技術は、人の時間を取り戻すためにある——大分の現場に寄り添うエンジニアの物語

芦刈庸介 株式会社NewBeginnings

大分の現場に人の余白を届けるAIエンジニア

大分県大分市

技術は、人の時間を取り戻すためにある——大分の現場に寄り添うエンジニアの物語

 

あなたは、仕事に追われる中で、自分の本当の仕事を見失ったことはないだろうか。

お客様と向き合いたい。
もっと良い商品を届けたい。
自分たちの魅力を、ちゃんと伝えたい。

そう思っているのに、気づけば一日は過ぎていく。

紙の書類を探す。
Excelを何度も直す。
同じような電話に対応する。
本当なら誰かのために使いたかった時間が、目の前の作業に少しずつ削られていく。

忙しい。
でも、前に進んでいる感覚がない。

そんな現場の苦しさを、芦刈庸介さんは見てきた。

株式会社NewBeginnings 代表取締役・芦刈庸介さん。
大分県を拠点に、DX支援やAI導入支援を行うエンジニアであり、経営者である。

ただ、芦刈さんが届けようとしているのは、便利なシステムそのものではない。

技術によって生まれた時間で、もう一度その人が本当にやりたかった仕事に戻れること。
埋もれていた魅力が、ちゃんと必要な人へ届くこと。
現場で働く人の心に、少しでも余白が戻ること。

芦刈さんは、こう語る。

「デジタルを導入することで時間を作って、その空いた時間で、その人たちの魅力をもっと発信できるようになると思うんです」

効率化の先に、人の余白がある。
人の余白の先に、その人の本当の仕事がある。

父の事業失敗。
揺れた家庭。
非行に向かった青春。
音楽に救われた日々。
夢を現実に合わせて手放し、大阪で技術の道へ進んだこと。
フィリピンで自分の本音と向き合ったこと。
大分に戻り、家族を守るために一度夢をしまったこと。
安定した日々の中で、もう一度「このままでいいのか」と問い直したこと。

そのすべてが、いまの仕事につながっている。

これは、技術で人の時間と心の余白を取り戻そうとする、一人のエンジニアの物語である。

第1章|「人に迷惑をかけることは、しない」——揺れる家庭で育った一本の芯

芦刈さんは、大分で生まれ育った。
男4人兄弟の3番目。
父は事業をしていた。

家庭はずっと穏やかだったわけではない。

父の事業がうまくいかなくなり、家の空気は少しずつ変わっていった。
それまで当たり前だった日常が、当たり前ではなくなる。

親の表情。
暮らしの変化。
言葉にならない不安。

中学、高校へ進むにつれ、芦刈さんは非行の道にも足を踏み入れていった。
周りにそういう友人が増えたこともあった。
家庭の中にあったもどかしさを、自分ではどうにもできなかった時期もあった。

だが芦刈さんの中に、完全には崩れない芯があった。
「人に迷惑がかかることはやりませんでした」

その根っこには、小学校5年生、6年生のときの担任の先生との出会いがある。

「本当に真っ直ぐな方で、何かあった時に真剣にぶつかってきてくれる先生でした」

ただ叱る人ではなかった。
正しさを押しつける人でもなかった。
芦刈さんに本気で向き合い、逃げずにぶつかってくれた。

子どもは、大人の言葉より、大人の本気を覚えている。
その人が本当に自分を見てくれていたか。
逃げずに向き合ってくれたか。
その記憶は、時間が経っても身体の奥に残る。

芦刈さんの中には、その先生との出会いによって、一本の線が残った。

「やっちゃいけないこと、人に迷惑をかけることはダメだなと思っていました」

非行に走った時期があっても、越えない線があった。
自分の中で正当化して、良くないことをしてしまう部分はあった。
人に迷惑をかけること、人が嫌がることはしない。
そこだけは守っていた。
母は、家族を支えるために働いていた。
困っている人に手を差し伸べる人だった。

芦刈さんが母から学んだものは、優しさだった。

「母から学んだことは、人に優しくするということです」

自分も大変なはずなのに、誰かを気にかける。
困っている人を見れば、できることをしようとする。

父からは、商売を教えてもらった。
母からは、人への優しさを受け取った。
先生からは、人として越えてはいけない線を教わった。

この三つが、芦刈さんの土台になっている。

だから彼は、困っている人を放っておけない。
小規模事業者の現場に目を向ける。
ITに強い人だけが便利になる世界ではなく、ITが苦手な人にも届く技術をつくろうとする。

