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感性で料理する——スピリチュアル料理研究家が世界に届けたい“日本のごはんの本質
WARAJI DELI 高山晴代
スピリチュアル料理研究家
長野県
感性で料理する——スピリチュアル料理研究家が世界に届けたい“日本のごはんの本質
あなたは、自分の感覚をどこまで信じて生きているだろうか。
世の中には、正しさの基準があふれている。
健康とはこういうもの。
仕事とはこういうもの。
成功とはこういうもの。
料理とはこう作るもの。
人生とはこう進めるもの。
その誰かが作った当たり前を問い続けた女性がいる。
たとえば、体は柔らかいのに肩はひどく凝る。血液はきれいだと言われるのに、自分の体にはずっと違和感がある。病院では薬を出されるけれど、心のどこかでは「もっと自然に癒える方法があるのではないか」と感じている。周囲から見れば小さな違和感かもしれない。だが、その違和感を「気のせい」で終わらせず、自分の感覚を信じた。
スピリチュアル料理研究家・高山晴代
彼女は子どもの頃から、自分の身体に現れる微細な変化に敏感だった。そして、その感性を押し殺すことなく生きてきた。婦人服デザイナーとして華やかな世界を生きた時期もあった。感性がビジネスになる現場で、創造の力が社会的な価値に変わっていく瞬間も体験した。けれどその一方で、組織の中で人が不自然になっていくこと、身体が“違う”と反応してしまうことも、誰より鋭く感じ取っていた。
その違和感が彼女を導いたのは、食の世界だった。
それも単なる料理の道ではない。
レシピを教えるだけの世界でもない。
高山さんが見つめてきたのは、人間の内側をどう整えるかという問いであり、食を通して感性や創造性を取り戻していく生き方そのものだった。
今、彼女は「スピリチュアル料理研究家」として、発酵、野草、自然療法、五感、創造性を軸に、日本の食文化を世界へ届けようとしている。だがその活動の本質は、日本食を広めることだけではない。もっと深いところで、彼女はこう問いかけているように思う。
正解に従うより、自分の感覚を信じて生きることこそが、人間らしく生きることなのではないか。
この物語は、料理研究家の話ではない。
食の専門家としてのキャリアをなぞる話でもない。
これは、感性を失いかけた時代に、自分の感覚を信じ続けた一人の表現者が、どのようにして“内側をデザインする道”へたどり着いたのかをたどる物語である。
そして同時に、
あなた自身が気づかないふりをしてきた違和感に、
もう一度そっと目を向けるきっかけになる物語でもある。
第1章 身体が教えてくれた“違和感”——感性の原点は、幼い頃から始まっていた
幼少期、高山さんはいつも身体に違和感を抱えていた。
多くの人なら、「そういう体質なんだろう」と受け流してしまうかもしれない。
だが高山さんは、そこで思考を止めなかった。病院へ行けば薬が処方される。けれど、そのたびに心のどこかで、「これは本当に、自分の根本の健康を整えるものなんだろうか」と感じていたという。
目の前の不調を一時的に抑えることと、自分の身体そのものを理解することは、まったく別のことなのではないか。幼い彼女は、まだ言葉にならない違和感を、すでに身体の奥で受け取っていたのかもしれない。
しかも高山さんは、幼い頃から“自分の感覚で確かめたい”子どもでもあった。
たとえばお風呂に入れば、シャンプーや日用品の成分表示をじっと眺めていたという。
何が入っているのか。なぜそれを身体につけるのか。誰に教えられたわけでもないのに、自然とそんなことが気になってしまう子どもだった。
目に見えない中身を、自分なりに理解したい。その姿勢は、この頃からすでに始まっていた。
さらに高山さんは、“好きなことに深く没頭できる”子どもでもあった。絵を描き始めれば、長い時間その世界に入り込んでいた。誰かに無理やりやらされていたわけではない。むしろ、自分自身が止まりたくなかったのだと思う、と彼女は振り返る。
好きなものに入ると、時間の感覚が薄れていく。その集中の深さは、単なる「器用さ」ではなく、世界との向き合い方そのものだった。
ある時、眼を見て身体の状態を読むという漢方の達人に、「あなたは、普通の人よりはるかに長く集中し続けていますよね」と言い当てられたことがあった。眼診という中医学に基づくき、体調や体質を見分けるものだった。
