自分の人生を、自分で選び直す——三線と舞台の先で見つめる「穏やかな生活」

自分の人生を、自分で選び直す——三線と舞台の先で見つめる「穏やかな生活」

平石詩稀 歌三線奏者

三線と舞台に向き合い、自分の暮らしを選び直す人

栃木県塩谷郡

平石詩稀 歌三線奏者さんのプロフィール

平石詩稀 歌三線奏者
三線と舞台に向き合い、自分の暮らしを選び直す人
栃木県塩谷郡

自分の人生を、自分で選び直す——三線と舞台の先で見つめる「穏やかな生活」

あなたは今、自分が望む暮らしのために、時間を使えているだろうか。

沖縄のホテルで正社員として働いていた頃、平石詩稀さんは、芸能に向き合う時間を増やそうと会社に退職の意思を伝えた。ホテルの仕事を続けるか、芸能の道へ進むか。生活を支えてきた仕事と、もっと深く学びたいものとの間で、平石さんは芸能を選んだ。

その時、ホテルから提案されたのは、アルバイトとして仕事を続けることだった。雇用形態を変え、働きながら学ぶ道が残った。平石さんは後に沖縄県立芸術大学へ進み、琉球の言葉や歴史、文化とともに、歌三線を学んでいく。

琉球古典歌三線奏者として活動する平石さんの歩みには、人との出会いが何度も現れる。祖母との旅行で出会った三線の先生。仕事を失った時、ホテルに誘ってくれたお客様。働き方を変えたいという申し出を受け止めてくれた職場。そうした関わりの中で、暮らしと芸能を続けてきた。

やがて関心は、自分が舞台に立つことから、芸能に携わる人が生活できる仕組みへと広がった。仲間と資金を集め、沖縄の文化を海外へ届ける。2024年にはニューヨークのカーネギーホールの舞台にも立った。

同時に、その挑戦は大きな経済的負担を残した。自分が思い描いた計画と、進んでいく現実。その間で、平石さんは人との関わり方や、お金の使い方を見直すことになった。

今回の対話で語られたのは、その歩みとともに続いていた、自分自身の感覚との付き合い方だった。幼い頃から霊が見えると感じ、それが苦しく、本当に嫌だったという平石さんは、今はその感覚を自分の力として受け止めるようになっている。人の言葉に強く影響され、断りたいと思っても受け入れてしまうこともあった。誰かを手伝う時にも、自分が望んで関わっているのかを、もう一度確かめたいと話していた。

取材時、平石さんは栃木県の実家で暮らしていた。会う人を選び、固定費を減らし、日々の生活を整えている。その人がIKIGAIについて尋ねられた時に答えたのは、「落ち着いた穏やかな生活」だった。

これは、三線と舞台に向き合ってきた一人の人が、人との縁に支えられ、時にはその関わりに迷いながら、自分の望む暮らしを選び直していく記録である。

第1章|見えることが、苦しかった——幼い頃の戸惑いと、祖母がくれた三線

平石さんは栃木県で育った。幼い頃から、本人が霊と捉えるものが見える感覚があったという。

そうした体験は苦しく、見えることが本当に嫌だったと振り返る。今のように自分の力として受け止めるまでには、長い時間があった。

一方で、音楽や芸事にも幼い頃から親しんだ。3歳からピアノを習い、高校では吹奏楽部に所属した。父方の祖母は日本舞踊の先生だった。

三線との出会いは、17歳頃のことだった。祖母と二人で旅行に行くことになり、行き先の候補に北海道と沖縄が挙がった。二人が選んだのは沖縄だった。

ホテルに着くと、疲れた祖母は眠ってしまった。平石さんが一人でホテルの中を歩いていると、観光タクシーの運転手に声をかけられた。祖母が起きてから、その人の案内で沖縄を巡ることになった。

運転手は、三線の先生でもあった。観光の案内をしながら三線を弾き、沖縄の文化を伝えていた。音楽が好きな平石さんのために、祖母は一本の三線を買ってくれた。

「それが、三線との最初の出会いです。まさかその時は、自分が沖縄に移住するなんて思ってもいませんでした」

その一方で、平石さんは思春期から、自分の性別や、自分とは誰なのかという感覚について、周囲へ説明しにくい体験をしていた。中学生の頃にはスカートを履くことに抵抗があり、18歳頃には、自分を男性として認識していたと振り返る。

