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田村 浩介 株式会社いきがいクリエーション
田村 浩介 株式会社いきがいクリエーション
死の淵を越え、最期までいきがいを灯す人
沖縄県沖縄市
死ぬ時に、捨てたもんじゃないと思える人生を——母の死、経営の崩壊、そして最期の居場所をつくるまで
あなたは、死ぬ時に「自分の人生は捨てたもんじゃなかった」と思えるだろうか。
人生は、思い通りには進まない。
大切な人を失うことがある。
誰かの役に立ちたいと願いながら、自分自身が壊れてしまうこともある。
病気になっても、障がいを負っても、心が折れても、人生の最期が近づいても、なお「いきがいがあった」と思える瞬間を持つことはできるのだろうか。
株式会社いきがいクリエーション代表取締役・田村浩介。
作業療法士、介護支援専門員として、沖縄県沖縄市を拠点に、介護、福祉、医療、地域づくりを横断した事業を展開している。
同社が掲げる理念は、「いきがいと共に歩む」。
そこには、生きがい、居きがい、行きがい、活きがい、そして逝きがいという五つの「いきがい」がある。
自分らしい人生を歩むこと。
穏やかに過ごせる居場所があること。
参加してよかったと思えること。
笑顔で活動できる環境があること。
そして、望む人生の最期を迎えること。
田村さんが見つめているのは、単なる介護サービスではない。
人が、自分の人生を最後まで生き切ること。
たとえ病気になっても、障がいを抱えても、役割を失ったように感じても、もう一度「自分はここにいていい」と思えること。
そして、人生の終わりに向かう時間の中でさえ、誰かとつながり、誰かに支えられ、誰かを支えながら生きられること。
田村さんは、そんな時間と居場所を、地域の中につくろうとしている。
その思想の奥には、田村さん自身の痛みがある。
母の死。
厳しかった父の言葉。
人の役に立ちたいという願い。
作業療法士として出会った、ある高齢男性の車椅子マラソン。
そして、自ら命を絶とうとするほど追い詰められた経営者としての挫折。
田村さんは、最初から真実にたどり着いた人ではない。
むしろ、何度も迷い、背負いすぎ、壊れた人だった。
だからこそ見えたものがあった。
これは、母を失い、自分自身も一度死の淵に立った男が、挫折の先で真実に気づき、誰かの人生の最期に希望を灯そうとしている物語である。
第1章|「死ぬ時に、捨てたもんじゃないと思えるように」——厳しい父と病の母が残した原点
田村さんは、父のことを「だいぶ厳しい父親でした」と振り返る。
長男として生まれた。
父からは厳しく育てられた。
「簡単に言うと、ぶん殴られながら育てられたんです」
田村さんは、今なら父のことを少し違う角度から見つめられるという。
「父も、愛情がなかったわけではないんです。ただ、父自身も父親がいない環境で育っていたので、表現の仕方が分からなかったのかもしれません。本人も、表現の仕方を間違えていたと言っていたことがありました」
厳しさの奥に、愛がなかったわけではない。
ただ、その愛をどう渡せばいいのか、父もまた分からずにいた。
田村さんは、そう受け止めている。
父の厳しさの中で、田村さんの中には「頑張らなければいけない」という感覚が育っていった。
親に褒められたい。
期待に応えたい。
できる自分でいなければならない。
そんな少年時代の途中で、家族の日常が大きく変わる。
田村さんが小学校5年生、11歳の頃。
母ががんを患った。
それまで、家にいるのが当たり前だった母が、ある日を境に家を空けるようになった。
入院と退院を繰り返し、田村さんは病院へ通う日々を過ごすようになる。
父は、それまで母が担っていた家事を急に始めた。
食卓の風景が変わる。
家の中の空気が変わる。
当たり前だった日常が、少しずつ足元から揺らいでいく。
幼い田村さんにとって、それは「家族のかたち」が変わっていく時間だった。
母を看病すること。
家族の変化を受け入れること。
病気という現実に向き合うこと。
その中で、田村さんは自分の心の中にあった、きれいごとだけではない感情も語ってくれた。
「母親の看病をしていることについて、周りからよく思われるんじゃないかな、みたいな気持ちもあったんです」
人の役に立ちたい。
母を支えたい。
