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最後に「よう頑張ったな」と言われるために——感謝を背骨に、日本企業を次世代へつなぐ
保科尚剛 株式会社セイルオン
感謝を背骨に、日本企業を次世代へつなぐ経営者
福岡県福岡市
最後に「よう頑張ったな」と言われるために——感謝を背骨に、日本企業を次世代へつなぐ
あなたは、誰にも見られていない場所でも、自分に恥じない選択ができるだろうか。
毎朝、神棚に向かう。昨日一日を無事に過ごせたことへの礼を伝え、妻と4人の子どもたちの名前を挙げて、その日の無事を願う。仕事がうまくいった日も、思うようにいかなかった日も、始まりに置くものは同じだ。
「曲がったことはできないんです。お天道様が見てるから」
株式会社セイルオン代表取締役・保科尚剛さんは、企業の経費を見直し、利益を残すためのコスト削減を支援しながら、経営者が健康に働き続けるための身体づくりにも伴走している。掲げているのは、日本企業をスリムで強い状態にし、再び世界で戦える企業を次世代へつなぐことだ。
対話を通して、何度も戻ってきた言葉がある。
「感謝」だ。
厳格な父に自由を奪われたと感じていた少年時代。日本を嫌い、アメリカへ行きたいと言っていた青春。東京で音楽にのめり込み、家族との時間を求めて高収入の仕事を手放し、法人営業の世界へ飛び込んだ。
営業で大きな成果を出した後には、自らが法的・倫理的に問題があると感じた業務を部下にさせることを拒み、会社を辞めた。そして独立後、8年間を共にした人との関係が崩れ、自分の心まで折れた。
そのたびに、保科さんは自分の生き方を選び直してきた。
「俺は生きてるんじゃない。生かされてるんだって、本気で思ったんです」
50歳になった今、保科さんが考えているのは、成功の大きさ以上に、最後にどんな顔で人生を終えるのかということだ。その時、先に逝った父に何と言われるのか。
父が亡くなる直前、一瞬だけ意識を戻し、保科さんの方を見て流した一筋の涙。その涙が何を意味していたのか、保科さんは今も分からない。
「いつか向こうで会ったら、親父に聞こうかなって。その時に一回くらい、『よう頑張ったな』って言われたいですね」
これは、曲がらない父のもとで自由を求めた少年が、何度も選び直しながら、自分なりの「曲がらない背骨」をつくってきた物語である。
第1章|「鬼と神に育てられた」——自由を求め続けた少年時代
保科さんは、自分の父を「鬼」と呼ぶ。
父は医師免許を持ち、公務員として保健所の所長を務めていた。貧しい家庭に長男として生まれ、勉強を重ねて医学の道へ進んだ人だった。母から後に聞いた話では、医師として働き続けるよりも子どもたちと一緒にいる時間をつくりたいと考え、公務員の道を選んだという。
家族を養い、子どもたちとの時間を選んだ父。その一方で、家庭の中では自分の考えをほとんど曲げない人でもあった。
「本当に鬼でした。自由がないんです」
思春期になると、父との衝突は激しくなった。保科さんが反抗すれば、家の空気が一変する。父が不機嫌になれば、家族全員がそれを感じ取った。
中学生の頃、保科さんが警察に保護されたことがある。父が勤める保健所は警察署の隣にあり、名字から所長の息子だと分かると、警察官たちの空気まで変わったという。
「『今からお父さん来る』って聞いた瞬間、終わったと思いました」
保科さんにとって、父は何より怖い存在だった。
そんな父とは対照的に、母について話す時、保科さんの声は柔らかくなる。
「僕の母親は聖マリアです。世界一素晴らしい女性です」
父の妹は若くして視力を失った。保科家で一緒に暮らし、その生活を長年支え続けたのが母だった。
保科さんは父の妹を「姉ちゃん」と呼び、慕っていた。父とぶつかった時には、母と姉ちゃんが保科さんの側に立ってくれたという。
強烈な父と、深い愛情を注ぐ母。保科さん自身の言葉を借りれば、「鬼と神」「火と水」だった。
そんな家庭の中で、保科さんが強く求めるようになったものがある。