本人はそのことを誰にも話していなかったし、あえて言う必要も感じていなかった。確かに、放っておくと、4時間でも5時間でも集中指定仕事をしていた。
そして感性がとても鋭かった。大地の低い音のようなものを感じたり、人には説明しづらい感覚を持つこともあったと話す。科学的に言い切れる話ではないかもしれない。けれど高山さんにとってそれは、
空想や演出ではなく、あくまで現実の延長線上にある感覚だった。目に見えるものだけが世界のすべてではない。そんな実感が、彼女の中にはずっと自然にあった。
幼い頃からずっと、目に見える情報だけではなく、もっと微細なレベルで世界を感じ取ってきたのである。
身体の声を無視しないこと。
既存の正しさを、そのまま鵜呑みにしないこと。
好きなことに深く没頭すること。
そして、説明しきれない感覚を“なかったこと”にしないこと。
この時点ですでに、高山さんの中には、今へとつながる原型があった。
第2章 “外側をデザインする”日々——婦人服デザイナー時代に学んだ創造と違和感
進路を考えたとき、高山さんの前には二つの道があった。
パティシエになるか。
洋服のデザインの道に進むか。
料理やお菓子への関心もあった。けれど当時の彼女は、甘いものの世界に進んだら、自分の体調や美容面に何らかの影響が出るのではないかと直感的に感じていたという。結果として彼女が選んだのは、婦人服デザイナーの道だった。
その選択の根底にあったのは、やはり「作ること」への強い衝動だった。絵を描くのも好きだった。パタンナーとして誰かのデザインを形にする道もあったが、高山さんはそこには進まなかった。なぜなら彼女がやりたかったのは、すでにあるものを整えることではなく、“ないものを立ち上げること”だったからだ。
最初の就職先は長くは続かなかった。入社して間もなく、一度入院している。身体がはっきりと反応していた。心の状態が体に来ているような感覚があったという。デザインの仕事ができるはずだと期待して入った職場だったが、よくある話で、新米デザイナーがデザインできる環境ではなかった。
当時としては、早すぎる退職に見えたかもしれない。だが高山さんにとっては、「嫌なことを我慢し続ける人生」よりも「自分の感覚に正直でいること」の方が自然だった。
そして次に入った会社が、彼女にとって大きな転機になる。
その会社のオーナーは、ゲーム業界で大成功を収め、当時は長者番付2位にも入るような人物だった。だが高山さんにとって衝撃的だったのは、その肩書きや規模以上に、会社に流れていた思想だった。
そこではデザイナーに、こんなふうに言われていたという。
「デザイナーは、そのターゲットの女性たちが日々送るような生活をしなさい」
彼と遊園地に行ってデートすることも、仕事の一部。
生活そのものが、デザインの土台になり、デザインに生きてくる。顧客のモデルになるような日常を送ることが、ある意味、社内コンセプトの一部であった。つまり、ただ机の前で形を作るのではなく、自分自身がその世界観を“生きる”ことが求められていたのだ。
入社してわずか2週間後には、イタリアへの出張にも連れていかれた。シャネルやベルサーチといった一流ブランドが使うような生地屋を回り、ベテランだけでなく若手も、自分の感覚で好きな素材を選んでいいと言われたという。もちろんその中には失敗もあった。使いきれない生地、売れない素材、結果として赤字になったものもあったはずだ。
けれど、その経験は単なる失敗では終わらなかった。
なぜならそこには、「新しい感性を潰したくない」という経営者の覚悟があったからだ。
若い感覚が選ぶものには、無駄もある。
だが同時に、それまでになかったものが生まれる可能性もある。
リスクを引き受けてでも、その芽を守る。
そんな環境だった。
この10年で高山さんが学んだものは大きい。
自分の感覚は役に立つ。
感性は現実の価値につながる。
そして良いものは、理屈をすべて説明できなくても“分かる”。
だが、その華やかな日々の中で、彼女は別の違和感も深めていく。
一対一で話せば、みんないい人。
なのに組織の中に入ると、なぜか不自然になる。
その違和感は、高山さんの中で次第に大きくなっていった。
第3章 組織に馴染めなかったのではない——身体が拒んだ“不自然さ”と、人生の転換点
高山さんが抱えていた違和感は、単なる「職場の人間関係が合わない」というものではなかった。
