ひとりでは、生きてこられなかった——縁に支えられた三代目がつくる介護タクシーの道

中西教之 株式会社中西工作所

負けを知り、縁で人を支える介護タクシーの案内人

兵庫県西宮市

ひとりでは、生きてこられなかった——縁に支えられた三代目がつくる介護タクシーの道

 

あなたは、今いる場所まで自分を導いてくれた人の顔を、どれだけ思い浮かべられるだろうか。

自分で選んだ道。
自分で積み重ねた努力。
自分で乗り越えてきた困難。

人生を振り返ると、つい「自分が何をしてきたか」に目を向けたくなる。

けれど、進む方向を変えた言葉や、苦しい時期に差し伸べられた手、思いもしなかった仕事へつながった出会いまで辿っていけば、自分一人の力では説明できないことも多い。

兵庫県西宮市で株式会社中西工作所を経営する、中西教之さん。

祖父、父から続く会社の三代目として、32年にわたり経営を続けてきた。現在は自動車の販売や整備に加え、福祉車両の販売、介護タクシーの開業支援を全国で行っている。

中西さんが人生で最も大切にしているのは、人との出会いだ。

「全部、出会いなんですよ。ご縁とか、人との出会い。それに尽きるんじゃないですかね」

その価値観は、順調な人生の中で生まれたものではない。

18歳で母を亡くした。
21歳で父を亡くした。

大学3年生だった中西さんは、経営の知識も十分な現場経験もないまま、父が残した会社の行方を決めなければならなくなった。

会社を継ぐのか。
工場を閉め、従業員を解散させるのか。

社長になった後は、自分より一回りも二回りも年上の従業員に頭を下げ、周囲の経営者たちに支えられながら会社を続けた。

やがて排ガス規制によって、大型トラックやバスを中心とした整備事業は大きな打撃を受ける。祖父と父が守ってきた工場を縮小し、ストレス障害を発症するほど追い詰められた。

その後、当時の妻の言葉から介護タクシー事業を始める。

行政書士と出会い、全国の開業希望者と出会い、ブログやSNSを通して、それまで接点のなかった人たちとつながっていった。

最初から、現在の形を目指していたわけではない。

その時々で出会った人の言葉を受け取り、自分にできることを重ねてきた。

人との縁を大切にしていたら、気づけば人生は、思いもしなかった場所へ導かれていた。

これは、両親の死と事業の縮小を経験しながら、人に支えられた記憶を手放さず、今度は人と人をつなぐ側として生きる、一人の経営者の物語である。

そして、受け取った縁を、次の誰かへ手渡していくとはどういうことかを問いかけてくれる物語でもある。 

第1章|会社は、父の職場であり、少年の遊び場だった——まだ運命を知らなかった原風景

幼い頃の中西さんにとって、中西工作所は特別な場所ではなかった。

学校から帰ると会社へ行く。家から少し離れた場所にあり、歩いて行ける距離だった。

父が働き、従業員たちが出入りしている。ときには小遣いをもらいに行くこともあった。

「遊び場であり、親父の職場でもある場所でした」

父が経営していた中西工作所は、大型トラックやバスの整備を主力としていた。

テレビでコマーシャルを流すような大手企業の車両や、観光バスの修理も請け負っていた。番頭がいて、従業員がいて、組織として仕事が動いていた。

中西さんは、その仕事場を日常の風景として見ていた。

将来は必ず自分が継ぐ。
そのために今から準備をする。

そう決めて育ったわけではない。

18歳のときだった。

母が亡くなった。

まだ、自分の人生をどう生きるのかさえ、はっきりとは決まっていない年齢だった。
これから大学へ進み、社会へ出て、少しずつ自分の道を選んでいく。その入り口に立った時期だった。

