変わらなかった少年が、自分の手で人が育つ場をつくり続ける、生き方の記録である。
第1章|家の前で、人を見ていた——孤独が育てた観察する力
尾川さんの幼少期は孤独だった。
家庭は裕福ではなく、両親は働いていて家にいない時間も多かった。幼稚園が終わると、母が働いていた会社の近くにある託児スペースのような場所で、仕事が終わるまで一人で過ごしていたという。
「スペースがあるだけで一人でいることもありました」
誰かが遊んでくれるわけではない。常に友達がいるわけでもない。ただ、そこにいる。今の感覚で聞けばありえない環境だが、幼い尾川さんにとっては、それが日常だった。
「自分の中では、それが普通でした。幼稚園の頃からそうでしたからね」
寂しいとか、つらいとか、そう言葉にするより先に、その中でどう過ごすかを覚えていく。
尾川さんには、家の前に座り、通りを行き交う人をずっと眺めていた記憶がある。何をするわけでもない。誰かに話しかけるわけでもない。ただ、人を見ていた。
「多分、人を観察していたんだと思います。ずっと一人だったから、人を観察するようになったんですよね」
父は気性の激しいところがあった。家の空気が、ふとしたことで変わることもある。だから自然と、相手の表情を見るようになった。声の調子を読み、今何を言えばいいのか、何を言わない方がいいのかを考えるようになった。
それは子どもにとって楽なことではなかったはずだ。けれど、その時間は尾川さんの中に、後の人生を支える力を育てていく。
「一番学んだのは、待っていても何も変わらないということですね。自分で何か楽しみを探していかないと、ということをずっと考えていました」
その楽しみの一つが、生き物を捕まえることだった。
魚を捕まえる。虫を捕まえる。ただ追いかけるのではなく、どうすれば捕まえられるのかをじっと見る。
ギンヤンマという大きなトンボがいた。尾川さんは、そのオスを捕まえたかった。しかし、オスはなかなか止まらない。無理に網を振れば捕まえられるかもしれないが、勢いよく捕まえれば死んでしまう。生きたまま捕まえるにはどうすればいいのか。
尾川さんは、メスに糸をつけて飛ばせばオスが寄ってくるのではないかと考えた。実際にやってみると、オスを捕まえることができた。
魚を捕まえるときも同じだった。網で追いかけても逃げられる。川をじっと見ていると、魚には通る道があることが分かった。だったら、追いかけるのではなく、先回りして待てばいい。
「全部、観察から始まっていると思います。人間も、虫も、魚も、動物も、僕から見たら全部一緒なんです。自分か、自分じゃないか。それだけなんですよね」
相手はどう動くのか。何に反応するのか。どこに流れがあるのか。どうすれば、無理に壊さず、目的へ近づけるのか。その問いは、やがてソフトウェア開発にも、人材育成にも、経営にもつながっていく。
小学校3年生の頃には、親がいない週末に自分でご飯を作っていた。テレビで見たフレンチトーストを試し、アイスが食べたければ粉を買って牛乳と混ぜて作った。パソコンに触る前には、一人で遊べるボードゲームのようなものも自分で作っていた。
誰かに用意されるのを待たない。なければ作る。分からなければ試す。うまくいかなければ、やり方を変える。
小学校4年生の頃、その姿勢はコンピューターとの出会いに結びつく。当時、自宅にパソコンがある家庭はほとんどなかった。尾川さんは、電気屋に置かれていたパソコンに興味を持つ。近くの本屋でプログラムの載った雑誌を立ち読みし、覚えたコードを電気屋のパソコンに打ち込んだ。
「電気屋さんに置いてあったパソコンで、プログラムを作り始めたんです」
誰かに教わったわけではない。スクールに通ったわけでもない。知りたい、触りたい、動かしたい。その気持ちだけで、尾川さんはプログラムの世界へ入っていった。
尾川さんの技術者としての原点は、パソコンの画面の中だけにあったのではない。家の前の道端に、川の流れに、飛び交うトンボの軌道に、そして誰にも遊びを与えられなかった時間の中にあった。
第2章|取り残された子を見て、黙っていられなかった——痛みが「人のため」の原点になった日
小学校時代、尾川さんはいじめられていた。
理由の一つは、肌の色だった。外で遊ぶことが多く、人よりも色が黒かった。そのことで、からかわれた。
運動はできた。サッカーも好きだった。本来ならクラスの中で目立つ側にいてもおかしくない。
「反抗しても、あまり意味がないことやなと思っていたんですよね」