自由だった。
「俺は自由を世界で一番欲してるし、尊重するんです。その人が自分で選んで、納得して選ぶ。その自由を大事にしたい」
当時の保科さんが窮屈さを感じていたのは、家庭だけではなかった。学校へ行き、進学し、良い会社へ就職し、家庭を持つ。決められた道を歩くことが幸せだとされる空気にも違和感を持っていた。
日本そのものにも、良い印象を持っていなかった。
「高校を卒業したらアメリカに行く。日本なんか嫌いだって、友達に言ってました」
今、日本について熱く語る保科さんからは、想像しにくい言葉である。当時の本人にとって、日本は自由よりも窮屈さを感じる場所だった。
高校を卒業すると、保科さんは福岡を離れ、東京へ向かった。アメリカではなかったが、父のもとを離れ、自分の意思で生きる場所を選んだ。
東京で打ち込んだのは、音楽だった。
自分の思っていることを、自分の言葉で、自分のやり方で表現する。幼い頃から求め続けた「自由」を、保科さんはそこで自分の手で掴もうとしていく。

第2章|「世界を曲げろ」——音楽、二つの死、そして自分で確かめ始めた20代
東京へ出た保科さんは、仲間とバンドを組んだ。その活動は十数年に及んだ。
「世界を曲げろ」
そんな言葉を掲げ、パンクロックに近い音楽で自分の考えを表現した。父のもとで自由を求め続けてきた保科さんにとって、音楽は自分の内側にあるものを外へ出せる場所だった。
音楽を続けていた25歳頃、一つの死を経験する。
祖父が亡くなった。
保科さんにとって、初めて経験した近しい肉親の死だった。東京から福岡へ戻って葬儀に参列し、再び東京へ帰った後も、心に引っかかるものが残った。
祖父は戦争を経験していた。保科さんが知っている祖父は、穏やかで優しい人だった。その祖父と、自分が学校で習ってきた日本の歴史が、どうしてもうまく重ならなかった。
「本当にそうだったのかな。あの優しいじいちゃんが、そんな悪いことをした側だったのかなって。自分で調べようと思ったんです」
当時は、インターネットで簡単に大量の情報へ触れられる時代ではなかった。
保科さんは暮らしていた吉祥寺周辺の図書館へ通った。戦争や近現代史に関する本を手に取り、自分が知らなかった出来事や見方を一つずつ調べていった。
そこで保科さんの中に生まれたのが、自分で確かめるという姿勢だった。
「一回『騙されていたかもしれない』と思った人間って、真実を見ようとするじゃないですか。その姿勢が芽生えたのが、あの図書館だったと思います」
その頃から、バンドで表現する内容にも日本への思いが強く表れるようになった。自分なりに考えたことを音楽に乗せ、「気づけ」「世界を変えろ」と発信する。活動が広がるにつれて、その考えに共鳴する人も増えていった。
同時に、保科さんが伝えたいものと、集まってくる人たちの受け取り方との間に違いを感じる場面も増えていったという。
そんな20代の後半、もう一つの死が訪れる。
27、28歳頃、父が糖尿病を患い、体調を崩していった。東京で暮らしていた保科さんのもとに「あと数日かもしれない」と連絡が入り、福岡へ戻って父のいる病院へ向かった。
ところが、父はそこから2週間ほど生きた。保科さんは病院に泊まりながら、その時間を過ごした。
そして最期の日。病室にいたのは、保科さん一人だった。
ほとんど意識のなかった父が、一瞬だけ目を開けた。保科さんの方を見る。その目から一筋の涙が流れ、そして息を引き取った。
「ごめんだったのか、別れだったのか、今も分からないんです。でも、涙を流したのは間違いない」
葬儀には、多くの人が訪れた。そこで保科さんは、自分の知らなかった父の姿を見ることになる。
障がいのある人たちが訪れ、「先生」と父を慕い、別れを惜しんでいた。父は晩年、障がいのある人たちの支援にも関わっていたという。
家庭で見てきた「鬼」とは違う顔だった。
保科さんは今も、父の生き方すべてを肯定しているわけではない。一方で、認めている部分もある。
「そこまで自分を曲げない人間がいるのかっていう意味では、尊敬する。よく曲げなかったなって」