そんな中でも家に帰れば、父がいる。
分からないことがあれば、父に聞くことができる。
何かに失敗しても、最後には自分の側に立ってくれる存在が、まだ一人残っていた。

自分がどのような道を選び、どのような失敗をしても、最後まで自分を見放さない人がいる。その事実が、人をどれほど支えているのかは、失って初めて見えてくることもある。

中西さんは、親という存在についてこう語った。

「たとえ世界中を敵に回しても、親は最後まで守ってくれる。その存在は大きいですよね」

自分が外の世界で傷ついたときにも、最後に帰ることのできる場所だった。
うまく生きられなかったとしても、自分の存在そのものを否定せずにいてくれる人だった。

母がいなくなった寂しさの中でも、父がいるということが、中西さんの人生をまだ支えていた。

母の死から3年後、その父が検査入院することになった。

「1月に、親父が『検査入院するよ』と言ったんです。母親はもういなかったので、僕に残っている親は父だけでした」

当初は、あくまで検査を受けるための入院だった。

治療をして、また会社へ戻ってくる。
少なくとも、その時点では、父がいなくなる未来を現実として受け止めていたわけではなかった。

しかし、検査の結果、がんはすでに大きく進行していた。

「検査をしたら、もうがんがかなり進んでいて。医師から『悪いけれど3か月。もって3か月です』と言われました」

母を失ったあと、自分を守ってくれる最後の親だった父まで、もうすぐいなくなる。

中西さんは21歳。大学3年生だった。

父の病状を受け止めるだけでも、簡単なことではなかった。

けれど、悲しみに立ち止まる時間はなかった。

父が経営していた会社には、従業員がいる。
取引先がある。
整備を待っている車両がある。

父の命が残りわずかだと告げられたその時から、中西さんは、父を失う現実と同時に、会社をどうするのかという決断にも向き合わなければならなかった。

父が築いた取引先がある。
整備を待つ車両がある。
働いている従業員がいる。

会社を続けるのか。
工場を閉めるのか。

決断を待つ時間はなかった。

 