でもその一方で、人からどう見られるかを気にしている自分もいた。
美しい献身だけではない。
期待に応えたい。
良く見られたい。
認められたい。
そんな人間らしい感情も抱えながら、少年は病気の母のそばにいた。
そして、高校生になった田村さんは、母との別れを迎える。
その喪失は、田村さんの人生に深く残った。
同時に、父の姿もまた、時間をかけて見え方が変わっていった。
母が病気になった後、父は弁当を作り、家事をした。
子どもたちに苦しさを見せないようにしながら、酒を飲み、何とか自分を保っていた。
決して器用な人ではなかった。
でも家族を守ろうとしていた。
田村さんは言う。
「過去のことは、良く言うこともできるし、悪く言うこともできる。でも、いろんな過去の経験が今の自分を作っていると思うと、総合的には感謝なんです」
父の厳しさも。
母の病気も。
家庭の揺らぎも。
言葉にならない孤独も。
それらをすべて、美化する必要はない。
切り捨てることもできない。
だが、そのすべてが今の田村さんをつくっている。
父が残した言葉がある。
「人っていうのは、死ぬために生きているんだよ」
「死ぬ時に、自分の人生を振り返って、自分の人生は捨てたもんじゃないな、良かったなと思えるように頑張りなさい」
この言葉は、田村さんの中に残り続けた。
第2章|「少ない方へ行こう」——母の死のあと、作業療法士という道に流れ着いた
母が亡くなったのは、高校2年生から3年生にかけての春休みだった。
田村さんの心は、そこから少しやさぐれていく。
「人生どうでもいいや、じゃないけど、別にいいやみたいな感じになって、勉強も余計にしなくなりました」
それでも、田村さんの中には、どこかで「医療の仕事に就くのだろう」という感覚があった。
母の病気を見てきたこと。
病院という場所に触れてきたこと。
人の命や体に関わる世界が、遠いものではなくなっていたこと。
医者になろうと思った時期もあった。
でも勉強をしていたわけではない。
自分がそこへ進める現実感もなかった。
そんな時、友人が調べてくれた仕事があった。
作業療法士。
理学療法士と作業療法士がある。
そのうち、作業療法士の方が人数が少ない。
田村さんは、その「少ない方」に惹かれた。
「もともと、人と変わったことをやるのが好きなタイプで。大勢の方に行かない癖があったんです」
変わっていると言われる方へ行く。
人と同じ道よりも、少し違う道に心が向く。
作業療法士という選択も、田村さんにとっては、どこかその延長にあった。
そこから、田村さんは作業療法士の専門学校へ進む。
最初から明確な使命があったわけではない。
母の死があり、医療への関心があり、人の役に立ちたいという思いがあり、そして「少ない方へ行く」という自分らしい選び方があった。
学びながらも、まだ自分の人生を大きく変える何かに出会っていたわけではない。
作業療法士という仕事の本当の深さも、自分が将来何をつくりたいのかも、まだはっきりと言葉にはなっていなかった。
そんな田村さんに、ひとつの転機が訪れる。
専門学校の実習先として、沖縄へ行くことになったのだ。
そこで、その後の人生を大きく変える出会いがある。
沖縄で出会った実習指導者は、作業療法士でありながら、医師を雇って病院を経営している人だった。
田村さんは衝撃を受けた。
作業療法士が、医師を雇って病院を経営している。
そんな働き方があるのか。
そんな未来のつくり方があるのか。
その先生は、田村さんに声をかけた。
「田村、お前はセンスがいい。経営も勉強しながら、自分でやりたいことをやってみな」
そして、実習が終わる頃には「うちで働かないか」と誘ってくれた。
田村さんは、沖縄へ行くことを決める。
父に伝えると、「5年間だけは行ってきていい」と言われた。
本当は戻ってきてほしい気持ちもあったのかもしれない。
そこで見た先輩の背中は、まぶしかった。
「こんなふうに働いている人がいるのか、かっこいいと思ったんです」
その人は、目の前の患者さんだけを見ているわけではなかった。
その先にもっと広い未来を見ていた。
こんなものが世の中にあったら、もっと困っている人を救える。
学校をつくる。
仕組みをつくる。
ないものをつくる。
世の中は変えられる。
田村さんは、その姿に惹かれていく。
「お金とかではなく、社会のために役に立てる。こういう理想があったら嬉しいよね、というものを自分で作ってしまう。その姿に惚れたんだと思います」
