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遠回りのすべてが、誰かを喜ばせる力になる——二つの夢を手放し、人の心に向き合った男が見つけた豊かさ
やゆよカウンセリングルーム 西本健太郎
遠回りの人生を、誰かを喜ばせる力に変え続ける人
千葉県柏市布
遠回りのすべてが、誰かを喜ばせる力になる——二つの夢を手放し、人の心に向き合った男が見つけた豊かさ
あなたは、大切にしてきた夢が、二度も目の前で崩れたとき、それでも自分の人生を信じ続けられるだろうか。
子どもの頃に描いた未来がある。
カレンダーの裏に、自分だけのロードマップを書いた少年がいた。小学校で優勝し、リトルリーグへ進み、高校、大学、プロ野球、そしてアメリカへ。七歳から野球を始めた少年の夢だった。
そしてもう一つ、心に決めていた夢がある。
社長になること。
プロ野球選手か、社長。
今では、やゆよカウンセリングルーム代表として人の心に向き合いながら、法務のプロとしてもキャリアを築く西本健太郎さん。その幼い頃には、この二つの未来がはっきりと置かれていた。
けれど、人生は思い描いた通りには進まない。
十九歳の冬、西本さんはアメリカへ野球留学に向かった。小さな頃から夢のゴールに置いていた、本場アメリカの野球。だがそこで見たのは、圧倒的な現実だった。自分よりも大きく、強く、速く、才能に満ちた選手たち。その姿を前に、西本さんは静かに悟った。
「これは到底無理だ」
野球の夢に、区切りをつけた。
恩師の言葉を受けて法律の道へ進み、司法試験を目指す。
そこから十二年。
名古屋の法律事務所で秘書から事務局長を務め、東京では建設会社の法務や現場にも携わった。けれど、司法試験には届かなかった。制度変更も重なり、三十三歳でその道を断念する。
野球もダメ。
司法試験もダメ。
「夢が、十二年追っかけてきた夢が、なくなるわけですから。次の夢って、すぐ出てこないんですよ」
それでも西本さんは、終わらなかった。
半分は逃避行。半分はリサーチ。
日本にいても次の人生が見えなかった西本さんは、再びアメリカへ渡った。
カリフォルニアの空の広さ。
ニューヨークの多様性。
日本の物差しでは測れない人間の幅。
その中で、西本さんは少しずつ息を吹き返していく。
法律、建物、不動産、人を見てきた感覚。
バラバラだった経験が、アメリカでつながり始めた。
帰国後は法務のキャリアを積み上げ、外資系企業で法務部長、日系企業では法務室長を経験する。一方で心理カウンセラーの資格を取り、やゆよカウンセリングルーム代表として、人の心にも向き合い続けてきた。
経営に近づこうとする自分。
人の苦しみに寄り添おうとする自分。
一見違う二つの道は、西本さんの中で「豊かさ」という言葉につながっていた。
自分が豊かになることで、家族に、仲間に、周りの人たちに与えられる。
人を喜ばせることができる。
野球に敗れた。
司法試験にも敗れた。
それでも人生を諦めなかった男が、今も社長という夢を追い続けている。
これは、豊かさとは何か、人を喜ばせるとは何かを問い続ける、一人の男の再生の物語である。
第1章|カレンダーの裏に描いた未来——ワンパクな少年が信じた「プロか、社長」の夢
西本さんの幼少期は、静かな少年時代ではなかった。
本人の言葉を借りれば、「ワンパク」だった。喧嘩も多く、やり合うこともあったという。じっとしているよりも、体を動かし、外へ出ていく。そんな子どもだった。
その西本さんが七歳から始めたのが、野球だった。
「小さいときから夢は、プロ野球選手か社長って決めていました」
ただ野球が好きだった。
ただ上手くなりたかった。
「カレンダーの裏に、自分のロードマップを書いていたんです」
小学校でリーグ優勝する。
リトルリーグへ進む。
高校へ行く。
大学へ行く。
プロ野球選手になる。
そして、アメリカで野球をする。
中学ではエースだった。チームの中心に立ち、ボールを握り、試合を背負った。野球は西本さんの生活の中心にあった。
一方で、高校は強豪校ではなかった。そのあたりから、親も少しずつ「プロは怪しくなってきた」と感じ始めていたという。応援してくれていた親からも、野球を続けることに対して厳しい言葉が出るようになった。
