ラジオから鍼灸へ—守りたいものができたとき、人は生き方を変えていく

鍼灸院オル 古橋祐也

鍼灸師

広島県広島市

ラジオから鍼灸へ守りたいものができたとき、人は生き方を変えていく


「子どもを育てるために生まれたんだなと思ったんです」
広島で鍼灸院オルを営む古橋さんにとって、いま人生の中心にあるのは、家族だ。

最初からその価値観があったわけではない。
もともと古橋さんは、東京で約10年、ラジオ番組制作の仕事をしていた。
最初は話す側に憧れて東京へ出た。

アナウンスの学校に通い、実際にラジオ番組で話す経験もした。
そのうえで、「自分は喋るより、ラジオを作る側にまわりたい」と感じ、制作の道へ進んだのだ。

そこから約10年。
仕事は面白かった。
尊敬できる社長もいた。

続けていけば、その先もあったはずだ。
それでも古橋さんは、その道を離れた。

家族のために。
そして新たに選んだのが、鍼灸の道だった。
自分が鍼を受けて体が楽になった経験。

子どもに何かあったとき、自分で診られたらいいという思い。
一見すると、まったく違う二つの仕事。
古橋さんの話を聞いていると、その変化の真ん中には守りたいものの存在があった。

1章:「家族」に憧れていたのかもしれない——言葉にならなかった違和感の記憶

古橋さんは、自分の幼少期について「普通だった」と話す。
特別に大きな出来事があったわけではない。
強烈に楽しかった思い出も、深く傷ついた記憶も、そこまで濃く残っているわけではない。

家庭も、一見すればどこにでもあるような家だった。
ただ、今になって振り返ると、家の中には少し違和感があったのだという。
両親は、激しくぶつかり合っていたわけではない。
ただ、仲が良かったわけでもなかった。

姉がいて、家族四人で暮らしていたものの、「家族で一緒に過ごした記憶はあまりない」と古橋さんは言う。

あの空間に、はっきりと言葉にできるほどの不和があったわけではない。
それでも、どこか「一緒にいたい」と思えるような空気ではなかったのかもしれない、と。

子どもの頃は、それが当たり前だった。
家というものはそういうものだと思っていた。

でも、自分が大人になり、結婚し、子どもを育てるようになってから、
見え方が少し変わった。

なぜ、自分は高校を出て早めに家を離れたのか。
なぜ、実家に長く居続ける感覚があまりなかったのか。
なぜ今、ここまで家族を大切に思うのか。

その答えを一つに決めつけることはできない。
ただ古橋さんの話を聞いていると、幼い頃に感じていた家の空気が、
いまの家族観とどこかでつながっているように思えてくる。

人生でいちばん大事な価値観は何か。
そう問われた古橋さんは、迷わず「家族です」と答えた。
いま七歳と三歳、二人の子どもがいる。

そして、その二人を「しっかり育てること」が、自分にとって何よりも大きいと言う。
この「しっかり」という言葉には、ただ優しいだけではない重みがあった。
子どもと一緒に過ごす時間。
食べさせるもの。
今しかない小さな時期に、ちゃんと関わること。
仕事ばかりで家の空気が失われてしまわないようにすること。

古橋さんにとって家族とは、きれいな言葉ではなく、日々の具体の積み重ねの中にあるものなのだと思う。
だからこそ、古橋さんが守りたいのは、ただ「家族」という言葉そのものではない。
その中に流れる空気なのだろう。

2章:喋る側ではなく、支える側へ——ラジオの現場で見つけた仕事の軸

古橋さんは、もともと勉強が好きなタイプではなかったという。
その時々で、自分が気になったことや、やってみたいと思ったことに進んできた。

工業高校へ行き、建築に興味を持って専門学校にも通った。
学んでみると「ここで食っていくのは厳しいかもしれない」と感じ、運送会社で働くことになる。

その運送会社での日々の中で、ラジオに出会った。
トラックに乗っている時間、耳に入ってくるのはラジオだった。
聞いているうちに、だんだん面白くなっていった。
そして、「自分もラジオで喋りたい」と思うようになった。

