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色で心を読み街を編む——「色と心の専門家」という生き方
株式会社あしたのたのしみ 我那覇奈緒
色と心の専門家
沖縄県浦添市
色で心を読み街を編む——「色と心の専門家」という生き方
あなたは、自分の「好き」を、どこまで信じ切ったことがあるだろうか。
好きなことを仕事にしたい。
自分らしく生きたい。
誰かの役に立ちたい。
言葉にしてしまえば、どれも美しい。
けれど現実は、そんなに単純じゃない。好きなことを選べば、食べていけるのかという不安がつきまとう。自分らしくあろうとすればするほど、周囲とのズレに苦しむこともある。誰かのためにと思えば思うほど、自分の未熟さを思い知らされる瞬間もある。だから多くの人は、どこかで熱を調整する。夢を小さくして、正解の方へ寄せていく。
株式会社あしたのたのしみ 代表取締役社長・我那覇奈緒さん。
沖縄を拠点に、「色と心の専門家」として活動する彼女は、色をただおしゃれの話で終わらせない。似合う・似合わないで切り分けるのでもない。色を通して人の感情を整え、空間の意味を深め、建築や教育、福祉、そして地域の未来にまで接続していく。そんな仕事を、自分の手で少しずつ編み上げてきた。
最初から、その道が見えていたわけではない。
ファッションの世界に憧れて東京へ出た。
最前線を見た。夢中にもなった。
その世界の中で、彼女は自分の限界ではなく、自分の“違い”に気づいてしまった。
「やっぱり人と人で仕事したいっていうのが心の中にあって」
そう彼女は振り返る。
華やかな世界のただ中で、彼女が最後まで手放せなかったのは、流行の先端に立つことよりも、“人の心に触れること”だった。
そして今、我那覇さんはこう言う。
「AIで配色を提案したりできるかもしれないんですけど、やっぱりそこにどういう想いをのせて、どういう人の感情に影響を与えていきたいかというところが大事」
その言葉には、色を扱う人の話を超えて、これからの時代に人が人である意味そのものが滲んでいるように思えた。
これは、一人の女性が「好き」を仕事にした物語ではない。
好奇心から始まった感性が、やがて人の心を支え、社会の未来を彩る力へと育っていった、生き方の記録である。
これは、あなただけの“色”の意味にも気づかせてくれる物語かもしれない。
第1章|遊べなかった少女は、色の中で世界を広げた——好奇心と感受性の原点
我那覇さんは、自分の幼少期を「お転婆だった」と笑う。
外が好きで、自然が好きで、じっとしているよりも、体ごと世界に飛び込んでいく方が似合う人だ。
だが、そんな彼女には喘息があった。
遊びに行きたいのに、止められる。
外で思い切り走りたいのに、「行っちゃだめよ」と言われる。
その制限は、子どもにとって思った以上に深い。大人から見れば健康のための配慮でも、本人からすれば「自分の本能の出口をふさがれる」ような感覚だったかもしれない。
我那覇さんはこう言う。
「お転婆だったけど、喘息持ちだったんです。遊びに行きたいけど行っちゃだめよって言われる中でできることが、絵本読んだり絵を描いたりだったので無意識に色の世界が好きになっていきました」
そして彼女の色への執着は、かなり早い段階から、すでに普通ではなかった。
父に買ってもらった、たくさんの色が入った色鉛筆。
普通ならすぐに塗り絵を始めるところを、彼女はまず全部の色を紙に塗ったという。青のチーム、赤のチーム。番号ごとの発色を見本にして、「この番号はこの色だ」と自分の中で整理してから、ようやく絵に向かった。
「目で見た色鉛筆の色と、実際に紙に塗った色が違っていて、違和感があったのでしょうね。1回全部紙に塗って、その番号はこの色だっていう見本を作ってから、この紙を見ながら塗り絵をしていました」
曖昧なまま扱うことが嫌だった。自分の目で確かめ、自分の中で納得しないと先に進めない。その几帳面さと感受性の高さが、幼い頃から同居していた。
だからこそ、色は彼女にとって
外に出られない時間の代わりでもあり、世界を理解する方法でもあり、自分の感覚を信じるための道具でもあったのだろう。
さらに彼女を支えたのは、家庭の空気だった。
親は、頭ごなしに止める人ではなかった。もちろん心配はする。だが「やるな」ではなく、「まずやってみたらいい」という空気があった。
彼女は言う。
「うちの両親も好奇心を大事にしてるかもしれない」
「とりあえず120%やっておくと後悔しないよっていうのは母に言われてました」