芦刈さんの技術は、机の上の合理性から始まったものではない。
苦しさを感じた人間の、優しさから始まっている。

第2章|ロックでしか言えなかったこと——自由を求めた青春と、自分を表現する力

中学時代にはバンドを始めた。
担当はギターボーカル。
音楽にのめり込んでいった。

家庭のこと。
学校のこと。
社会の窮屈さ。
言葉にできない感情。

それらを、音に変えて外へ出していた。

「すっごく楽しかったです。バンドは」

その一言から、当時の芦刈さんにとって音楽がどれほど大切な場所だったのかが伝わってくる。

音楽は、逃げ場であり、表現でもあった。
社会的に許される形で、自分の中の鬱屈を吐き出せる場所だった。
誰かに決められた正解よりも、自分の音で立てる場所だった。

進学では、もともと高専を目指していた。
自由な校風に惹かれていた。
バイク通学ができる。
服装も自由。
自分のこだわりを押し殺さなくていい場所に見えた。

高専には届かず、県立の工業高校へ進む。
その学校は、芦刈さんにとってかなり厳しい環境だった。

自由を求めていた少年にとって、規則の多い学校は息苦しかった。
部活には入らず、すぐにアルバイトを始めた。

そこで見たのが、万引きだった。

お店は必死に商売をしている。
その中で、平気で物を盗む人がいる。
捕まえることはできなかった。
芦刈さんの中には強い違和感が残った。

「お店の人もギリギリの状態でやってる中で、そういうことをやっちゃダメだよなって、本当にすごく感じました」

自分の中で、絶対に越えない線を引く。

高校時代、芦刈さんの中心にあったのは、学校生活よりもアルバイトとバンドだった。
楽器を買う。
機材をそろえる。
スタジオを借りる。
ライブをする。

学校の机に向かって勉強した記憶は、ほとんどないという。
高校時代に何を勉強したのか、思い出せないとも話していた。
それくらい、心は音楽と仲間に向いていた。

単位はギリギリだった。
周りが自動車学校へ通う時期に、芦刈さんは学校の工場で旋盤作業をしていた。
なんとか卒業した。

まっすぐな優等生ではない。
遠回りの多い青春だった。

その時代に、芦刈さんは大切なものを身につけていった。

自分で動くこと。
自分の感情を表現すること。
縛られた場所に違和感を持つこと。
人に迷惑をかけることだけはしないという線を守ること。

今の芦刈さんが「楽しく生きたい」と語る背景には、この青春がある。

「しんどいことや辛いことって、いろいろあると思うんですけれども、可能な限り楽しく生きたいなと思っています」

楽しく生きる。

芦刈さんの「楽しさ」は、自分の人生を、自分の手に取り戻すことでもあった。

第3章|夢を手放した先に、技術があった——大阪で始まったもう一つの表現

高校卒業後、芦刈さんは大阪へ向かった。

ギターを作る学校に通うためだった。
夢は、楽器屋で働くこと。
楽器の修理技術を身につけ、音楽のそばで生きていくことだった。

バンドを続けながら、楽器屋で働く。
空いた時間で音楽をする。
それが、当時の理想だった。

実際にその道を進もうとしたとき、自分が描いていた未来と目の前の現実の間に、大きな差があることを知る。

「本当は、バンドをやりながら、楽器屋さんで働いて、楽器の修理も覚えて、空いた時間でまたバンドをやるような生活ができたらいいなと思っていました。音楽の近くにいながら働いて、自分の好きなことも続けていく。でも、実際に働くことを考えた時に、楽器屋さんの給料では生活していくのが難しいと分かったんです。好きなことだけでは続けられない現実があって、そこで楽器屋さんで働く夢は諦めました」

その夢は、形を変えて残った。

バンド活動の中で、パソコン上で作曲するソフトを触っていた。
その経験があったから、パソコン操作にはある程度自信があった。

音楽が、技術の入り口になった。

23歳の頃、芦刈さんはネット監視の仕事を始める。
SNS上の危険な投稿や不適切な投稿を確認する仕事だった。
自分を傷つけるような投稿があれば、必要な先へつなぐ。
不適切な投稿があれば、削除する。

