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今この瞬間を、命がけで生きているか——55歳で「IKIGAI」に出会った左官職人の哲学
猪口誠 株式会社i.wall代表取締役クリエーター
“今ここ”を塗り重ねる左官職人
京都府京都市
今この瞬間を、命がけで生きているか——55歳で「IKIGAI」に出会った左官職人の哲学
あなたは今、人生が楽しいだろうか。
仕事が、毎日が、この瞬間が。心の底から「楽しい」と言えるだろうか。それとも「いつかは楽しくなる」「もう少し条件が整えば」と、どこか先に楽しさを預けながら、今日をやり過ごしているだろうか。
京都市右京区に、一人の左官職人がいる。
株式会社i.wall代表取締役クリエーター・猪口誠。
左官一級技能士として、職人歴40年。漆喰やイタリア漆喰、モールテックスを駆使し、何もない壁を唯一無二のアートに変える専門家として、設計士や工務店から絶大な信頼を集めている。
猪口さんは、左官が大嫌いだった。汚くて、しんどくて、安くて、「こんな仕事、絶対したくない」と思っていた。高校を中退し、行き場もなく、バイク代欲しさに仕方なく飛び込んだ世界だった。
それが気づけば40年になっていた。
その間に、天狗になり、自己破産し、桜の木を見上げながら死を考え、魚の行商で人と話すことを覚え、コンビニのレジで若い子に叱られ、プライドをすべて捨てて、もう一度コテを握った。
55歳のとき、猪口さんははじめて「楽しい」と思った。本当の意味で、楽しいと思った。
会社のスローガンは「NAUFIA(ナウフィア)」——イタリア語で「今ここ、この瞬間」という意味だ。
「今が楽しいか楽しくないか。それが僕の全ての基準なんです」
これは、嫌いだった仕事が55年かけてIKIGAIに昇華された男の物語だ。
そして、「今この瞬間」を生きることの意味を、血と汗で学んだ一人の職人の記録である。
第1章|下敷きで車を作った少年——ものづくりが唯一の宇宙だった
鳥取の田舎で育った猪口誠という少年は、ひたすら自分の手を動かしていた。
「どこを見ても山と田んぼしかない」場所で、彼の冒険は手の中にあった。
当時流行った、プラモデルが欲しかった。
でも買ってもらえない。だから下敷きをハサミで切って、バイクを作った。タイヤも丸く加工した。接合部分は、家にあったはんだごてで溶接した。
「塩化ビニールを熱すると有毒なダイオキシンが発生するなんて、当時は知らない。部屋の中が煙だらけになるまで、夢中で手を動かしてました」
ただその瞬間が大好きだった。
「自分の世界に入れるから。作っている間は、周りの何もかもが消えるんです」
父親は左官職人だった。壁を塗り、現場で汗をかく背中を、猪口さんは子どもの頃から見ていた。だが、かっこいいとは思わなかった。
「埃だらけで汚いし、しんどいし、金も安い。絶対こんな仕事するか、と思ってました」
親との折り合いは最悪だった。
反発を繰り返し、ぐれた。
そして高校は1年の冬に中退。行くあてもなく、居場所もなかった。
バイクが欲しかった。都会に憧れていた。父親に言われた。
「左官の仕事をすれば、バイクぐらい買えるようになる。京都に行って修行してこい」
それだけの理由で、山と田んぼの故郷を後にした。嫌いな仕事への現実的で、あまりにも冷めたスタートだった。
第2章|天狗と破産——「すごい」と言われるために生きた日々の果て
京都の左官現場に入った最初の1年、猪口さんは「手元(見習い)」だった。職人が壁を塗るための材料を練り、運ぶ。それだけの仕事だ。
当時の職人の世界は、今以上に過酷だった。怒鳴られ、理不尽なことを言われた。「なんでこんな目に遭わなあかんねん」と思った。だが、みんなが帰った後、猪口さんはこっそり壁を塗る練習をした。
「こんな簡単やん、これ」
それが最初の感触だった。見様見真似で塗ってみると、思いのほかできた。誰かが難しそうにやっている作業を、自分がやってみると意外にできてしまう。その感覚が快感だった。
