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「本当はできた」で終わらせない——サッカー選手として夢を追い、ビジネスで人をつなぐ男の挑戦
田中元士 株式会社M Agency
夢を言い訳で終わらせず、受け取った縁を誰かに渡す人
ドイツ Hanau
「本当はできた」で終わらせない——サッカー選手として夢を追い、ビジネスで人をつなぐ男の挑戦
あなたには、いつまでも胸の奥に残っている「やり残したこと」があるだろうか。
本気を出せばできたかもしれない。
あの時、挑戦していれば違う未来があったかもしれない。
そう思いながら、今の生活を守るために、自分の本音を少しずつ遠ざけていく。
多くの人は、そこで折り合いをつける。
年齢を理由にする。
安定を理由にする。
今さら遅いと、自分に言い聞かせる。
田中元士さんは、それを選ばなかった。
消防士として働きながら、胸の奥に残り続けていたサッカーへの思い。
「あの時挑戦していたらなれたのに」と言い続ける自分ではいたくない。
その思いから、田中さんは消防士を辞め、海外でサッカーに挑む道を選んだ。
言葉は話せなかった。
年齢的にも、決して早い挑戦ではなかった。
それでも、フィンランド、ルクセンブルク、ドイツへと渡り、チームを探し、契約を掴み、今もヨーロッパでボールを追い続けている。
そして今、田中さんはもう一つの挑戦を始めている。
株式会社M Agency代表取締役としての活動だ。
就職・転職、留学、営業、中古車売買、不動産仲介。
扱う領域は一つではない。
田中さんが見ているのは、商材ではない。
その先にいる人である。
「人の役に立つことが、自分のIKIGAIかもしれないです」
田中さんはそう語った。
その言葉に、難しい理論はない。
本人も「そんなに深く考えて生きてきたわけではない」と笑う。
これは、海外でサッカーを続ける一人の男が、人と人をつなぐ仕事を始めた物語である。
そして、自分の夢を追うことと、人の役に立つことを、同じ人生の中で実践しようとしている人の記録である。
第1章|「ピッチ外のことを一番言われました」——サッカー少年に刻まれた礼儀と感謝
田中さんの人生の中心には、幼い頃からサッカーがあった。
小学校1年生からボールを追い始めた。
小学校時代のサッカーは、純粋に楽しかったという。
田中さんにとってサッカーは日常そのものだった。
その景色が変わったのは、中学校に入ってからだった。
田中さんは、厳しいクラブチームに入る。
そこで教えられたのは、上手くなることだけではなかった。
むしろ田中さんの記憶に強く残っているのは、ピッチの外での振る舞いだった。
「ピッチ外のことを一番言われました。人に感謝する気持ち、礼儀、片付け、荷物を綺麗に並べること。そういうところですね」
荷物を整える。
片付けをする。
挨拶をする。
支えてくれる人への感謝を忘れない。
サッカーをする前に、人としてどうあるか。
その感覚が、田中さんの中に刻まれていった。
もちろん、すべてが美しい思い出だったわけではない。
負けたときには、長い時間、正座をさせられることもあった。
遠征で遅れた選手がいれば、バスに乗せてもらえないこともあった。
田中さん自身も、当時の厳しさに不条理さを感じたことがある。
それでも、田中さんはその経験を否定しない。
「不条理だなと思うこともあったんです。でも、それが良い経験になったかなと思っています」
そこで教わったものが今も自分の中にあると語る。
田中さんにとってサッカーは、技術を磨く場所であると同時に、人との関わり方を覚える場所だった。
チームのために動く。
支えてくれる人に感謝する。
小さな行動に、自分の姿勢が出る。
そして田中さんの原点は、家庭にもある。
家族は、父、母、祖母、兄、弟。
田中さんは、自分の家庭について「本当に大切に育ててもらった」と語る。
「親の喧嘩を見たことがないんです。不自由なく幸せな家庭に育ったと思います」
日常は、本人の中で大きな安心感になっていた。
田中さんは、自分もそんな家庭をつくれたらいいと話す。
その安心感と、サッカーで教わった礼儀が、田中さんの「人の役に立ちたい」という感覚の土台になっていった。
第2章|「あの時挑戦していたら、と言い続けるのは嫌だった」——消防士を辞め、海外へ向かった理由
高校時代、田中さんは岐阜のチームでサッカーを続けた。
全国を目指していた。
高校最後の大会。
田中さんはレッドカードで退場する。
チームは敗れた。
「悔しかったです。本当に泣きました」
高校最後の試合で、退場して負ける。
その事実は、田中さんの中に深く残った。
次の日、学校へ行けなかった。
