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悲しみの中でも、生きていく——父の意思を継ぎ、寺を進化させる新住職
遠山 玄秀 無邊山 上行寺船橋別院
悲しみに寄り添い、生きている今に安心を届ける住職
千葉県船橋市
悲しみの中でも、生きていく——父の意思を継ぎ、寺を進化させる新住職
人は、悲しみの中でも生きていく。
だからこそ、支え合う場所がいる。
無邊山 上行寺船橋別院の新住職・遠山玄秀さんに話を伺っていると、その言葉の意味が少しずつ輪郭を持ってくる。
「開けない夜はない」
遠山さんが、人生でいちばん大事にしている価値観として挙げた言葉だ。
どんなに辛いこと、悲しいこと、苦しいことがあっても、それが最後までずっと続くことはない。
その感覚が、遠山さんの人生の根底にある。
けれど、その言葉は最初から“住職としての答え”だったわけではない。
幼い頃に父の背中を見て育ち、好きなことをやらせてもらい、理系の道へ進み、やがて父の老いを感じ、寺へ戻ることを選んだ。
そして、数多くの葬儀に向き合い、自死の葬儀を通して「死んだ後に関わるだけでは足りない」と痛感した。
その歩みの先に、今の遠山さんがいる。
供養をする人としてだけでなく、悲しみを抱えた人が言葉を置ける場をつくる人として。
寺を守るだけではなく、今の時代に必要な形へと進化させようとする新住職として。
第1章:「開けない夜はない」——父の背中の中で育った原点
「人生で一番大事にしている価値観、何ですか?」
そう尋ねると、遠山さんは少し考えてから、こう答えた。
「開けない夜はないという言葉をよく使わせていただくのですが、価値観でもそうかな。どんなに辛いこと、悲しいこと、苦しいことがあったとしても、それが最後までずっと続くということはない、っていう価値観ですかね」
その言葉は、遠山さんのこれまでの歩みを振り返ったとき、確かに一本の軸として通っているように見える。
幼い頃、遠山さんは「お坊さんになると思っていた」という。
誰かに強く言われたわけではない。
けれど、幼い遠山さんの中には、いつか自分も父のようになるという思いがあった。
祖父が亡くなったことをきっかけに、父が僧侶になった。
その父の後ろを、遠山さんはついて歩いた。
お盆やお彼岸のお経回りに一緒に行き、隣でお経を唱える。
意味はまだ深くわからなくても、身体が先に覚えていった。
そして、子どもの遠山さんにとって大きかったのが、檀家さんたちの存在だった。
「父親についてお経回りしてたんです。そうするとですね、檀家さんとこ行くと、めっちゃ褒められるんですよ。『可愛い子来たわね』とか、『一緒に来たね』とかって。嬉しいじゃないですか。そうすると、なんかすごい嬉しくなって、『あ、お坊さんってこんな嬉しいんだ』みたいな感じで」
お坊さんになるということは、幼い遠山さんの中で、誰かが喜んでくれること、自分の存在が歓迎されることと結びついていった。
だが、成長しても父は「お坊さんになれ」とは言わなかった。
その理由について、遠山さんはこう語る。
「うちのお寺、もともと千葉県の夷隅郡大多喜町にある上行寺っていうお寺なんですけど、檀家さんの数が9軒しかない、小さなお寺なんですよ。父はそこで生まれ育っていて、ひもじい思いをずっとしてたわけです。なので、そこだけでは食べていけないっていうのを父は知っていたので、そんな苦労はさせたくないっていうのが、多分一つですね」
さらに父自身が、まっすぐ僧侶になった人ではなかった。
だからこそ、子どもには好きなことをやらせたかったのではないか、と遠山さんは振り返る。
「本当に、子どもたちが幸せになってくれればそれでいい、だったと思いますね」
寺の家に育つことは、外から見れば特別に映るかもしれない。
だが、遠山さん自身は子どもの頃、それを不自由だとは思っていなかった。
「基本的に家族旅行はないです。寺を開けるとかってことがなかなかできないので。年に1回だけ、お盆が終わった後に1泊だけ旅行に行くっていうのが、うちのことでした。でも私は全然それが普通だと思ってたんです」
その“普通”が、誰にとっても同じ普通ではなかったと気づいたのは、大人になり、さまざまな人の暮らし方に触れるようになってからだった。
今振り返ると、遠山さんの中に残っているのは、窮屈さよりも、父が何も言わなかったことの意味だ。
苦労を知っていたからこそ、無理に継がせなかった。
