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誰もが活かされる場所をつくりたい——糸島の畑から始まった、ジャム作りの奥にある共存社会への願い
吉田信 いとしまジャム
ジャムの奥に、共存社会を描く人
福岡県糸島市
誰もが活かされる場所をつくりたい——糸島の畑から始まった、ジャム作りの奥にある共存社会への願い
あなたは、自分の力を、ちゃんと活かせているだろうか。
仕事の中で。暮らしの中で。誰かとの関係の中で。
本当はできることがある。本当は役に立てることがある。それなのに、社会の仕組みや空気の中で、その力を出せないまま生きている人がいる。
畑にも、似たようなことが起きている。
形が悪い。キズがある。規格に合わない。出荷しづらい。
ただそれだけの理由で、まだ食べられる野菜が畑に残される。農家が手をかけ、時間をかけ、土と向き合いながら育てたものが、誰にも届かずに消えていく。
福岡県糸島市を拠点に活動する、いとしまジャム代表・吉田信さん。
糸島産の化学肥料不使用・無農薬の野菜や果物を使った無添加ジャムやピクルスを製造している。砂糖にはきび糖を使い、できる限り有機の素材を選ぶ。素材の味を大切にしながら、行き場を失った野菜にもう一度役割を与えている。
吉田さんは、自分の仕事をこう語った。
「ジャムは、目的ではないんです」
その言葉の奥には、長い時間をかけて育ってきた願いがある。
障がいのある人も、ない人も。早く動ける人も、ゆっくり進む人も。大きな組織で働く人も、小さな仕事を積み重ねる人も。誰もが自分の力を活かし、無理なく、穏やかに生きられる社会をつくりたい。
その理想に向かうための一歩として、吉田さんは糸島の畑から、ジャム作りを始めた。
半導体製造装置メーカーで働き、インテリアの世界へ進み、まちづくりへの関心を持ち、福祉の現場へたどり着いた。そして、畑に残された野菜と出会った。
理想とする社会は、待っているだけでは生まれない。だから吉田信さんは、糸島の畑から、ジャム作りを通して一歩ずつ進んでいる。誰もが自分の力を活かし、穏やかに生きられる社会を目指して。
これは、ジャムをつくる物語ではない。糸島の畑から、誰もが活かされる社会を少しずつ形にしていく、一人の男の挑戦の記録である。
第1章|正直に生きるという土台——普通の家庭に残された、静かな責任感
吉田信さんは、自分の幼少期を特別なものとして語らない。
「普通に、特に目立った子どもでもないし、特にこだわりもなく幼少期を過ごしてきました」
父はサラリーマン。母は専業主婦。吉田さんの言葉を借りれば、「普通の一般の家庭」だった。
父の若い頃の話を、吉田さんが詳しく知ったのは最近のことだった。父が暮らしていた家が空き家になり、解体しなければならなくなった。その時に親族から昔の話を聞いた。
父は若い頃に両親を早く亡くし、兄弟の中で一人の男性として、働きながら勉強していたという。
それまで吉田さんにとって父は、自分の趣味を楽しみながら生きている人に見えていた。家族よりも自分の楽しみを優先しているように感じた時期もあった。
昔の話を聞いて、見え方が少し変わった。
「努力家だと思いましたね」
短い言葉だった。大きく感情を乗せて語るのではない。淡々としながらも、その言葉には、父の人生を後から受け取った人の静かな敬意があった。
父は真面目で、頑固な人でもあった。
職場から家に電話がかかってきた時、怒っている姿を見たことがあるという。おそらく、納得できないことを言われたのだろうと吉田さんは振り返る。
「自分は納得できないことを言われて、怒ったんだと思います。父もすごい真面目で頑固だったので」
自分の中にある基準を曲げない。違うと思うことには、ちゃんと意見を言う。吉田さんは、父をそういう人として覚えている。
母には、食へのこだわりがあった。
外食に連れて行くことはあまりなく、家では手作りの料理が多かった。味噌も手作りのものを使っていたという。若い頃から生協にも関わり、できるだけ農薬が使われていないもの、安心できる食材を選んでいた。
「母はできるだけ農薬が使われていないものとか、食の安全みたいなことは考えていたんじゃないかなと思います」
吉田さんが今、農薬や化学肥料不使用の野菜や果物を使い、無添加のジャムを作っていることを考えると、この家庭の記憶は自然と重なってくる。