そのあと、仲間たちから連絡が来る。
田中さんは学校へ戻った。
高校卒業後、田中さんは大学へ進む。
大学でもサッカー部に入った。
その後、田中さんが選んだ仕事は消防士だった。
きっかけは、とても自然なものだった。
「おばあちゃんに軽く言われたんです。消防士いいぞ、みたいな。体を動かしながらできる仕事を探していて、消防士いいなと思いました」
大きな使命感を掲げて選んだわけではなかった。
それでも、田中さんの中には一つの感覚があった。
消防士は、人から感謝される仕事だ。
「消防士って、ありがとうございますと言われながらお金をもらえる仕事だと思ったんです」
ありがとうと言われる。
そのうえで、お金をもらう。
田中さんは、その順番に惹かれていた。
「ありがとうが集まって、お金に変わる仕事というか。そういうのは昔からあったかもしれないです」消防士として3年間働いた。
その中で、田中さんの中に再びサッカーへの思いが戻ってくる。
2年目の頃、社会人チームに入った。
そこでまた、サッカーに強く惹かれていった。
胸の奥に残っていた感情が、言葉になる。
「本気を出せばプロになれるという気持ちが、ずっとありました。あの時挑戦していたらなれたのに、と言い続けるのは嫌だったんです」
挑戦していない自分のまま、「本当はできた」と言い続ける。
なれなかった理由を、ずっと過去に置いておく。
その生き方は、田中さんにとって納得できるものではなかった。
だから、決めた。
1年間働きながらお金を貯める。
消防士を辞める。
海外でサッカーに挑戦する。
家族に細かく相談してから決めたわけではない。
辞めて、海外でサッカーをする。
そう伝えた。
母親は驚いた。
父親は受け止めてくれた。
田中さんは26歳頃、海外へ出る。
年齢的な遅さは分かっていた。
それでも、挑戦せずに言い訳を残す方が嫌だった。
一度、本当に全力で挑戦する。
それで無理なら諦める。
その順番でしか、田中さんは自分の人生に納得できなかった。
最初の海外挑戦は、すぐには形にならなかった。
フィンランドへの挑戦はうまくいかず、コロナの影響で練習も止まる。
一度、日本へ戻った。
そこで田中さんは、関東へ向かう。
海外に強いコネクションを持つ人を探すためだった。
サッカーチームに入り、4か月ほど動いた。
その中で、ルクセンブルクのチームを紹介してくれる人に出会う。
紹介が、次の道を開いた。
ルクセンブルク2部のチームから契約の話が来る。
田中さんは1年間、そこでプレーした。
その後、ドイツへ渡る。
クロアチア人のエージェントが、ドイツのチームを紹介してくれた。
海外サッカーの道は、田中さん一人の力だけで開いたものではない。
人に会い、紹介され、縁をたどり、また次の場所へ進んできた。
田中さんは、身をもって知っていく。
人との縁が、自分の人生を前に進めることを。

第3章|「やってみたら、なんとかなった」——言葉の通じない場所で受け取った温かさ
海外へ出た時、田中さんは英語もドイツ語も話せなかった。
言葉が通じず、知っている人も少ない。
日本人がチームにいない時期も長かった。
生活も、サッカーも、契約も、すべてが新しかった。
助けを求めることすら簡単ではない環境だった。
田中さんは、その時間をこう振り返る。
「話せなかったですね。行動力で、本当にやってみてという感じです。やってみたら、なんとかなると思っていて、実際なんとかなりました。こうして生きているので、挑戦して良かったです」
理屈はない。
やってみる。
動いてみる。
分からない中で、なんとかする。
海外での生活は、想像以上に苦しかったのか。
その問いに対して、田中さんの答えは意外なものだった。
「苦しいというのは、あまりなかったです。ルクセンブルク、ドイツ、フィンランドでも友達のところに泊まったりして、外国人の人と関わることが多かったんですけど、みんな優しくて。助けてくれました」
海外へ出る前、田中さんの中にも外国人に対するイメージがあった。
言葉が通じないことへの不安もあった。
文化の違う場所に飛び込む距離感もあった。
実際に出てみると、その見方は変わっていった。
「外国人は、みたいなイメージがありましたけど、今はまったくないですね。いい人もいるし、悪い人もいる。本当にそんな感じです」
海外で生活し、サッカーをし、実際に人に助けられたことで、田中さんはその感覚を手にしていった。
サッカー選手としての生活は、華やかなものばかりではない。
生活はできる。
ただ、余裕があるわけではない。
「本当にギリギリです」
田中さんはそう言う。
海外でサッカーを続けることは、夢だけでは続かない。
ビザの問題がある。
給料の問題がある。
年齢の問題がある。