小学校5年生頃、道徳の授業で人種差別について学ぶ時間があった。黒人差別の話を聞きながら、尾川さんは自分の経験と重なるものを感じた。見た目で人をからかうこと、肌の色で誰かを下に見ること。その構図は、自分が置かれている状況と重なった。
言い返したところで、すぐに世界が変わるわけではない。反応すれば、相手の思う通りになることもある。だから、自分のことなら流せた。
しかし、自分ではない誰かが取り残されることには、黙っていられなかった。
小学校6年生の頃だった。授業で、先生が「自由に班を作ってください」と言った。子どもたちは仲の良い者同士で集まり、すぐにグループができていく。
最後に、三人の子が残った。発達に特性のあるように見えた子たちだった。自分から班に入れてと言うことが難しい。周りも声をかけない。ただ、その場に取り残されていた。
その瞬間、尾川さんの中で怒りが噴き出した。
「その子らって、自分たちから言えないじゃないですか。なのに、なんで誰も声をかけてやれへんねん。ただそれだけでした」
自分がからかわれた時には、流してきた。肌の色を笑われても、反応しないようにしてきた。でも、この時は違った。
言えない子がいる。助けを求められない子がいる。それを周りが見ていながら、誰も声をかけない。
尾川さんは怒った。大喧嘩になった。クラスで喧嘩の強い子が向かってきて、殴り合いになり、最後は校長室に呼ばれた。
正しい方法だったかどうかも分からない。それでも、その怒りは本物だった。
「多分、そこが『人のため』の原点のような気がします」
目の前の理不尽に体が反応した。自分から声を上げられない人が、当たり前のように置き去りにされることが許せなかった。
中学校に入ると、また別の問題があった。
昼食代がない。当時の中学校には給食がなく、購買でパンを買うか、弁当を持っていくかだった。お金がなければ買えない。弁当もない。そんな日は、グラウンドで一人ボールを蹴っていた。
尾川さんは、中学1年から働いた。自分の昼食代を自分で稼ぐようになった。
部活も、お金で選んだ。一番お金がかからない部活は何か。そう考えて、陸上部を選んだ。
本当は、サッカーが好きだった。小学校6年生の時、チームで大きな大会へ行くことになったが、ユニフォーム代として1万5,000円が必要になった。
尾川さんは、その金額を聞いて言った。
「そんなにお金がいるんやったら、サッカーやめます」
やりたい。でも、お金がない。だから諦める。
この痛みは、後に尾川さんがサッカー指導に関わる時、年間3,000円ほどでクラブを運営していく体制へと繋がっていく。
「やりたいことを、やらせてあげたいよなと思っていたんです」
自分ができなかったから、次の子どもには渡したい。自分が諦めたから、同じように諦めずに済む場所をつくりたい。
人は、自分に与えられなかったものを、誰かに渡そうとすることがある。それは傷をなかったことにするためではなく、傷を誰かの未来に変えるためなのかもしれない。
第3章|プログラムは、誰のために動くのか——過酷な現場で見えた人間の姿
高校卒業後、尾川さんは専門学校へ進んだ。
大学進学も考えたが、当時はコンピューターを深く学べる環境がまだ少なかった。すでに自分で多くを学んでいた尾川さんにとって、大学で得られるものは限られているように見えた。そこで、部屋ほどの大きさがある汎用機に触れられる専門学校を選んだ。学費は、自分のアルバイト代で賄った。
しかし、通ってみると授業の多くはすでに知っていることだった。だから専門学校時代も、尾川さんはアルバイトに力を入れた。
印象的だったのが、倉庫での仕事である。商品のリストがコンピューターで管理され、伝票が出る。その伝票を持って台車で棚を回り、商品を集めていく。伝票には、何分で集めるべきかという目安時間が書かれていた。その時間内に集めれば、時給1,000円。
尾川さんは、管理者に尋ねた。
「30分で集めるものを20分で集めたら、どうなるんですか」
早くできるなら、時給を上げてもいい。そう言われた尾川さんは、どの順番で棚を回ればいいのか、どの通路を先に行けば無駄がないのか、一度に運べる量を増やせないかを考え始めた。
通常はカゴを一つ載せて回る。尾川さんは、三つまで載せられることに気づいた。三つの伝票を同時に処理すれば、同じ通路を何度も回らなくていい。結果、時給は3,500円ほどまで上がった。
「虫を捕まえるのと同じ感覚だったかもしれません。どうやったら効率がいいかな、と考えるのが好きだったんです」
