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バイオマス発電で地域創生に挑む78歳の歯医者——“自然に生きる”を問い続ける思想家
有限会社コス・ユートピアファーム・西岡歯科医院 奥村寛道
自然に生きる道を問い続ける思想家
愛媛県伊予郡砥部町
バイオマス発電で地域創生に挑む78歳の歯医者——“自然に生きる”を問い続ける思想家
あなたは、自分が本当に“自然に生きている”と言えるだろうか。
誰かと比べる。
世間の正解を追う。
新しいもの、便利なもの、効率の良いものへと急かされる。
気づけば私たちは、自分の幸せさえ、どこか他人の物差しで測ってしまっている。
有限会社コス・代表取締役、ユートピアファーム奥村・園主、西岡歯科医院・歯医者。
複数の顔を持ちながら、78歳の今もな挑み続ける奥村寛道さんの言葉を聞いていると、胸の奥に問いが生まれる。
人間は、いつからこんなに不自然になってしまったのだろうか。
歯科医として、長く人の口腔と向き合ってきた奥村さんは、口腔も”歯だけの問題”として見ていない。
噛むこと。
食べること。
口腔から全身の健康を見つめること。
そこには、医療という枠を超えた、人間そのものへのまなざしがある。
「健康は口腔から始まる」
その確信を持ち、咀嚼の大切さを伝えるために、咀嚼回数測定器までつくった。
しかし、時代はまだ追いついていなかった。
世の中は、咀嚼することの価値を知らなかった。
だから測定器は、思うようには広がらなかった。
工学を学び、大企業で設計の仕事をし、31歳でその安定を手放して歯学部へ入り直した。
「脱サラ歯医者」と自ら語るその歩みは、常識から見れば遠回りかもしれない。
けれど、その遠回りのすべてが、いまの奥村さんの思想につながっている。
人は奥村さんを、歯医者と呼ぶかもしれない。
経営者と呼ぶかもしれない。
工学を学んだ人と見るかもしれない。
咀嚼の大切さを伝えようとした発明家のように見る人もいるかもしれない。
けれど本人は、こう語った。
「私は、思想家なのかもしれません」
長い人生をかけて問い続けてきた人が、ようやく自分の立ち位置を見つけたように感じた。
奥村さんが見つめているのは、歯だけではない。口腔だけでもない
身体だけでもない。
社会のあり方であり、地域の未来であり、自然との関係であり、人間がどう生きるべきかという根本の問いだった。
そして今、奥村さんが挑んでいるのが、バイオマス発電事業である。
これは“最新技術に飛びつく挑戦”ではない。
奥村さんにとってバイオマス発電は、新しいものではない。
昔から人間がやってきたことに、もう一度戻ることだった。
山の木を使い、火を焚き、風呂を沸かし、飯を炊く。
伐ったら植える。
荒れた山を手入れする。
自然から受け取り、自然へ返していく。
それは、未来へ進むための事業でありながら、同時に、人間の根本へ帰るための挑戦でもある。
この事業がうまくいけば、地域に新しい産業が生まれる。
山が動き、人が動き、仕事が生まれ、経済がまわり、町にもう一度活気が戻る。
そして何より、人間が自然と切り離されずに生きる姿を、次の世代に見せることができる。
奥村さんは言う。
「私には、時間がないんです。だから早く行動しないといけない」
そこにあるのは、焦りだけではない。
残された時間を知っている人間の、覚悟だった。
年齢を重ねたから、挑戦を終えるのではない。
残された時間を知っているからこそ、いま動く。
自分のためだけではなく、地域のために。
次の世代のために。
そして、人間がもう一度、自然に生きる道を思い出すために。
これは、口腔から健康を見つめ、山から未来を見つめ、人間がもう一度“自然に帰る”ために火を灯し続ける、ひとりの思想家の生き方の記録である。
第1章|医者を目指した少年——人間を見つめる思想の原点