この二つの言葉に、彼女の人生の土台がきれいに表れている。好奇心を肯定されてきたこと。中途半端ではなく、120%で向き合えと言われてきたこと。それは自由放任とは少し違う。やりたいことをやらせてもらえるだけではなく、“やるなら本気でやれ”という文化が家にあったのだ。
そしてその感覚は、この先、彼女をもっと遠くまで連れていくことになる。
第2章|東京で知った「好き」だけでは越えられない壁——ファッションに恋をして、ファッションで傷ついた日
やがて我那覇さんは、服飾の世界に惹かれていく。
「最初は色のことを仕事にしようと思ってなくて、服飾の仕事をしたかったんです」
「洋服のコーディネートに必要だったから、色を学び始めた」
進学校に通いながら、彼女は早くから自分の進路を決めていた。
服の仕事がしたい。だから東京へ行く。
普通の進路、普通の安定よりも、自分の“ときめき”の方を信じていた。
進んだ服飾の学校は、現場に出してくれるところだった。
東京コレクションの裏方として、フィッターの仕事にも関わった。最先端の現場。モデル。スタイリスト。次々に更新される流行。息をのむような華やかさ。そんな世界の中に自分が立っている。それだけで胸は高鳴る。
実際、彼女はその世界を楽しんでいたのだと思う。
だが、同時にある違和感が消えなかった。
「人と人で仕事したい」
彼女はそう言った。
ファッション業界も、もちろん人と人でつくられている。だがそこには、常に新しいものを発信し続けるスピードと圧力がある。人間関係の深さより、表現の鮮烈さが優先される局面もある。
ファッションやアートの世界にいる人たちに、深いリスペクトを抱いていた。
「服飾の業界で勝負してる人たちって、良い意味でデコボコでその欠点を補う物凄い才能があり、絶対に追いつけないなって感じることもあった」
そして「私はそこではない」と感じてしまった。人は憧れた世界の中でこそ、自分との違いを思い知ることがある。そこに残れなかったからではなく、そこに残る自分を想像できなかった。
我那覇さんは、その時期をこう振り返る。
「過呼吸にまでなって、自分と向き合うので」
「120%やり切ったんですよね。吐くほど考えました」
ファッションが嫌いになったわけではない。
センスが通用しなかったと卑屈になったわけでもない。
ただ、「あれ、ここは私の命の使いどころじゃないかもしれない」と感じた。
好きでも、続けない選択もある。
憧れた世界だからこそ、自分の居場所ではないと認める痛みもある。
やり切った先で、次の扉の気配を見つけた。
第3章|出会いと現場が広げた仕事の輪郭——色が「人の役に立つ」仕事になっていくまで
ファッションの世界で大きな挫折を経験したあと、我那覇さんは立ち止まったままではいなかった。
次に考えたのは、「自分は将来どういう人になりたいのか」ということだった。
本人はこう振り返る。
「逆算して、経営者になるとしたらどういう人になりたいんだってところで、様々な女性の経営者を調べ始めたんです」
その中で、「この人の雰囲気が素敵だな」と思う女性経営者に出会う。
過去に少し接点があったこともあり、我那覇さんは自分から連絡を取り、話を聞きに行った。そこで独立したい気持ちも含めて率直に話したところ、「今うちで一人探しているんだよね」と声をかけられる。結果として、その出会いが就職につながった。
「私の就活は、そのランチで終わりました」
そう我那覇さんは話している。
入った会社は小さな組織だった。
だからこそ、仕事の範囲は広かった。
秘書のような役割もする。
数字も見る。
営業にも出る。
メール対応もする。
講師として現場に出ることもある。
部署で区切られるのではなく、会社全体を動かす仕事を実地で経験していった。
その時間を、我那覇さんは「勉強期間」として受け取っていた。
「お給料をいただきながら、中核に居させてもらえるっていうのは、すごいありがたいなと思ってやってましたね」
同じ時期、彼女はスクールの仕事だけでなく、NPO法人の事務局にも関わっていた。
ここで、仕事に対する見え方が少しずつ変わっていく。
東北の震災後には、心のケアができるメンバーを現地に派遣する活動にも関わり、自身も何度か足を運んだ。
その経験を通して、色や心の学びは、単に「好きなこと」ではなく、状況によっては誰かを支える力にもなり得ると実感したという。
「様々なビジネスっていうのは、私がただ好きなだけではなくて、こうやって有事の際に誰かの役に立てるスキルなんだっていうところを見せてもらった」
さらに、仕事の幅は建築にも広がっていく。
その中で、緩和ケア病棟の色彩設計に関わる機会があった。
設計が終わって引き渡して終わるのではなく、月に一度、その場に足を運び、アートセラピーのような形で継続的に関わることになった。
