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紙芝居をビジネスツールへ——問い続けることで広げた、新たな可能性
藤井一 株式会社えとこえ
「こうあるべき」を手放し、紙芝居の可能性を広げる人
福岡県福岡市
紙芝居をビジネスツールへ——問い続けることで広げた、新たな可能性
あなたは、自分の仕事を説明したとき、相手に怪訝な顔をされたことがあるだろうか。
2021年。会社をつくった藤井一さんは、法人口座を開くため、地元の信用金庫を訪れた。担当者から事業内容を尋ねられ、いつも通り答えた。
「紙芝居です」
案の定、聞き返された。
「紙芝居ですか?」
藤井さんは、企業の理念や歴史、SDGsの取り組みをオリジナルの紙芝居にし、相手へ伝わる形にする事業だと説明した。世間で紙芝居といえば、子どもの前で誰かが無償で演じるものという印象が強い。企業を相手に制作費を受け取り、経営や組織のコミュニケーションに使う仕事だと聞けば、すぐに像が浮かばない人もいるだろう。
株式会社えとこえ代表取締役・藤井一。1955年に大阪で生まれ、大学では哲学を学んだ。卒業後は婦人服の販売会社に入り、店頭販売から店舗運営、販売促進、商品、マーケティング、財務、飲食部門まで経験した。
退職した時、次の事業はまだ固まっていなかった。「なんとかなる」と考えていたものの、現実は何ともならなかったと振り返る。
そこから声を学び、55歳でナレーターのジュニアになり、紙芝居を持って飲食店を回った。絵を描けない自分にオリジナル作品はつくれないと思っていた時期もある。イラストレーターと組んだことで、企業のための紙芝居を制作する道が開いた。
藤井さんは、自分の歩みに大きな使命や一貫した信念を後付けしようとしない。むしろ、「自分というものがないから、何にでもなれる」と笑う。
決めた道を一直線に進む人生もある。目の前の出来事に反応しながら、仕事の形も自分の役割も変えていく人生もある。
これは、「こうあるべき」という枠に自分を当てはめず 、紙芝居の使い方まで変えてきた一人の表現者の記録である。
第1章|「言葉の定義をしてください」——哲学科で身についた、前提を確かめる癖
藤井さんは、自分の幼少期を「割と素直に、単純に生きてきた」と振り返る。小学生の頃から社会の前提を批判し、周囲に反発していた人物として過去を語ることはない。
生まれ育ったのは、普通のサラリーマン家庭だった。父は鉄鋼会社の検査部門に勤め、新幹線の車輪を検査する仕事に携わっていたという。物をきれいに並べ、細かなことにも厳しい人だった。藤井さんが小学生の頃、0点のテストを縁側の下へ捨てて見つかり、大声で叱られた記憶がある。
母は習字教室を営んでいた。父は給料の額を家庭で明かさなかったらしく、母は自分で自由に使えるお金を得るために教室を始めたと話していたという。後に藤井さんが紙芝居師として芸名を考えた際には、母の教室や育った土地の名前を取り入れた。家の中に、会社員として働く父と、自分の仕事を持つ母の姿があった。
今の藤井さんに見られる、前提をそのまま受け取らない姿勢がはっきり形になったのは、大学進学を考えた時期だった。
浪人中、進学先の学部を眺めながら、藤井さんは考えた。多くの学部が、結局は仕事や金儲けへつながるための学問に見える。純粋に学問のために学べるものは何だろう。その時、哲学だけが異なって見えた。
文学部哲学科に合格すると、親戚の女性から「あんた、一番つぶしがきかないよ」と言われた。藤井さんは、その言葉を聞きながら進学した。哲学科で最初に学んだ必修科目の一つが、論理学だった。
「根拠を示せ、ではなくて、論理的な根拠を示せという授業なんです。習ったことは全部忘れましたけど、そこから理屈をこね回す人間になった気がします」
藤井さんが今も大切にしているのは、言葉の定義を確かめることである。同じ言葉を使っていても、話す人と聞く人が異なる意味を思い浮かべていれば、会話は少しずつずれていく。
学生へ話す時、藤井さんは「定義が曖昧な言葉は何か」と尋ねる。そして、「愛している」という言葉を挙げる。
同じ「愛している」でも、人によって想定している関係や行動は違う。「商売は儲かっていますか」という問いも同じである。売上を聞いているのか、利益なのか、前年との比較なのか、毎月の返済を終えた後の状態なのか。前提が違えば、正確な答えは変わる。