その後、25歳のときにWeb制作の世界へ進む。
監視する側から、作る側へ行きたいと思った。

独学で勉強し、大阪の制作会社を受け続けた。
厳しい言葉も浴びた。

「お前の技術じゃ、全然使い物にならん」

心が折れそうになるほどだった。
芦刈さんは止まらなかった。
未経験でも受け入れてくれる会社を見つけ、Web制作の現場に入った。

そこから、制作とプログラミングのスキルを磨いていく。

振り返ると、ここにも一本の線がある。

ギターを作ること。
音楽を作ること。
Webサイトを作ること。
システムを作ること。

扱うものは変わっても、芦刈さんはずっと「作る人」だった。
そして、作ったものを誰かに届けたい人だった。

音楽の道は、現実に合わせて形を変えた。
表現する力は消えなかった。
その力は、技術になった。

夢を手放した先で、芦刈さんはもう一つの表現を手にした。
それが、エンジニアとしての道だった。

第4章|「本当にやりたいことは何だろう」——フィリピンで見つけた、大分へ戻る理由

28歳の頃、芦刈さんに大きな転機が訪れる。

勤めていた会社が、フィリピンに支社を立ち上げることになった。
当初は別の人が行く予定だった。
その話が流れ、芦刈さんに声がかかった。

正直、あまり行きたくなかったという。

友達がいた。
少しだけバンドも続けていた。
英語も得意ではなかった。
慣れた場所を離れる不安もあった。

周囲は背中を押してくれた。

「そんな体験、めったにできないから行ってみたら?」

芦刈さんは、フィリピンへ向かった。

現地での仕事は、IT留学の講師だった。
語学留学と一緒にITを学ぶプログラムで、日本人の受講生にITを教える。
実際の環境は厳しかった。

英語でのコミュニケーションは簡単ではない。
周りはフィリピンの人たちばかり。
最終的には、芦刈さんひとりで多くの役割を担うことになった。

平日は授業。
課題を出し、チェックする。
土日は新しい課題を作り、教科書をブラッシュアップする。

フィリピンにいたのに、あまり遊びに行った記憶はない。
休んだ記憶も少ない。

「すっごく大変でした」

だが、その時間で楽しいこともあった。
現地の友人もできた。
家に遊びに行き、音楽でつながることもあった。
言葉が完璧に通じなくても、ギターを持てば人とつながれる。

異国の地にいたからこそ、内側の問いが大きくなっていった。

「自分が本当にやりたいことって何だろうなって、ずっと考えていました」

このままフィリピンで働くのか。
この仕事を続けることが、自分の本当にやりたいことなのか。

問い続けた先に、メディアを作るという思いが浮かんだ。
面白い情報を発信するWebメディア。
本当に魅力的なものを、「本当にいいものだよ」と届ける場所。

最初に浮かんだのが、地元の大分だった。

当時、地元の大分がものすごく好きだったわけではないという。
ただ、10年以上離れてみて、気づいた。
大分は、いいところだ。

大分には、面白い情報や役立つ情報をしっかり発信する大きなメディアがなかった。
ならば、自分が作りたい。
地元の魅力を、自分の技術で届けたい。

芦刈さんは、大分へ戻ることを決める。

大分に戻り、フリーランスとして働き始めた。
目的は、大分の魅力を発信するメディアを作ること。
映画が好きだったこともあり、映画レビューサイトも作った。
自分の手でメディアを立ち上げ、届ける経験を積んでいった。

やがて結婚し、子どもが生まれる。
日々の優先順位は変わっていった。

会社員としての仕事。
個人事業の仕事。
家族との時間。

全部を抱えたとき、メディア運営を続けることは難しくなった。

「生活する、家族を守るっていうところを取って、メディアを運営するのも諦めました」

その後、芦刈さんは会社員として働きながら、個人事業も続けた。
周りから見れば、十分に安定した状態だった。

心の奥で問いは消えなかった。

「あれ?このままでいいんだっけ?」

安定している。
本当にやりたいことからは離れている。
日々は回っている。
大分に戻ってきた理由は、どこかに置き去りになっている。

人生は、安定すれば終わりではない。
安定した後に、本音が顔を出すことがある。

芦刈さんの中で、もう一度、火が灯り始めていた。

第5章|ありがとうが返ってくる仕組みをつくる——人の時間と心の余白を取り戻すために

会社員として働き、個人事業も続け、家族を守る。
芦刈さんは、その生活を続けていた。

忙しかった。
子育てと家族の時間以外は、ほとんど仕事に使っていたという。

友達と飲みに行くことも少ない。
ゲーム機を買っても、遊ぶ時間がない。
バンドをやりたいと思っても、時間が取れない。

そして、また問いが戻ってきた。

「何で俺はこれをやってきたんだろう?」

芦刈さんが大分に戻ったのは、地元の魅力を発信したかったからだった。
自分で何かを作りたかったからだった。
良いものを、良いものとして届けたかったからだった。

その原点に、もう一度戻りたい。

子どもが小学生になり、少しずつ手が離れてきた頃、芦刈さんは妻に話した。

「前にも話したと思うけど、やっぱり俺、これをやりたい。大分の魅力を届けることも、困っている事業者さんの力になることも、ずっと心の中に残ってる。このまま終わったら後悔すると思う。だから、会社を作って挑戦したい」 