「昔の職人はね、偉そうにしてるから、こいつらのクソじじいに、なんでこんな言われなあかんねん思って。でも、分からないことは聞けないから、誰かやってる奴がいるところにずっと行って、やり方を見て。みんなが帰ってから、そのやり方を全部、分解して、外して、研究して、全部やりました」
才能があったのだろう。彼はめきめきと頭角を現した。19歳になる頃には、現場で一番偉そうに振る舞うようになっていた。
「技術があれば認められる世界だから。年齢も経歴も関係ない。できるやつがいい。この世界おもろいやん、と思った」
自分の技術を見せつけると、周りの見る目が変わる。誰もが「すごいな」と持ち上げてくれる。それが快感だった。
30代半ばで、彼は日本最大級の左官会社に乗り込んだ。何百人もいる会社の工場長に、自分の技術を見せた。
「君、多分大阪ナンバーワンやな」
その一言は、確かに彼を天狗にした。
「俺ってやっぱりできるんだって。もう、みんながご飯食べてる時でも、僕だけ飯も食わずに仕事して。3人で2〜3日かかる仕事を、一人で1日で終わらせて。それを『なんでできるねん』って言われるのが快感だった」
腕は天井知らずに上がっていった。
しかし、その裏側で、心と体は削れていった。
「全然楽しくなかったんです。面白くない。体はボロボロ。疲れて疲れて。それでも、『今さら引けへんな』って思ってた」
やがて独立し、自分の下に職人を抱えるようになる。仕事はある。腕もある。お金も回る。
そこで彼が「できなかったこと」は、経営と、自分自身のコントロールだった。
「経理がまったくできなかった。現場にも職人がいるし、俺はゴルフ行って、飲みに行って。週5でゴルフ。現場の管理もせずに、人が増えれば増えるほど、現場は赤字だらけ。物凄く赤字が溜まってました」
4年間、そうやって生きた。結末は、自己破産だった。
すべてが崩れた。職人たちは離れ、お金はなくなり、カードもなくなった。
「死ぬしかないんかなって、本気で思ってました」
花見の季節だった。京都のある公園に、桜の木がずらりと並んでいた。猪口さんはその木を見上げながら、「どの枝で首を吊ろうか」と考えた。
「40年生きてきて、ずっと『自分はできる』と思ってきた。誰よりも速く、誰よりもうまく仕事をしてきた。それが誇りだった。その誇りが、根こそぎ消えた」
振り返ると、あの時間は「他人の目のために生きていた時間」だったと猪口さんは言う。
「『すごい』と言われたかった。『なんでこんなに速いの?』と驚かれたかった。そのために歯を食いしばり、そのために天狗になった。自分の楽しさのためではなく、他人からの評価のために動いていた」
楽しくなかった。ずっと、楽しくなかった。
第3章|鮭を売りながら、人間になった——5年間の行商が教えてくれたこと
自己破産の後、猪口さんは左官から離れた。
「汚いし、しんどいし、安いし、面白くもない。もう自分のプライドのためだけにやってきた仕事に、戻る気になれなかった」
しばらくは、何もできなかった。そんなとき、一つの気づきがあった。自分は極端に口下手だった。16歳から現場に入り、職人の世界で生きてきた。人と普通に話すことが、ずっとできなかった。
「これって、絶対人生で損してる。もっと人前で話せるようになりたい。対面で商売がしてみたい」
そこで飛び込んだのが、魚の行商だった。鮭を売る、テント販売の仕事だ。
百貨店やイベント会場に出店し、押し合いへし合いの人混みの中で、大声で客に声をかける。「奥さん、これ今日入ったばかりやで」「3切れでちょうだい、言うたらあかん。この5キロのまるごとの方がお得やで」そうやって交渉しながら売る。
最初は怖かった。だが、5年続けた。
「関西中を回るんです。和歌山、神戸、大阪。1週間ごとで回っていくんですけどね。また1ヶ月後に行って、『あ、お兄ちゃん久しぶりやな』『奥さん久しぶり』みたいな、そんな会話。そういう、そういう本当の普通の会話」