奥村さんの思想は、少年の頃に抱いた、ひとつの憧れから始まっている。
奥村さんは、7人兄弟の上から6番目、下から2番目として育った。
中学2年までは、生まれ育った土地で過ごした。
家には、いくつもの顔を持つ父がいた。
役場に勤め、写真家でもあり、画家でもあり、農業もやり、行政書士としての顔も持っていたという。
ひとつの肩書きだけに収まらない人。
暮らしの中に、仕事があり、表現があり、土地との関わりがある人。
奥村さんの原風景には、すでにそのような“複数の世界をまたぐ大人”の姿があった。
兄弟の中には、東京に出ている兄や姉もいた。
長兄は記者、長姉は学校の先生。
そして次兄は医者だった。
奥村さんが医者を目指した背景には、その次兄の存在がある。
「医者になった次兄に憧れて、自分も医者になりたいと思ったんです」
少年の奥村さんは次兄の姿を通して、
「人間を見つめる仕事」への憧れが、心の中に灯っていた。
やがて奥村さんは、医者になるために東京へ出た。
目指していたのは、誰もが知る超名門の公立高校だった。
そこへ進み、医学部へ行き、医者になる。
少年の奥村さんの中には、はっきりとした道筋があった。
けれど、東京に出て初めて知る現実があった。
地方で「勉強ができる」と言われていた自分の前に、さらに上の層がいた。
東京には学区の壁もあった。
行きたいと思った学校へ、思いだけで進めるわけではなかった。
最初の計画は、そこで少し形を変える。
国立医学部を目指す。
当時、私立の医学部という選択肢はなかった。
家の事情もある。
お金の問題もある。
だから目指すのは、国立だけだった。
努力したが、国立医学部には届かなかった。
夢に届かなかった事実が残る。
医者になりたかった。
人の身体に関わる仕事がしたかった。
次兄のように、人の命や健康に向き合う存在になりたかった。
その扉は、一度閉じた。
そして大学は、医学部ではなく、国立大学の工学部へ進むことになる。
人の身体を見つめるはずだった道は、機械を学ぶ道へと変わった。
人間を見たい。
人の役に立ちたい。
医者という存在への憧れ。
その思いは、医学部に届かなかったからといって消えたわけではなかった。
ただ、形を変えた。
奥村さんは工学へ進み、機械を学び、やがて大企業で設計の仕事に就く。
人間ではなく、機械に向き合う道。
医療ではなく、工学の道。
その時間さえも、後に奥村さんの思想を深める大切な回り道になっていく。
医者になれなかった挫折は、奥村さんから問いを奪わなかった。
むしろ、その問いを深くした。
人間は、与えられた道を歩いているだけで、本当に自然に生きていると言えるのか。
奥村さんの思想は、この最初の挫折から、少しずつ深まり始める。
第2章|安定の先に、自分の人生はあるのか——大企業で芽生えた“自分で立つ”という問い
奥村さんは、大企業に入社し、大型工作機械の設計職に就いた。
大企業。
技術職。
安定した収入。
将来の見通し。
外から見れば、十分すぎるほど恵まれた人生だった。
しかし、奥村さんの中には、少しずつ違和感が生まれていく。
会社に入った時、奥村さんは「この会社の社長になりたい」と思っていたという。
四千人を超える大きな会社の中で、自分が上へ行く。
そのくらいの気概があった。
けれど、実際に会社で働いていくうちに、現実が見えてくる。
課長にはなれるかもしれない。
けれど、部長になれるかは分からない。
重役になれるかも分からない。
社長になることなど、さらに遠い。
組織の中で上へ行く道は、最初に思っていたほど単純ではなかった。
同期もいる。
上司もいる。
会社の流れもある。
努力だけで変えられない構造がある。
そして何より、奥村さんの胸に強く残ったのは、定年後の未来だった。
会社員として長く勤め、定年を迎える。
その後、関連会社や子会社に移り、かつて自分の部下だった人たちに頭を下げながら、仕事をもらう。