父を見送った後、保科さんは再び東京へ戻り、音楽を続けた。
ライブの本数が増えれば、それだけ練習も増える。お客様がお金を払って来てくれる以上、ステージでは本気でやる。保科さん自身の言葉では、「魂を削りながら」音楽を続けていた。
そんなある日、ライブ後の打ち上げで、仲間たちが演奏や機材、技術、次のライブについて楽しそうに語り続けている姿を見た。
「こいつら、本当に音楽が好きなんだな。じゃあ俺は、本当に音楽が好きなのかって」
十数年続けてきたからこそ、自分に問いかけるところまで来た。
「俺より音楽が好きなやつ、いっぱいいるじゃん。俺、音楽じゃねえわって思ったんです」
その頃には結婚し、長男が生まれる時期を迎えていた。保科さんはバンド活動を終えた。
生活を支えていたのは、音楽と並行して始めたパチンコ店の仕事だった。最初はアルバイトとして入り、そこから社員となり、やがて店長まで任された。
20代で、年収はかなり高い水準にあった。毎日多額の現金が動く店で、金庫の番号を知っているのは社長と保科さんだけだったという。それほど会社から大きな信用を得ていた。
一方、東京の店舗には定休日がなかった。店長として朝と夜の業務を担うため、休日でも店へ行く必要があり、家族で泊まりに出かけることも難しかった。
そんな生活を続けていたある日、長男から言われた。
「遊んでほしい」
その言葉を聞き、保科さんは仕事を辞めることを決めた。
「辞めるって決めてから仕事を探しました」
高い収入も手放し、次に選んだ会社の初任給は21万円だった。そこで初めて、法人営業の世界へ入る。
父から離れたくて福岡を出た。東京で音楽に打ち込み、祖父の死をきっかけに自分で物事を確かめ始めた。父の最期を見届け、十数年続けた音楽を終え、長男の一言を受けて仕事まで変えた。
そうして保科さんは30代を迎える。
未経験で飛び込んだ法人営業の世界で、今度は「人とつながる」という自分の力を知っていくことになる。
第3章|「相手は人間だ」——家族を背負い、人でつないだ営業人生
保科さんは、未経験から法人営業の世界へ入った。
難しいと言われる企業にも足を運び、次々と関係をつくっていった。成果を積み重ね、社内では「営業の天才」と呼ばれるようになったという。
本人に理由を聞いても、特別な営業理論は返ってこない。
「多分、友達になりに行くからじゃないですか。相手のことが好きだから。あと怖くないんですよ」
人を怖がらない。相手を役職や会社名より先に、一人の人間として見る。
保科さんが営業で繰り返していたことだった。
そんな中、2011年に東日本大震災が起きた。東京で暮らしていた家族も大きな揺れを経験し、東京生まれ、東京育ちの妻が「福岡で子どもたちを育てたい」と言った。
保科さんにとっても、故郷へ戻る機会だった。会社に福岡勤務を願い出ると、大きな取引を成立させることを条件に提示されたという。
保科さんはその案件を取り、福岡支部長として戻った。
当時、支社は赤字で、メンバーは5人ほどだった。保科さんが最初に感じたのは、技術不足以上に「どうせ福岡では勝てない」という空気だった。
「じゃあ自分がやるしかない。そう思って、自分で動きました」
福岡の大手企業との接点を探し、担当者に会い、上席へ挨拶をした。その場で、相手の腕時計に目が止まった。ランナーに人気の腕時計だった。
「走るんですか?」
その一言から会話が広がり、3か月後のハーフマラソンへ誘われた。保科さんは当時、レースに出たことがなかった。それでも即答した。
「行きます」
仕事の話より先に、人と人の関係ができた。
そのつながりから取引が生まれ、別の企業へも話が広がった。福岡支社は黒字化し、その後、広島、沖縄へと範囲を広げていった。
保科さんは若い社員にも、繰り返し伝えた。
「人とつながれ。相手は人間だ。会いに行って、くだらない話でもしてこい。仲良くなれば、いつか仕事をくれるから」
成果が積み上がると、保科さんは東京へ呼び戻され、営業本部を任される。
家族は福岡に残った。