魚の通り道を見つける。トンボの動きを読む。倉庫の導線を見る。尾川さんにとって、それらは別々のものではなかった。追いかけるのではなく、流れを見る。仕組みを見る。動き方を変える。
就職活動では、早い段階で内定を得ていた。あとは卒業して、その会社に入るだけだった。ところが入社の約2週間前、その会社が倒産した。
当時は就職氷河期の真っ只中だった。会社が次々と苦しくなり、若い人が簡単に仕事を選べる時代ではない。尾川さんはハローワークを回り、そこで現在代表を務めるエンターシステムと出会った。
入社後、尾川さんは一気に現場へ出ていく。プログラムが組める人材として、さまざまな仕事を任された。二十代は、ひたすら働いた。
月の残業時間が200時間を超えることもあり、年間の休みが4日ほどしかない時期もあった。 出張先でシステムを納め、現場の対応が終われば、そのまま次の現場のプログラムを作る。終われば、また次へ行く。
今なら、到底続けられない働き方だった。しかし当時の創業者は、働いた人にはきちんと返す考えを持っていた。過酷ではあったが、尾川さんの中には、その社長への敬意が残っている。
「社長がめちゃくちゃかっこよかったんです。人として尊敬できる人でした」
尾川さんにとってその会社は、ただ厳しいだけの場所ではなかった。力を出せば見てくれる人がいる。やった分を認めてくれる人がいる。だからこそ、過酷な現場の中でも、尾川さんは自分の力を磨き続けることができた。
転機は、三十歳になる手前の頃に訪れる。
ある工場のシステムを納めた後、尾川さんは一、二週間ほど現場に残り、稼働状況を見守っていた。自動化システムは動いていた。装置も動く。プログラムも動く。工程も流れていく。
しかし、工場の中をじっと見ていると、そこにはやはり人がいた。自動化された現場の中で、人が動き、人が判断し、人が支えている。
その光景を見て、尾川さんは思った。
「これ、結局人間がおらないと、工場全体って成り立たないよな」
その瞬間、問いが変わった。
プログラムとは、何のために作るものなのか。ソフトウェアとは、誰のためにあるのか。
「人のことを考えないと、人のためのソフトは作れないなと思ったんです」
それまで尾川さんは、どうすれば速くなるか、どうすれば正確に動くか、どうすれば効率化できるかを考えてきた。しかし、この時から見るものが変わった。使う人は何に困っているのか。現場の人はどこでつまずくのか。このシステムが入ることで、誰の時間が減り、誰の負担が軽くなるのか。
技術の先には、人がいる。その人を知らなければ、本当の意味で役に立つソフトウェアは作れない。
そこから尾川さんは、人を知ろうとした。本を読むようになり、月に20冊ほど読む時期もあった。読むだけでは残らないと感じてからは、本を要約し、自分の言葉でまとめ、人に伝えられるようにした。
それでも、尾川さんは気づく。
「人を知ろうと思ったら、やっぱり人に関わらないといけない」
本の中に、人はいる。だが、目の前の人は本の通りには動かない。正論だけでは変わらない。正しいやり方を伝えても、心が動かなければ人は動かない。
その頃、子どものサッカーチームとの縁が生まれる。技術者として現場で人を見た尾川さんは、実際に人が育つ場所へ足を踏み入れていく。
第4章|指導者ではなく、何でも話せる友達に——人は結果ではなく気づきで育つ
尾川さんがサッカーの指導で目指したのは、上から教える指導者ではなかった。
「僕がずっと目指していたのは、指導者というより、友達でした」
子どもと大人の間には、壁がある。先生と生徒、コーチと選手、教える側と教わる側。その壁がある限り、子どもは本音を話しにくい。分からないことも聞けない。悩みも出せない。
尾川さん自身にも、何でも話せる大人がいたわけではなかった。だからこそ、子どもたちにとって、そういう存在になりたかった。
当時、子どもたちの間で遊戯王カードが流行っていれば、自分も一緒に遊んだ。鬼ごっこをするときも手加減しない。本気で走り、本気で捕まえる。子ども相手だからといって、わざと負けない。
「子どもって分かるんですよね。本気で遊んでくれる大人に、すごく共感してくれるんです」
子どもは、大人の嘘を見抜く。本気かどうかも分かる。上から構っているのか、同じ場に立っているのかも分かる。だから尾川さんは、同じ場に立とうとした。
四十歳頃、尾川さんは人を育てることに行き詰まりを感じていた。正しいことを伝えているつもりでも、相手は思うように変わらない。こうなってほしいと思っても、その通りには進まない。技術を教えれば育つ、というほど単純ではなかった。