それは、田村さんにとって初めて見た「IKIGAIのある大人」の背中だったのかもしれない。
父の期待に応えるために頑張る人生。
母の死をきっかけに医療へ向かった人生。
人と違う方を選んできた人生。
その先で田村さんは、ただ働くだけではなく、理想を描き、それを形にしていく大人と出会った。
ここから、作業療法士としての田村さんの視点は、少しずつ深まっていく。
第3章|「走っている姿は、昔のお父さんと同じだった」——人が自分を取り戻す瞬間
沖縄で働き始めた田村さんは、作業療法士として現場に立ちながら、学校の教員としても働くようになる。
病院の現場で患者さんと向き合う。
同時に、学校で学生たちに教える。
現場で得た新しい情報を、教育の場へ持ち帰る。
忙しい日々だった。
だが、その中で田村さんは、リハビリテーションとは何かを自分の中で問い続けていく。
学校で学ぶリハビリは、病気や障がいを見る。
この病気なら、どんな障がいが起きるのか。
どうすれば機能を回復できるのか。
どんな環境を整えれば生活できるのか。
それは大切な知識だ。
必要な専門性でもある。
田村さんは、目の前にいる人を見ながら、もっと別の問いを抱いていた。
この人は、本当は何がしたいのだろう。
この人にとって、大切なものは何なのだろう。
この人の人生の中で、もう一度取り戻したいものは何なのだろう。
病気を見るだけでは、たどり着けない場所がある。
障がいを見るだけでは、聞こえてこない願いがある。
その人の価値観に触れなければ、本当に求めているものには届かないのではないか。
その問いを、決定的に深めた出会いがある。
脳卒中で麻痺が残った高齢男性だった。
その人は、一生懸命リハビリに取り組んでいた。
歩く練習をする。
筋力トレーニングをする。
マシンを使う。
毎日、真剣に取り組んでいた。
田村さんが「どうしたいですか」と聞くと、その人は言った。
「歩けるようになりたい」
田村さんは、当然のように一緒に歩く練習を始めた。
麻痺がある。
もう一度歩きたい。
ならば歩く練習をする。
けれど、リハビリを続けるうちに、田村さんの中に問いが生まれる。
このまま、この人はずっと平行棒の中を歩く練習を続けていくのだろうか。
それで本当に幸せなのだろうか。
死ぬ時に、後悔しないだろうか。
「平行棒の中を往復できるようになっても、それって本当に幸せなのかと思ったんです」
田村さんの中には、父から受け取った死生観が、どこかで息づいていたのかもしれない。
だったら、この人にとっての「良かったな」は何なのか。
歩けるようになることなのか。
それとも、歩けるようになった先にある何かなのか。
田村さんは、その人の人生を聞き始めた。
役所で働いていたこと。
少年の育成に関わっていたこと。
釣りが好きだったこと。
趣味が多彩だったこと。
家族思いの父親だったこと。
本人だけでなく、家族にも話を聞いた。
そうして見えてきたものがあった。
その人は、那覇マラソンに第1回大会からずっと参加していた。
病気になってから、出られなくなっていた。
だから、もう一度マラソンに出るために、走れるようになりたかった。
歩きたい理由は、歩くことそのものではなかった。
もう一度、マラソンのスタートラインに立ちたかったのだ。
自分が大切にしてきた人生の一部を、もう一度取り戻したかったのだ。
田村さんは、マラソンの事務局に問い合わせた。
車椅子で那覇マラソンに出られないか。
答えは難しかった。
それでも探した。
そして、車椅子マラソン大会を見つけた。
チラシをその人に渡した瞬間、目の色が変わった。
「レースに出る」
そこからリハビリは変わった。
歩く練習をしていた人が、もう一度、車椅子を漕ぐ練習を始めた。
リハビリテーションの流れで言えば、逆戻りのようにも見える。
車椅子から歩行へ向かうはずの人が、もう一度車椅子に向かう。
「リハビリテーションとしては逆戻りなんです。でも、その人の生きる意味にフォーカスしたら、方法は無限にあると思ったんです」
片手片足でどう漕ぐか。
腹筋をどう鍛えるか。
どこで練習するか。
外を走り、広い駐車場を借り、共に試行錯誤した。
大会当日。
スタッフも集まり、家族も集まった。
伴走には娘さんが出ることになった。
出発前、奥さんが田村さんに話しかけた。