猪口さんはその瞬間を、「特別だった」と言う。
「それが今まで全くできなかった。15、6からずっと現場に入って、天皇陛下のようにみんなから持ち上げられて。でも、そういう人に、『お兄ちゃん久しぶりやな』みたいな、『ああ、奥さん久しぶり』そういう自然な会話ができるって言うのが、僕にとって特別なんです」
世界とつながった感覚があった。
だが、その道も長くは続かなかった。
5年ほど経った頃、業界を揺るがす産地偽装問題が明るみに出る。ロシア産の鮭を北海道産として販売していた実態が発覚し、食品への信頼そのものが問われる事態となった。
「これはもうダメだと思いました。ロシア産の鮭を北海道産として売っていた実態が明るみに出て、業界全体が揺れたんです。もちろん、自分が直接それをやっていたわけではない。でも、その業界の中で仕事をしている以上、無関係ではいられない。お客様に胸を張って届けられない仕事は、永続的に続けるものじゃないと思いました」
猪口さんにとって、仕事はただ稼ぐためだけのものではなかった。
人に喜ばれ、自分もその世界の一員として誇りを持てること。
それがあって初めて、続ける意味がある。
だからこそ、業界全体に対する信頼が揺らいだとき、猪口さんの中でひとつの答えが出た。
「これは、自分が一生かけてやる仕事ではない」
そう感じた猪口さんは、売上が上がっていたにもかかわらず、その仕事を辞める決断をした。
せっかく見つけた居場所を手放すことになった。
しかしその決断は、逃げではなかった。
自分が胸を張れない仕事を続けるよりも、もう一度、誇りを持てる場所を探す。
それが、猪口さんにとっての次の一歩だった。
次に向かったのは、コンビニのアルバイトだった。45歳だった。
「レジの複雑なシステムが操作できなかった。若いアルバイトの子に『こんなこともできないんですか』という目で見られた。かつて『大阪ナンバーワン』と言われた職人が、コンビニのレジで若い子に頭を下げた。めちゃくちゃカッコ悪かった」
だが、その「カッコ悪さ」が、猪口さんの何かを解いた。プライドを捨てるしかなかった。そしてプライドを捨てたとき、はじめて見えてきたものがあった。
「俺にできること、左官しかない」
嫌いだった仕事に、また戻るしかなかった。ただ今度は、「誰かに認められるため」ではなかった。生きるために、コテを握り直した。それだけだった。
第4章|55歳の衝撃——「これが俺のやりたかったことや」
左官に戻った猪口さんは、外壁専門の会社に職人として入った。45歳から10年間、職人として雇われた。
周りの職人も親方も、みな60代、70代の高齢になっていた。雨が降っても、雪が降っても、足場の上で外壁にセメントを塗る。体はボロボロになっていく。
「もうこんな仕事いらん、とみんながぼやいていた。僕も限界を感じていた」
そんなとき、猪口さんはインターネットで「イタリア漆喰」という素材を見つけた。
「内装の漆喰に転向したらどうやろうって、ずっと考えてたんです。雨も関係ないし、足場もない。体も楽やし、汚れも少ない」
その日の夜、アポも取らずに東京へ向かった。イタリア漆喰を輸入している会社に、いきなり訪ねていった。
「衝撃を受けました。今までは、セメントをまっすぐ塗ることしか考えてなかったんですよ。でも、そこには、色も、テクスチャも、柄も、いろんな世界があった。『これ、俺がやりたかったやつやん』って、10年前に衝撃受けました」
「悔しい」という言葉が出た。なぜ悔しいのか。もっと早く出会えていたら、という後悔だった。それだけ、その素材と可能性に心が動いた。
東京の会社から「仕事を出す」という言葉をもらって、京都の親方に話を持ち帰った。親方はやろうかみたいな形で話は進んでいた。
そのうち、猪口さんに直接電話がかかってくるようになった。
「僕に直接電話がかかってきたんです。それが親方のメンツを潰したんでしょうね。『お前が勝手に持ってきた仕事や。知るか、そんなもん』って言われて。『知るか』って言われた時に、『じゃあ、親方おれ辞めますわ』って」