本人は、それを大げさな原体験として語らない。ただ、食べるものを選ぶこと、手作りのものを大切にすることは、家庭の中にあった。
吉田さんに、両親から何を学んだのかを聞くと、こう答えた。
「はっきり言われた言葉はないけれど、正直に生きるということを教わった気がします」
正直に生きる。その言葉は、吉田さんの中で抽象的な美徳として置かれているわけではなかった。
吉田さんにとって正直とは、何か。
「やっていることそのものが、自分自身に責任を持たないといけない。それが正直だと思います」
自分がやっていることに責任を持つ。
幼少期の吉田さんは、情熱をむき出しにして何かを追いかける子どもではなかった。進路も、自分で強く切り開いたというより、親の意向に沿って私立の高校へ進み、そのまま大学へ向かう流れの中にいた。
「レールの上を走っているような感覚に近い形ですかね」
そう問いかけると、吉田さんは「そうですね」と答えた。
まだ、自分の道は見えていなかった。自分が何に命を使うのかも分からなかった。ただ、その家庭には、正直であること、責任を持つこと、食を大切にすることがあった。
その静かな土台が、のちの吉田さんの選択を支えていく。
第2章|会社は守ってくれない——バブル崩壊後に芽生えた、自分で力を持つという問い
大学時代、吉田さんはバブルの空気を知っている。
本人自身が大きなお金を持っていたわけではない。街や社会の雰囲気として、明るさがあったという。
「雰囲気はよかったですね。未来が感じられる時代でした」
就職活動を終えた頃、社会の空気が変わり始める。バブル崩壊。社会の流れが変わった。
吉田さんは、精密機器メーカーへ就職する。
最初は宣伝部門に配属され、カタログ制作や展示会の仕事に関わった。その後、業務や営業の仕事も経験する。
その会社について、吉田さんは今も「良い会社だった」と話す。同期の中には、そのまま長く勤めている人も多い。働きやすい環境でもあった。
その一方で、景気が悪くなり、会社でリストラが行われるようになると、吉田さんの中に不安が生まれていった。
会社の売上が悪くなり、リストラが始まる。その頃から、吉田さんは強く感じるようになった。
「このままこの会社にいていいのかなって思いました」
会社が守ってくれる時代が、少しずつ揺らいでいた。
昔は、一度勤めたら一生働くという感覚があった。実際、その会社には長く勤めている人も多かった。ただ、吉田さんの中には別の問いがあった。
自分の身は、自分で守らないといけない。
メーカーの中で中心になるのは、研究開発や製造に関わる理系の人たちだった。吉田さんは文系である。経理や財務などの専門知識を持っていたわけでもない。
会社の中では役割がある。仕事も任される。一生懸命取り組んでもいた。ただ会社に居続けることの不安が膨らんでいった。会社を離れた時、自分には何ができるのか。
「この会社を抜けた時に、じゃあ自分は何ができるんだろうって思いました」
吉田さんはすぐに会社を辞めたわけではない。十数年勤めながら、自分が何に興味を持っているのか、どんな分野に進みたいのかを考え続けた。
その中で出会ったのが、ヒーリングランドスケープ(癒しの景観)という考え方だった。
景観が人間に与える心理的な影響。人が安らぐ空間。建築や自然、環境が心に及ぼす力。吉田さんは、その考え方に惹かれた。
「社会が混沌とする中で、自分の中では癒やしの景観を作るような仕事がしたいなと思いました」
もともと建築物も好きだった。景観や造園は、建築に付随するものでもある。空間が人の心を癒やす。人がほっとできる景色をつくる。そういう仕事がしたいと思った。
35歳。当時、転職は36歳までと言われていた。
吉田さんは、ぎりぎりのタイミングで会社を辞める。
本の著者に手紙を書き、景観や造園の仕事に就きたいと相談した。返ってきたのは、年齢的に厳しいだろうという言葉だった。
吉田さんは、そのまま造園には進まなかった。代わりに選んだのは、インテリアの仕事だった。
会社に入る前には、インテリアコーディネーターの資格を取った。さまざまな資格も取りながら、準備を重ねた。
「全く未知のところに行ったというより、好きなことをしに行ったという気持ちでした」
インテリアの仕事は、5年ほど続けた。
デザインの良い家具に触れ、空間づくりの現場を見る。その仕事の面白さもあった。同時に、現実も見えた。
デザイン性が高く、高品質な家具を求める人はいる。だが、世の中にはデザインが良く、安く買える家具も増えていた。こだわりのある商品が、時代の中でどう求められるのか。そこに難しさも感じた。