「意思疎通は、言葉の定義が共有されて初めて成り立つんです。喋ったら伝わるというのは、思い違いですよね」
人は、言葉を口にすれば伝わったと思いやすい。藤井さんは、大学時代からその危うさを見続けてきた。
1981年、哲学科を卒業した藤井さんは、言葉だけでは商品が売れない世界へ入っていく。婦人服の販売現場である。

第2章|「販売員に必要なのは、洞察力と即興力です」——人を見る目を磨いた会社員時代
就職先を選んだきっかけは、緻密なキャリア設計ではなかった。知り合いだった婦人服販売会社の社長へ、どのような仕事なのかを聞きに行った。その場で聞いた言葉が気になった。
「頭はクールに、心は熱く」
今では耳にすることもある言葉だと、藤井さんは笑う。当時は「格好いい」と感じ、入社を決めた。
最初の仕事は、婦人服の販売だった。入社から1か月ほど経った頃、売上について呼び出された。
「男でこの世界に入ってきたくせに、この売上は何だ、とぼろくそに言われました。青ざめて帰ったという伝説があります」
その後、藤井さんは営業時間のほとんどを店頭で過ごすようになった。早番で上がるよう言われても店に残り、13時間以上売場に立つ日もあった。
婦人服の販売について、会社ではこんな教え方をしていた。
朝、家を出る時から「1万4800円の紺色のプリーツスカートを買おう」と決めている女性はいない。店の前を通り、コーディネートを見て、何となく中へ入る。商品を眺めるうちに、「これが欲しかった」と気づく。明日の通夜に必要な喪服を除けば、買い物の多くはその場で心が動くところから始まる。
客自身も、欲しいものを言葉にできていない。そこで販売員が「何をお探しですか」と聞くだけでは、会話は進まない。
「『何をお探しですか』と聞く販売は、最低な販売員なんです。誰も何も探していないんですから」
優秀な販売員は、客が店へ入る前から見ている。歩く速さ、商品へ向ける視線、着ている服、靴、バッグ。急いでいる人と、ゆっくり見ている人では声のかけ方が変わる。何を求めているかを観察し、その場で言葉を選ぶ。
新人時代、藤井さんがお客様へ「お休みですか」と声をかけると、「あなたで4人目」と返されたことがある。店員が皆、同じ言葉を使っていたのだ。その日から、その質問を使わなくなった。
「販売員に一番重要なのは、洞察力と即興力です」
客がバッグを開き、「いい色でしょう」と言った時、販売員が返す「そうですね」には、商品の色を褒める以上の意味を込められる。数ある商品の中から、その色を選んだ客の感性まで肯定する。藤井さんは、相手が何を受け取るかまで考えて言葉を使った。
会社を率いた社長も、商品を並べるだけの人ではなかった。創業時は仕入れ先も限られ、立地にも恵まれなかった。その中で、数多くの商品を広く扱うより、自分たちが理想とする女性像を決め、色や形を絞って仕入れた。今でいうセレクトショップの考え方である。
商品を売るより、コンセプトを売る。洋服屋である前に、客を喜ばせるサービス業である。社長は、自分が描いた世界観をつくるため、細部まで妥協しなかった。
藤井さんが店舗運営の問題を社長へ訴えると、「じゃあ、やってよ」と返ってきた。指示された方法へ従わせるより、本人に任せる社長だった。退職後、別の会社で働けなかったと知人へこぼすと、こう言われた。
「あなた、30年サラリーマンをしていたんじゃないよ。放し飼いにされていただけよ」
藤井さんは店長、エリア担当、販売促進、販売員教育、商品の仕入れや品揃えを担うMD、商品部長、マーケティング、財務と、仕事の領域を広げていった。ブランド変更に伴う仕事にも携わり、最後は飲食部門の責任者を務めた。
飲食では、多くのアルバイトスタッフを抱え、接客、人事、クレーム対応に追われた。客から体調不良の連絡を受けた時には、菓子折りと納品業者の検査資料を持ち、直接説明へ向かったこともある。
事業は赤字が続いた。社長が会長となり、次の世代へ経営を渡す時期に、飲食部門の閉鎖が決まる。藤井さんは約1年かけ、店舗が入る施設との交渉や閉店作業を進めた。
閉鎖の目処がついた頃、今後を尋ねられた。
「あなたはどうするの?」
藤井さんは答えた。
「私も卒業します」
会社員生活を通じて、言葉、観察、即興、世界観、マーケティングを学んだ。やり切った感覚もあった。次の仕事は、まだ輪郭すらなかった。