55歳での独立。株式会社i.wallを設立した。
最初の半年は、仕事がほとんどなかった。「またこのパターンか」と思った。イタリア漆喰は高い。普通のクロス張りなら50〜60万円の壁が、漆喰だと200万円を超えることもある。
「なかなかそんなもん、みんな皆さん使ってくれませんしね。それで結局、仕事、もう前の左官のようにもう何でもやりました。もうブロックも積みますよ、土間もしますよ、何でもしますよ」
食いつなぎながら、少しずつ漆喰の認知を広げていった。
「1回入ったお客さんが、『あれよかったね、じゃ次も頼むわ』なみたいな感じでね。それで広がっていって、それでちょうど今になったんです」
そして、漆喰に慣れてくると、次の欲が生まれた。
「もっと独創的にもっとこのワンオフっていうか、もう一点もの。一点もの目指したいな唯一無二を。それを、できへんかなって、いろんなこのイタリアの材料を、いろんな種類をもうとにかくいっぱい仕入れて、仕事が暇な時にそれをやったり使ったり、いろいろ塗ったりして」
お金のためでも、他人の評価のためでもなかった。純粋に「創ること」が楽しかった。
「55でやっと、自分の『好き』と『得意』と『お金になること』が、一致したんです」
大嫌いだった左官が、長い年月と挫折を経て、彼自身の魂を表現する最高のアートへと変わった瞬間だった。
第5章|ナウフィア——今この瞬間が、すべての起点だ
株式会社i.wallのロゴには、英語のスローガンが刻まれている。
「NOW HERE(ナウヒア)」
「今この瞬間」という意味だ。
今が楽しくないなら、いつになったら楽しくなるのか。
今が起点であって、今が楽しくなければ、何も始まらない。
猪口さんの価値観の核は、ここにある。「今が楽しいか、楽しくないか」
それだけが基準だ。
現在、猪口さんはかつてない危機の中にいる。建設業界を直撃した資材不足の影響で、建物の工事が止まっている。
「僕らの仕事って、建物が9割できたタイミングで入るんです。骨組みが立って、断熱材が入って、ボードが貼られて、『さあ、仕上げお願いします』って呼ばれる。ところが今は、断熱材もユニットバスもトイレも届かない。家は『2割・3割』で止まっている」
仕事があるのに、仕事ができない。数ヶ月前から、彼はそれを予感していた。
「このまま3ヶ月続いたら、多分うちの会社もたないですね」
それでも、猪口さんに悲壮感はない。
「現場がないなら、この広い倉庫でアート作品を作って売ればいい。その作品も昨日完成しました。もし会社がもたなくなっても、僕は個人の猪口誠として絶対に復活します。腕は残るし、知識は無限にある。止まらないですよ」
さらに、彼はこう言い切る。
「マグロがそうでしょ?海の中で80kmで泳いでるんですよ。止まったら死ぬんですよ、マグロ。僕マグロで。工房にいつもの時間に朝6時に工房にいます毎年ですよ、毎年。掃除したら、『これ、ちょっとひらめいたかな?それじゃー、正月、休み5日間あるし、5日間の間にこれ作れるよな』って、すぐ作業を始めます」
作っていない自分を、想像できない。
「僕のIKIGAIは、作り続けること。僕だけのワールドをぶち込んで、死ぬまで、病院のベッドに入る手前まで、絶対に作り続けます」
猪口さんの頭の中には、絶え間なく新しいアイデアが溢れている。
「作品って、作っているプロセスが一番面白いんです。完成したものは、僕にとって過去のもの。。執着はしないただ私は表現者ですネクスト、ネクストですよ。1個作ったら、そこから派生して『次はこんなんできるな』って、キリがないんです
完成した作品それはまだプロセスの途中、次から次に派生する作品すべてつながってる。死ぬ間際にできた最後の作品が完成して私のプロセスが完遂する。
NOW HERE(今ここに)。私が想う時間軸とは未来、現在、過去と時間が流れる、まずすべての行動は設計図があり予定がある、それが確固たるものかおぼろなのかはべつにしてそれを実現するために今するべき行動、全てがこの一瞬の在り方で決まる。