彼女が見ていたのは、もっと根本的なものだった。
一人ひとりで向き合えば、心地よく話せる人たちが、組織の中の一人になった瞬間、どこか別の存在のように見えてしまう。会社という枠に入ることで、人が不自然になる。自分らしさではなく、何か別のフィルターをまとってしまう。その感覚を、高山さんはずっと拭えなかった。
そして彼女にとって厄介だったのは、その違和感がただの精神的ストレスでは終わらないことだった。
身体に出るのである。
二度目の入院。
体調不良。
はっきりした拒絶反応。
高山さんは、自分の身体が極めて敏感なセンサーであることを知っている。
たとえば体が必要としていないタイミングで合わないものを口にすると、口の中に血豆ができることすらあるという。それが医学的にどう説明されるかは別として、本人にとっては、身体が“違う”と知らせてくるサインだった。
だから、組織の中にいることが不自然であるなら、その不自然さも体は見逃さない。
30歳直前。
彼女は華やかなデザイナーとしての道を離れることを決める。
もちろん、誰にでもできる決断ではない。
10年近く積み上げてきたキャリアを手放すことになる。
周囲から見れば、もったいないと思われても不思議ではない。
親からも止められたという。
だが高山さんは、ほとんど相談をしなかった。
なぜか。
答えは明快だった。
「自分の人生だから」
この言葉は軽く聞こえるかもしれない。だが実際にそう生きるのは難しい。多くの人は、自分の感覚を確かめる前に、周囲の反応を見てしまう。人に相談し、納得をもらい、安心してから動こうとする。だが高山さんは逆だった。まず自分の感覚があり、その後に行動がある。他者の承認は、そこに必須ではなかった。
そんな転換期に、彼女は当時はまだ、めずらしいヒーリングサロンに通っていた。そこで出会ったのが、「自然療法」の本だった。その本に強く惹かれたとき、彼女の中に、一つの大きな言葉が立ち上がる。
「これまでは外側をデザインしてきた。
これからは、内側をデザインする」
洋服は、人の外側を整える。
けれど食べ物は、人の内側を作る。
身体も、感情も、思考も、感覚も、生き方も。
すべては内側から影響を受けている。
彼女にとって食は、単なる栄養や技術ではなかった。
人間の本質に働きかける“デザイン”だったのだ。
だからこの転職は、業界を変えたというより、表現の場所を変えたと言った方が近い。
ファッションから料理へ。
外側から内側へ。
一貫していたのは、「創造すること」であり、「人の在り方に触れること」だった。
第4章 レールを降りて、感覚のままに生きる——10年の探求がつくった唯一無二の土台
デザイナーを辞めた後、すぐに今の高山さんが完成したわけではない。
ここから彼女は、長い時間をかけて食の世界を探求していく。
調理師免許を取るために現場へ入り、お弁当屋で働き、ケーキ屋で働き、山小屋で働き、ホテルの大量調理も経験した。上高地や尾瀬の山小屋では、何百人分もの料理を作る日々を送り、ときには400個、500個のおむすびの調理に関わったこともあるという。マルシェの出店では、個人の小さなオーブンで、大量のパンを焼いて、本職のパン屋さんに驚かれることもあった。
だが高山さんにとって、この時期は単なる修業期間ではなかった。
もっと根本的に、「この社会はどういう仕組みでできているのか」を、自分の体で確かめる時間だった。
彼女は言う。
今ならネットを開けば、いろいろな情報が出てくる。
だが当時は、現場に入らなければ分からないことがたくさんあった。
だから実際にその場に飛び込み、自分の目で見て、自分の身体で感じたかったのだと。
情報を“知る”だけではなく、体験して“分かる”ところまで行きたい。
高山さんは常に、表面だけでは終わらなかった。
その中で象徴的なのが、フランチャイズの店で働いたときの気づきだ。
そこで彼女は、マニュアル通りに動けば仕事が回る仕組みを目の当たりにする。そして思ったという。
「人間が何も考えなくてもいいように、社会はシステムを作ろうとしているのではないか」
マニュアルがあれば、その通りに動けばいい。
テンプレートがあれば、それをなぞればいい。
一見すると合理的で、楽で、効率的だ。
けれどその裏側には、本来一人ひとりの持つ、オリジナリティな創造性が失われていく危うさもある。
人間は本来、クリエイティブな存在であり、それぞれ違っていて当たり前だ。