やるなら今しかない。
そう感じた古橋さんは、仕事を辞めて東京へ出る。
アナウンスの学校へ入り、ラジオで話す側を目指した。
実際、学校の枠でラジオ番組を担当する機会もあった。

学生制作とはいえ、きちんと電波に乗る番組だったという。
そこで半年ほど、音楽番組を担当した。

ところが、やってみたことで、見えてきたものがあった。
「向いてないなと思ったんです」
喋ることに憧れて飛び込んだ世界で、古橋さんはそう感じた。

自分の喋りを聞いても面白いと思えない。
うまく話せている感覚もない。
思っていたものと、実際に自分がやることとの間には、少し距離があった。

そこで古橋さんは、無理にしがみつかなかった。
ラジオの世界を諦めたのではなく、作る側へ回ったのだ。
制作の仕事は、華やかなものではない。

最初はアシスタントとして、お便りをまとめる。
出演者の世話をする。
台本を準備する。
番組がきちんと回るように、細かなことを一つひとつ整えていく。

そうしたところから始まった。
その現場は古橋さんに合っていた。

本人は、自分のことを「ゼロから一を生み出すような画期的なアイデアを出すタイプではない」と話す。

音楽に圧倒的に詳しいわけでもない。
ただ、頼まれたことをやるのは向いていた、と。

しかも、それがとても早かったという。
「これやっといて」と言われたらすぐ動く。
頼まれたことを、一生懸命やる。
そういう姿勢を、現場の人たちはちゃんと見ていたのだと思う。

ラジオ制作の仕事は、少しずつ古橋さんの居場所になっていった。
取材についていき、会議でネタを出し、台本の流れを覚え、現場のリズムを身につけていく。

目立つことより、支えること。
前に出ることより、場がちゃんと回るようにすること。
その働き方の中に、自分の役割を見つけていった。

そして大きかったのは、勤めていた会社の社長との出会いだった。
その社長は「人の三倍動け」と言うような人だった。
簡単な仕事ではない。

休みの日も次の日の生放送の準備があり、家には寝に帰るだけのような生活になることもあった。
今なら厳しいと言われる働き方かもしれない。
それでも古橋さんは、その日々を否定していない。

なぜなら、頑張った分だけ仕事が返ってくる実感があったからだ。
信頼されれば、次の番組の声がかかる。
ちゃんとやれば、ちゃんと見てもらえる。
その手応えが、面白かった。

そして何より、その社長は尊敬できる存在だった。
仕事への向き合い方も、行動も、自信も、かっこよかったという。
「この人についていったら面白いだろうな」
そう思える相手と出会えたことも、古橋さんがラジオの現場を続けられた理由の一つだった。

話す側ではなく、支える側へ。
ラジオの仕事の中で古橋さんが見つけたのは、自分に合う働き方だったのだと思う。

3章:子どもが生まれた日、人生の主語が「自分」ではなくなった

ラジオ制作の仕事は、古橋さんにとって面白い仕事だった。
現場のリズムも、人も、働き方も、自分に合っていた。
仕事が一番だったという。

しかし、それは人生のイベントで変わった。

結婚して子どもが生まれたからだ。
古橋さんは、もともと子どもが特別好きだったわけではないと話す。
他の子どもにすごく興味があるわけでもない。
でも、自分の子どもを育てることには、まったく違う感覚があった。

「子どもを育てるために生まれたんだなみたいに思った」
人生の優先順位が変わった。

仕事が大事ではなくなったわけではない。
でも、一番ではなくなった。

それまで、仕事は自分の中心にあった。
頑張れば返ってくる世界で、信頼を積み重ねることにも意味があった。

でも子育ては、今しかできない。
小さい時期は、今しかない。
そう考えるようになったという。

実際、子どもが生まれた後、社長も仕事量を調整してくれた。
最初は休みをくれて、その後も家庭に寄せる時間を持てるようにしてくれた。
厳しいだけでなく、ちゃんと人生として見てくれる人だった。