娘はまだ2歳。日曜日の夜、東京へ戻ろうとする父の足にしがみつき、泣いた。
「その時に聴いてた音楽、今も聴けないんですよ。景色が戻ってくるから。日本橋も人形町も、今でもちょっと行きたくない」
仕事では結果が出ていた。会社からも必要とされていた。その一方で、家族と離れて過ごす時間は積み上がっていった。
その後、会社を離れるきっかけとなる出来事が起きる。
会社から、保科さん自身が法的・倫理的に問題があると感じる業務を、部下に進めさせるよう求められたという。部下も「これは問題があるのではないか」と不安を口にした。
保科さんは、その足で経営陣のもとへ向かった。
「やりません。僕の部下にはやらせません」
年末年始の休暇中、辞めると腹を決めた。
仕事始めの日には、全社員へこれからの営業方針や数字のつくり方を伝え、最後に辞表を出したという。
妻にも「辞める」と伝えた。4人の子どもがいて、次の事業も固まっていない。それでも妻は、保科さんの決断を支えた。
「子どもたちに誇れない仕事をしてまで、そこにいる意味はないと思ったんです」
その後、コスト削減の仕事を経験していた知人と組み、独立した。
営業で会社を伸ばしてきた保科さんが、自分の会社を始める。パートナーとの関係はその後8年間続き、やがて保科さんの人生を大きく揺らすことになる。
第4章|「よう頑張ったね」——信じた人との別れで折れた50歳が、もう一度立ち上がるまで
独立後、保科さんはコスト削減の実務を担い、パートナーが営業を担う形で事業を続けた。その期間は8年に及んだ。
そこには、簡単には切り分けられない時間と情が積み重なっていた。
途中から、価値観の違いには気づいていたという。
保科さんには、以前から築いてきた経営者との人脈があった。だが、その人脈を共同事業にはほとんど使わなかった。
理由を、率直に語った。
「自分の大事な人たちに、パートナーを紹介することに抵抗があったんです。今思えば、その時点で俺は気づいてたんですよね」
良いところも知っていた。長く一緒にやってきた情もあった。そのまま関係は続いた。
そして2026年、関係を解消することを決めた。
その後、事業上の精算をめぐる問題も重なり、保科さんは大きく追い詰められていった。
怒り、悲しみ、自分への情けなさ。その三つが頭の中を繰り返した。
眠れず、酒を飲む。少し眠っては、また目を覚ます。そんな日々を繰り返し、家族から見ても表情が消えていたという。
そんな中、実の弟が自宅を訪れた。
「大丈夫か」
そこで初めて、保科さんは状況を話した。
「俺がバカだったなって思ったんですよ。こんなに長い時間、一緒にやってきて、俺は何を見てたんだろうって」
人を信じることを仕事の中心に置いてきた保科さんにとって、その出来事はトラブルだけでは済まなかった。自分自身の人を見る目まで疑った。
「死んだ方が楽かもしれない」
そう考え、自分を傷つけるところまで追い詰められた時期もあった。
弟は母に連絡した。翌日、母から電話が来る。
「病院を予約したから、行きなさい」
そして母が信頼する精神科医の診察を手配してくれた。
最初に看護師から約2時間、これまでの人生を聞かれた。幼少期、父との関係、仕事、家族、独立、そして今起きていること。保科さんは一つずつ話した。
その内容を受け、医師はこう言った。
「よう頑張ったね。もっと自分を褒めてあげなさい。ここまで傷つくっていうことは、それだけ戦ったっていうことだから」
その言葉を聞いた瞬間、保科さんは感情の糸がほどけた。
「もう、号泣でした」
医師からは、酒をやめるようにも言われた。
「今のお酒は、楽しいお酒じゃない。つらさを消すためのお酒になっているから、やめなさい」
保科さんは酒を断ち、もう一度仕事へ向かった。
従業員たちは、いなくなったパートナーが担っていた営業を、今度は保科さん自身にやってほしいと伝えた。
「社長なら絶対できると思ってます。僕たちは社長を信じてます」
売上は、ほとんどゼロからの再出発だった。