妻は、家族の現実を見たうえで背中を押してくれた。
芦刈さんには、自信もあった。
やらなければいけないという使命感もあった。

こうして、株式会社NewBeginningsを立ち上げた。

いま芦刈さんが向き合っているのは、大分の小規模事業者だ。

紙で管理している業務。
Excelでなんとか回している作業。
人の記憶に頼った情報共有。
毎日当たり前のように発生している、時間を奪っている仕事。

芦刈さんは、そこに技術を持っていく。

「紙やExcelだと共有も難しいですし、紙に書く作業も手間がかかります。専用のアプリを作ったり、スプレッドシートを使ったり、自動化することで、時間をもっと作ることができるんです」

芦刈さんが本当に見ているのは、その先だ。

作業が楽になる。
時間が生まれる。
その時間で、本業に力を使えるようになる。
自分たちの魅力を発信できるようになる。
良い商品やサービスが、ちゃんと人に届くようになる。

「一番の願いは、本当に魅力的なものを魅力的であると、一緒に共有するお手伝いをしていきたいということです」

この言葉が、芦刈さんの仕事の芯だ。

だから、彼は大分県内のDX支援にこだわる。
自分が足を運べる範囲に限定する。
現場に行き、話を聞く。
パソコン操作に困っていれば、そこから手伝う。
難しい言葉を使わずに、実感できる形で伝える。

それは、技術を売るというより、人のそばに技術を置く仕事だ。

芦刈さんはAIチャットボットの開発にも力を入れている。
問い合わせ対応をAIで補助し、必要な時には人につなぐ。
観光地や店舗が、言葉の壁を越えてお客様とつながれる仕組みも作っている。

彼が作りたい未来は、もっと温かい。

大分県内の店舗を応援する「推し活アプリ」。
それは、良いことだけを書ける場所だという。

SNSやレビューサイトには、時に心ない言葉が並ぶ。
店舗の人が傷つくような言葉。
悪意のある評価。
読んだ人の気持ちが沈む投稿。

芦刈さんは、そういう場所とは違うものを作りたい。

悪口ではなく、「ここが好き」を集める場所。
店舗の人が見て、嬉しくなる場所。
使う人が見て、「ここに行ってみたい」と思える場所。

「みんなで推し活できるようなものになればいいなと思っています」

では、芦刈さんにとってのIKIGAIとは何なのか。

その答えは、とてもシンプルだった。

「誰かに『ありがとう』って言ってもらえることが、IKIGAIだなと思っています」

どんな細かいことでもいい。
誰かの助けになることをする。
そして、「ありがとう」と言ってもらえる。

その瞬間に、自分が生きている意味を感じる。

技術は、人を置き換えるためではない。
人が、自分の仕事と人生を取り戻すためにある。

芦刈庸介さんは、大分の現場から、そのことを証明し続けている。

あとがき

芦刈庸介さんの話を聞きながら、私は何度も自分自身に問いかけていた。

自分は、何のために技術を使っているのだろうか。

AIが進化している。
Webサイトも、文章も、画像も、仕組みも、どんどん簡単につくれるようになっている。

便利な時代だ。

だけど、その便利さの中で忘れてはいけないものがある。

その技術の先に、誰がいるのか。

良い商品を持っているのに、発信できずに埋もれている人がいる。
心ないレビューに傷つきながら、それでも次の日も店を開ける人がいる。

芦刈さんは、そういう人たちのそばへ技術を持っていこうとしている。

私は、そこに温度を感じた。

DXという言葉は、ときに冷たく聞こえる。
AIという言葉も、ときに人を不安にさせる。

芦刈さんの語る技術は、冷たくなかった。

それは、人の時間を取り戻すためのものだった。
人が本業に集中するためのものだった。
誰かの魅力が、ちゃんと誰かに届くためのものだった。

そして何より、「ありがとう」と言ってもらえることをIKIGAIだと言える人の技術だった。

IKIGAIは、目の前の人が少し楽になること。
困っていた人が、ふっと笑うこと。
「助かりました」と言ってくれること。

その小さな瞬間の積み重ねが、人の人生を前へ進めることがある。

あなたにとっての仕事は、誰の時間を取り戻しているだろうか。
あなたの技術は、誰の心に余白を生んでいるだろうか。
あなたは、どんな「ありがとう」のために、今日を生きているだろうか。

芦刈さんの物語は、その問いを残してくれた。

技術は、人を置き換えるためではない。
人が、人らしく働き、人らしく生きる時間を取り戻すためにある。

その信念を持った一人のエンジニアが、大分から未来をつくり始めている。

IKIGAIコネクター
尾﨑弘師

株式会社NewBeginningsウェブサイト

 

他の記事を見る