さらに、北海道・旭川への転勤の話が出る。
せっかく九州に帰ってきた。親も高齢になっている。これから北海道へ行くことには、気持ちが向かなかった。
吉田さんは、その会社を辞める。
会社を出て、自分の力を持とうとした。好きな世界に飛び込んだ。そこでまた、次の問いが生まれた。
自分は何をつくりたいのか。どんな場所をつくりたいのか。どんな社会の中で、人が穏やかに生きられるのか。
その問いを抱えたまま、吉田さんはやがて糸島と福祉の現場へ向かっていく。
第3章|福祉の現場で、心が楽になった——分けられた社会への違和感
吉田さんには、大学時代からまちづくりへの関心があった。
福岡で生活していた頃から、糸島のことは知っていた。関東で暮らしていた時には、長野など自然豊かな場所にもよく足を運んでいた。
吉田さんにとって糸島は、東京から見た長野のような存在だったという。
都市の近くにありながら、自然が豊かに残っている。海があり、山があり、暮らしの匂いがある。それでいて、大きくリゾート化されているわけではない。
なぜ、この自然は守られてきたのか。吉田さんは、そこに関心を持った。
一時期リゾートブームがあり、全国には開発された後に廃れていった場所もある。糸島には、まだ自然が残っていた。開発されなかったからこそ守られた面もある。
吉田さんは、さらに考えた。
誰がそれを守ってきたのか。自然を守ろうとする気持ちを持つ人がいなければ、守れないのではないか。そのことを伝えるイベントができないか。自然を感じながら走るマラソン大会のようなものができないか。
吉田さんは、糸島の自然をただ楽しむだけではなく、その自然がなぜ残ってきたのかを伝える場をつくりたいと考えていた。
その話を知人にすると、こんな言葉が返ってきた。
「だったら、NPOを立ち上げたほうがいいんじゃないかな」
吉田さんは、NPOという組織を知る必要があると感じた。まずは現場を知り、仕組みを学ばなければならない。そう考えていた。
ちょうどその頃、NPOへ人材を派遣する事業があった。
これだったら、まちづくりの現場に関われるかもしれない。そう思って応募した。
しかし、派遣された先は、吉田さんが想像していた場所とは少し違っていた。
「まちづくりではなくて、福祉の方に派遣されたんです」
そこは、知的障がいのある人や身体障がいのある人が働く福祉作業所だった。現在でいう就労継続支援B型に近い場所だった。
吉田さんにとって、障がいのある人と深く関わるのは初めてだった。
「生まれてから、障がいのある方に触れたことが全くなかったんです」
まちづくりを学びに行くつもりだった。そこで吉田さんが出会ったのは、制度や地域活動の仕組みではなく、本来は同じ社会の中で働くはずの人たちが、分けられてしまっている現実だった。
最初は、どう接していいか分からなかった。距離を感じながら、その場にいた。少しして、知的障がいのある人が話しかけてくれた。そこから、だんだん馴染むようになっていった。
その現場で働くうちに、吉田さん自身の中に変化が起きた。
「自分自身の気持ちがすごく楽になったんですよ」
この言葉は、吉田さんの歩みの中で大きな意味を持っている。
福祉の現場に入り、誰かを助ける側になったという話ではない。吉田さん自身が、そこで楽になった。
今の社会には、障がいのある人だけを集めた場所がある。健常者だけで動いている社会がある。吉田さんは、その分けられ方に違和感を持った。
本来は、一つの社会のはずだった。
健常者の中に、障がいのある人にいれば、その人に合わせた生活や仕事のリズムが必要になる。早く動ける人だけを基準にしない。できないことだけで判断しない。人それぞれの力に合わせて、場のほうも変わっていく。
吉田さんは、そこに可能性を感じた。
「それは障がい者のためだけじゃなくて、自分たち健常者のためでもあると思いました」
障がいのある人が排除される社会は、健常者にとっても生きづらい。普通の基準が高くなりすぎる。効率やスピードだけが求められる。そこに届かない人は、自分を責める。精神的に追い詰められる人も増えていく。
吉田さんは、そうした社会のあり方にも目を向けていた。
「精神障がいの方が増えてるのも、それが原因じゃないかなと思うんですよね」
福祉の現場で見たものは、吉田さんの中で一つの願いになった。