子どもの幸せを先に置いていた。
それは、あとからわかる愛の形だった。
第2章:好きなことをやれ——自由の先に見えてきた、父の老いと寺への道
遠山さんは、寺に生まれたからといって、最初から一直線に僧侶の道へ進んだわけではない。
子どもの頃は、お坊さんになると思っていた。
だが、成長するにつれて、興味は理系の世界へ向かっていく。
「理科、算数とか理科が好きで、いろんなこと『なんでだろう』とか、その原因は何だろうとか、そういうようなこと結構本読んだりとか調べたりとかしてて。そんな関係で最初は理系の大学に進んでたんですけどね」
好きなことを学び、自分の道を進んでいた。
父もそれを止めなかった。
「父は好きなことをやれって言ってくれていたので、行くことに対して葛藤はなかったです。父も元気でしたので」
当時の遠山さんにとって、人生はまず自分の興味や好奇心から広がっていくものだった。
けれど、その見え方が変わる瞬間が訪れる。
「自分が大学生ぐらいになってくると、父が年を重ねてたっていうのがすごく感じるわけですよ。今まで好き勝手してたけど、今後の将来どうするかなっていう。要は今までは自分軸で考えていたんですが、父が年老いていくのを見たら、父のために、親孝行じゃないけれども、ここまで来たから、じゃあ父に恩返しをするとしたら何がいいんだろうかなっていう視点も少し入ってきて」
それまで表面化していなかった寺の存在が、ここで少しずつ輪郭を持ちはじめる。
好きなことをやらせてもらった。
自由にさせてもらった。
そのうえで、自分は何を返せるのか。
その問いの中に、寺を継ぐという選択肢が、もう一度戻ってきた。
「頭の隅にはどこかでお寺のこととかっていうのは絶対あるわけです。普段は表層化しないけれども。あった時に、父の年を感じた時に、親孝行だったらお坊さんになるっていう選択肢もまた出てきたっていうような感じですね」
そして遠山さんは、この流れを、単なる自分の意思だけでは説明し切らない。
「私はその、もともと科学をやってた時からこっちに来た時に、呼ばれたと思ってるんですね。それが私の意思でこっちに来たわけではなくて、多分呼ばれたと思っていて」
理系の視点と宗教の世界は、一見すると対極にあるように見える。
だが遠山さんにとって、その二つは切り離されたものではない。
自分で考え、選んだ感覚もある。
けれど、それだけではない何かに導かれた感覚もある。
父が言わなかったから、自分で選ぶことができた。
自由だったからこそ、戻ることができた。
遠山さんが寺へ入ったのは、“継がされた”からではなく、人生を歩いた先で、もう一度呼び返されたからだった。
第3章:悲しみに寄り添う言葉を探して——葬儀の現場で育てた僧侶としての姿勢
僧侶になってからの遠山さんは、父の脇について葬儀に出ていた。
父の法話を聞きながら、自分だったらどう話すかを考え続けてきた。
「父の法話がやっぱりその、家族に寄り添った法話だったんですね。なので私はそこをさらに父のを進化させている形です」
葬儀は、ただ儀式を滞りなく進めればいいものではない。
大切な人を失った家族がいる。
言葉にならない悲しみを抱えている人がいる。
その人たちに、どのような言葉を届けるのか。
どのような距離で寄り添うのか。
遠山さんは、父の姿を見ながら考え続けた。
初めて一人で葬儀を任されたのは、大晦日だったという。
「忘れもしない。初めて一人でお葬式をしなさいって言われたのが、12月31日、大晦日。お葬式が何件も重なって人手が足りなくなってデビューしました」
修行は終わっていた。
儀礼としてはできる。
けれど、自分の気持ちはまだ追いついていなかった。
それでも、一回やれば、あとは慣れていく。
そうやって遠山さんは現場を重ねながら、僧侶としての言葉や立ち居振る舞いを少しずつ自分のものにしていった。
人の死に向き合うこと。
遺された家族の悲しみに寄り添うこと。
悲しみは、一人ひとり違う。
同じ言葉が、すべての人に届くわけではない。
励ますつもりの言葉が、相手を苦しめることもある。
だからこそ、相手の気持ちを決めつけず、言葉にならない思いにも耳を傾けなければならない。
遠山さんは、葬儀の現場で人の悲しみに触れるたびに、寄り添うことの難しさと大切さを感じていった。
そして、その思いは、やがて「亡くなった後だけではなく、生きている今にも関わらなければならない」という問いへと変わっていく。

