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何者でもなかった時間が揺るがない信念になった——今を目一杯生きる家具職人の歩み
尋木耕一 家具工房橙
何者でもなかった時間を信念に変えた家具職人
福岡県糸島市
何者でもなかった時間が揺るがない信念になった——今を目一杯生きる家具職人の歩み
あなたは、自分が「何者でもない」と感じたことがあるだろうか。
周りは少しずつ未来を決めていく。
いい学校、いい会社、安定した暮らし。
誰かが敷いたレールの上を歩いていれば、間違いではないように見える。
その道の上で、ふと胸の奥がざわつくことがある。
本当にこれは、自分の人生なのか。
このまま進んで、自分は後悔しないのか。
何も持たないまま、何者にもなれないまま、ただ時間だけが過ぎていくのではないか。
糸島で家具工房橙を営む家具職人、尋木耕一さんの歩みは、そんな問いを抱える人の胸に火を灯す。
尋木さんは、最初から家具職人として一直線に生きてきた人ではない。
小学5年生で福岡から愛知へ移り、自分の意思とは関係なく環境が変わった。
父への反発があり、閉鎖的に感じた土地で心を閉ざした時期があった。
高校を卒業して会社に入り、働きながらも「このままでいいのか」という言葉にならない違和感を抱えた。
仕事を辞め、居酒屋、不動産、佐川急便、契約社員。
興味のある仕事を試し、合わないと思えば離れた。
やがてサーフィンに出会い、波を追い、オーストラリアへ渡った。
周囲からは、
「もっとちゃんとした大人になれ」
と言われたかもしれない。
つながりのない人生。
何をしたいのか分からない若者。
そんなふうに見えたかもしれない。
でも、尋木さんはその時その時を、感じに行っていた。
何が嫌なのか。
何に惹かれるのか。
どんな場所なら心が動くのか。
自分は何を大切にして生きたいのか。
答えを頭で探すのではなく、体ごと世界にぶつかりながら確かめてきた。
そして、海外で自由を知ったあと、尋木さんの中に残ったものがあった。
日本人として、一生懸命働きたい。
木に触れ、暮らしに残るものをつくりたい。
家具職人として生きていきたい。
何者でもなかった時間は、無駄ではなかった。
反発も、迷いも、旅も、仕事を転々とした日々も、すべてが今の尋木さんの信念をつくっている。
「その日を目一杯生きる」
これは、何者でもなかった一人の青年が、遠回りの時間を自分の糧に変え、今を目一杯生きる家具職人として、揺るがない信念に辿り着くまでの物語である。
第1章|「子どもは親についていくしかない」——心を閉ざした少年と、母の無償の愛
尋木耕一さんの人生のはじまりには、ひとつの移動がある。
福岡市南区で生まれた尋木さんは、小学5年生の頃、愛知県へ引っ越した。
それは、子どもの彼にとって、自分で選んだ移動ではなかった。
友達がいた。
慣れた土地があった。
自分の居場所だった。
「子どもは親についていくしかない」
その言葉を、尋木さんは今でも覚えている。
大人にとっては生活のための決断だったのかもしれない。
仕事の都合だったのかもしれない。
家族を守るための選択だったのかもしれない。
だが、子どもには関係がない。
なぜ離れなければいけないのか。
なぜ自分の気持ちは置き去りにされるのか。
なぜ大人の都合で、自分の世界が変えられてしまうのか。
その納得できなさが、尋木さんの中に大きな反発として残った。
愛知での生活は馴染めなかった。
本人は、その空気を「閉鎖的だった」と振り返る。
何かが違った。
「なんか違うな、この人たち」
周囲に馴染めない。
心から信用できない。
友達はいても、どこか深くまでは入れない。
中学、高校と時間は流れていったが、尋木さんの心の奥には、閉じたままの場所があった。
その閉じた心の背景には、父への思いもあった。
尋木さんの父は、家庭に深く関わるタイプではなかったという。
暴力があったわけではない。
極端に荒れた家庭だったわけでもない。
ただ、父は家庭そのものにあまり興味を示さなかった。
「男は働いてお金を入れればいい」
そんな時代の価値観を背負った父だったのかもしれない。
団塊の世代として、人が多く、競争の中で育ち、いい学校へ行き、いい会社に入り、家族のためにお金を稼ぐ。
それが男の役割だと信じていたのかもしれない。
父なりの正義はあった。
実際に、家にお金は入れていた。