障がいのある人とない人が、同じ社会の中で生きること。それは特別な理想ではなく、本来あるべき自然な姿なのではないか。
最初は、制度を使って作業所をつくろうとも考えていた。障がいのある人のグループホームの立ち上げに関わった経験もあり、制度を使った施設づくりができないとは思っていなかった。
ただ、制度を使うことへの違和感が少しずつ強くなっていった。
やりたいことは働く場を作りたい。何かを作って売ってその中から収入を得る会社。
制度を使って施設をつくると、運営のために利用者を何人集めなければならない、認可のために職員は何人必要?という考え方になる。本来やりたいこととは別に、施設を維持するための経営を考える必要が出てくる。そうすると皆が同じ方向を向けなくなると考えた。
「制度を使った施設は作りたくないんですよね」
吉田さんは、別の道を考えるようになった。
自分で歩みながら気づいたこともあった。
今、社会には小さな事業者がたくさんいる。もう少し人がいれば仕事が増やせる。事業も伸ばせる。地域には仕事があちこちにある。
そういう小さな事業者をうまく連携できないか。
福祉施設をつくるのではなく、地域の仕事と障がい者をつなげる。制度の枠組みだけに頼らず、誰もが活かされる場所が作れないか。その問いが、吉田さんの中で育っていった。
まちづくりを知るために応募したNPO派遣。そこからたどり着いた福祉の現場。障がいのある人との出会い。自分自身の心が楽になった感覚。
その経験が、吉田さんの中に、理想とする社会の輪郭を描いていった。

第4章|ジャムは目的ではない——畑に残された野菜から始まった、小さな社会設計
福祉の現場で、吉田さんの中に一つの願いが芽生えていた。
障がいのある人とない人が、同じ社会の中で生きていける場所をつくりたい。
ただ、考えれば考えるほど、違和感も大きくなっていった。
制度を使えば、施設を維持するために利用者の人数や職員を集めなければならない。運営のための数字を追わなければならない。本来やりたいこととは別のところで、施設を続けるための経営を考える必要が出てくる。
吉田さんは、そこに少し引っかかっていた。
「制度を使った施設は作りたくないんですよね」
目指していたのは、施設をつくることそのものではなかった。誰もが自分の力を活かせる仕事をつくることだったのだ。
そのためには、まず自分自身が小さくても仕事を生み出し、続けられる形をつくらなければならない。そう考えた時、吉田さんの中で、福祉の現場で関わっていた「食」の経験がつながっていく。
働いていた作業所では、焼き菓子をつくっていた。衛生管理や製造の流れを知る機会もあった。その経験があったから、食品づくりに入る時も比較的スムーズだったという。
その後、吉田さんは畑に捨てられている野菜を見る。
規格外。B品。形が悪い。出荷しづらい。
まだ食べられる野菜が、畑に残されていた。
最初からジャムをつくろうと思っていたわけではない。
作業所で野菜パウダーを使っていたこともあり、最初は規格外野菜を使ってパウダーをつくろうと考えた。粉砕機を買うために、創業補助金に申し込んだ。
結果は、不採択だった。
その後、何をするかを考えた時に、ジャムが浮かんだ。
「ジャムは営業許可がとかいらないんですよ。始めやすいので、とっかかりとしてジャムを作ろうというところから始めました」
ジャムは、最初の一歩だった。
畑に残された野菜を活かせる。加工品として届けられる。仕事をつくれる。いずれ障がいのある人と一緒に働く場所にもつながるかもしれない。
吉田さんは、ジャムづくりを始めた。
糸島産の農薬や化学肥料不使用の野菜や果物。きび糖。できる限り有機の素材。無添加。
素材の味を大切にしながら、野菜や果物をジャムに変えていく。
当初は、障がいのある人にも入ってもらい、一緒にできたらいいと考えていたという。福祉の現場で感じた共存社会への思いが、ジャムづくりの出発点にあった。
活動を続けるうちに、吉田さんの関心は商品そのものにも深まっていった。
ただ良いものをつくるだけでは手に取ってもらえない。どうすれば手に取ってもらえるのか。どうすれば暮らしに加えてもらえるのか。その問いが、吉田さんの商品づくりを少しずつ変えていった。
ジャムをただつくるのではなく、どう伝えるかを考えるどんな味なら選んでもらえるのかを考える。福祉をただ理想として語るのではなく、仕事として成立させる道を探す。
吉田さんにとって、ジャムは目的ではない。
問いかけると、吉田さんははっきりと答えた。