外国人選手として見られる。
田中さんは、その現実を見ている。
そのうえで、まだ挑戦を続けようとしている。
同時に、サッカー以外の未来にも目を向け始めていた。
スポーツには、いつか終わりが来る。
引退する時が来る。
その時のためにも、今から動いていきたい。
この思いが、仲介の仕事へつながっていく。
第4章|「周りを金持ちにしたい」——仲介会社に込めた分け合う思想
株式会社M Agencyは、田中さんが2026年3月頃から本格的に動かし始めた会社だ。
最初から「社長になろう」としていたわけではない。
田中さん自身も、はじめはフリーランスとして個人で動こうとしていた。
海外から日本の語学学校へ行きたい人を紹介するような、留学系のサポートをしたい。
そう考え、日本に帰った時に語学学校を回った。
そこで言われた。
法人でないと難しい。
それなら法人を立てよう。
そうして会社という形になった。
会社を持つこと自体が目的だったわけではない。
やりたいことを進めるために、必要になった形だった。
現在、田中さんは一人で動いている。
営業経験が豊富だったわけではない。
会社経営を長く学んできたわけでもない。
消防士として働き、海外でサッカーをしてきた人間が、今、人と人をつなぐ仕事を始めている。
多くの経営者の話を聞いてきた。
その中で、それぞれの会社に色があり、やり方があり、正解が一つではないことを知った。
だからこそ、自分に合ったやり方を考えていきたいと話す。
田中さんの仲介の考え方は、シンプルだ。
必要としている人に、必要な人や情報をつなぐ。
「僕にこういう人がいるよと紹介してくれた人に、出た利益の半分を渡していく形で動いています」
田中さんが掲げる目標に、「500億円渡す」「生涯売上1000億円」という言葉がある。
一見すると、とても大きな数字だ。
大きすぎて、現実味がないようにも聞こえる。
その意味を尋ねると、田中さんはこう話した。
「目標はでかい方がいいという単純な理由です。僕は紹介でお金をいただくので、紹介してくれた人に利益の半分を渡していく。500億渡せていたら、単純計算で1000億くらい稼げるなと思って」
田中さんが見ているのは、自分だけがお金を持つ未来ではない。
「周りをお金持ちにしたいんです。友達をお金持ちにしたい。周りが金持ちになったら、自分もお金持ちになると思っています」
この言葉は、田中さんの歩みとつながっている。
サッカーの情報も、チームの紹介も、人との縁も、田中さんは周りから受け取ってきた。
仲の良い人たちが情報をくれた。
チームを紹介してくれた。
海外で助けてくれる人がいた。
その積み重ねで、今の自分がある。
「恩返しじゃないですけど、助け合って、自分も良い情報があれば渡していく。そういう輪を広げていきたいです」
自分の持っている情報や人脈の中から、合いそうなものを渡す。
そこで役に立てたら、お金が生まれる。
「本当に仕事という感覚じゃないですね。喋って、仲良くなって、良い情報をもらって、こういうのどうですかと提案しながら動いている感じです」
この軽やかさの中に、責任もある。
仲介は、誰でもつなげばいいという仕事ではない。
変な人とつなげてしまえば、自分の信頼も失う。
紹介された人にも迷惑がかかる。
だから、人を見極めなければならない。
「仲介業者なので、本当に人は見極めないといけないと思っています」
自分が間に入る価値は何か。
直接やればいい話の中で、自分がいる意味をどう提示できるか。
田中さんは、そこをこれから見つけていくと話す。
「いろんな話を聞いて、ここをつなげると利益になるなと考えるのが結構楽しいんです」
必要な人に、必要なものを渡す。
そこで生まれた利益を、関わった人たちで分け合う。
自分が受け取った縁を、次の誰かの機会に変える。
これが、田中さんが今つくろうとしている仕事の形である。
第5章|「まずはギブから」——人と関わることが、生きる理由になる
田中さんにとって、成功とは何か。
そう尋ねると、田中さんは少し考えたあと話し始めた。
「今も別に幸せです。仲間にも囲まれていて、彼女もいて、家族の人たちも大切にしたいと思っています。今の状態でも満足しています。そして自分が幸せだと思った時点で、もう成功なんじゃないかなと思います」
人のために動きたい。
愛されるように動きたい。
感謝されることをしたい。
同時に、人の本当の気持ちは完全には分からないとも話す。
だからこそ、「ありがとう」という言葉が嬉しい。
「ありがとうという言葉をもらえたら嬉しいです。それをもらって僕も嬉しいので、それでいいかなって」
田中さんにとって、ありがとうは仕事の結果であり、自分の幸せを確認する言葉でもある。