それでも、古橋さんの中で起きていた変化は、ただ「仕事量を減らせば済む」ようなものではなかった。
自分のために頑張ること。
仕事の中で成長していくこと。
それももちろん大切だった。
でも、それ以上に、子どもを育てることの方が大きくなっていった。

ここで古橋さんの言う「家族が一番」は、ただのきれいごとではない。

食べさせるもの。
過ごす時間。
仕事との両立。
休みの日にどんな体験をさせてあげるか。
そうした一つひとつの現実の中にある言葉だ。

だからこそ、その一言には重みがある。

4章:守るために、手放した——東京、ラジオ、積み上げたキャリアのその先で


そしてもう一つ、大きな転機になったのが、奥様の存在だった。
奥様は広島の出身で、親が離婚しており、祖母に育てられたという。

その祖母のそばにいたい。
最後を近くで見届けたい。
そうした思いがあった。
その気持ちを見ていて、古橋さんは「だったら行こうよ」と言った。

簡単な決断ではなかったはずだ。
東京では、約10年積み上げてきたラジオの仕事があった。
尊敬する社長もいた。

もしそのまま続けていれば、広島でも紹介を受けて仕事をつなぐ道はあったかもしれない。
それでも古橋さんは、その延長線には乗らなかった。

朝晩の区別がつきにくく、休みも見えにくいラジオの仕事を、この先ずっと家族と両立しながら続ける未来が、あまり想像できなかったからだという。
子どもとの時間を持ちたい。
家族をちゃんと見たい。
そう思った時、違う仕事を選ぶことは自然な流れだったのかもしれない。

とはいえ、積み上げてきたものを離れることに迷いがなかったわけではない。
社長に辞めることを伝えるのは、すごく言いづらかったと古橋さんは振り返る。
面倒を見てもらい、良い環境で働かせてもらい、尊敬もしていた。
だからこそ、気持ちを伝えるのは簡単ではなかった。

それでも、自分で決めた。
社長も、最終的にはその決断を受け止めてくれた。
今でも遊びに行く関係が続いているというから、そこにも古橋さんらしい義理の通し方が見える。

広島へ移り、新しい道を考える中で、候補に上がったのが鍼灸だった。
きっかけの一つは、自分が30歳頃に初めて鍼を受けて、体がすぐ楽になった経験だった。
さらに、子どもが大きくなってスポーツをしたり、体に不調が出たりした時に、自分で見られたらいいと思った。

何をするか。
どう生きるか。
それを考えた時、鍼灸は古橋さんの中で自然に浮かび上がってきた。
もっとも、決めたからといって簡単だったわけではない。

学校は3年。
しかも働きながらではなく、勉強に集中した。
もちろん不安もあった。

ただ、そこには奥様の支えや、環境に恵まれていたことも大きかった。
だからこの転身は、古橋さんが一人で飛び込んだものではなく、家族でつくっていった転身だったのだと思う。

古橋さんは、ただやりたいことだけを追ってきたわけではない。
その時その時で、自分にとって何が大事なのか、何を守りたいのかを見ながら、生き方を選んできた。
ラジオから鍼灸へという道も、そうした選択の積み重ねの先にあった。

そして、その選択を本当に形にするために、古橋さんは覚悟を持って動いてきた。
理想だけを語るのではなく、現実の中で何をするべきかを考え、ちゃんと向き合い続けてきた。
そういう一つひとつの姿勢が、今の仕事にもつながっている。

5章:調えるのは、体ではなく暮らしなのかもしれない——自分の城に込めた思想

鍼灸の資格を取ったあと、多くの人はどこかに勤めて経験を積む。
けれど古橋さんは、すぐに独立した。

もちろん、一般的な流れはわかっていた。
接骨院や治療院に勤めて学ぶ道もある。
でも、古橋さんの中では、少し違う感覚があったのだという。

肩こり一つとっても、考え方も、施術の方法も、一つではない。
いろんな流派がある。
いろんな先生がいる。
その中で、自分はどう考えて施術したいのか。

どういうふうに患者さんと向き合いたいのか。
それを考えた時、既存の場所で働くより、自分で始めたいと思った。

もう一つ、大きかったのは集客だった。
どうせ最終的に一人でやるなら、一番大変なのはそこだと思ったという。
だったら早い方がいい。
その判断は、現場で積み重ねてきた人らしい現実感がある。