「那覇マラソンの日の朝は、必ずうどんを食べていたんです。今日も、うどんを食べてきました」
その一言に、どれほどの時間が詰まっていただろう。
マラソンへ向かう父の姿。
家族の記憶。
もう戻らないと思っていた日々。
それが、その朝、戻ってきた。
レースが始まる。
その人は、”あの時と同じ”表情で車椅子を漕いだ。
次々に前へ進んでいく。
途中、車椅子の前輪が段差に引っかかり、動けなくなった。
その瞬間、その人は伴走する娘さんに向かって、大きな声で叫んだ。
「早く押せ」
それは、支援される人の声ではなかった。
真剣勝負の中にいる、一人のランナーの声だった。
そして、ゴールテープを切る。
周りにいた人たちは泣いた。
田村さんも、その場にいた人たちも、涙しながら喜んだ。
その時、奥さんが田村さんに言った。
「走っている姿は、昔のお父さんと同じだった」
身体が完全に治ったわけではない。
麻痺が消えたわけでもない。
病気がなかったことになったわけでもない。
だが、その人は自分を取り戻していた。
田村さんは一つの答えに辿り着いた。
人は、治ることでだけ救われるのではない。
自分の人生を取り戻した時、もう一度生き始める。
そして、その姿は周りの人まで元気にする。
この経験が、田村さんの作業療法士としての思想を決定づけていく。
田村さんにとってリハビリとは、機能回復だけではなくなった。
それは、人が「自分はここにいていい」と思える瞬間を共につくる仕事になった。
第4章|「いきがいと言いながら、自分本位になっていた」——拡大の果てに、死の淵へ落ちた経営者
やがて田村さんは独立する。
掲げた言葉は、「障がいをいきがいへ」。
障がいを持っても、病気を抱えても、その人らしく生きることはできる。
もう一度、自分の人生に意味を見出すことはできる。
誰かの中に眠っている「生きたかい」を、地域の中で取り戻せる場所をつくりたい。
田村さんは、その思いを形にしようとした。
学校の教員をしていたこともあり、地域や医療福祉関係者とのつながりはあった。
声をかけられる。
「あれもやりませんか」
「これもやりませんか」
そんなふうに話が広がっていく。
事業所は少しずつ増えていった。
最初は、理想だった。
目の前の人のために。
地域のために。
困っている人のために。
病気や障がいがあっても、いきがいを持って暮らせる社会のために。
その思いに、嘘はなかった。
けれど、事業が広がるほど、田村さんの中で少しずつ別の感情も膨らんでいった。
先輩経営者に近づきたい。
追い越したい。
良く見せたい。
頑張らなきゃ。
語らなきゃ。
乗り越えなきゃ。
断ってはいけない。
人とは違うことをしたいという自分の性格もあった。
期待に応えたい自分もいた。
父から受け継いだ「守らなければならない」という感覚も、どこかにあった。
田村さんは、行政の仕事も、お金にならない仕事も、全部引き受けた。
経営者として、事業を回さなければならない。
雇用を守らなければならない。
売上も必要だ。
でも、理念もある。
思いもある。
そのバランスが、少しずつ崩れていった。
「いきがいって言っているのに、だんだん自分本位になっていったんですよね」
その言葉は、田村さん自身の胸の奥から絞り出されたように聞こえた。
忙しくなった。
気づけば、会社にいる時間はほとんどなくなっていた。
現場で働くスタッフたちが、日々どんな思いで利用者さんと向き合っているのか。
何に悩み、何に疲れ、何を大切にしながら働いているのか。
本当は一番近くで見なければならなかったものが、少しずつ見えなくなっていった。
田村さんは、理念を語っていた。
「いきがい」を大切にすると言っていた。
だが、その理念を一緒に背負ってくれているスタッフの声が、少しずつ聞こえなくなっていた。
スタッフとの心の距離が離れていく。
会社の足元が見えなくなる。
家庭でも、子どもに十分向き合えない。
守りたいものは増えていくのに、守れている実感はどんどん失われていった。
その一方で、経営は厳しくなっていく。
収入は下がる。
事業は苦しくなる。
自分が動かなければ、会社が止まってしまう。
自分が頑張らなければ、スタッフを守れない。
自分が倒れるわけにはいかない。
そう思えば思うほど、誰にも助けを求められなくなっていった。
本当は、周りに人はいた。
妻も、スタッフも、仲間も。