それは当時、会社員として珍しい未来ではなかったのかもしれない。
しかし奥村さんには、その姿がどうしても受け入れられなかった。
「この生活を続けるのは嫌だと思ったんです。やっぱり、独立しないといけないと思いました」
奥村さんが嫌だったのは、会社そのものではない。
設計の仕事そのものでもない。
自分の人生を自分で選択できない人生。
組織の流れの中で、いつの間にか自分の未来が決まっていくこと。
そこに、奥村さんは強い違和感を抱いた。
それは本当に、自分の人生なのか。
社会的に正しい道を歩くこと。
安定した会社に入ること。
人から見て立派だと言われること。
安定とは、時に人を守る。
それと同時に、自分の本音を静かに眠らせてしまうこともある。
奥村さんは、その眠りに耐えられなかった。
だからこそ、次の決断へ向かっていく。
第3章|31歳、もう一度人生を選ぶ——妻が許してくれた脱サラ歯医者の道
三十一歳。
奥村さんは、大企業を辞める決断をした。
今の時代でも、簡単なことではない。
まして当時は、会社に入ったら定年まで勤めるのが当たり前の時代だった。
途中で辞める人は、どこか“落伍者”のように見られる。
安定した企業を手放すことは、勇気ある挑戦というより、理解されにくい選択だった。
まして奥村さんは、独身の若者ではなかった。
結婚していた。
子どももいた。
家族の生活があった。
その状態で会社を辞め、もう一度大学を受け直す。
しかも、医療の道へ入る。
このようなキャリアを進む人は、当時ほとんどいなかった。
きっかけのひとつは、医者である次兄の言葉だった。
「もう一度、医学部を受けてみないか」
かつて閉ざじた医者への道。
少年の頃から胸にあった憧れ。
それが、三十一歳になってもう一度、目の前に現れた。
奥村さんは最初、医学部を目指そうとした。
しかし現実は厳しかった。
共通一次試験を受け、自己採点をする。
その結果を見て、国立医学部は難しいと感じた。
そこで奥村さんは、歯学部へ方針を変えた。
医者になるには、さらに長い時間が必要になる。
しかし歯科医であれば、六年間学べば仕事として成り立つ。
卒業後、比較的早く独立する道も見える。
一国一城の主として、自分の責任で立つこともできる。
歯医者だったら、六年間勉強すれば飯が食える。独立も早くできると思ったんです」
それは夢だけで選んだ道ではなかった。
家族を抱えた現実の中で、自分の人生をどう取り戻すかを考えた末の選択だった。
そして、この再挑戦を語るうえで欠かせない存在がいる。
奥様である。
奥村さんが会社を辞め、大学へ入り直すという選択をできたのは、自分一人の覚悟だけではなかった。
奥様が許してくれた。
挑戦は、美しい言葉だけでは成り立たない。
家計がある。
日々の生活がある。
家族の未来がある。
誰か一人が「挑戦したい」と言うだけでは、家族を巻き込む人生の転換はできない。
奥様は高校の先生をしていた。
そして生活を支えるために、学習塾も始めた。
地域の子どもたちを集め、補習授業をした。
奥村さん自身も、学生でありながら、横浜の大手予備校で講師として働いた。
奥様の塾の収入と、奥村さんの予備校講師としての収入。
その二つが、家族の生活を支えた。
華やかな再挑戦ではない。
そこには生活があった。
子どもがいた。
夫婦の現実があった。
そして、それでも前に進むための工夫があった。
奥村さんは、二度目の大学では本気で勉強したという。
最初の大学では、一夜漬けも多かった。
若さもあり、どこかで流れるように進んでいた部分もあったのかもしれない。
社会人となった後での大学生活は違った。
これは将来の飯の種になる。
卒業した後、自分が生きていくための技術になる。
患者さんを診るための力になる。
独立するための土台になる。
「二回目の大学の方が、一生懸命勉強しました」
やり直すには代償がいる。
安定を手放す怖さがいる。