第2章|「僕らにも生活がある」——21歳で背負った、従業員たちの人生

父の余命が告げられた後、会社の番頭は中西さんに判断を求めた。

「21歳のあなたに、こういうことを言うのは酷だけれど、僕らにも生活がある。会社を継ぐのか、全部閉めて解散するのか、人生を決めてくれ」

会社を閉める選択もあった。

中西さんは大学生で、経営者になる準備はできていなかった。大型トラックやバスを扱う整備工場について、すべてを理解していたわけでもない。

それでも、会社を続けることを選んだ。

「右も左も分からないまま、一回、この会社をやってみようかと思ったんです」

大学へ通いながら、社長として会社に立った。

父が番頭を置き、組織の基盤をつくっていたため、会社は動いた。取引先も残っていた。

しかし、組織が動くことと、21歳の中西さんが経営者として受け入れられることは別だった。

従業員の多くは、自分より一回り、二回り年上だった。

父と一緒に働いてきた人たちに、息子である自分が仕事を頼まなければならない。父と比較されることもあった。うまく伝えられず、誤解を生むこともあった。

「指示というより、全部お願いですよ。何回も頭を下げました」

社長という肩書きはあっても、経験も信用も足りなかった。

父が亡くなって2年、3年と経つにつれて、父の存在だけでは会社を続けられなくなる。中西さん自身が取引先と向き合い、従業員との関係をつくらなければならなかった。

一方で、同世代の友人たちは学生生活を送り、卒業後の進路を選んでいた。

仕事中、ラジオから21歳の若者の話が流れてくる。恋人との出来事や、学生らしい日常が語られていた。

それを聞きながら、中西さんは、自分が置かれている状況との差を感じていた。

「大学在学中に、なんでこんなことをせなあかんねん、と思うこともありました」

職業を自由に選べる人が、うらやましかった。

経営が分からなくても、父には聞けない。苦しくなっても、母に甘えることはできない。

「22、23歳の頃は、一人でよう泣きましたよ」

その時期、中西さんを支えたのが、父と同世代の経営者たちだった。

「どうしているんだ」と声をかけ、食事へ連れていってくれた。仕事や経営について言葉をくれた。

父が生前に築いていた人間関係が、残された息子を支えた。

中西さんは、人との出会いを経営理念として先に掲げたわけではない。

若くして両親を失い、人に助けてもらわなければ会社も生活も続かなかった。

「親が早くにいなかったから、人に頼らなければ生きていけなかった。それは、今振り返れば強いところですね」

頼ることは、弱さを見せることでもあった。

分からないと伝える。
頭を下げる。
教えてもらう。
助けてもらう。

そうした時間を重ねながら、中西さんは社長として会社に残った。

父の時代から働いていた従業員たちは、その後およそ10年をかけて少しずつ入れ替わっていった。

父がつくった会社をそのまま引き継ぐのではなく、自分が関係をつくり直さなければならなかった。

その過程で、中西さんの中に残ったのは、自分一人の力で会社を続けてきたという実感ではない。

人に助けられて、ここまで来たという記憶だった。

第3章|守りたかった工場を、自分の手で閉じた——“負け”を知った日

父が亡くなった後、中西さんは会社を続けながら、少しずつ自分で顧客を回るようになった。

阪神・淡路大震災の頃から、取引先との関係にも自ら関わるようになったという。

父が残した信用を受け継ぐだけではなく、自分の名前で会社を動かし始めていた。

その時期に、大型トラックやバスを取り巻く環境が変わった。

NOx・PM法などによる排ガス規制が進み、古い車両から新しい車両への入れ替えが求められた。

中西工作所の主要顧客は、大型車両を保有する企業だった。

大手企業は規制への対応も早く、古い車両を新しい車両へと入れ替えていく。整備をしながら長く乗り続ける車両が減り、それまであった仕事が急速になくなった。

「今まで表だったものが、全部裏になる。オセロゲームみたいなものでした」

大手顧客との取引が会社を支えてきた。

しかし、その大手顧客が一斉に車両を入れ替えたことで、仕事は大きく減少した。

中西さんや従業員の努力だけでは、変えられない状況だった。

最終的に、整備工場を縮小することになった。

祖父が始め、父が基盤をつくり、自分が若くして引き継いだ工場だった。

従業員にも、それぞれ生活がある。21歳で会社を継いだときに背負ったものを、今度は自分の判断で手放さなければならなかった。

中西さんは、ストレス障害を発症するほど悩んだ。

会社そのものを倒産させたわけではない。それでも、本人はこの経験を「負け」と表現する。

「僕も、おじいちゃんから継いできた工場を縮小した。僕は負けを知っているんです」

工場を縮小した後、周囲の態度が変わったと感じることもあった。

経営が順調なときには近くにいた人が、状況が悪くなると離れていく。会社の規模や肩書きによって、人の接し方が変わる現実も見た。

「これが現実なんや、と分かりました」

だが、約20年が過ぎた今、中西さんは、負けを知った経験が人を見る視点にもつながっていると話す。

過去の失敗や肩書きで、その人を判断しない。

「負けを知っていることは、人生で大事なことなんです。もう捨てるものがないところから、行ったらいい」

失敗したときに、人生まで終わるわけではない。
当時の中西さんも、工場の縮小後に別の仕事を探し、新しい人と出会った。

次に始めた介護タクシーの仕事も、最初から将来性を見抜いて選んだものではなかった。
仕事を失いかけた時期に、身近な人から教えられた選択肢だった。

負けを経験した先で、次の縁が待っていた。

第4章|失敗しても、次の人生へ進めるように——縁がつないだ介護タクシーへの道

整備工場を縮小した頃、当時の身近な人(前妻)が訪問介護の仕事を始めたいと考えていた。

その人は精神科病院で働いた経験があり、福祉の分野に関心があった。

車の仕事が以前ほど忙しくならないのであれば、空いている時間に介護タクシーをしてみてはどうか。

その提案が、介護タクシーとの出会いだった。

「生きるすべとして始めたんです」

中西さんは、実際に介護タクシーを運営する中で、開業に必要な費用と、事業で得られる売上の両方を見るようになった。

当時、介護タクシーの開業を支援するフランチャイズの中には、加盟だけで高額な費用が必要なものもあった。そこへ新車の福祉車両を購入すれば、開業前から大きな負担を背負うことになる。