しかし、追い詰められた田村さんには、その手が見えなくなっていた。
「守るべきものがいっぱいあるのに、全部うまくいかない。守ってくれる人も誰もいなくなった感覚がして、もう生きていられないと思ったんです」
人を支える仕事をしていた人が、自分の苦しさを誰にも差し出せなくなっていた。
「助けて」と言えばよかったのかもしれない。
でも、その時の田村さんには、それができなかった。
申し訳なさ。
孤独。
責任。
焦り。
そして、すべてを自分で背負わなければならないという思い込み。
それらが重なり、田村さんは自ら命を絶とうとするところまで追い詰められていく。
首を吊った。
家族が止めてくれた。
命は、そこでつながった。
その後、田村さんは精神科病院に入院する。
作業療法士である田村さんが、今度は支援を受ける側として、その場所に身を置くことになった。
そこには、作業療法士がたくさん働いていた。
「作業療法を受けますか」
そう聞かれても、田村さんは断ったという。
顔見知りの人もいる。
かつて同じ職種だった人がいる。
自分が支援する側として立ってきた世界の中で、今度は自分が支援される側にいる。
その現実を、すぐには受け入れられなかったのかもしれない。
入院生活は、とても暇だった。
何もできない。
動けない。
外へ出て、誰かに会い、何かを動かしてきた日々とはまるで違う時間が流れていた。
自分が鬱になるなんて思っていなかった。
自分は支える側だと思っていた。
人の人生を支える仕事をしていると思っていた。
でも、その時の田村さんは、支えられる側にいた。
何もできない時間の中で、少しずつ心が戻ってくる。
最初から劇的に回復したわけではない。
何か大きな答えが降ってきたわけでもない。
ただ、少しずつ、ご飯が食べられるようになった。
大盛りのご飯を出してもらえることを、ありがたいと思えるようになった。
周りに入院している人たちに、少し声をかけられるようになった。
ほんの小さな変化だった。
けれど、その小さな変化の中に、命が戻っていく感覚があった。
命があれば、心は少しずつ戻ってくる。
そして退院した後、田村さんの経営に対する考え方は180度変わった。
それまでは、数字を上げること。
事業を広げること。
もっとやること。
もっと動くこと。
もっと結果を出すこと。
そうしたものに追われていた。
でも、本当に大切なのは一緒に働いてくれるスタッフだった。
辞めた人もいた。
でも、残ってくれた人もいた。
妻を筆頭に、会社を守ってくれていた人たちがいた。
自分がいなくても、会社を支えてくれていた人たちがいた。
自分が見えていなかった場所で、踏ん張ってくれていた人たちがいた。
田村さんは、やっと気づく。
支えていたつもりの自分が、支えられていた。
理念を語っていた自分が、その理念を足元で生きられていなかった。
スタッフのいきがいを大切にすると言いながら、本当の意味ではスタッフの顔が見えていなかった。
挫折は、田村さんを終わらせなかった。
むしろ、真実へ戻す入口になった。
うまくいっていた時には見えなかったことがある。
拡大していた時には聞こえなかった声がある。
強くあろうとしていた時には、受け取れなかった優しさがある。
壊れたからこそ、見えた支えがあった。
止まったからこそ、聞こえた声があった。
支えられる側になったからこそ、支えるという仕事の本当の意味が見えてきた。
田村さんが本当の意味で「いきがいと共に歩む」経営へ向かい始めたのは、この挫折の後だった。
誰かを支える仕事をしていた人が、自分こそ支えられていたことに気づいた。
そこから、田村さんの本当の福祉が始まっていく。
第5章|「自分の親にできなかったことを、誰かにできている」——逝きがいまで含めたまちづくりへ
現在、田村さんは「いきがいの家」と呼ばれるシェアハウス型ホスピスや、在宅医療、看取り、地域づくりに深く関わっている。
そこでは、人生の最期に近い人たちが暮らしている。
年間で50人ほどを看取るという。
看取りの現場には、
家族の悲しみがある。
後悔がある。
言えなかった言葉がある。
もっとこうしてあげればよかったという思いがある。
それでも、そこには確かに人が人として最期まで生きる時間がある。
田村さんがそこに向き合う理由は、事業として必要だからだけではない。
自分自身の両親への思いがある。
母も父も、病院で亡くなった。