人の役に立つ。
感謝される。
自分も嬉しい。
そこでお金がついてくる。
この順番が、田中さんにとって自然な仕事の形になっている。
田中さんが何度も口にした言葉がある。
与えること。
「自分が充実していないと、人に与える余裕がなくなってきます。今までの人生もそうですけど、人に与えないと与えてもらえない。最初からもらおうとしても、多分人も与えてくれないと思います」
田中さんにとって、500億円という数字も、ただの金額ではない。
「人に与える。別にお金じゃなくてもいいんです。情報だったり、行動だったり、そういうものを与える。そうしたら、返してくれる人は返してくれる。返してくれた人を大切にしていきたいです」
返してくれる人を大切にする。
小さなギブに大きく返してくれる人を大切にする。
そういう仲間とネットワークを作っていきたい。
それが田中さんの考え方だ。
「一人だと寂しいです。今日あったことを共有できる仲間や人がいることが、IKIGAIになっています」
サッカーの結果。
海外での生活。
仕事で出会った人。
嬉しかったこと。
うまくいかなかったこと。
「誰かに報告できることが、すごく嬉しいんです」
田中さんの人生は、個人の挑戦でありながら、いつも人との関わりの中にある。
まずはギブから。
良い人の役に立つ。
ありがとうとお金が一緒に生まれる仕事をする。
人と関わり、人と共有し、人と豊かになっていく。
田中元士さんの人生は、ボールを追う足で、誰かの未来もつなごうとしている。

あとがき
田中元士さんの話を聞き終えたあと、私は自分自身の過去を思い出していた。
私も、プロボクサーとして活動していた時期がある。
だから、夢を追う人間の気持ちは少しだけ分かる。
同時に、夢を追わない言い訳を考えてしまう気持ちも、痛いほど分かる。
年齢が遅い。
環境が悪い。
お金がない。
才能が足りない。
今さら挑戦しても間に合わない。
本気を出せばできたかもしれない。
全力を出して届かなかったと知るのが怖い。
だから、どこかで「本当はできた」という余白を残したくなる。
私にも、そういう弱さがあったのだと思う。
田中さんの言葉で、強く残っているものがある。
「あの時挑戦していたらなれたのに、と言い続けるのは嫌だったんです」
この言葉は、自分の弱さと向き合った人の言葉だと思った。
消防士という安定した道があった。
日本で暮らす選択もあった。
それでも田中さんは、胸の奥に残り続けていたサッカーへの思いを、言い訳のまま終わらせなかった。
言葉も話せない。
年齢的にも早くない。
保証もない。
フィンランドへの挑戦はうまくいかず、コロナで止まり、日本へ戻る時間もあった。
それでも、関東で人を探し、紹介をたどり、ルクセンブルクへ渡り、ドイツへ進んだ。
ギリギリの生活。
ビザの問題。
給料の問題。
年齢の壁。
外国人選手として見られる現実。
それでも、田中さんは自分の人生を誰かのせいにしていない。
その姿に、私は胸を打たれた。
夢を追うとは、華やかなことではない。
時に、自分の未熟さを突きつけられることだ。
自分が思っていたほど強くなかったと知ることだ。
それでも、自分の足で進んだという事実だけは残る。
そして田中さんは今、その挑戦の中で受け取ってきた縁を、誰かに渡そうとしている。
自分が紹介され、助けられ、道を開いてもらった。
だから今度は、自分が誰かと誰かをつなぐ。
必要な人に、必要な情報を渡す。
そこで生まれた利益を分け合う。
「まずはギブから」
私は田中さんの話を聞きながら、自分にも問いかけていた。
自分は、夢を言い訳にしていないか。
本気で挑戦する怖さから逃げていないか。
人に与える前に、受け取ることばかり考えていないか。
自分の人生を、自分の足で進んでいると言えるか。
IKIGAIとは、夢を叶えた人だけが持つものではない。
夢に向き合い続ける人の中にもある。
言い訳にせず、怖さを抱えたまま一歩を踏み出す人の中にもある。
そして、自分が受け取ったものを、次の誰かへ渡そうとする人の中にもある。
田中さんは今も、海外でボールを追っている。
同時に、人と人をつなぎながら、誰かの未来に小さなパスを出そうとしている。
夢を追うこと。
人の役に立つこと。
その二つは、別々のものではない。
自分の人生に本気で向き合う人ほど、誰かの人生にも力を渡せる。
もしあなたの中にも、「本当はできたかもしれない」と置き去りにしてきた想いがあるなら、自分の夢にもう一度向き合う勇気を、どうか捨てないでほしい。
そこに美しさがあるのだから。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師