街を車で走れば、看板が目に入る。「俺だったらこうするけどな」と思った瞬間、新しい作品のイメージが生まれる。歩くときは下を向いて、頭の中で設計をする。
55歳でようやく気づいた。好きなこと、得意なこと、お金になること、すべてが重なる場所が、ここにある、と。
それは、遠回りの果てに見つけた場所だった。
若い頃から好きだった「ものづくり」。
誰にも負けないほど磨いてきた左官の技術。
そして、ようやく人に価値として届けられるようになった仕事。
その三つが重なったとき、猪口さんの中で、左官はただの仕事ではなくなった。
かつては、汚くて、しんどくて、安くて、大嫌いだった仕事だった。
人に「すごい」と言われるためだけに、歯を食いしばって続けていた仕事だった。
一度は自分を壊し、自己破産まで追い込んだ仕事でもあった。
それでも、最後に残ったのは左官だった。
誰かに認められるためではない。
過去の自分を証明するためでもない。
ただ、今この瞬間に湧き上がるものを、手で形にするために。
だから猪口さんは今日も、コテを握る。
壁に向かい、素材と向き合い、自分だけの世界をぶち込む。
すべての挫折と遠回りを通ってきたからこそ辿り着けた、猪口さんだけの真実だった。
大嫌いだった左官が、人生の最後まで誇れる仕事になった。
死ぬその瞬間まで、手を動かし、作り続ける。
その覚悟こそが、猪口誠という職人のIKIGAIなのだ。
あとがき
高校を中退した少年が、嫌いな仕事に飛び込み、天狗になり、破産し、桜の木を見上げながら死を考え、魚を売りながら人と話すことを覚え、コンビニで若い子に叱られて、プライドを捨てて、また嫌いだった仕事に戻り、55歳でようやく「楽しい」と思った。
その55年間は、遠回りだったのだろうか。
私にはそう思えなかった。
破産しなければ、経営の怖さを知らなかった。行商をしなければ、人と話す喜びを知らなかった。コンビニで恥をかかなければ、プライドを手放せなかった。そのすべてがあって、55歳の猪口さんが、イタリア漆喰の前で「これが俺のやりたかったことや」と心の叫びがでた。
これは必要な道のりだったのではないか。
猪口さんは「今が楽しいか楽しくないか」を基準にして生きている。シンプルすぎて、最初は軽く聞こえるかもしれない。だが、その言葉の裏には、楽しくない時間を何十年も生きてきた人間の重みがある。
楽しくない時間を知っているから、楽しい今が分かる。
あなたは今、楽しいだろうか。
もし「楽しくない」と感じているなら……
それはいつから始まったのだろう。誰かに認められたくて、評価されたくて、プライドを守るために、本当は楽しくないことを続けてきた瞬間が、あなたにもあるだろうか。
猪口さんは言った。
「苦痛なものは続かない。苦痛であれば、耐えられないから」
続けられるものが、あなたの本物だ。
死ぬまで作り続けたい、と言える何かが、あなたの中にも眠っているかもしれない。
それはまだ言葉になっていないかもしれない。
形になっていないかもしれない。
まだたどり着いていないだけかもしれない。
だが、そんなことよりも
今、楽しいか。
それにYESと答えられる人生であるならば、それは絶対に正解なのであろう。
猪口誠という人間が、壁にぶつけ続けているのは、技術でも芸術でもなく、「今を生きる」という、これ以上ないほどシンプルな哲学だ。
その壁(IKIGAI)は、今日も日本のどこかで、静かに息をしている。
人生に立ちはだかる壁も、ただ越えるだけが答えではない。
向き合い、触れ、何度も塗り重ねた先に、自分だけの模様が浮かび上がることがある。
あなたのIKIGAIは、今、どんな壁の前で、形になる瞬間を待っているだろうか。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師
株式会社i.wallウェブサイト