それでも、西本さんの中には、まだアメリカが残っていた。
小学生の頃に描いたロードマップの先。
夢のゴールとして置いていた、本場アメリカの野球。
大学一年の冬、十九歳のとき、西本さんは二ヶ月間アメリカへ野球留学に向かう。
日本でプロ野球選手になる道は、すでに厳しくなっていた。だが、まだ体が動くうちに、一度はアメリカの野球を見ておきたかった。自分が幼い頃に夢の終着点として置いていた場所に、実際に立ってみたかった。
十九歳の西本さんは、アメリカへ向かった。
第2章|「これは到底無理だ」——アメリカで終わった野球の夢と、社長への転換
アメリカで見た野球は、西本さんにとって衝撃だった。
本場の選手たちは、大きく、強く、速かった。才能に満ちたプレイヤーたちが当たり前のようにいる。その中で戦って食べていくことが、どれほど大変なことなのかを、西本さんは肌で感じた。
「本場の選手たちを見て、これはもう到底無理だと思いました」
夢を追いかけてきた人間にとって、その言葉を自分で認めることは簡単ではない。
野球は、七歳から続けてきたものだった。
カレンダーの裏に描いた未来だった。
自分の人生の中心にあったものだった。
そこに区切りをつけた。
本気で行動したからこその選択だった。
そのとき、西本さんの中に残っていたもう一つの夢を思い出す。
「もう一つの夢、社長になる夢に走り始めたんです」
西本さんは大学生活の使い方を変えていく。
大学までは片道二時間二十分。往復にすると四時間四十分かかる。その時間で本を読んだ。
経営学。
会計。
法律。
さまざまなジャンルの本。
「電車の中、ただ寝ていてもしょうがないので、その間に本をかなり読みました」
野球をしていた頃の集中力は、別の形で残っていた。
グラウンドで使っていた時間とエネルギーは、今度は学びへ向かっていった。
大学時代、起業する道を考えたこともあったという。仲間と一緒に何かを立ち上げることも考えた。けれど、当時は生活のためにアルバイトを掛け持ちしている仲間も多かった。遊びのサークルは仲間と設立できても、ベンチャーを本気でやるところまでは進まなかった。
「本当は一人でやれば良かったんですけど、それよりも人とやりたいというのが強かったんです」
そして、卒業の時期が近づく。
時代は就職氷河期だった。西本さんが就職を考えていた二〇〇〇年前後は、就職環境が非常に厳しかった。
その姿を見ていた両親は、すぐに就職するよりも、さらに学んでから社会に出る道を勧めた。大学院や会計士の道も考えた。
そのとき、恩師が言った。
「一つ学位を取ったからといって、大したことじゃない。文系で経済や商学を学んだなら、もう一つ上の法律を勉強してみたらどうだ」
西本さんは、その言葉を素直に受け入れた。
社長になるために、法律を学ぶ。
経営と会計に加えて、法律も身につける。
そうして、西本さんは夜間の法律学校に通い始める。
ここから、司法試験への挑戦が始まった。
第3章|あと少し、まだ届かない——司法試験に人生を重ねた日々
法律の道に入った西本さんは、司法試験を目指し始めた。
社長になるために、経営だけではなく法律も学ぶ。
会計を学び、商学を学び、その上で法律まで身につける。
夜間の法律学校に通い、勉強を始めた。
周りが就職して社会に出ていく中で、西本さんはもう一度、机に向かった。
一回で受かるとは思っていなかった。
けれど、努力すれば必ず届くと思っていた。
法律を学ぶこと自体は、自分の夢に近づいている感覚もあった。
社長になるための武器を増やしている。
そう思えた。
だが、勉強だけをしていればよかったわけではない。
生活がある。
家賃がある。
食べていかなければならない。
西本さんは、名古屋の法律事務所で秘書として働き始めた。
弁護士のそばで、法律の現場に触れた。依頼者の相談があり、書類があり、実務がある。机の上の勉強とは違う、生身の法律がそこにはあった。
やがて、秘書から事務局長も任されるようになる。
試験勉強をしながら、現場でも法律に関わる。
資格はまだない。
それでも、少しずつ力はついている感覚があった。
一度目も、二度目も、三度目も、簡単には届かない。
けれど、まったく手応えがないわけではなかった。
良いところまで行った年もあった。
届きそうで、届かない。
夢は、現実の近くにあるように見えた。