第3章|「なんとかなる」は、何ともならなかった——55歳から始まった声と紙芝居
2008年、藤井さんは会社を辞めた。何を売るのか。誰から仕事をもらうのか。どのように生活を成り立たせるのか。具体的な戦略はなかった。
「本当に甘い考えで、なんとかなると思っていたんです。何ともならなかったです」
退職後、飲食店の引き継ぎを交渉していた会社から、「店を辞めた後はどうするの」と聞かれた。決めていないと答えると、働かないかと声をかけられた。藤井さんは入社したものの、約1か月で辞めた。
「これはだめだ、早い方がいいなと思って、『すみません、違ったみたいです』と伝えました」
長く勤めた会社では、社長へ意見を言い、自分で方法を変えながら仕事ができた。外へ出て初めて、その環境が一般的な会社員生活とは違っていたと分かった。
収入の当てが消えた。再就職を考えて履歴書を持つ発想も、藤井さんにはなかった。自分が採用する側なら、当時の自分を採らないだろうとも話す。
知人の経営者から調査を頼まれたことをきっかけに、月10万円で仕事をするようになった。事業再生に関わる調査、卸売市場への流通方法、海外での飲食店計画など、依頼される内容は一定しない。頼まれれば調べ、必要なら現地へ動いた。
10万円で生活が安定するはずもない。昼食がカップラーメンという日が長く続いた。
藤井さんは、2008年から2016年頃までを「暗黒からグレーゾーン」と呼ぶ。
「信念はないけど、これしかないし、という感じです。今さら履歴書を持って再就職しようとは思わなかった。おじいさんは採用してくれないから、自分でやるしかないですよね」
会社員時代から、別の準備も続けていた。音声ブログが流行していた頃、藤井さんは知人たちとオンラインで話し、音声を配信して遊んでいた。ハンドルネームは「F1」。周囲から「声がいい」と繰り返し言われた。
知り合いのフリーアナウンサーを通じて事務所を紹介してもらい、毎週土曜日、3時間のレッスンへ通った。発声、滑舌、イントネーション。腹から声を出す基礎を重ねた。しばらくすると、事務所の社長から「内緒話ができなくなった」と言われるほど、声の通り方が変わった。
ある日、社長から「どうしたいの」と尋ねられた。
「55歳で、なれるんですか?」
「なれるけど、仕事があるかは別問題よ」
藤井さんは答えた。
「じゃあ、やります」
55歳でナレーター事務所のジュニアメンバーになった。プロフィールには「55歳のシニアルーキー」と書かれた。現場へ行けばベテランに見える年齢でありながら、声の世界では新人だった。
デビューの機会は得たものの、継続して生活できるほど仕事が来るわけではなかった。事務所の中でも、上の人に知られなければ声がかからない現実を知った。
その頃、藤井さんは紙芝居教室へ足を運んだ。調べていくと、昔の街頭紙芝居を所蔵し、口演を続ける団体があることを知った。絵を一枚ずつ抜きながら、声と間で観客を引き込む。紙芝居は面白かった。
同時に、仕事として成立させる難しさも見えた。世間では、施設や寺子屋で誰かが無償で演じるものという認識が強い。紙芝居師の側にも、ボランティアとして届ける文化がある。藤井さんは一度、「これはビジネスにはならない」と考えた。
2015年頃、月10万円の仕事をくれていた会社の経営が不安定になった。藤井さんは、その仕事を離れることを決める。
「紙芝居に切り替えますわ」
2016年、藤井さんは自らプロ紙芝居師を名乗り、仕事が来るのを待たずに動き始めた。
第4章|「みんな、紙芝居はタダだと思っている」——企業の物語を伝える仕事へ
「プロです」と名乗っただけで、依頼が届くことはない。藤井さんは紙芝居を持ち、演じる場所を自分で探した。
珍味を出す店、角打ち、焼肉店、中華料理店。知り合った店へ「紙芝居ライブをやりませんか」と声をかけた。ワンドリンクを付け、小さな売上をつくる。1回の売上が2,000円ほどでも、次の場所を探した。
2016年には約120回のライブを行った。二、三日に一度ほどのペースである。紙芝居を演じる技術と同じくらい、自分で場をつくる営業が必要だった。
藤井さんが最初に思い描いていたのは、地方を回り、紙芝居を演じ、少しのギャラをもらって次の町へ移る暮らしだった。