保科さんは動いた。SNSで人とつながり、かつて所属していた経営者コミュニティへ戻る。会いたい人に会い、話し、紹介してもらい、また次の人とつながった。
8年間、抑えていた「人が好き」という自分を、もう一度外へ出した。
酒を断ってから約3か月後、20年近く会っていなかったバンド時代のベーシストと再会する予定が入った。その日までに戻りたいと、仕事をし、人に会い、身体を動かした。
そして再会の日を迎えた。
保科さんは、その一連の出来事を「必然だった」と受け取っている。
一度は生きる力を失うほど追い詰められた。そこから、家族に支えられ、弟に声をかけられ、母が病院を手配し、医師から「よう頑張った」と言われた。そして従業員たちからは「社長ならやれる」と言われた。
保科さんは言う。
「俺は一人で生きてたわけじゃない。妻がいて、子どもたちがいて、うちのメンバーがいて。俺は生きてるんじゃない、生かされてるんだって本気で思ったんです」
そこで、口にした言葉が「感謝」だった。
「裏切られたと思った相手にも、今は感謝してます。8年間一緒にいたから今の俺がいるし、その出来事があったから気づけたこともある」
保科さんは、その出来事を今も痛みのあるものとして語る。無理にきれいな思い出へ変えることもない。
そのうえで、自分がここまで来るまでに関わった一人として受け取っている。

第5章|「お天道様が見ている」——感謝を世界へつなぐ、人生の第二創業
株式会社セイルオンが中心に置くのは、企業の間接コストを見直し、経営を強くする支援である。
保科さんは、コスト削減を単なる節約として捉えていない。間接コストが1000万円下がれば、その金額は利益として残る。だからこそ経営者と直接向き合い、社内の担当者まで巻き込みながら、数か月かけて改善を進める。
その時も、人を見る。
外部の専門家と社内担当者では、見てきた企業数も経験量も違う。成果が出た時に「今まで何をしていたんだ」と経営者が社内の担当者を責めれば、組織は動きにくくなる。
「担当者が悪いんじゃない。僕らは毎日これをやってるから経験値が違うだけなんです。だから協力してもらわないと進まない」
営業時代から変わらず、仕事を人と人との関係として見ている。
「人間なんて、もう信用だけですから」
その言葉を、自分自身でも証明しようとしている。
予防栄養学アドバイザーとして経営者の健康支援を行う一方、自分の身体でも食事や運動を試している。体脂肪率を一桁まで落とすと宣言し、経過をSNSで公開する。
「言ったことをやるやつだって思ってもらえるじゃないですか。信用って、そういう積み重ねだと思うんです」
会社については、3年で売上10億円という目標を置いている。
その先に、保科さんが見据えているのが農業だ。
無農薬で作物を育てる方法を学び、安全な食をつくりながら、農家としてきちんと利益も出せる仕組みをつくりたいという。
「農薬を使わなくても、ちゃんと儲かる方法があるって伝えたい。日本の食を守って、自給率を上げて、世界にも売っていきたい」
野菜を粉末化し、保存性を高め、食品やサプリメントの原料として世界へ届ける構想も持っている。今は、土づくりを長年研究してきた年長の農業実践者から学ぼうとしている。
会社を強くする。経営者の身体を整える。農業を通じて食を守る。
一見すると別々の活動に見えるが、保科さんの中では、いずれも「日本を次へつなぐ」という方向を向いている。
その根にあるものを尋ねると、答えはやはり感謝へ戻る。
「日本の文化の根底にある感謝を、世界に届けていってほしいんです。俺一人じゃ時間が足りないから」
では、保科さん自身のIKIGAIは何なのか。
問いかけると、少し間を置いて、こう答えた。
「神様が見ている。お天道様が見ている。それが僕の軸です」
長男が生まれる前、無事に生まれてこられないかもしれないと言われた時期があった。保科さんは神社へ行き、一人で願った。
「息子を助けてください」
その後、医師から状態が落ち着いたと聞いた。
保科さんは、それを自分にとって「神様がいる」と感じた出来事として今も覚えている。