「いくらこっちが『こうなってほしい』と思っても、うまくいくわけではないんですよね」
尾川さんは、人が本当に力を出す瞬間を探していた。子どもを見て、社員を見て、自分自身も見ていた。その中で、一つの実感に辿り着く。
「人間って、誰かのために何かをしている時が一番パワーが出るんです」
自分が結果を出して嬉しいこともある。しかし、それ以上に、誰かが喜んでくれた時、人は強くなる。試合に勝つことそのものより、その勝利で周りの人が喜ぶことの方が、心を動かす。
この気づきから、尾川さんの育成は変わっていった。結果だけを見ない。成長を見る。
「結果だけを見ると、ずるをする人が増えるんです。ずるして結果を出すことはできる。でも、それは誰かを犠牲にして成り立った結果なんです」
誰かのマイナスを、自分のプラスにする。それは本当の結果ではない。本当の結果とは、自分もプラスになり、周りもプラスになること。小さなプラスが積み重なれば、誰かを削って得た大きなプラスより、ずっと価値がある。
この考えが、尾川さんのGive & Giveにつながっていく。
「僕はギブはするけれど、それを誰か他の人にギブしてくれたらいい。こっちへ返す必要はないんです」
その哲学は、経営にもつながる。
尾川さんが代表になった時、会社は厳しい状況にあった。組織は大きく揺れ、社員は四十代以上が中心で、若い人材もなかなか入っていなかった。
それ以前から、尾川さんには同業他社から多くの声がかかっていた。条件の良い話もあった。損得で考えれば、外へ出る選択も十分にあった。
それでも、尾川さんは残った。理由の一つは、創業者の存在だった。
「お金の話じゃないよな、と思ったんです」
代表になってから、尾川さんは会社を作り直していく。未経験者を採用し、自ら直接育てる。入社した人には、最初の二ヶ月ほど、尾川さん自身が向き合う。
エンジニア業界には、「育てる」という考えが弱い部分もあった。やりたいなら自分で力をつけてこい。できる人だけが残ればいい。そんな空気もある。
尾川さんは、違う道を選んだ。未経験でもいい。育てればいい。人は変わる。人は伸びる。
「入ってくれたから、その人ができるようになった。それが価値なんです。人がそこで成長したんだから、それは社会の価値ですよね」
尾川さんの言う「社会の価値」とは、会社の中だけで完結するものではない。
育てた人が、ずっと自社に残るとは限らない。時間をかけて教えた人が、いつか別の会社へ行くこともある。普通なら、「せっかく育てたのに」と思ってしまうかもしれない。教育にかけた時間も、労力も、会社に返ってこなければ損だと考える人もいるだろう。
けれど、尾川さんはそこを損得だけで見ていない。
その人が、その技術で、どこかの現場を支えるかもしれない。別の会社で、誰かの困りごとを解決するかもしれない。自分の後輩を育てる側に回るかもしれない。そうやって一人の成長が、別の誰かの仕事を助け、暮らしを支え、また次の人へ渡っていく。
たとえその成果が、自分の会社に直接返ってこなかったとしても、社会のどこかでは必ず誰かの役に立っている。
尾川さんは、そう考えている。
「僕のところに返ってこなくてもいいんです。その人が成長して、どこかで誰かの役に立っているなら、それは絶対に社会のためになっている。だったら、それでいいじゃないですか」
人を育てることを、会社の利益だけで測らない。
成長した人を、自社の所有物のように扱わない。
社会に残る価値として見る。
尾川さんにとって人材育成とは、
社会の中に、誰かの役に立てる人を一人ずつ増やしていく営みなのだ。
第5章|人を育てられる人を増やしたい——損得を超えて技術を渡す理由
尾川さんのGive & Giveは、様々な行動に現れている。
同業他社の社員にも教える。AIの使い方を知りたい経営者がいれば無料で教える。中高生が会社を訪ねてくれば、ボランティアで対話する。相談を受ければ、できる限り自分の知識を渡す。
一見すると、非合理だ。自社の社員でもない人に教え、同業の人に教え、お金を取れる知識を無料で渡す。
「人類という視点で見たら、自分の会社の社員だろうが、よその会社の社員だろうが一緒なんです」
会社という枠で見れば、競争相手かもしれない。しかし、人類という単位で見れば、同じ時代を生きる人である。誰かが学び、できるようになり、その人がまた誰かを助けるなら、社会全体の価値は増える。
短期では損に見える。でも、長い目で見れば信頼が残る。人が残る。関係が残る。尾川さんは、その積み重ねで仕事をつくってきた。