田村さんは、最後に十分な親孝行ができなかったという感覚を抱えてきた。
母は本当に幸せだったのだろうか。
父は生きたかいのある人生だったのだろうか。
もっと返せたことがあったのではないか。
そのもやもやは、長い間、心の奥に残っていた。
そのもやもやは、少しずつ形を変えていく。
看護師、医師、仲間たちと出会い、最期の居場所をつくっていく。
そこにいる人たちが、家族と過ごす。
人と会う。
自分らしい時間を取り戻す。
最後まで、誰かとつながる。
その光景を見ながら、田村さんはこう思えるようになった。
「自分の親にできなかったことを、他の人たちにもしできているなら、親も喜んでくれているんじゃないかと思えるようになったんです」
それは、田村さんなりの親孝行だった。
直接返せなかったものを、別の誰かに手渡していく。
自分の親にしてあげたかったことを、今目の前にいる人へ届けていく。
そうすることで、自分自身も少しずつ洗われていく。
田村さんが今つくっているのは、
人生の最期まで、その人がその人らしくいられる場所である。
田村さんの会社には、五つの「いきがい」がある。
生きがい。
居きがい。
行きがい。
活きがい。
逝きがい。
この五つの言葉には、田村さんの人生そのものが重なっている。
田村さんのIKIGAIは、
病気や障がい、挫折や老いによって人生の役割を失ったように感じている人が、もう一度「自分の人生を生きている」と思える瞬間を、共につくること。
そして、その人が人生の最期を迎える時に、
「自分の人生は捨てたもんじゃなかった」
「生きたかいがあった」
と思えるような時間と居場所を、地域の中に残していくことだ。
病気になっても、障がいを持っても、心が折れても、人生の終わりが近づいても、その人の中にまだ残っている「その人らしさ」を一緒に探し、取り戻していくこと。
支える側だった自分が、一度壊れ、支えられる側になった。
その挫折があったからこそ、本当の意味で「人は一人では生きられない」と知った。
だから今、田村さんは誰かを支えるだけでなく、共に支え合う場所をつくろうとしている。
人は、死ぬために生きている。
けれどそれは、死を待つという意味ではない。
最期の瞬間に「生きたかいがあった」と思えるように、今日を誰かと共に生きるということだ。
どんな状態になっても。
どれだけ人生の景色が変わっても。
人は、もう一度、自分自身を取り戻すことができる。
その人のIKIGAIは、最後まで消えない。
田村さんは、その火を信じている。
そして今日も、誰かの人生の最期に希望を灯している。
あとがき
田村さんの話を聞き終えたあと、私の中にひとつの問いが残った。
人は、本当に大切なものに、いつ気づくのだろうか。
失ってからなのか。
追い詰められてからなのか。
壊れそうになって、初めて立ち止まった時なのか。
田村さんは、母を失い、父の言葉を抱え、自分自身も死の淵に立った。
その挫折があったからこそ、「支える」とは何か、「生きる」とは何か、そして「最期まで自分らしくある」とは何かに、深く触れていった。
人は、強い時には見えないものがある。
走っている時には、聞こえない声がある。
守ろうとしている時ほど、自分が誰かに守られていることを忘れてしまうことがある。
私たちは一人で生きているわけではない。
家族がいる。
支えてくれる人がいる。
何気ない日常の中で、当たり前のように受け取ってしまっている優しさがある。
まだ言葉にできていない感謝がある。
IKIGAIは、決して一人だけの中にあるものではない。
誰かを想い、誰かに支えられ、誰かと笑い、誰かに感謝を伝える。
その何気ないつながりの中に、自分が生きている意味が宿ることがある。
後悔して初めて気づくのが、人間なのかもしれない。
でも、だからこそ、今日気づき直したい。
大切な人を、大切にする。
言葉でも。
行動でも。
今、この瞬間から。
その一つひとつの積み重ねの先に、いつか人生の最期を迎える時、「生きたかいがあった」と言える日が来るのかもしれない。
あなたは、大切な人を大切にできているだろうか。
あなたは、最期に「生きたかいがあった」と思える今日を、生きているだろうか。
あなたは、何を残したいだろうか。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師