挑戦は続いた。
気づけば、司法試験を追いかける時間は、何年も積み重なっていた。
周りは少しずつ人生を進めていく。
結婚する人がいる。
会社の中で役職につく人がいる。
家庭を持つ人がいる。
西本さん自身にも、「合格してから」という感覚があった。
受かってから結婚する。
受かってから人生を進める。
受かってから、次の景色を見る。
しかし、その「受かってから」が、なかなか来なかった。
そして三十三歳の頃、司法試験制度が変わる。
旧司法試験では、学歴に関係なく挑戦できた。
だが新司法試験制度では、ロースクールを卒業しなければならない。西本さんは法学部出身ではなく、商学部出身だった。そこから新たに挑戦するには、三年かかる。
三十三歳からロースクールへ行く。
三十六歳で、もう一度挑戦する。
理屈の上では、その道もあった。
でも、そのとき西本さんは立ち止まった。
ここからさらに三年を使うのか。
それで本当に、自分は前に進めるのか。
何年も何年も「いつかなる」と言い続けるだけにならないか。
西本さんは、その感覚をこう話している。
「“俺はいつかなる”と言いながら、何十年も追い続けているような人になるのは嫌だなと思ったんです」
夢を捨てたかったわけではない。
諦めのいい人間だったわけでもない。
むしろ、諦められなかったからこそ、ここまで来た。
あと少し。
次こそは。
まだいける。
そうやって進み続けた結果、気づけば十二年が経っていた。
そして、西本さんはその道に区切りをつける。
「夢が、十二年追っかけてきた夢が、なくなるわけですから。次の夢って、すぐ出てこないんですよ」
野球の夢に続いて、司法試験の夢も崩れた。
七歳から追いかけた野球。
十九歳で見たアメリカの現実。
そこから切り替えて、人生を重ねた司法試験。
二つ目の夢まで、手の中からこぼれ落ちた。
そのときの感情を、西本さんはこう語る。
「ちょっと軽い鬱っぽいですよね」
元気が出ない。
次の夢が見えない。
人に会うのもしんどい。
日本にいても、次のイメージが出てこない。
それでも、西本さんは完全には止まらなかった。
まだ何かあるはずだった。
このまま終わるわけにはいかなかった。
そのとき、十九歳の頃に行ったアメリカの記憶が残っていた。
あのとき、アメリカは野球の夢を終わらせた場所だった。
同時に、日本とは違う広さを見せてくれた場所でもあった。
もう一度、あの場所へ行く。
半分は逃避行。
半分はリサーチ。
西本さんは、二度目の夢が崩れたその先で、もう一度アメリカへ渡ることを決めた。
第4章|半分は逃避行、半分はリサーチ——アメリカで知った世界の広さ
司法試験の道を断念したあと、西本さんはアメリカへ向かった。
日本にいたくない気持ちもあった。司法試験を目指していた時期に出会った社長たちから、「受かったらうちの顧問をやってね」「うちに来ないの」と声をかけられていたこともあった。そうした人たちに会うのも、気まずかった。
一方で、ただ逃げただけでもなかった。
ロサンゼルスには、映画のプロダクションを持つ先輩がいた。サンディエゴにも友人がいた。そこに身を置きながら、西本さんはアメリカの土地を見ていた。
あるとき、カリフォルニアの空と土地を見て、感じるものがあった。
「カリフォルニアって、こんだけまだ土地があるんだ」
そこで、法律の知識と建物の知識が活かせるのではないかと考えた。
不動産であれば、自分が積み上げてきたものを使えるかもしれない。
西本さんは、カリフォルニアの不動産資格の勉強を始めた。
英語も学んだ。留学生として三ヶ月ほど現地に行き、また数年後にも三ヶ月行って勉強した。空いている時間には、オープンハウスや内見に足を運び、カリフォルニアの土地事情、住宅事情、相場を見て回った。
やがて、カリフォルニアのリアルエステートセールスパーソンの資格を取得する。
異国の地で武器を手に入れたのだ。
ようやく就職できると思った。
だが、カリフォルニアの不動産会社が求めていたのは即戦力だった。
営業経験があり、すぐに契約を取り、クロージングできる人材。
三十代半ばで、営業未経験に近い西本さんを一から育てる環境ではなかった。
そんなとき、ニューヨークの会社が求人を募集している情報を知った。
男性が必要だった。営業だけでなく、会社の中で総務的なこともできる人が求められていた。