そこは、余命宣告を受けた人たちが入院する場所だった。
一か月後に行くと、前回会った人がもういない。
そんなことが続く現場だったという。
我那覇さんは、そこで感じたことをこう話している。
「やっぱりその時に、自分の人生は1回きりなので、誰かのために貢献するとか、自分のやりたいことを実現するとかですね。時間が有限なんだなっていうことを思い知る機会があったかも」
この頃から、我那覇さんの中で、「好きだからやる」という感覚に加えて、「このスキルで何ができるか」という視点が強くなっていった。
また、この時期にもう一つ大きな気づきがあった。
それが、「色は一つの業界に閉じない」ということだった。
服飾にも関われる。
心理にもつながる。
建築にも使える。
教育や福祉にも接続できる。
本人もこう言っている。
「色の業界は心理学も活用できるし、服飾の知識も活かせるし、何なら建築関係の仕事もやってるんですけど、『衣食住』全部に関わることができる」
「色の専門家になれば、様々な業種に関われるんだっていうのが衝撃的だったんですよ」
ファッションで終わらない。
心理にも通じる。
建築にも行ける。
教育にも福祉にも、街にも触れられる。
我那覇さんにとって「色」は、ひとつの仕事ではなく、いろいろな分野をつなぐ軸になっていった。
第4章|「色と心の専門家」と名乗った日——独立と、その先で変わっていった重心
会社員として7年間働く中で、我那覇さんはさまざまな現場を経験した。
服飾の知識だけではなく、スクール、NPO、建築、講師、経営の数字まで見てきた。
そのうえで、独立のタイミングを考えるようになる。
背景にあったのは、自分の人生設計でもあった。
中学2年生の頃から付き合っているパートナーがいて、いずれ結婚や出産も視野に入っていた。だからこそ、立ち上げるなら先の方がいいと考えたという。
「出産とかを逆算したら今しかないと思って27で、独立しました」
独立すると、自分で自分の肩書きを決めなければならない。
会社名ではなく、「自分は何をする人なのか」を名刺の上で言葉にする必要があった。
その時に選んだのが、「色と心の専門家」だった。
この肩書きには、それまでやってきたことがそのまま入っている。
色だけではない。
心だけでもない。
ファッションにも建築にも教育にも福祉にも関わってきたからこそ、この言葉にまとまっていった。
独立当初は、服飾寄りの仕事も多かった。
セレクトショップもやっていた。
パーソナルカラーの診断や、似合う色の提案もしていた。
けれど、事業を続ける中で少しずつ重心が変わっていく。
「その時までは洋服のことがメインでプラスメンタルでした。今は建築や心理のところがメインの事業です」
その変化について、我那覇さんはこう言っている。
「もっとお客様のために何ができるかなって考えています」
独立して、お店を持ち、自分で仕事をつくるという一つの自己実現を果たした。
そのうえで、関心が「自分が何をしたいか」だけではなく、「相手に何を渡せるか」へと少しずつ移っていったということなのだろう。
現在の彼女は、自分のIKIGAIについてこう話している。
「目の前の人のために何ができるかなという視点が、私にとって継続できるエネルギーになってるかもしれないです」
「今は目の前の人をどう幸せにできるか、よくできるか。私の持ってるスキルで何ができるかが、強いと思います」
最初は、色が好きだった。
服が好きだった。
コーディネートが好きだった。
そこから始まったものが、
仕事になり、
現場に広がり、
人の役に立つ感覚へと変わっていった。
そして今は、建築の仕事を広げながら、その先で教育にも還元していきたいと考えているという。
衣食住にまたがる「色」の仕事を軸にしながら、目の前の人だけでなく、地域や次の世代にもつながる形を模索しているところなのだ。

第5章|色はAIに奪えない——建築、街、教育へと広がる次の挑戦
いま我那覇さんの仕事は、服や個人向け診断の枠を超えて、建築や公共空間へと広がっている。
保育園や福祉施設への研修から始まり、やがて建て替えや空間設計へと仕事が派生していった。色を選ぶ。素材を選ぶ。場の印象を整える。だが彼女の仕事は、単に「きれいに見える色を選ぶ」ことではない。その場所に込められた想いを受け取り、言葉にならない感覚ごと空間に翻訳することだ。
たとえば火葬場の設計。
普通なら「色を使わない方がいい」とされる場所に、あえて色を提案する。
なぜか。
そこに来る人に、どんな感情でいてほしいのか。
どういう意味のある場所として受け取ってほしいのか。