転機の一つとなったのが、各地の紙芝居師が集まるイベントだった。交通費を使えば、受け取るギャラはほとんど残らない。藤井さんは参加し、さまざまな表現を目にした。
「いろんなスタイルがあって、何でもいいんだなと思いました」
絵の見せ方も、声の出し方も、物語の選び方も幾つもの形がある。藤井さんの中で、紙芝居の枠が少し広がった。
次に考えたのが、オリジナル作品である。藤井さんは絵を描けない。自分にはつくれないと思っていた。イラストレーターへ相談すると、「やる」と返事が来た。2018年頃、約1か月で松下幸之助を題材にした紙芝居を完成させた。
その作品について知り合いの理容師へ話すと、お客様として来ていた保育園の園長へ伝わった。園長から「保育園の50年の歴史を紙芝居にできるか」と聞かれ、藤井さんは「できますよ」と答えた。
別の場所では、イベントに協賛していたベアリングメーカーの担当者と知り合った。藤井さんの名刺には「SDGs紙芝居」と書かれていた。担当者が環境関連の部署へ移った後、イベントで紙芝居を使いたいと連絡が入る。そこから、企業の取り組みを子どもにも伝わる物語へする仕事が生まれた。
紙芝居にする題材は、昔話や子ども向けの物語に限られない。保育園の歴史、企業の技術、環境への取り組み、創業者の歩み。形のない理念や、説明だけでは届きにくい価値も、場面と登場人物を持つ物語に変えられる。
2020年、新型コロナウイルス感染症の拡大により、、予定されていた口演の現場が中止になった。保育園の記念行事も、企業イベントも、人を集められなくなった。
口演の機会は消えた。一方で、依頼を受けて完成させた紙芝居には制作費が支払われた。
藤井さんは、ここで紙芝居の仕事を別の角度から見た。紙芝居には、その場で演じる口演と、物語を作品として形にする制作という、二つの価値がある。 企業や団体の物語を調べ、構成し、絵と声で伝えられる作品へ仕上げる。その工程自体が仕事になる。
「現場は飛んだけど、制作費はもらえる。オリジナルをつくる事業は、ありかもしれないと思ったんです」
2021年、株式会社えとこえを設立した。企業向けオリジナル紙芝居の企画・制作を事業に据えた。
法人口座をつくるため信用金庫へ行き、事業内容を紙芝居と答えた。相手の反応を見て、企業向けに制作すると説明を加えた。
ロゴ、商標、パンフレット、展示会。会社員時代にマーケティングや財務へ携わった経験を使い、事業の形を整えた。請求書がすべて自分へ来る点が、会社員時代との大きな違いだったと笑う。
勉強会でパンフレットを配っていると、紹介から傘メーカーのオリジナル紙芝居を制作する仕事につながった。2022年には、NTT西日本の心身の豊かさをテーマにしたイベントで、紙芝居を用いた短い発表も行った。
紙芝居をビジネスツールと呼び始めた当初、周囲からは「なぜビジネスにするのか」と問われた。今も無償で地域へ届ける活動があり、藤井さんの教室にもボランティアで動く受講者がいる。
紙芝居は、用途と相手によって異なる成り立ち方を持てる。地域活動も、企業から制作費を受け取る仕事もある。企業が自分たちの理念を社員へ伝えたい時、沿革や技術を顧客へ届けたい時、絵と声と物語が役立つ場面がある。
言葉の定義、販売で磨いた洞察力と即興力、声の訓練、ブランドの世界観。それらを制作と口演で使いながら、藤井さんは紙芝居の役割を広げてきた。
第5章|「IKIGAIも捨てましょう」——何者にもなれる余白を残す
これから、株式会社えとこえをどこまで大きくするのか。紙芝居を通じて、どのような世界を実現したいのか。
インタビューの終盤で未来を尋ねると、藤井さんは少し考え、「計画をしない」と答えた。
その回答には、現実に合わせて形を変える藤井さんの感覚がある。何年も先の形を決めても、状況に応じた修正が必要になる。藤井さん自身、婦人服販売員から飲食部門の責任者となり、ナレーターを目指し、紙芝居師になり、企業向け制作会社をつくった。実際の出来事に応じて、役割と仕事を変えてきた。
「こうしようと決めても、全部修正しなければいけなくなるんです。思った通りにはなりません」
形を決めなくても、続けることはある。紙芝居が子どものためだけのものという認識へ、別の使い方を伝え続けることだ。
企業の理念には、創業者や経営者の言葉が並ぶ。額に入れ、壁へ掲げ、発表して満足している会社もある。社員が自分の言葉で語れなければ、理念は日々の判断へ入っていかない。藤井さんは、そこで紙芝居を使う。登場人物と場面を通じて、なぜその会社があり、何を大切にしているのかを共有する。