第4章:死んだ後に関わるだけでは足りない——自死の葬儀が変えた住職としての在り方
「ある日お寺の電話が鳴って、『娘が亡くなりました。自死をしました』っていう電話を受けて、お葬式お願いしますっていうのを受けたんですね。亡くなった子も知ってるし、当然その親も知っていて」
関わりのあった家族だった。
まったく知らない誰かの死ではなかった。
だからこそ、その葬儀のあと、遠山さんの中に強い問いが残る。
「常に何ができるかなってことを考えてしていたのに、その子が自死をしてしまったってことは足りてなかったんだろうなと。もっと何かできたんじゃないのかなって、私は自分を振り返ったんですね」
今まで、自分はできることをしてきたと思っていた。
その時その時で、精一杯やってきたつもりだった。
でも、まだその先にできることがあったのではないか。
そこから遠山さんは、「亡くなる前にもちゃんと関わらなきゃ駄目だ」と強く思うようになる。
「その頃は、亡くなる前っていうと、お医者さんだなぁ、病院だなぁっていう風に思って、お医者さんの勉強会とかにお坊さんの格好をして参加させていただいて」
医療者は何を考えているのか。
看護師はどんな視点で人を見ているのか。
葬儀社はどう向き合っているのか。
お坊さんだけではなく、異業種の人たちと勉強会を重ねた。
その中で、遠山さんの考え方を大きく変えた言葉がある。
「私は死んだ後に関わるので、その人がどう死んだかによって家族の気持ちは変わるっていう表現をしたんですね。そしたら看護師さんから、『その人がどう亡くなったかではなくて、どう生きたかによってその後は変わる』っていう風に訂正されたんです」
この言葉が遠山さんの心をえぐった。
亡くなり方だけではない。
その人がどう生きたかが、遺された人の受け止め方を変える。
「私はやっぱり死を基準に考えてたんだなぁ。そうじゃない。その人がどうやって生きたかだって」
ここで遠山さんの住職としての方向は、はっきりと変わる。
「だからこそ生きている今を、今に安心を届けるお坊さんでありたい」
死後に関わるだけでは足りない。
人が苦しみを抱えながら生きている、その“今”に関わらなければならない。
そこから、遠山さんの活動は少しずつ広がっていく。
流産・死産・新生児死を経験した方のための分かち合いの場であるポコズカフェ。
語らいの場。
異業種との勉強会。
子ども食堂。
それらは一見すると、バラバラに見えるかもしれない。
ただ、遠山さんの中では一つの線でつながっている。
人は、死んだ後だけでなく、生きている今こそ支えが必要だ。
悲しみを抱えた人が、ひとりで苦しまなくてもいいように。
言葉にできない思いを、安心して置ける場所があるように。
だから寺もまた、亡くなったあとにだけ呼ばれる場所ではなく、今を生きる人に関われる場所でなければならない。
その視点の転換こそが、今の遠山さんをつくっている。
第5章:父を継ぐとは、父のやり方を守ることではなかった——新住職として、寺を進化させる
遠山さんは、長く父の背中を見てきた。
守るだけではない。
断ち切るのでもない。
父の中にあったものを、自分の時代の形で進めている。
父は、遠山さんが僧侶になった年に脳梗塞を患った。
半身不自由になり、晩年は車椅子での生活だった。
その中でも、できることを続けた。
やがて実務のほとんどは遠山さんが担うようになった。
「住職は父ではあったけれども、ほぼほぼ私がやっていたっていう状態ではあったんですけれども、昨年の10月に父が亡くなって、今思うと、住職って肩書きがあるかないかぐらいの違いだと思ってたんですね。なんですが、住職っていうのは重いなって今すごく思ってます」
実務は変わらなくても、正式に住職になることには、やはり別の重さがあった。
「こないだ日蓮宗の方から、住職の許可書みたいなのが送られてきたんですね。紙ぺら1枚なんですが、なんとなく重いものを私は感じました」
では、父が本当に残したかったものは何だったのか。
それについて遠山さんが語った言葉が印象に残る。
「父は、守りたかったっていうよりは、誰かのために何かをしてる人を応援したかった。なので、自分が主になってやるのではなかったんだけれども、NGOに参画をしてラオスに学校をつくる活動をしていたりとか、中国で孤児を育ててる先生を知って、その先生のところにお金を持って行ったりとかっていうのをしていたんですね」
誰かのために動いている人を支える。