自分の中に、別の存在がいるように感じていたことも語った。その存在が、やりたいことを決め、行動していたように感じていたという。

「見えてはいるんですけど、自分の意思で動けない。私がこの表に出て生きていくって思っていなかったんです」

性別への違和感について専門機関に通い、当時の診断名である「性同一性障害」の診断書を受け取った経験があるという。また、両親と別の医療機関を受診した際には、「解離性同一性障害」と診断された。

平石さんは、こうした体験の一部を、現在は霊的な世界観も交えて捉えている。医療機関で受けたという説明と、自分の身に起きていたことへの本人の捉え方。その両方が、対話の中にはあった。

高校卒業後、平石さんは大学に通いながら舞台を学んだ。音楽に親しんできた時間に加え、演劇やエンターテインメントの世界にも関心を持っていた。東京ディズニーランドで働いたのも、その現場を学びながら仕事ができると考えたからだった。

自分の意思で何かを選ぶことについては、今も簡単には整理できないという。その中で、舞台を学び、仕事をし、表現の現場に関わった時間がある。平石さんの話には、自分自身をめぐる迷いと、音楽や演劇に触れてきた具体的な経験が、並んで残っていた。

やがて東京での生活を続けることが難しくなり、環境を変える話が持ち上がる。移住先として勧められたのは、祖母と訪れ、三線を手にした沖縄だった。

第2章|働く場所が、学びの場所になった——25歳の移住とホテルで重ねた時間

20代半ば、平石さんは、自分の心身の状態にどう向き合えばよいのかを探していた。周囲の人の感情や、本人が霊と捉えるものの影響を強く受ける感覚があり、それによって働くことが難しくなることもあったという。

「私は、いろんなものを受け取ってしまうんです。守り方を知らなかったから、いっぱいになると倒れてしまうこともありました」

お台場にある、風水やパワーストーンを扱う店を訪れたことが、沖縄へ移るきっかけになった。店を営む人物に沖縄行きを勧められ、現地で新しく店を始める人を紹介された。移り住んだ後の仕事も、そこでつながった。

両親は移住に反対した。それでも平石さんは25歳で沖縄へ渡った。

「関東にいると働けなかったのに、沖縄に行ったら普通に働けたんです。自分でも、なんでだろうって思いました」

移住後には、沖縄で暮らすことを報告するために久高島を訪れた。そこで、自分がこの身体の主として生きていくのだという感覚を持ったという。それまで人生の方向を決めていたと感じていた存在から、自分自身へ。平石さんにとっては、生き方そのものに関わる体験だった。

自分で生きていくという感覚を持っても、すぐにやりたいことが見つかったわけではなかった。当時の戸惑いを、平石さんはこう振り返る。

「なんで私が生きていかなきゃいけないんだろう、というところからスタートしています」

現地で最初に紹介された仕事は、約3か月で続けられなくなった。次の仕事を探し、何社もアルバイトの面接を受けた。ようやく働き始めたのは、国際通り近くのパワーストーン店だったが、約1年後には、その職場も離れることになった。

再び仕事を失った時、店によく来ていたお客様が、勤め先のホテルへ誘ってくれた。首里城の近くにあるホテルだった。平石さんは、そこで客室清掃の仕事を始める。

清掃の仕事だけでは生活費が足りず、職場へ相談した。すると、売店の仕事も任せてもらえた。フロントなど、ホテル内のさまざまな業務も経験した。

三線の学びが本格的に始まったのも、この職場での出会いからだった。売店で働く人の中に、三線を習っている人がいた。音楽が好きならと、師匠を紹介してくれたのである。

17歳の旅で祖母に買ってもらった三線。移住したからといって、すぐに学び始めたわけではなかった。仕事を探し、生活をつなぎ、ホテルで働く中で、その楽器を本格的に学ぶ機会が巡ってきた。

稽古を重ねると、ホテルの中で演奏する機会も得られるようになった。お正月には芸能公演を任され、それは何年も続いた。仕事場には、生活を支える役割と、芸能を披露する場所という二つの関わりが生まれていた。

やがて、芸能へもっと時間を使いたいという気持ちが強くなる。30歳を過ぎた頃、平石さんは正社員を辞める意思を会社へ伝えた。そこで提案されたのが、アルバイトとして働き続ける方法だった。