だが、尋木さんはどこかで父を求めていた。
お金ではなく、言葉を。
存在を。
向き合ってくれる時間を。
そうした思いが心の奥に積もっていった。
それを支えてくれたのが「母の愛」だった。
「母親から愛を感じていました。僕がぐれなかったのは母親の愛を感じてたからだと思う」
尋木さんが悪いことをすれば、本気で叱ってくれた。
ときには涙を流しながら、これはしてはいけないことだと伝えた。
その姿を見て、尋木少年は学んでいった。
これは悪いことなのだ。
これは越えてはいけない線なのだ。
「これ以上やったら母親が悲しむぞ」
その感覚が、いつもどこかにあった。
尋木さんは、母の愛を「無限の愛」と言った。
何者でもない時間は、ここから始まった。
自由からではない。
自分で選べない息苦しさからだった。
だが、その息苦しさの底には、ひとつの温度が残っていた。
母の愛である。
それが、後に尋木さんが「人間らしく生きる」と語る土台になっていく。
第2章|「この会社で終わるの、もったいなくない?」——レールの外に未来を見た日
高校を卒業した尋木さんは、地元の大手印刷会社に就職した。
特別な志があったわけではない。
求人の中で給料がよさそうだった。
夜勤もあり、残業もあり、稼げる会社に見えた。
早く自分で稼ぎたかった。
家を出たかった。
当時の尋木さんは、とにかく働いた。
給料が入れば、車を買い、あちこちに出かけた。
お金を稼ぐ。
使う。
遊ぶ。
また働く。
そんな日々の中で、尋木さんの心を動かした人物がいた。
熊本出身の同僚だった。
会社には、九州から就職してきた若者が多かった。
尋木さんにとって、それはどこか嬉しいことだった。
愛知で心を閉ざしていた彼にとって、九州の人たちは「仲間が来た」ような感覚があった。
寮で一緒に過ごし、話し、遊ぶ。
その中で、同僚がふと言った。
「こんなに若いのに、この会社で働いてたらもったいなくない?」
その言葉は、尋木さんの中に残った。
当時は、一度会社に入ったら定年まで勤めるのが当たり前だという空気がまだ強かった。
だが同僚は違う未来を見ていた。
東京へ行ってモデルを目指す。
今しかできないことをやる。
その姿を見て、尋木さんは初めて
「未来を考えるって、そういうことなんだ」と感じたという。
それまで尋木さんは、レールの上で生きていた。
自分で選んだようでいて、どこか流れに乗っていただけだった。
稼ぐことも、遊ぶことも、反発することも、その場その場の衝動に近かった。
だが、同僚の一言で、レールの外側に空間があることを知った。
それは、尋木さんの人生にとって大きな転換点だった。
そして会社を辞めた。
その後、沖縄へ行こうとして部屋を探していたが 見つからずに
福岡へ戻った。
幼い頃に離れた福岡。
戻ってきたいとどこかで思っていた場所。
親戚を頼り、家を探し、暮らし始めた。
だが、そこに明確な目標があったわけではない。
居酒屋、不動産屋の営業、引っ越し業、 契約社員として工場でも働いた。
興味があればやってみる。
合わないと思えば離れる。
約1年半で数多くの仕事をした。
周囲から見れば、ちゃらんぽらんな若者だった。
「すぐ辞める」
「あいつは何をしているんだ」
親戚や周囲からそう言われていた。
でも、尋木さんは気にしなかった。
「そんなの知らんし」
その反発心があった。
社会が敷いた正解に従うことへの抵抗。
一度入った会社を辞めてはいけないという同調圧力への違和感。
自分の人生を、他人の「こうあるべき」に預けることへの嫌悪。
彼は、ただ仕事を転々としていたのではない。
自分の身体で、人生を確かめていた。
その感覚だけはずっと持っていた。
何が合わないのか。
何なら心が痛まないのか。
何なら自分の感覚を殺さずにいられるのか。
これは、遠回りだった。
だが、無駄ではなかった。
何者でもない青年は、まだ何者にもなっていなかった。
だが、自分の人生を他人に預けることだけは、やめていた。
第3章|「旅だもん」——サーフィンとオーストラリアで、心が解放された
契約社員として働いていた頃、尋木さんはサーフィンに出会う。
職場で仲良くなった人がサーフィンをしていた。
誘われるままに海へ行く。
波に向かう。
体ごと自然に入っていく。
尋木さんは、サーフィンをこう語った。
「サーフィンって面白いよ。旅だもん」
いい波がある場所へ行く。
熊本、宮崎、山口。
季節や天気や海の状態に合わせて、体ごと移動していく。