カリフォルニアで取った資格は、ニューヨークではそのまま使えない。取り直しになる。それでも西本さんは、あまり条件を細かく見ず、ニューヨーク行きを決めた。
カリフォルニアで実務を3年経験したら、ニューヨークに移って仕事をしようと計画していた。
しかし、そのとき、自分にこう言われた気がしたという。
「お前、三年って言ってるけど、何の根拠で三年って言ってるんだ。行くなら、もう歳なんだから行きな」
ニューヨークでは、不動産会社の中で働いた。給料はすこぶる安かった。学生向けのシェアハウスの案内。総務的な業務。大手企業の社長や副社長、商社や銀行の上層部が来るときには、車で空港に迎えに行くこともあった。
契約を取り、コミッションを稼ぐ営業職というより、会社を支える側の仕事だった。
そこで二年働いた。
ニューヨークの冬は厳しかった。西本さんがいた時期には、ナイアガラの滝が凍るほどの寒さも経験した。最低気温マイナス十五度、最高気温マイナス十一度というような世界で生活した。
そしてニューヨークに住み続けたい気持ちは薄れていった。
「二年食べられなかった吉野家の牛丼を食べたいなと思いながら帰ってきました」
アメリカで何を学んだのか。
西本さんは「サバイバル」と答えた。
「日本はAからDくらいの人がいるとしたら、アメリカはトリプルSからZくらいまでいる」
上には、世界的なブランドの社長のような人たちがいる。下には、日本ではなかなか見ないような厳しい生活をしている人たちもいる。人間の幅が、日本よりはるかに大きく見えた。
「人ってこんなに種類がいるんだなって学びました」
いろんな人がいる。
いろんな生活がある。
日本の物差しだけでは、人間も人生も測れない。
アメリカは、西本さんに明確な答えをくれたわけではない。
世界は一つではないと教えてくれた。
その感覚を持って、西本さんは再び日本へ戻った。
第5章|救われた人が、今度は誰かを救う側へ——豊かさを追い続ける理由
アメリカから日本へ帰ってきたあと、西本さんは、大手不動産会社で働くことになる。
そこには若くても仕事のできる人がたくさんいた。七歳、十歳も下の人たちが、しっかりと成果を出している。その姿は、西本さんにとって刺激になった。
その後、別の不動産会社に声をかけられ、営業部長として移る。
条件は悪くなかった。お金もよかった。
けれど、環境が合わなかった。
少人数の会社で、社長との距離も近い。働いてみると、社風や人間関係の部分で強い違和感があった。やがて、体にも不調が出るようになった。
その頃、西本さんは大学の先輩のもとを訪ねる。
その先輩は、心理カウンセラーの資格を持っていた。
自己分析のような診断を受けた。
そこで出た結果は、西本さん自身にとって意外なものだった。
母性が非常に高い。
日本人男性では、あまり多くないタイプだという。
そして先輩は、西本さんに言った。
「この分野に向いているよ」
最初、西本さんは冗談のように受け取った。
その先輩は、プロのカウンセラーを育てる立場でもあった。だからこそ、「先輩、後輩に授業料でお金を取ろうとしているのでは」と、冗談めかして返した。
けれど、先輩は本気だった。
時間を置いて、もう一度セッションを受ける。
結果は変わらなかった。
その言葉は、当時の西本さんにとって、ただの適性診断ではなかった。
合わない環境で体に不調が出て、自分の次の道も見えにくくなっていた時期だった。そこで初めて、自分の中にある「人を受け止める力」や「人を支える性質」に目を向けることになる。
自分は、そういう分野に向いているのかもしれない。
誰かの心に関わることができるのかもしれない。
西本さんは、心理カウンセリングの資格を取ることにした。
半年で二つの資格を取得する。
こうして、やゆよカウンセリングルームを開業する。
やゆよカウンセリングルームは、
「あなた自身が持つこころの力を引き出していくお手伝いをします」として様々な相談に対応しているという。
「やゆよ」という名前にも、西本さんの願いが込められている。
「や」は優しい、やる気、和らぐ、安らぎ。
「ゆ」は豊か、優雅、勇気。
「よ」は喜び、余裕、良い、ようこそ。
言葉で傷つく人がいる。
自分で自分を傷つけてしまう人もいる。