平石さんは雇用形態を変え、芸能へ向き合う時間を増やしていった。仕事を失った時に始まったホテルとの縁は、学ぶために働き方を変える時にも続いた。そうして次に選んだのが、沖縄県立芸術大学への進学だった。

第3章|難しいから、学び続けられた——琉球芸能への憧れと、自分に合う姿

30代で沖縄県立芸術大学に進んだ平石さんは、琉球古典音楽を学んだ。歌や三線の技術に加え、沖縄の言葉、歴史、文化にも触れていく。言葉を理解することが、その土地の文化を学ぶことにつながっていた。

「難しいから面白かったんです。何年やっても飽きない。言葉を学ぶことは、文化を学ぶことでもあるんですよね」

特に憧れたのは、琉球王国の時代から受け継がれてきた古典芸能だった。首里城で、花笠をかぶり、紅型をまとった舞踊家が踊る。その後ろで、歌や三線、笛などを担う地謡の演奏者がいる。平石さんは、その舞台に惹かれた。

「私がやりたかったのって、これなんだって思ったんです」

幼い頃から音楽に触れ、東京では舞台を学んできた。その後、沖縄で働きながら出会った芸能の中に、立ちたい場所を見つけていた。

大学在学中、首里城で演奏する機会につながるはずだった。

ところが、2019年に首里城の正殿などが火災で焼失する。
思い描いていた舞台は、予定していた形ではかなわなくなった。

その後、復興に関する催しで、首里城公園での演奏機会を得た。憧れていた建物は、まだ戻っていなかった。それでも、その場所で三線を奏でることができた。その時の姿や思いは取材記事にも残され、平石さんにとって大切な記録になっている。

芸能を学び続ける間も、自分の性別についての違和感は続いていた。伝統芸能の世界では、性別によって衣装や役割が分かれる場面がある。平石さんは、男性として活動したいという希望を伝え、受け入れてもらったという。

ただ、男性として振る舞い続けることにも、やがて苦しさを感じるようになった。身体への違和感があることと、男性として生きることを望むのかということ。その間で、自分に合う在り方を探していた。

「私は男性ではない。でも、身体に対する違和感もなくならない。だから、自分では中性だと定義しています」

「詩稀」という名前は、自分で選んだという。男性でも女性でもない名前にしたかったと話していた。

性別について以前ほど強く主張することはなくなったとも語った。自分の中で折り合いをつけた、というのが本人の表現だった。自分についての説明も、その時々の経験を通して変わってきている。

そうして平石さんは大学で学び、琉球古典音楽の師範となった。学びや演奏の経験を重ねる中で、周囲の芸能に携わる人たちの暮らしにも目が向くようになる。

高い技術を身につけること。その技術を舞台で届けること。そして、その活動を続けながら生活すること。芸能の現場には、それぞれに必要なものがあった。平石さん自身もホテルで働きながら活動を続けてきた一人だった。

芸能を仕事として成り立たせるには、どんな仕組みが必要なのか。演奏者として学んできた平石さんの前に、次は事業について考える課題が現れていた。

平石詩稀さんの活動の様子

第4章|芸能を、続けられる仕事にしたかった——カーネギーホールへの挑戦と残った負担

2022年、平石さんはビジネスコミュニティに入った。誘ってくれたのは、東京ディズニーランドで働いていた頃から付き合いのある友人だった。ホテルでアルバイトをしながら歌三線奏者として活動していた平石さんは、そこで事業について考え始める。

「ビジネスって、何をしたらいいの?」

当時、ビジネスについてほとんど分からなかった平石さんの相談に、自分が続けてきた三線を生かせるのではないかと示された。歌三線を、仕事としてどう成り立たせるか。平石さんは、その可能性を探り始めた。

考えていたのは、専門的な技術を持つ演者たちの舞台をつくり、その活動を支えるマネジメントの仕組みだった。本人によれば、芸能の世界では、出演する側がお金を支払って舞台に立つこともある。長く修業をしても、演奏や舞踊だけで生活することは簡単ではなかった。

「プロフェッショナルな人たちで、本当に魅せる舞台をつくれる仕組みができないかなって思っていたんです」

演者を集め、お客様に見てもらえる舞台をつくる。平石さんは、文化を届けることと、収入を得ることを、同時に考えようとしていた。

同じコミュニティで出会った、ニューヨークで活動経験のあるミュージカル俳優との縁から、カーネギーホールへの出演の話がつながった。事業の形も資金も、十分に整った段階ではなかった。その中で、出演に向けて動き始めた。