介護タクシーは、開業すれば必ず大きな利益が出る仕事ではない。

実際に運営していた中西さんには、高額な初期費用を回収する難しさが分かった。

「そんなにお金をかけて始めても、途中で辞めたらあかん。失敗しても、その人には次の人生があるんです」

そこで、車屋として持っていた知識を使った。

新車ではなく、中古の福祉車両を自動車オークションで探す。小さな車両から始め、初期投資を抑える。

介護タクシーの運営方法は、自分が経験したことを伝えられる。

行政手続きについては、出会った行政書士と協力した。

車両の調達。
許可申請。
研修。
開業後の相談。

必要な支援を一つずつ組み合わせ、全日本介護タクシー開業サポートグループを立ち上げた。

中西さんが考えたのは、介護タクシーの開業を成功させる方法だけではなかった。

うまくいかなかったときの損失を小さくすることも含まれていた。

中古車を選び、大きな借金を避ける。事業を続けられなくなっても、その後の生活まで立ち行かなくならない形で始めてもらう。

工場の縮小を経験した中西さんにとって、失敗後に次へ進めることは、現実的な問題だった。

一方で、自動車販売の事業としても、新しい可能性が生まれた。

一般的な車屋の商圏は、店舗から半径10キロほどだと言われる。車両販売、車検、保険、修理といった限られた仕事を、地域の事業者同士で取り合う。

介護タクシーの開業支援と福祉車両の販売を組み合わせれば、商圏は地域の外まで広がる。

「車を売るだけなら、大手に勝てない。でも、介護タクシーの始め方まで教えられるなら、うちを選んでもらえる」

支援先は、関西だけではなくなった。

福岡や博多、北海道の留萌など、全国から相談が届くようになった。

地域の整備工場として続いてきた中西工作所が、介護タクシーを始める人を全国で支援するようになった。

工場の仕事が減らなければ、介護タクシーを始めていなかったかもしれない。
身近な人の言葉がなければ、福祉の世界を知ることもなかった。
行政書士と出会わなければ、開業支援の仕組みも完成しなかった。
一つの計画を予定どおり実現したのではなく、その時々の出会いから、次の仕事が生まれていった。