家族に理解してもらう必要がある。
そして何より、自分で選んだ道を、自分で引き受ける責任がいる。
奥村さんにとって、歯学部への再挑戦は、単なる転職ではなかった。
それは、自分の人生をもう一度、自分の手に取り戻すための決断だった。
会社員から歯科医へ。
工学から医療へ。
設計図から人体へ。
そして歯科医になった奥村さんは、やがてさらに深い問いに出会う。
第4章|時代より早すぎた咀嚼の思想——口から全身を見る歯科医へ
歯科医になった奥村さんは、口腔の中と向き合う日々を重ねていく。
歯を治す。
口腔を整える。
噛み合わせを見る。
患者さんの不調に向き合う。
それは歯科医として大切な仕事だった。
だが、奥村さんは次第に、そこだけでは足りないと感じ始める。
歯医者の仕事は、口腔の中だけで終わるものではない。
口腔は、全身につながっている。
噛むことは、食べることにつながっている。
食べることは、暮らしにつながっている。
暮らしは、その人の健康そのものにつながっている。
削る。
詰める。
治す。
整備する。
しかし、人間の健康を考えるなら、それだけでは不十分だった。
「健康は口腔から始まる」
奥村さんの中で、この確信が育っていく。
特に奥村さんが注目したのが「咀嚼」だった。
噛む回数。
噛み方。
食べる速さ。
早食い。
肥満。
子どもたちの身体。
食べ方と健康の関係。
咀嚼は、単なる食事の動作ではない。
人間が自然に生きるための、もっとも根本的な営みだった。
その大切さを伝えるために、奥村さんは咀嚼回数測定器をつくった。
噛む回数を測る。
見えにくい習慣を、数字として見える形にする。
自分の食べ方を、自分で知ることができるようにする。
ここには、奥村さんの人生が重なっている。
工学を学んだ人としての視点。
機械を設計してきた人としての発想。
歯科医として人間の健康を見つめるまなざし。
それらが、咀嚼回数測定器という形になった。
しかし、思うようには広がらなかった。
機械はあった。
価値もあった。
必要性もあった。
けれど、世の中はまだ「咀嚼が大切だ」という前提を持っていなかった。
人は、自分が必要だと思っていないものを欲しがらない。
どれほど価値のあるものでも、その価値を受け取る準備がなければ届かない。
「咀嚼が大切だということを知ってもらうのが先だったんです。その前に測定器を作ってしまった。順番が間違っていたんです」
作れば伝わると思った。
価値があれば広がると思った。
正しいものを作るだけでは、人は動かない。
先に、人の意識が変わらなければならない。
そこで奥村さんは、咀嚼の大切さを伝えるための啓蒙書も出した。
測定器を売る前に、まず噛むことの意味を知ってもらう。
なぜ咀嚼が大事なのか。
なぜ口腔が健康の入口なのか。
そこから伝えなければならないと気づいた。
それでも簡単ではなかった。
今の時代から振り返れば、奥村さんが間違っていたわけではないことが分かる。
むしろ、早すぎた。
時代より先に見えてしまう人は、ときに孤独になる。
周囲には理解されない。
変だと言われる。
そのズレが痛みになる。
ここで、奥村さんは更に自分に問う。
口腔から全身を見る。
咀嚼から暮らしを見る。
暮らしから社会を見る。
奥村さんの視線は、歯科医療の枠を少しずつ越えていく。
歯だけを見ているのではない。
身体だけを見ているのでもない。
人間がどう生きているのか。
何を食べ、どう噛み、どう暮らし、何を大切にしているのか。
そこまで見なければ、本当の健康や幸せは見えてこない。
奥村さんの思想は大きく広がっていく。
人間は、不自然になっているのではないか。
健康だけでなく、暮らしも、地域も、自然との関係も。
どこかで本来の循環を失ってしまったのではないか。
第5章|自然へ帰る事業——バイオマス発電で地域にもう一度火を灯す
76歳で、歯医者としての生活を手放した。