なのに社会は、ときにその違いを丸めて、扱いやすい形にしようとする。
高山さんは、その不自然さを敏感に感じ取っていた。
この時期の彼女は、世間的な意味での安定や華やかさとは無縁だったかもしれない。
祐天寺のデザインマンションを引き払い、隣町の中目黒の、風呂なし・トイレ共同の集合住宅に住んでいた。けれど彼女にとってそこは惨めな場所ではなかった。むしろ自分なりに整え、好きな空間として暮らしていたという。人は「風呂なし」と聞くと、勝手に貧しさや窮屈さを想像する。けれど高山さんは、そうした他人のイメージに支配されなかった。
その姿勢はとても象徴的だ。
他人がどう見るかではなく、自分がどう感じるか。
外から与えられた価値観ではなく、自分の感覚で人生を決める。
それが彼女にとっての“自然”だった。
だからこそ、この10年間は、外から見れば遠回りに見えたとしても、彼女にとっては必要な探求だった。
富も名声も、まだ保証されていない。
何者になるかも、まだ見えない。
けれど彼女は、自分の感覚を裏切らずに進んだ。
その10年間があったからこそ、今の高山さんにしかできない仕事が立ち上がっている。
レシピを超え、料理を超え、人の感性そのものに触れる今の仕事は、この“回り道”の蓄積なしには生まれなかったのだ。
そしてその探求に、決定的な意味を与える事件が起きる。
第5章 レシピではなく、感性を教える——“日本のごはん”を世界へ届ける使命
2011年3月。
東日本大震災。
当時、高山さんは葉山に住んでいた。周囲には環境問題に敏感な人たちも多く、放射能や原発の問題をめぐって、西や南へ移動する人も少なくなかった。彼女自身も迷いはあったという。だが、そのとき心に浮かんだのは、「逃げるかどうか」という問いだけではなかった。
「何か外から影響があったとしても、それを外に出せる力を持っていればいいのではないか」
その考えにたどり着いたとき、高山さんは発酵食へと大きく舵を切る。
それは流行に乗ったわけでも、ブームを見たわけでもない。
発酵は、保存の知恵であり、土地の知恵であり、人が厳しい環境を生き抜くための命の技術だ。
そして彼女は、そのことを直感的に掴んでいた。
実はその頃の高山さんは、シンガーソングライターとしても活動していた。2011年1月にはアルバムも出している。つまり彼女には、“歌で届ける”というもう一つの表現の道もあった。だが震災を機に、彼女は思う。
「今は、歌を歌うよりも、食の方で日本のために貢献できるのではないか」
ここで彼女は、発酵、野草、ベジ、自然療法を軸とした講座へと、本格的に進んでいく。
しかも、この時点ですでに彼女の視線が海外を向いていたことだ。鎌倉のミシュラン掲載店で味噌作りを開催した際には、海外の参加者のためにレシピを英語と日本語の両方で用意していたという。味噌だけではなく、梅干しやぬか漬けなども含めて、日本の古典的な食文化をもっと世界に伝えたいという思いを、彼女は当時から持っていた。
その後、2016年に八ヶ岳へ移住する。
2010年に初めてその土地を訪れたときから、「いつかここで畑ができたらいいな」と思っていた。
そして2015年、その“いつか”が「今だ」と降ってくる。
理屈ではない。
感性が、タイミングを教えてくれたのだ。
八ヶ岳と東京を往復しながら教室を重ねていく中で、彼女はさらに働き方を進化させていく。重い荷物を持って都市部のサロンへ通い続ける生活に限界を感じ、2019年には発酵の
オンライン講座をスタートさせた。まだそのスタイルが一般的でない時代だったが、彼女はその先を見ていた。
しかもその頃、彼女はすでにこう考えていたという。
「AIが普及すればするほど、人間の手でしか作れないものの価値が上がる。その一つがお料理です」
この視点は、今あらためて読んでも驚くほど本質的だ。
AIができることは増えていく。効率化も進む。正解らしきものを素早く提示することもできる。
だが、人間の五感や、手のぬくもりや、場の空気や、その瞬間の感覚に根ざした料理は、置き換えられない。
だから高山さんの講座では、レシピそのものよりも「五感で料理すること」が大切にされている。
匂いを感じる。
音を聞く。
手触りを見る。
場の空気を読む。
その日の自分の感覚を働かせる。
つまり彼女が教えているのは、調理の手順ではなく、“人間の感性の使い方”なのだ。