こうして広島で始まったのが、鍼灸院オルだ。

古橋さんが大切にしているのは、体の痛みだけを見ることではない。
心と体はつながっている。
体がだるいと気持ちも重くなるし、気持ちが沈んでいれば体も動かない。

そうした感覚を、自分の中でも、患者さんとの関わりの中でも、実感してきたのだという。
だから「調える」という言葉も、体だけを指してはいない。

古橋さんは、空間についてもよく考えている。
扉を開けた瞬間、少し力が抜けるような場所。
触れる前から、何かが調い始めるような感覚。

そういうものも含めて、院を作っている。
オル(aol)という名前は、「art of life」から来ている。
暮らしをつくる、という意味を込めた。

体が調うことで、暮らしが変わっていく。
一人が調うことで、家族との関わり方も変わっていく。
見えていなかったものが見えるようになる。

「実は空ってこんなに青かったんだ」そう気づけるような、そんな変化を届けたいのだと古橋さんは話す。
ここまで聞いてくると、古橋さんがやっていることは、単に症状を取ることだけではないように見えてくる。

もちろん痛みや不調に向き合う。
ただ、その先にある暮らしごと見る。

家族が一番大事だと話していた人が、今度は誰かの暮らしにも少しずつ余白をつくろうとしている。
その延長線上に、オルという場所がある。

古橋さんが調えようとしているのは、体だけではない。
呼吸の深さであり、暮らしの余白であり、その人を取り巻く空気そのものだ。
そして、その変化はやがて、家族との時間や日常のあり方にまで静かに広がっていく。

ラジオの現場で支える側にいたこと。
家族を守るために生き方を変えてきたこと。
自分が鍼を受けて体が楽になった経験。
子どもに何かあったとき、自分の手で見られるようになりたいと思ったこと。
その一つひとつが、いまの仕事へとつながっている。

古橋さんにとってIKIGAIとは、
「家族を大事にしながら、二人の子どもをしっかり育てていくこと」
そのために、仕事も暮らしも、自分なりにちゃんと調えていく。


鍼灸という仕事もまた、その延長線上にある。
目の前の人の体を調えることが、その人の暮らしや家族の時間まで少しでも良い方へ向かっていく。
そんなふうにつながっていくことが、古橋さんの生き方そのものになっている。

あとがき:守りたいものができたとき、人は生き方が変わる

「家族が一番」という言葉の重さ。

仕事との両立を考えること。
子どもが小さい今に関わること。
家で料理をすること。
家族と過ごす空気を守ること。

理想を言うのは簡単だが、
今の自分を変えてまでこの選択を追いかけることは生半可な覚悟ではできない。

だからこそ、強い。
守りたいものができたとき、人は不自由になるのではなく、むしろ選ぶ基準がはっきりしていくのかもしれない。

何を続けるか。
何を手放すか。
どう生きるか。

その一つひとつが、少しずつ変わっていく。
古橋さんにとって、ラジオから鍼灸への道は、

やりたいことを大きく掲げたというより、
守るべきものに合わせて、生き方を変えてきたように思う。
そして今、その先にあるのがオルという場所だ。

自分の家族を大切にしてきた人が、
今度は誰かの暮らしにも、少し呼吸しやすい空気をつくろうとしている。
守りたいものができたとき、人は生き方が変わる。

古橋さんの歩みは、そのことを静かに教えてくれる。

覚悟とはなんなのか?
守るとはなんなのか?

その答えは、自分の心の奥に、もうあるのかもしれない。

IKIGAIコネクター
尾﨑弘師

 

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