第5章|縁は、つなぐほど広がっていく——無常の中で見つけた感謝

介護タクシーの開業支援を始めた頃、中西さんは、知人からホームページをつくるよう勧められた。

ホームページを公開しても、更新しなければ検索で見つけてもらえない。

そこで、ブログを書くようになった。

介護タクシーのこと。
福祉車両のこと。
日々の仕事や出会った人のこと。

書き続けるうちに、ブログを読んだ人から連絡が来るようになった。

それまで接点のなかった地域から、車両や開業支援について相談が届く。

その後、中西さんはYouTube、Instagram、TikTok、LinkedInなどでも発信するようになった。

発信によって、自分がどのような人間なのかを、会う前に知ってもらえる。

「全員に好かれる必要はないんです。僕のことが嫌いな人は、別のところへ行けばいい。でも、面白いと思ってくれる人とは、10年、15年の付き合いになる」

中西さんは、日々の行動や、誰と会ったかを公開している。

訪れた場所。
話をした人。
顧客の活動。
仲間が取り組んでいること。

自分の宣伝だけをするのではなく、出会った人を紹介する。

一緒に撮った写真や動画を発信し、その人の仕事を伝える。そこから別の人が関心を持ち、新しいつながりが生まれることもある。

中西さんは、SNSを「井戸端会議の見える化」と表現する。

かつては、その場にいる数人にしか聞こえなかった会話が、今は全国の人に届く。

「せっかく一時間話をしたなら、二人だけで終わらせずに出した方がいい。誰が見て、誰につながるか分からないから」

実際に、中西さんの顧客と、別の場所で出会った人が偶然つながることもあった。

介護タクシーの利用者や事業者同士が、中西さんの紹介を通じて仕事を始めることもある。

その報告を聞くことが嬉しいという。

「僕の知っている人と、知っている人がつながって、何かできたら嬉しいですね」

人を見極める方法を尋ねると、中西さんは「飽きるほど人に会うこと」と答えた。

相談したいと口にするだけで終わる人もいれば、実際に遠方から会いに来る人もいる。

紹介すると言って動かない人もいれば、その日のうちに連絡を取る人もいる。

多くの人と会い、言葉と行動の両方を見る。

中西さん自身も、誰かを紹介するときは、できるだけ行動に移す。顧客や仲間のことを発信し、自分の持つつながりを使う。

インターネットやAIが進化し、情報を得ることは容易になった。

文章を整える。
知識を調べる。
改善案を出す。

そうした作業は、人間より速くできるようになっていく。

中西さんは、AIを使った際に返ってきた一つの言葉を覚えている。

「改善はできる。でも、経験はできない」

人間が実際に経験したこと。
誰かと会ったこと。
失敗して感じたこと。
助けられた記憶。

それらは、知識だけでは置き換えられない。

「AIに勝てるところは、経験や体験、人と人との話、感情。そのくらいしかないと思っています」

価格だけを比べれば、大手やインターネット通販には勝てない。

だから中西さんは、自分がどのような人間で、誰とどのように付き合ってきたのかを隠さない。

事業だけではなく、人を見てもらう。

 

今後の目標を尋ねた。
「つつがなく生きる、ということですね。一日、何もなかったことがありがたい」
SNSを見ていると、自分より若くして大病を患い、亡くなっていく人もいる。
今日と同じ明日が来るとは限らない。
中西さんが意識するようになったのは、「無常」だった。

常に同じものはない。
人も、会社も、今ある暮らしも、いつか形を変える。
だから、今ここにいることに感謝する。

自分にとってのIKIGAIを聞かれた中西さんは、少し考えてから答えた。

「IKIGAIと呼べるか分からないけど、感謝ですかね」

両親を早く亡くした。
工場を縮小した。
介護タクシーと出会った。
全国に仲間ができた。
若い人が自分を訪ねてくれるようになった。

過去の出来事は変えられない。
中西さんは、その時々で出会った人との関係を続け、自分にできることを返してきた。
その縁から、また次の縁が生まれている。

これからも、出来上がった仲間たちと面白いことを考え、行動していきたいという。

何を成し遂げられるかは、まだ分からない。
誰と出会い、その縁がどこへ続くかも分からない。
分からないからこそ、今ある出会いを大切にする。

それが、中西さんが歩いてきた道であり、これからも続いていく生き方である。

あとがき

あなたは、今いる場所まで自分を導いてくれた人の顔を、どれだけ思い浮かべられるだろうか。

苦しいときに、声をかけてくれた人。
迷ったときに、次の道を教えてくれた人。
立ち上がれない日に、黙って支えてくれた人。

人生を振り返ると、私たちは、自分が積み重ねた努力や乗り越えた困難に目を向ける。

けれど、その道を丁寧に辿れば、誰かから受け取った言葉や、差し伸べられた手が、今の自分につながっていることに気づく。

中西さんは、18歳で母を亡くし、21歳で父を亡くした。

会社を継ぐ準備もないまま、従業員たちの生活を背負い、祖父と父から受け継いだ工場を、自らの判断で縮小した。

その節目には、いつも人がいた。

「人に頼らなければ、生きていけなかった」

分からないと伝えること。
頭を下げること。
差し伸べられた手を受け取ること。

その積み重ねが、中西さんをここまで支えてきた。

私自身にも、負けたと感じた経験がある。
だからこそ、「負けを知っていることは、人生で大事なこと」という言葉が胸に残った。

負けた経験が、そのまま人を強くするとは限らない。
痛みを抱えたまま、立ち止まることもある。

それでも、助けられた記憶を、次の誰かのために使うことはできる。

中西さんは、受け取った縁を行動に変えてきた。

誰かを紹介する。
人と人をつなぐ。
挑戦する人が、失敗しても次へ進める形をつくる。

中西さんが最後に語ったIKIGAIは、「感謝」だった。

感謝とは、誰かに支えられて今の自分がいると、忘れずに生きることなのだと思う。

受け取ったものを、同じ相手に返せないこともある。
だからこそ、その縁を次の誰かへ手渡していく。

あなたの人生を、ここまで導いてくれた人は誰だろうか。

そして、受け取った縁への感謝を、これからどんな行動に変えていくだろうか。

受け取った縁は、手渡すことで、次の誰かを支える力になる。

中西さんの生き方は、そのことを私に教えてくれた。

IKIGAIコネクター
尾﨑弘師

 

株式会社中西工作所

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