決められた場所にとどまるのではなく、波のある方へ向かう。
そこに旅があった。
もっと自由になりたい。
もっと別の世界を見たい。
自分の知らない価値観に触れてみたい。
その思いが、強くなっていく。
そしてサーフィンを通して海外へ行くことを決める。
オーストラリアだった。
英語は話せない。
仕事も決めていない。
計画なんてほとんどなかった。
「感じるんだ」
尋木さんは、頭で整えてから動く人ではなかった。
動いて、感じて、そこで覚えていく。
正しいかどうかは、行ってみなければ分からない。
オーストラリアでの生活は、尋木さんにとって大きな解放だった。
語学学校に通う。
そこで出会った人たちと一緒に暮らす。
寿司屋で働く。
オーストラリア人、アメリカ人、チベット人、フィリピン人、中国人、台湾人、日本人。
さまざまな人種が同じ場所で働いていた。
英語は十分ではなかった。
日常会話くらいはできるようになったが、それ以上は難しい。
それでも、そこには日本で感じていた窮屈さとは違う空気があった。
働いて、サーフィンをする。
仲間と暮らす。
知らない土地で、知らない価値観に触れる。
「本当に解放した。自由だって感じ」
尋木さんは、その時間をそう振り返る。
その自由は、ただ遊んでいるだけの時間ではなかった。
自分を縛っていたものが、少しずつほどけていく時間だった。
こうあるべき。
ちゃんとしなければいけない。
そうした言葉から離れ、尋木さんは初めて、自分の感覚で世界を眺めた。
けれど、尋木さんの中には、ずっと消えずに残っていたものがあった。
日本に帰って、家具職人になる。
それは、オーストラリアで突然生まれた夢ではなかった。
むしろ、海を渡る前から、彼の中には小さく置かれていた。
何を作る仕事が、自分に向いているのか。
自分は、何に触れている時に心が動くのか。
思い返せば、家具屋を見て回るのが好きだった。
リバレインの中にあった家具屋や照明にも惹かれた。
いい椅子を見る。
いいテーブルを見る。
その先にある暮らしを想像する。
家具は、ただの物ではなかった。
家の中に置かれ、人の暮らしの一部になっていくものだった。
幸せな家庭環境をつくるものは何だろう。
家の中がよくなれば、家庭も変わる。
そんな感覚が、どこかにあった。
そして木なら、家具になる。
人の暮らしに近い。
毎日触れられ、使われ、時間とともに馴染んでいく。
そこに、尋木さんは惹かれていった。
だから彼は、オーストラリアへ行く前に、一度「家具職人になる」という仮の目標を置いた。
そのうえで、若いうちに目一杯遊ぼうと決めた。
そして遊びきった。
オーストラリアで自由を知ったあと、尋木さんの中に出てきたのは、意外にも「日本人として、一生懸命働きたい」という感覚だった。
自分の手で、何かを作る。
人の暮らしに残るものを作る。
自分の感覚と責任で、仕事を形にする。
自由を知ったからこそ、尋木さんは日本へ戻った。
逃げるためではない。
自分の人生を、自分の手で作るために。
第4章|「言ったらやる」——家族を背負い、本気の覚悟を見て感じたこと
日本に帰ってきた尋木さんは、木工の職業訓練校へ通った。
そこから、タンス屋に入る。
家具職人としての道が始まった。
だが、そこでもすぐに違和感が生まれる。
その場所は、職人を育てるような環境だった。
長く修行し、年月をかけて技術を身につけていく。
それ自体は悪いことではない。
だが、尋木さんの中には、すぐに違和感が生まれた。
「ここで10年やっても、自分じゃない」
彼は、自分でやりたかった。
誰かの下で長く型にはまり続けることより、自分で感じ、自分で作り、自分で進むことを求めていた。
その後、宮崎の家具屋へ向かう。
理由の一つは、サーフィンだった。
宮崎なら波がある。
給料が少なくても、サーフィンができれば楽しめる。
家具の勉強をしながら、海にも行ける。
給料は決して高くなかった。
最初は12万円ほど。
28歳前後になっていた尋木さんは、「そろそろやばいんじゃないか」と感じながらも、やりたいことをやった。
やがて結婚し子供が生まれる。
責任が強くなる。
「俺の給料でどうやってやるんだ」
その現実は重かった。
すぐには動けない。
独立も簡単にはできない。
給料も十分ではない。
その中で、もがいた。
日曜日には会社の機械を使って自分の作品を作らせてもらえた。
年に一度、それを販売する機会もあった。
そこに学びはあった。