そして、生まれ育った地元へ帰る選択をした。
それは、余生を過ごすための帰郷ではなかった。
むしろ逆だった。
奥村さんは、人生の終盤に差しかかったその時期に、もう一度、自分の命を何に使うのかを選び直したのだ。
長く歯科医として、人の口腔と向き合ってきた。
噛むこと、食べること、健康の根本を見つめてきた。
咀嚼回数測定器をつくり、啓蒙書を書き、挑戦もしてきた。
それでも、奥村さんの中の問いは、そこで終わらなかった。
人間が自然に生きるとは、どういうことなのか。
健康とは、身体だけの問題なのか。
地域が衰えていくことと、人間が不自然になっていくことは、本当に別の話なのか。
その問いに導かれるように、奥村さんの視線は、口腔の中から身体へ。
身体から暮らしへ。
暮らしから地域へ。
そして最後に、山へと向かっていった。
生まれ育った土地に戻った奥村さんが、いま挑んでいるのが、バイオマス発電事業である。
ただし、それは流行の新規事業ではない。
「バイオマス発電は、新しいものではないんです。昔に帰るだけなんです」
奥村さんは、そう語る。
昔の人間のエネルギー源は山にあった。
山から枝を拾い、火を焚く。
風呂を沸かす。
ご飯を炊く。
餅を蒸す。
暮らしのエネルギーは、山の木から生まれていた。
それは、特別なことではなかった。
暮らしの当たり前だった。
木を使う。
使ったら、また植える。
山を手入れする。
自然から受け取り、自然へ返していく。
そこには自然な循環があった。
そして、その循環は、山を放っておいては生まれない。
山の木は、ただ残しておけばいいものではない。
放置された山は荒れていく。
手入れされず、使われず、循環から外れてしまえば、山は地域の資源ではなく、ただ置き去りにされた場所になっていく。
だからこそ奥村さんは、山をもう一度、暮らしの中へ戻そうとしている。
奥村さんが見つめているのは、小規模バイオマス発電である。
巨大な施設をどこか遠くにつくり、外から燃料を運び込むような仕組みではない。
地域に一つ、小さな発電の拠点をつくる。
その地域の木を使い、その地域の原料を使い、その地域の中でエネルギーを回す。
地産地消のエネルギーである。
現代のバイオマス発電の中には、外国から燃料を買っているものもある。
もちろん、それ自体を一概に否定する話ではない。
けれど奥村さんの思想から見れば、それでは本質は変わらない。
遠くから燃料を運び、遠くでエネルギーをつくり、また遠くへ供給する。
その仕組みでは、自然の循環に戻ったとは言い切れない。
輸入に頼る限り、エネルギーの自立も、地域の循環も、どこかで外側に依存したままになる。
奥村さんが目指しているのは、地域の木で、地域のエネルギーをつくることだ。
地域にある木を使って発電する。
地域の山を手入れする。
地域の人が関わる。
地域に仕事が生まれる。
地域経済がまわる。
地域の暮らしに電気が戻る。
その積み重ねができれば、エネルギーを外に頼る比率を減らしていける。
地域ごとに小さな循環が生まれれば、国内で生み出す発電の割合を高めていく未来も見えてくる。
奥村さんが考えているのは、単なる発電ではない。
地域が、自分たちの山と、自分たちの資源で、自分たちの暮らしを支える仕組みである。
そして奥村さんは、その具体的な可能性として「丸太発電」という技術に目をつけた。
ただ関心を持っただけではない。
株主として参画し、その挑戦に自ら関わっている。
思想を語るだけでは終わらない。
自分の言葉を、事業にする。
考えを、形にする。
残された時間で、具体的な行動に変える。
人間は、自然から離れすぎた。
身体も、食べ方も、働き方も、地域の産業も、どこかで循環を失ってしまった。
だから、もう一度つなぎ直す必要がある。
バイオマス発電事業がうまくいけば、地域に新しい産業が生まれる。
山が動く。
人が動く。
仕事が生まれる。
経済がまわる。