八百万の神、自然、先人たち、家族、そして出会ってきた人たち。保科さんの中では、自分一人で生きているという感覚は薄い。
だから、毎朝、神棚に向かう。
「ありがとうございました」
妻と4人の子どもたちの無事を願い、一日を始める。
お天道様が見ていると思えば、誰も見ていない場所でも曲がったことはしたくない。
「楽して儲けようとすんなよ。お前はそういうやつじゃないだろって、見られてる気がするんですよ」
その視線の先には、父もいる。
生前、最後まで保科さんにとって怖い存在だった父。一筋の涙を残して亡くなった父。保科さんはいまだに、あの涙の意味を知らない。
「俺が死んだら、親父に会うじゃないですか。その時に『なんで泣いたのさ』って聞こうかな。その前に、中途半端な生き方してたら、また怒られるでしょ」
そして、こう続けた。
「一回ぐらい、『よう頑張ったな』って言われたいっすね」
その日まで、保科さんは生きる。
折れることがあっても戻り、間違えることがあれば考え直す。受け取ったものに感謝しながら、次の世代へ渡していく。
50歳から始まった第二創業は、会社の再出発であると同時に、保科尚剛という一人の人間の再出発でもある。
最後にどんな顔で父と再会するのか。
その時、父はまだ「鬼」なのか。
その答えを確かめる日まで、保科さんは進んでいく。

あとがき
保科さんの話を聞き終えたあと、私の中に残ったのは、「感謝」という言葉だった。
私たちは、今あるものを、いつの間にか当たり前だと思ってしまう。
家族がいること。働ける場所があること。
自分の考えを持ち、人生を選べること。そして、この国に残る文化や価値観もそうだ。
その当たり前の背景には、前の世代を生きた人たちが、それぞれの時代の中で迷い、選び、守り、次へ渡してきたものがある。その積み重ねの上に、今の私たちの暮らしがある。
自分一人の力だけで、ここまで来た人はいない。親がいて、家族がいて、仲間がいて、名前も知らない先人たちがいる。その人たちから受け取ったものの先に、今の自分がいる。
人のために動くこと。誰も見ていないところでも、自分が正しいと思う方を選ぶこと。未来の誰かのために、今できることを一つ積み重ねること。
一人の行動だけを見れば、とても小さく見えるかもしれない。
だけど、その小さな行動が誰かへ渡り、またその次の誰かへつながっていけば、何十年、何百年という時間の中で、大切なものが残っていく。
私たちもまた、受け取る側であると同時に、次へ渡す側にいる。
自分がいなくなったあとに、何を残したいのか。
次の世代へ、少しでも大切なものを渡していく。
そのために今日、自分の命を何に使うのか。
保科さんの人生は、その問いを考えるための一つのヒントを、私たちに残してくれた。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師
WRITER PROFILE
尾﨑弘師 (おざき ひろし)
IKIGAIコネクター/IKIGAI JAPAN 主宰/株式会社ミトミト 代表取締役
これまで延べ1,500人以上に「生きがい(IKIGAI)」をヒアリングし、経営者を中心に100本以上の長編インタビュー記事を執筆。経営者インタビューメディア「IKIGAI JAPAN」を運営し、人生・価値観・哲学・仕事への想いを取材・言語化し、次世代へ残す活動を続けている。
掲げるのは、「その人の人生は、誰にもコピーできない。だからこそ、残すべき価値がある。」という考え方。AIによってコンテンツが大量生産できる時代だからこそ、その人にしかない経験や思想、技術、物語こそが差別化資産になると考えている。
さらに、発掘したIKIGAIをブランド・採用・集客・営業へつなげ、経済の力へ変える「IKIGAIマーケティング」を実践。インタビューによる価値の発掘・言語化を起点に、Webサイト・漫画LP・アニメーションなどのクリエイティブ制作から、広告運用・営業設計まで一気通貫で支援し、「その人だから選ばれる」マーケティングの仕組みを構築している。