だが、心の奥ではずっと、これでいいのかという思いが残っていた。
一度、東京の有名な家具屋へ行こうとしたこともある。
そこは、多くの職人が働いてみたいと思うような場所だった。
募集には多くの応募があった。
尋木さんは履歴書だけでなく、今どんな仕事をしているのか、今後どうしていきたいのかを細かく書き添えた。
その工夫が目に留まったのか、面接は進んだ。
三度、東京まで足を運んだ。
採用される流れもあった。
給料も悪くない。
東京で新しい一歩を踏み出すチャンスだった。
けれど、最後のところで引っかかった。
その家具が、好きではなかった。
職人として、それは小さな違和感ではなかった。
どれだけ名前が通っていても、どれだけ条件がよくても、自分が好きではない家具を作ることに、心が乗らない。
さらに、面接の中で社長から言われた言葉があった。
「俺がお前たち家族を守ってやる」
その言葉に、尋木さんは打たれた。
社長は、本気で従業員を守ろうとしていた。
仕事を与え、生活を守り、場を守ろうとしていた。
その覚悟があった。
一方で、自分はどうだったか。
尋木さんは、その会社を利用してのし上がろうとしていた。
自分のために、そこを踏み台にしようとしていた。
その違いを見せつけられた。
「かなわん」
そう感じた。
相手の覚悟に触れたことで、自分の考え方を見直すことになる。
ただ自分のプラスになるかどうかだけで動く段階から、少しずつ別のものが見えてくる。
守るとは何か。
背負うとは何か。
仕事とは何か。
人を雇うとは何か。
自由に生きることは、責任から逃げることではない。
むしろ、自分で選んだ人生だからこそ、自分で背負わなければいけないと。
その感覚が、少しずつ尋木さんの中に芽生えていった。
第5章|「まだ始まっていない」——独立10年、今を目一杯生きる職人の心意気
宮崎で8年間、腕を磨き続けたあと、尋木さんは独立を決めた。
十分なお金があったわけではない。
理想の工房が用意されていたわけでもない。
仕事の見通しが完璧に立っていたわけでもない。
それでも、やりたかった。
自分で決めた道を、自分の責任で進む。
誰かのレールの上ではない。
誰かの会社の看板でもない。
仕事が来なければ、自分の責任。
家族を守れるかどうかも、自分の腕にかかっている。
そこから始まった10年は、尋木さんにとって、決して華やかな時間ではなかった。
本当にやりたかったのは、家具を作ることだった。
自分の工房を持ち、ショールームを作り、お客様が訪れ、家具に触れ、暮らしを想像できる場所を作ること。
だが、現実は思うようには進まない。
尋木さんは、自分の現在地をこう語った。
「僕の中では、まだ始まっていない」
独立して10年。
周りから見れば、すでに家具職人として仕事をしている。
売上もつくり、家族を支え、糸島で工房を続けている。
それでも本人の中では、まだ始まっていない。
その言葉には、悔しさがある。
もっとやりたいことがある。
もっと届けたい家具がある。
もっと作りたい場所がある。
自分の理想には、まだ届いていないという感覚がある。
だが、その“未完成”こそが、尋木さんを今も動かしている。
目の前には今日の仕事がある。
その一つひとつに向き合いながら、尋木さんはプロフェッショナルとして腕を磨いてきた。
失敗しないように考える。
うまく収まるように工夫する。
ときには、素人には分からない程度の失敗を重ねながら、なんとか形にする。
一人で仕事を受け、一人で考え、一人で作り、一人で納める。
一日8時間働いているだけでは、到底まわらない。
夜中の2時、3時まで働いたこともあった。
年中無休に近い状態で働いた時期もあった。
家族、とくに子どもたちには、寂しい思いをさせたかもしれない。
小さい頃は、父と一緒にいたかったはずだ。
それでも、尋木さんは働くしかなかった。
この世界で生き残るために。
家族を守るために。
職人として生きると決めたから。
夜中まで働く父親の姿を、子どもたちがどう受け取っているのかは分からない。
一生懸命働いていたと、いつか感じてくれるかもしれない。
寂しかった記憶の方が強く残るかもしれない。
その両方を、尋木さんは分かっている。
それでも、今日の仕事は待ってくれない。
頼まれたものを、形にする。
目の前の人に返す。
今の自分にできる精一杯を出す。
その積み重ねの中で、尋木さんの職人としての信念は、少しずつ削り出されていった。