その名前には、相談者が少しでも前向きになれるようにという、
西本さんの温かい願いが感じられる。
西本さんにとって、カウンセリングは仕事であると同時に、ライフワークでもある。
自分自身がしんどい時期にカウンセリングと出会い、自分の特性を知った。
だから今度は、自分が誰かの心に向き合う側へ回る。
悩みを抱えた人が、自分の中にある力に気づくために。
少しでも前を向けるように。
キャリア面でも西本さんは、法務部長・法務室長として経験を重ね、現在は経営により近い立場から、十二歳の頃に描いた「社長になる」という夢を目指している。
社長になる。
その夢は、まだ終わっていない。
経営に近い場所で経験を積み、最後は社長を目指す。
野球に敗れた。
司法試験にも敗れた。
それでも、「社長になる」という夢は消えていない。
西本さんにとってのIKIGAIとは何なのか。
その問いに対して、答えは驚くほど短かった。
「人を喜ばすことです」
相手が誰かは関係ないという。
友人を喜ばせる。
家に泊まりに来た人に、美味しいものを食べてもらう。
相談に来た人の心に向き合う。
誰かが満足してくれる。
「ありがとう」と言ってくれる。
そのことが、西本さん自身の喜びになる。
「対象が誰とか関係ないです。喜ばせるのが大好きです」
社長になる夢。
豊かさを追うこと。
人を喜ばせること。
それらは、西本さんの中で別々のものではない。
自分が豊かになることで、誰かに与えられる。
誰かを喜ばせることができる。
だからこそ、今も社長という夢を追い続けている。
西本さんは今も、豊かさを追い続けている。
人を喜ばせるために。
過去は変えられない。
けれど、その経験をこれから誰かのために使うことはできる。
西本さんの歩みは、そのことを感じさせてくれる。
あとがき
西本さんの話を聞き終えたあと、私の中に残ったのは、豊かさとは何かという問いだった。
豊かさと聞くと、私たちはつい、お金や肩書きや時間の余裕を思い浮かべる。
生活を守るためのお金も、自由に使える時間も、社会の中での役割も、人が生きていくうえで必要なものだと思う。
けれど、西本さんの語る豊かさは、そこだけでは終わらなかった。
自分が豊かになることで、家族に与えられる。
仲間に与えられる。
目の前の誰かを喜ばせることができる。
その言葉を聞いたとき、私は思った。
人は、何かを手に入れたときに豊かになるのではなく、それを誰かのために使えたときに、本当の意味で豊かになるのではないかと。
損か得か。
いくら返ってくるのか。
自分にメリットがあるのか。
気づけば私たちは、そんな物差しで動いてしまうことがある。
もちろん、現実は大切だ。お金も必要だ。自分を犠牲にし続けることが正しいわけでもない。
それでも、損得を一度横に置いて、ただ目の前の人を喜ばせたいと思って動けた瞬間。
誰かのために時間を使い、言葉をかけ、手を差し伸べられた瞬間。
そのとき人は、自分の中にも温かいものが返ってくる。
西本さんの「人を喜ばすことです」という言葉は、とてもシンプルだった。
だけれども、そのシンプルさの奥には、野球に敗れ、司法試験にも敗れ、アメリカへ渡り、カウンセリングに出会い、今も社長という夢を追い続けている人生の積み重ねがある。
自分が苦しかったからこそ、苦しい人の気持ちが分かる。
自分が何度も道を探してきたからこそ、迷っている人を急かさずに見られる。
自分が救われた経験があるからこそ、今度は誰かの心に向き合おうとする。
豊かさとは、独り占めするものではないのかもしれない。
循環させるものなのだと私は思う。
あなたは、何のために豊かになりたいだろうか。
その豊かさを、誰の笑顔に変えたいだろうか。
損得を越えて、心から「この人のために」と動ける相手がいるだろうか。
西本さんの人生は、私たちに問いかけてくれる。
夢に敗れても、人生は終わらない。
遠回りしても、無駄にはならない。
人のために動けたとき、その経験のすべてが、誰かを喜ばせる力に変わっていく。
そんなとき、人はきっと、自分自身も豊かになっていくのであろう。
そして、そんな循環が生まれれば世界は今よりもっと
平和になっていくのであろう。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師