ソフトウェア開発でも同じだ。困っている人がいれば、小さなソフトウェアを作る。無料で作ることも多い。お金を得るために作るのではなく、困っていることがあり、それを解決できるならやる。その姿勢が伝わると、相手は次に「これ、ちょっと見積もりを作ってくれへんかな」と言う。
売り込むのではない。先に価値を渡す。相手の困りごとを解く。その先に、信頼が生まれる。
「短期ではなくて、何十年も続くっていうのは、そういうことなんですよね。最終的には信頼関係でしか成り立たないんです」
AIが進化し、効率化が進み、合理的な判断はどんどん機械が担うようになる。速く作る、安く作る、最適化する、自動化する。それらはAIが得意な領域だ。
では、人間には何が残るのか。
尾川さんは、そこにもはっきりした視点を持っている。
「損得がある人はAIに代わられる。でも、損得がない人はAIに代わられないですよね」
損得だけで動くなら、AIの方が合理的だ。計算も早く、判断も速く、疲れない。しかし人間は、見返りがなくても誰かのために動くことができる。自分に返ってこなくても、相手の成長を喜ぶことができる。その喜びが別の誰かへ向かっても、それでいいと思える。
その非合理さこそ、人間にしか残らない価値なのかもしれない。
尾川さんがこれから増やしたいのは、「人を育てられる人」である。
「僕一人で誰かを育てても、限られるじゃないですか。でも、それができる人が増えれば増えるほど、後の世代の人たちは育つ機会、育つ場が増えることになるんです」
自分が育てるだけでは足りない。育てられる人を育てる。人が人を育てられる社会にする。技術も、考え方も、向き合い方も、次へ渡していく。
尾川さんにとってのIKIGAIは、
「僕に関わった人が何か喜んでくれたら、それだけでオッケーです。その喜びが、こっちに向いていなくてもいいんです」
自分に感謝されなくてもいい。自分の手柄にならなくてもいい。その人がどこかで誰かを喜ばせるなら、それでいい。
家の前で人を見ていた少年。虫や魚の動きを読み、どうすれば壊さず捕まえられるか考えていた少年。班決めで取り残された子を見て、黙っていられなかった少年。お金がなくてサッカーを諦めた少年。電気屋のパソコンに、覚えたコードを打ち込んでいた少年。
そのすべてが、今の尾川さんにつながっている。
与えられなかったものがあるから、与える側に回る。声をかけられなかった痛みがあるから、声をかけられる人を増やす。育ててもらえなかった時間があるから、人が育つ場をつくる。
待っていても、何も変わらない。
だから尾川さんは、今日も自分から渡し続ける。
あとがき
尾川さんの話を受け取りながら、私は「人のために」という言葉を考えさせられた。
この言葉は、美しい。
ただ実践し続けるのは難しい。
言うだけなら誰でもできる。理念に掲げることもできる。プロフィールに書くこともできる。だからこそ、その言葉が本物かどうかは、いつも行動に表れる。
尾川さんの言葉には、行動があった。
昼食代がない日を知っている人が、子どもたちの挑戦の場をつくる。声を上げられない子が取り残される場面に怒った人が、今は人を育てる人を増やそうとしている。技術を独占せず、同業の人にも渡す。自分に返ってこなくても、誰かが喜ぶならそれでいいと言う。
そこには、きれいごとでは届かない強さがあった。
人は、自分が傷ついた分だけ、誰かを傷つけないように生きることができる。自分が与えられなかった分だけ、誰かに渡す側へ回ることができる。守られなかったから守る。教えてもらえなかったから教える。声をかけてもらえなかったから、自分が声をかける。
それは、自分がした苦労を次の世代にさせないという、粋な行動だと感じた。
痛みは、人を閉ざすこともある。自分だけを守る方向へ向かわせることもある。だからこそ、尾川さんのように、痛みを誰かの未来へ変えていく生き方には力がある。
AIが進み、効率が加速し、損得で物事が測られやすくなる時代だからこそ、人間にしかできないことがある。見返りがなくても渡すこと。自分の手柄にならなくても育てること。誰かが自分の知らない場所で喜んでくれたなら、それでよかったと思えること。
あなたは、過去の痛みを、誰かの未来に変えることができているだろうか。
自分に与えられなかったものを、誰かに渡すことができた時、人は過去に負けない生き方を始めるのかもしれない。
尾川さんの物語は、その問いを私たちに手渡してくれている。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師