尋木さんに、職人として何を残していきたいのかを尋ねた。
返ってきた言葉は、短かった。
「心意気」
派手な言葉ではない。
その一言に、尋木さんの10年が詰まっていた。
「頼まれた仕事を、当たり前に形として返す。そこに少しだけプラスアルファを乗せて返す。それがうちのあり方かなと思っています」
この言葉は、表面だけ聞けば、当たり前のように聞こえるかもしれない。
でも、その“当たり前”を本当にやり続けることが、どれほど難しいか。
割に合わない仕事もある。
初めてで怖い仕事もある。
時間が足りない日もある。
お金の不安が背中に張りつく日もある。
それでも、頼まれた以上、形にして返す。
感謝は、言葉だけでは足りない。
仕事で返すしかない。
尋木さんの中には、その感覚がある。
今、自分が生きていけるのは、周りが仕事をくれるから。
誰かが頼んでくれるから。
お金を払ってくれるから。
だから、その感謝を日々の仕事で返す。
仕事である以上、数字もある。生活もある。
けれど、それだけでは終わらせない。
今の自分にできる精一杯をやる。
その姿を見た人が、また頼もうと思ってくれる。
その繰り返しで、仕事は続いていく。

尋木さんのIKIGAIを尋ねたとき、返ってきた答えもまた、シンプルだった。
「その日を目一杯生きること」
大きな成功ではなかった。
肩書きでもなかった。
名誉でもなかった。
今日という日を、これ以上はできないと思えるところまで生きること。
今の自分に与えられた仕事を、無理だと思うところまでやり切ること。
今を無駄遣いしないこと。
尋木さんは言う。
今を生きていない人が多い、と。
未来のために今を犠牲にする。
周囲に合わせるために自分を殺す。
会社の歯車として、自分が何なのか分からなくなる。
損得だけで動き、人のためにすることの意味を見失う。
そんな時代の中で、尋木さんは今日も自分の手を動かしている。
木に触れ、考え、削り、組み、納める。
愛知で心を閉ざした時間も、父への反発も、レールから外れた日々も。仕事を転々としたことも、サーフィンに夢中になった時間も、オーストラリアで感じた自由も。宮崎での苦しさも、独立してからのひやひやする現場も、夜中まで働いた日々も。
そのすべてが、尋木さんの中に積み重なっている。
すべてが積み重なっている。
そして今、尋木耕一という一人の家具職人の中で、揺るがない信念になっている。
何者かになるために生きるのではない。
今を目一杯生きる。
その積み重ねが、いつかその人だけの哲学になる。
尋木さんの歩みは、そのことを教えてくれる。

あとがき
尋木さんの話を聞き終えたあと、私の中に残った問いがある。
それは、
「自分は今を精一杯生きているのか」
という問いだった。
目の前の仕事に、どこまで心を込めているか。
目の前の人に、どこまで誠実に向き合っているか。
本当は違うと感じているのに、流されていないか。
やりたいことがあるのに、怖さを理由に見ないふりをしていないか。
尋木さんは、決して最初から完成された人ではなかった。
心を閉ざした時期があり、反発があり、仕事を転々とした時間があり、海を渡り、自由を味わい、そしてまた日本へ戻ってきた。
一見、遠回りに見える。
けれど、そのすべての時間を、尋木さんはちゃんと精一杯自分に向き合っていた。
何が嫌なのか。
何に惹かれるのか。
自分はどう生きたいのか。
その問いから逃げなかったからこそ、今の「心意気」に辿り着いたのだと思う。
私たちは未来のために、今を使おうとする。
でも、今を雑に扱ったまま、未来だけが美しくなることはないのかもしれない。
何者でもない時間を、どう生きるのか。
迷っている時間を、どう使うのか。
まだ形になっていない自分を、どう信じるのか。
尋木さんの歩みは、その問いを突きつけてくる。
あなたは今、本当に全力になれているだろうか。
今日という一日を、自分のものとして生きているだろうか。
誰かの正解ではなく、自分の感覚で選んでいるだろうか。
今を精一杯生きる。
その一日一日の積み重ねこそが、やがて自分だけの信念になり、哲学になり、誰にも真似できない物語になっていく。
何者でもないからこそ、自分で決めて動けば、何者かになれるのかもしれない。
そのことを、尋木さんの人生が教えてくれた。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師