実際、彼女の料理をただ見ているだけで上達していった生徒もいるという。レシピを完璧に覚えたからではない。目の前で料理が生まれる気配やリズム、手の運びや空気を感じ取ることで、その人自身の五感が開いていったのだろう。
さらに上級講座では、料理を超えて、その人自身の魅力を開花させるような内容にも入っていく。高山さんは、料理以外の部分で受講生が多くのものを受け取っていることに気づき、「スピリチュアル料理研究家」と名乗るようになった。予知的な感覚や、その人の可能性を読み取るような側面も含めて、彼女は単なる“料理の先生”では収まらない存在になっていった。
そして今、高山さんが向かっている先は、はっきりしている。
“日本のごはん”を、世界で輝く文化にすること。
それは単に和食を輸出することでだけではない。
四季折々の自然、風土、発酵、保存食、植物、土地、まごころ。
その土地に根差して受け継がれてきた食の知恵と向き合い方、そのものを届けたいのだ。

彼女は言う。
その土地に生える植物を見れば、その土地がどういう場所か分かる。
湿気の多い場所には湿気を好む植物が生え、乾いた土地には乾いた土地に合う植物が育つ。
つまり、土地の風土とそこに生きる人々の身体は切り離せない。
日本の和食には、その土地、その季節、その自然の循環が深く刻み込まれている。
だからこそ彼女は、安さだけで選ばれる食のあり方に危機感を持っている。
安いものばかりが選ばれれば、農家は苦しくなる。
食の価値が下がれば、文化もまた痩せていく。
食の価値を上げることは、農家を守ることでもあり、日本の経済を潤すことでもあり、命の循環を守ることでもある。
高山さんは、その全部を見ている。
料理を、料理だけで終わらせていない。
食を通して、感性も、文化も、経済も、未来も見ている。
そんな彼女にとってのIKIGAIは何か。
「創造することです。クリエイティブに、創造すること」
創造。
自分の内側から何かを立ち上げ、それが誰かの心を動かし、感動の波紋を広げていくこと。
その創造こそが、彼女の魂を満たし、世界へ差し出したいものなのだ。

あとがき
高山さんの話を聞いていて、何度も心に浮かんだことがある。
それは、高山さんはずっと、自分の感覚を裏切らずに生きてきた人なのだということだ。
身体の違和感も、組織への違和感も、食への直感も、移住のタイミングも、世界へ届けたいという衝動も。
そのどれ一つとして、誰かに与えられた正解ではなかった。
社会が「こうあるべき」と示したルートでもなかった。
それでも彼女は、その微かな感覚を無視せず、握りしめながら、自分の人生を歩いてきた。
今はAIの時代だと言われる。
便利で、効率的で、答えに早くたどり着ける時代。
だからこそ逆に、人間が自分の感覚を信じる力は、少しずつ弱くなっているのかもしれない。
けれど高山さんは、その真逆を生きている。
レシピではなく感性を教える。
正解ではなく創造を大事にする。
効率ではなく、自分の内側から立ち上がるものを信じる。
その生き方そのものが、これからの時代へのメッセージになっているように感じた。
高山さんは、料理だけを教えている人ではない。
人間が本来持っている“感じる力”と“創る力”を、食を通して呼び覚ましている人なのだと思う。
日本のごはんを世界へ。
その言葉の奥には、単なる文化発信を超えた願いがある。
日本人が忘れかけている感性の価値を、もう一度灯し直したい。
自然とともに生きる知恵を、食を通して次の時代につなぎたい。
そして、感覚を信じて生きる人が増えることで、日本そのものにもう一度息吹を取り戻したい。
創造することが、IKIGAI。
その言葉の重みを、今回の取材で強く受け取った。
では、私たちにとってのIKIGAIとは、いったい何だろう。
誰かが示した正解をなぞることだろうか。
それとも、自分の内側にある微かな感覚に耳を澄まし、まだ言葉にならない衝動を信じて、一歩を踏み出していくことだろうか。
もしIKIGAIが、
お金や肩書きや効率を超えて、
自分の真実を探求し、創造し、誰かの心を震わせる力の源だとするなら——
高山さんの生き方そのものが、その一つの答えなのかもしれない。
そして今、あなた自身の中には、
まだ眠ったままの感性や、
ずっと見ないふりをしてきた“本当の声”はないだろうか。
あなたが叫ぶなら、それは真実への道かもしれない。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師