当時の本人の公開発信には、「走りながら考えよう」と、資金づくりや仲間集めに取りかかった経緯が記されている。みんなでつくり上げ、その後も活動を続けていく。そのための最初の一歩として、舞台を位置づけていた。

クラウドファンディングを行い、国内での公演や企業の協賛も含めて、資金を集めようとした。歌三線に加え、舞踊や太鼓などを担う人たちと、沖縄の文化を届ける構想だった。自分一人の出演を実現するよりも、広い計画を描いていた。

計画が進むにつれ、当初思い描いていた進め方と、現実との間にずれが生まれたと平石さんは振り返る。参加する人が増え、芸能の世界での立場や人間関係も関わってきた。

「本当は、一緒に協力してつくっていける人たちとやりたかったんです。でも、気づいたら自分ではもう修正できない状態になっていました」

費用の負担についても、平石さんは認識の違いがあったと語った。みんなで資金づくりに関わるつもりで始めたが、渡航費や滞在費、謝礼などの負担が大きくなっていったという。途中から弁護士にも相談したと話していた。

平石さんは、自分の関わり方も振り返っていた。計画を進める中で、相手の言葉を受け入れ、自分の限界を越えて引き受けてしまった。意見を伝えたり、難しいことを断ったりする判断が、自分には必要だったと考えていた。

2024年、平石さんはニューヨークへ渡り、カーネギーホールの舞台に立った。同時に、その挑戦に伴う大きな経済的負担が残った。取材では、自己破産についても語った。

出演という出来事と、その前後で抱えた負担を、本人は一緒に振り返っていた。文化を届けたかったこと。演者を支える仕組みをつくりたかったこと。その意図を持って動きながら、計画を続けるために必要な条件や、自分が負担できる範囲を見極めきれなかったことが残った。

この経験を振り返る中で、平石さんは、自分が描く未来と現実の関係についても話した。

「私は、先にある未来を、今もうあるものみたいに話してしまうところがあったんだと思います」

これからできると思っていることと、今できること。その隔たりを、事業や日々の生活の中で、改めて考えるようになる。

第5章|その感覚を、自分の力に——自分を守り、穏やかな暮らしを選ぶ

カーネギーホールへの挑戦の後、平石さんは出張旅費の削減に関わるサービスの仕事にも取り組んだ。その時期、自分にはビジネスについて学ぶことが必要だと考えていた。

ニューヨークでの経験を振り返ると、自分の事業の進め方にも課題があった。

「とにかくビジネスを学ぼうと思ったんです」

そこで研修を受け、学びを重ねた。

学ぶことや役割を担うことと、自分の生活を安定させること。その間には、なお課題が残っていた。知識が増えても、収入と支出の関係が、そのまま整うわけではなかった。

取材の数日前には、お金の使い方について気づいたことがあったという。まだ入っていない収入を、得られる前提で考え、先に支出を決めていた。次の収入があっても、その使い道は、すでに決まっている。

「全然、手元にお金が残らないやり方をしていたんだなって、やっと気づいたんです」

そこで見直しているのは、まず毎日の暮らしである。固定費を減らし、必要なお金を確かめる。事業だけで収入をつくろうと無理を重ねず、必要なら働いて生活を支える。取材時には、そうした選択も考えていた。

栃木県の実家へ戻ったことも、その一つだった。平石さんは実家を「物理的なシェルター」と表現していた。人から誘われても、すぐに出向ける距離にはいない。その距離が、関わり方を変えるための条件になっていた。

人との縁も選び直している。信頼できる人からの紹介を受けることを基本にし、嫌だと感じる相手や、心がざわつく関係からは離れるようにした。

「嫌だなって感じる人との縁を切り始めたら、全然忙しくなくなったんです」

人との出会いに助けられた経験も、数多くある。沖縄で仕事につながったことも、ホテルで三線の師匠を紹介されたことも、人との関わりから生まれた。今はその関係を、どのように続けるかを自分で選ぼうとしている。

幼い頃には苦しかった霊的な感覚も、現在は、自分の力として受け止めるようになっている。見えることが本当に嫌だった時期を経て、その感覚とともに生きていく。平石さんは、自分を守ることを大切にしながら、自分自身の感覚との付き合い方も変えてきた。