その活動を、本人は使命という言葉で固めない。
IKIGAIを尋ねた時も、すぐに返ってきたのは「ないよね」という答えだった。
「何かをしなければならないという使命感もないし、IKIGAIに無理やりこじつけるなら、反応していくことですかね」
目の前に現れた人や出来事へ反応する。声がいいと言われれば、基礎から学ぶ。紙芝居が面白ければ、教室へ行く。仕事にならないと思えば一度離れ、機会が来れば戻る。絵が描けなければ、描ける人へ相談する。口演が中止になれば、制作そのものの価値を見る。
藤井さんは、自分についてこう話す。
「僕、自分というものがないんです。『~でなければならない』というものが僕の中にはない。自分がない分、何でもなれると思います」
妻からは、「あなたは、どこへ行っても昔からそこにいるような顔をする」と言われるという。現在は役者の事務所とも契約し、オーディションを受けている。紙芝居師、ナレーター、研修講師、経営者、役者。どれか一つだけが本当の自分という感覚はない。
一方で、何も考えず流されているわけでもない。藤井さんは、一つの企画へ入ると、言葉の定義を確かめ、設定を詰め、世界観を細部まで考える。こだわる時は強くこだわる。そして「もういい」と判断した瞬間には、驚くほど早く手放す。
占い師から、「こだわりが強く、協調性がなく、頑固な一方で、こだわりがなさすぎる」と言われたことがある。その矛盾を、藤井さんは面白そうに話す。
IKIGAIについても同じである。自分のIKIGAIはこれだと決めた瞬間、その言葉に縛られることがある。やめたくなってもやめられない。形が変わっているのに、昔の答えを守ろうとしてしまう。
「IKIGAIも捨てましょう。IKIGAIがなくてもいいんですよ。普通に毎日を過ごしていれば、それはそれでいいと思います」
IKIGAIを持っていると証明する必要はない。今の自分を一つの役割へ固定する必要もない。目の前に起きることへ反応し、必要なら形を変える。その余白がある限り、人は何歳からでもジュニアになり、今までになかった仕事を始められる。
藤井さんは今日も、紙芝居は企業でも使えると伝えている。明日、その仕事がどんな形へ変わるかは、本人にも分からない。
分からないまま動けることが、藤井一という人の自由なのである。

あとがき
「IKIGAIを持ちましょう」
その言葉さえ、ときに人を縛るものになるのかもしれない。
藤井さんは、自分の人生に起きたことへ正直に反応しながら、誰かが決めた正解に自分を当てはめずに歩いてきた。「こうでなければならない」という前提を疑い、必要であれば考え方も仕事の形も変えていく。
その生き方に触れ、私は改めて考えた。
IKIGAIは、必ず持たなければならないものなのだろうか。
IKIGAIを見つけなければならないと思った瞬間、それは自由な心から生まれるものではなく、果たすべき義務へ変わってしまうことがある。そして、IKIGAIを持つ人だけが前向きで、持たない人は何かが足りないという見方が生まれてしまえば、それはIKIGAI JAPANが届けたい世界とは違う。
IKIGAI JAPANに「JAPAN」と付けている理由の一つに、日本人が大切にしてきた「和」の心がある。
異なる考えを持つ人同士が、どちらかを否定することなく、お互いを尊重する。夢中になれるものがある人も、まだ見つかっていない人も、静かに毎日を生きたい人も、そのままでいい。
一人ひとりの異なる価値観や生き方を伝えることで、誰もが少し心地よく、穏やかに生きられる社会をつくりたい。それが、私がこの活動を続けている理由の一つである。
藤井さんとの対話を通して、私の中にあるIKIGAIの哲学も、また一つ深くなった。
あなたは今、「こうならなければならない」という言葉に、自分を縛られてはいないだろうか。
決められた道から少し外れてもいい。
途中で考えが変わってもいい。
今はIKIGAIと呼べるものがなくてもいい。
本当は、私たちを縛る正解など、どこにもないのだから。
藤井さんは、その生き方を通して、私にそんな問いを手渡してくれた。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師