町に、もう一度活気が戻す。
それは、ただお金を生むための事業ではない。
地域が自分たちの資源を使い、自分たちの暮らしを支え、自分たちの未来をつくるための仕組みである。
奥村さんが見せようとしているのは、自然に生きる生き方そのものだ。
新しいものを追いかけるのではない。
便利さに飲み込まれるのでもない。
人間がもともと持っていた循環へ、もう一度戻す。
奥村さんは、自らのIKIGAIについてこう語った。
「日本の国を、小さいけれども足元から発信して、日本を守るというのが私のIKIGAI」
遠くの誰かに任せるのではない。
自分の生まれ育った土地に戻り、足元の山を見つめ、地域の資源を動かし、そこから日本を守ろうとしている。
奥村さんにとってIKIGAIとは、ただ好きなことをすることではない。
ただ長く働き続けることでもない。
自分が見つけてしまった問いに、最後まで責任を持つこと。
そして、自分の足元から、日本が日本として生き抜く力を残していくことだった。
自分のためではない。
地域のために。
次の世代のために。
人間がもう一度、自然に生きる道を思い出すために。
あとがき|自分の命を、何に使うのか
奥村さんの話を聞き終えたあと、私の中に強く残ったのは、
「当たり前だから」という言葉の怖さだった。
会社に入ったら、定年まで勤めるもの。
歯医者は、歯だけを見ればいいもの。
山は、そこにあるもの。
エネルギーは、どこか遠くから届くもの。
年齢を重ねたら、もう大きな挑戦はしないもの。
私たちは、知らないうちにたくさんの“当たり前”に囲まれて生きている。
そして、その当たり前を理由に、考えることをやめてしまうことがある。
仕方ない。
そういうものだから。
今さら変えられない。
自分ひとりが動いても意味がない。
そう言いながら、本当は胸の奥で感じている違和感に、ふたをしてしまう。
でも奥村さんは、そこから逃げなかった。
大企業にいながら、自分の人生はこのままでいいのかと考えた。
歯医者になってからも、口腔の中だけを見ていて本当に人間の健康を見ていると言えるのかと考えた。
咀嚼の大切さを伝えようとして、時代に届かなかった痛みも引き受けた。
そして76歳で、歯医者としての生活を手放し、生まれ育った地元へ帰った。
考えるだけでは終わらない。
考えたことを、行動に変える。
その行動がうまくいかなくても、また考える。
そして、また動く。
奥村さんの強さは、そこにあるのだと思う。
「自然に生きる」とは、楽に生きることではない。
時代に流されず、自分の内側にある違和感をごまかさないこと。
当たり前を言い訳にせず、自分の頭で考え、自分の足で動くこと。
そして最後には、ここにたどり着く。
自分の命を、何に使うのか。
お金のためだけではなく。
評価のためだけでもなく。
誰かに褒められるためでもなく。
自分が見つけてしまった問いに、どう向き合うのか。
自分が守りたいもののために、どこまで動けるのか。
残された時間を、何に燃やすのか。
奥村さんは、その問いを言葉ではなく、生き方で見せてくれた。
私自身も、まだまだ“当たり前”に逃げている瞬間がある。
本当は考えなければいけないことを、忙しさのせいにして流してしまうことがある。
動かなければいけないと分かっていながら、怖さや面倒くささに負けることもある。
だからこそ、奥村さんの姿が胸に刺さった。
人は、何歳からでも問い直せる。
何歳からでも動き出せる。
そして、命の使い道は、最後まで自分で選べる。
あなたは、何を“当たり前”として受け入れているだろうか。
本当は、どこに違和感を抱いているだろうか。
そして、その違和感の先にある命を、何に使いたいだろうか。
奥村さんの物語は、その問いを私たちに残していく。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師