誰かを支えることについても、考え直していた。

「誰かのサポートをしている時が幸せなのかな、とは思うんです。でも、今度は自分の意思でやりたいんですよね」

再び活動を大きく広げていく可能性を伝えると、平石さんは、その方向には慎重な反応を示した。

「そこは、ちょっと嫌なんですよね」

また大きな計画を考え、同じことを繰り返すかもしれない。今は、自分を守ることを優先したいという話だった。

大きな舞台を経験した人に、次の大きな舞台を期待する。そうした期待に対しても、本人がどう感じているのかを聞く必要があった。平石さんが望んでいたのは、生活を落ち着かせ、自分が本当にしたいことを確かめられる時間だった。

IKIGAIについての答えは、「落ち着いた穏やかな生活」だった。

会う人を選ぶ。引き受ける前に、自分が望んでいるかを確かめる。そうして平石さんは、自分の暮らしを大切にするための時間を、少しずつ取り戻している。

この先、何をしたいのかは、まだ探している途中にある。三線も、舞台も、そこまで歩いてきた時間も抱えたまま、次の答えを急いではいない。

誰かの力になる時も、自分がそうしたいから関わる。そのためにまず、自分を守り、自分の声を聞く。

平石さんは今、自分自身を置き去りにしない暮らしを、一日ずつ選び直している。

平石詩稀さんの活動の様子

あとがき

平石さんとの対話で、私の中に残ったのは、人のこれからを応援する時に、自分は何を期待しているのかという問いだった。

経験がある人、行動してきた人に会うと、その力が次にどこへ向かうのかを聞きたくなる。活動が広がり、多くの人に届いていく姿を、応援として思い描くこともある。
今回、平石さんの話を受け取りながら、私はその見方を立ち止まって考えた。

本人が今、大切にしたいと語っているものを、どこまでそのまま聞けているだろう。次の可能性を見ようとするあまり、目の前にある希望を小さく扱ってはいないだろう。

幼い頃には苦しかったという感覚を、今は自分の力として受け止めている。その変化も、外から次の大きな活躍を求める前に、本人の言葉で聞きたいことだった。自分を守り、その感覚と付き合いながら暮らす。その時間を大切にしたいという答えを受け止めることも、人を応援する一つの形なのだと、私は受け取った。

IKIGAIを尋ねる時も、その答えを外から評価することには慎重でありたい。誰かの活動の規模や実績を見ているだけでは、その人が今、何を大切にしているかは分からない。語られた言葉を聞き、その言葉が生まれた時間を知るために、対話を続けたい。

これは、自分の暮らしへも返ってくる問いである。誰かに説明しやすい目標を探す前に、一日の中で心が落ち着く時間や、引き受けるたびに苦しくなることを、具体的に見てみる。自分の希望を確かめる手がかりは、そうした日々の中にもある。

あなたは今の暮らしの中で、何を大切にする時間を増やしたいだろうか。
誰かを大切にする人生の中で、自分の願いも大切にする。

あなたが守りたいものの中に、あなた自身もいてほしい。

IKIGAIコネクター
尾﨑弘師

WRITER PROFILE

尾﨑弘師 (おざき ひろし)

IKIGAIコネクター/IKIGAI JAPAN 主宰/株式会社ミトミト 代表取締役

これまで延べ1,500人以上に「生きがい(IKIGAI)」をヒアリングし、経営者を中心に100本以上の長編インタビュー記事を執筆。経営者インタビューメディア「IKIGAI JAPAN」を運営し、人生・価値観・哲学・仕事への想いを取材・言語化し、次世代へ残す活動を続けている。

掲げるのは、「その人の人生は、誰にもコピーできない。だからこそ、残すべき価値がある。」という考え方。AIによってコンテンツが大量生産できる時代だからこそ、その人にしかない経験や思想、技術、物語こそが差別化資産になると考えている。

さらに、発掘したIKIGAIをブランド・採用・集客・営業へつなげ、経済の力へ変える「IKIGAIマーケティング」を実践。インタビューによる価値の発掘・言語化を起点に、Webサイト・漫画LP・アニメーションなどのクリエイティブ制作から、広告運用・営業設計まで一気通貫で支援し、「その人だから選ばれる」マーケティングの仕組みを構築している。

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