その姿勢は、遠山さんにも確かに受け継がれている。
ポコズママの会の活動に出会ったときもそうだった。
冊子をつくるお金が足りないと聞けば、必要だと思ったから出した。
そこからつながりが生まれ、ポコズカフェへと発展していった。
「やるべくしてやったってだけです」
その言葉にも、遠山さんらしさがにじむ。
また遠山さん自身は、自分を「スピリチュアルな部分と合理性のところのオーバーラップしてるところにいる」と表現した。
「今の現代と日蓮上人が生きてた時代は違うわけだから、日蓮上人がそう言ってたことを元に、じゃあ現代に合わせて、それをどうアレンジしてその人に伝えるかっていうのが今の私の立場なので」
ここに、遠山さんのいう“進化”がある。
本質を壊すことではない。
昔の言葉や文化を、今の人に届くように翻訳し直すこと。
だからこそ、カフェという形を取ることもあるし、分かち合いの場をつくることもある。
反発はないのか。
そう問われたときも、遠山さんの答えははっきりしていた。
「全く気にしてないです。必要だと思うから。周りの人がそこに対してバッシングするのは当然、私ではない人なので、それはあなたの立場では必要ないかもしれないけど、私の立場では必要なんだよってすごく思ってるので」
必要だと思うからやる。
そして、遠山さんにとってお寺とは何か。
その問いに対する答えも明快だった。
「お寺は、地位とか富とか、そういうものを横に置いて、ありのままの自分自身と向き合える場所、ありのままの自分を考えられる場所だと私は思っているので、そういったその役割をもっともっとしっかり伝えていきたいし、皆さんにお寺を使ってほしいと思います」
地位も名誉もお金も関係なく、みんなが一緒になれる場所。
そういう場がお寺として開かれていけば、日本はもっと笑顔の絶えない、生きやすい国になっていくのではないか。
遠山さんはそう考えている。
最後に、「IKIGAIは何ですか」と問うと、遠山さんはこう答えた。
「私のIKIGAIは、私の関わった人の心からの笑顔とありがとうです」
その言葉のとおり、遠山さんが今やっていることは、すべてそこへつながっている。
父の意思を継ぐこと。
悲しみの中にいる人のそばに立つこと。
そして、寺を今の時代に必要な場所として開いていくこと。
遠山さんにとって継承とは、過去をそのまま守ることではない。
父の本質を受け取り、今を生きる人に届く形へ変えていくことなのだろう。

あとがき
今回のインタビューを通して、私はあらためて「自分は何を残していきたいのか」を見つめ直すことができた。
遠山さんがお父様から受け継いだ愛。
そして、その愛を土台にしながら、これから生み出していく新しい寺のかたち。
継承とは、ただ受け取ることではない。
受け取ったものの本質を見つめ、その時代に必要なかたちへと進化させながら、次の世代へ手渡していくことだと思う。
遠山さんは、自分の使命に気づいている。
だからこそ、反発や周囲の声に大きく揺れない。
必要だと信じることを続けていく。
その姿に、私は強いIKIGAIを感じた。
私は今回の対話を通して、寺って本当にいい場所だなと、あらためて感じた。
寺本来の姿とは、ただ法事や供養を行う場所ではなく、人がありのままの自分に戻れる場所なのだと思う。
地位も、名誉も、お金も関係ない。
みんなが一人の人間として尊重され、地域のことを思い、人とのつながりを取り戻していける場所。
そんな場所だからこそ、私は寺の中に、本当のIKIGAIが育つ可能性を強く感じた。
地域のつながりも、人とのつながりも薄れやすくなった今の時代だからこそ、寺を残していかなければならない。
多くの人がまだ知らず、あるいは忘れてしまっているその役割を、現代の中で再び息づかせていかなければいけない。
寺本来の役割とは何か。
伝承とは何か。
継承とは何か。
それは、どちらが正しいとか、どちらが古いとか新しいとか、そういう話ではないのだと思う。
人が少しでも幸せに生きていくために、どう使い分け、どう残し、どう進化させていくのか。
悲しみの中でも、人は生きていく。
だからこそ、支え合う場所がいる。
遠山玄秀さんが進化させようとしている寺は、まさにその希望の一つなのだと思う。
開けない夜はない。
そう思わせてくれる場所が、ここにある。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師