その問いに向き合うことで、色は単なる装飾ではなく、感情の導線になる。
彼女は言う。
「正解はいっぱいあるんです。配色って」
「その人からしかでない言葉を、集約して色やデザインに落とす。そしたらそれが人に伝わる」
色の正解には、その場所に関わる人の言葉や歴史や願いが必要になる。色は、センスだけでは決まらない。誰の、どんな想いを、どう受け取ったかによって、まるで違う意味を持ち始める。
そして彼女は、そうした仕事こそAIには奪えないと言う。
「AIで提案や質問をすれば簡単に配色が出てくる。でも想いを汲み取って、未来も考えて色に変換するのは人にしかできない」
この言葉の中には、技術への否定ではなく、“それでも残る人間の仕事”への確信がある。AIは配色を出せる。心理効果のデータも並べられる。だが、「この街がどう見られたいか」「この施設がどんな記憶として残ってほしいか」「この行政が何のためにこの場所をつくるのか」という、人間の文脈までは引き受けられない。そこに関わる人たちの感情や葛藤をまとめて受け取り、色や空間に落とし込むには、やはり人がいる。しかも、感性と理論の両方を通して語れる人が必要なのだ。
彼女はいま、「沖縄100色プロジェクト」という構想も描いている。
「沖縄の100色の色選びみたいなのを、今やりたいなと思っています」
観光で選ばれる島なのに、景観条例はあっても、その土地らしさを“攻め”の視点で表現しきれていないのではないか。補助金で生まれた商品や施設が、沖縄の空気感とどこかずれて見えることはないか。だったら、色で土地の個性を体系化し、街も、人も、産業もつなげていけるのではないか。そんな長期的な視点で、彼女は次の仕事を考えている。
新しいことに好奇心は向く。だが、ただ飛びつくのではない。
「今までやってきたことと、編んでるイメージです」
「失敗もあんまり失敗と思ってないんで、次のために必要な学びだったなら、みたいに思っています」
この感覚があるから、彼女の人生は点ではなく線になる。バラバラに見える経験が、あとからひとつの文脈になっていく。ファッションも、心理も、教育も、福祉も、建築も、街も、全部つながっていたのだと、彼女自身が後から編み直していく。そんな生き方なのだ。
そして最後に、彼女は自分のIKIGAIをこう言った。
「目の前の人のために何ができるかなって考えること」
「ありがとうって言われると、エネルギーになる」
我那覇さんにとって色とは、センスではない。
生き方であり、問いであり、誰かの未来をよくするための手段だ。
だから彼女は、今日も自分の道を自分で決めている。
誰にも敷かれていない道を、転びながらでも、自分の色で歩いている。
IKIGAIと共に。

あとがき|あなたは、自分の色で生きているだろうか
今回、我那覇さんの話を聞きながら、僕の中にずっと残っていたのは「自分の道を、自分で編んでいく人は強い」という感覚だった。
今は、変化が早い。
AIも進む。
情報も溢れる。
正解らしきものが、毎日いくつも流れてくる。
でも、そんな時代だからこそ、最後に残るのは「自分は何を信じているのか」という問いなんじゃないかと思う。
我那覇さんは、ずっと好奇心で動いてきた人だ。
でも、ただ気分で動いてきたわけじゃない。
120%やる。
やり切る。
傷ついても、学びに変える。
今までやってきたことを、次につなげる。
その積み重ねの先に、「色と心の専門家」という誰にも真似できない生き方を、自分の手でつくってきた。
しかも彼女は、その専門を、自分のためだけに閉じていない。
服から始まった色が、心へつながり、命の現場へつながり、建築へつながり、街へつながっていく。
それは彼女がずっと、自分の感覚と、目の前の人への誠実さを手放してこなかったからだと思う。
きっとIKIGAIって、こういうことなんだと思う。
お金や肩書きや正解に振り回される前に、
自分の感性を信じ、
自分の専門を育て、
それを誰かのために差し出していくこと。
あなたは、自分の色で生きているだろうか。
誰かに用意された色を、ただ塗っているだけになっていないだろうか。
うまくいかなかった過去を、終わった話にしてしまっていないだろうか。
失敗は、終わりじゃない。
次を編むための素材だ。
傷ついたことも、遠回りしたことも、やり切った時間も、全部いつか誰かを照らす色になる。
だからこそ、問い続けたい。
あなたが今、120%で向き合いたいものは何だろうか。
あなたがこれから、自分の色で編んでいきたい未来は、どんな景色だろうか。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師