「そうです。目的ではないですね」
そして、少し言葉を選びながら続けた。
「最初は、障がいのある人にも入ってもらって、一緒にできたらいいなという感じで始めました」
理想だけでは続かない。商品として求められなければ、仕事にはならない。吉田さんは、そのこともよく分かっている。
「美味しいだけのものじゃ売れないというのが、やっていて分かったんです。ジャムというカテゴリーがどう求められるようにしたらいいのか。そこを考えないといけないと思っています」
パンにつけるもの。それが、多くの人が持っているジャムのイメージだ。ただ、販売を続ける中で、吉田さんは別の声も聞いてきた。
「パンを食べないという人もいるんです。特に健康志向が高い人は、パンを食べなかったりするんですよね。だから、パン以外の用途でいろいろジャムを作っているんです」
料理に使う。飲み物として楽しむ。日々の暮らしの中で、別の形で使ってもらう。
その試行錯誤の中で、「飲むジャム」という商品も生まれようとしている。
「伝わりやすいように、“飲むジャム”にしました。のむじゃむシリーズで展開しようと思っています」
吉田さんが考えているのは、ただ新しい商品名をつけることではない。ものの良さが、すぐに伝わる形にすること。営業で押し込まなくても、自然と手に取ってもらえる商品にすること。そして、その商品が売れることで、仕事を生み出せる状態にしていくこと。
吉田さんは言う。
「営業しないと売れない商品じゃ絶対だめだと思っているんです。ごり押ししたって続くわけがない。やっぱり、ものの良さがすぐ伝わらないと意味がない。そこまでいって初めて、商品として価値があると思っています」
良いものをつくるだけでは届かない。想いだけでは続かない。伝わる形にすることまで含めて、商品づくりなのだ。
そして、その先に吉田さんが見ているものがある。
「売上が安定して、人を採用できるようになってくると、次のステップに進めます」
人を採用できるようになる。仕事をつくれるようになる。そこから、障がいのある人も、ない人も、同じ場所で力を活かせる可能性が生まれていく。
目的は、誰もが自分の力を活かせる社会をつくること。障がいのある人とない人が、分けられずに生きられる社会をつくること。穏やかに働き、暮らせる場所をつくること。
そのための手段として、糸島の畑からジャムづくりが始まった。

第5章|誰もが穏やかに生きられる社会へ——ゼロから考え続ける人の未来
吉田さんに、これからの目標を聞いた。
まず返ってきたのは、とても現実的な言葉だった。
「まず、ちゃんと売れる商品を作りたいですね」
商品が安定して売れれば、人を採用できるようになる。人を採用できれば、吉田さんが目指す共存社会に少し近づく。
短期の目標は、売れる商品をつくること。長期の目標は、障がいのある人とない人が、同じ社会で力を活かせる場所をつくること。
吉田さんの中では、その二つがはっきりとつながっている。
そんな吉田さんのIKIGAIを聞いた。
「食品に関わらずです必要だけど、この世にまだない製品を考えたりしている」
人は何を求めているのか。どうすれば伝わるのか。この素材をどう活かせるのか。まだ形になっていないものを、どう形にできるのか。
「常に考えていたい。あと、それに向かって進むということでしょうね」
吉田さんは、ゼロから一を考える人だ。すでにあるものを広げるよりも、社会に必要だけど今この世にないものを、どう形にするかに心が向く。
「建築家とかアーティストって、たぶん一つの分野だけじゃなくて、何でもできる人だと思うんですよね」
吉田さんにとって、食は一つの入り口である。
食品。景観。建築。まちづくり。福祉。商品開発。
分野は違っても、吉田さんの中では、どれも「どうすれば人が穏やかに生きられるか」という問いにつながっている。
吉田さんは、自分を成功者として語らない。
理想がある。商品をつくっている。共存社会を目指している。その一方で、現実は簡単ではない。売れる商品をつくる難しさがある。事業を続ける厳しさがある。生活の苦しさもある。
吉田さんは、そのことも隠さない。
幼い頃に家庭の中で育った「正直に生きる」という感覚。自分がやっていることに責任を持つという考え方。それは、今の吉田さんの言葉にも残っている。
理想とする社会は、待っているだけでは生まれない。
だから吉田さんは、糸島の畑から、ジャムづくりを通して一歩ずつ進んでいる。
畑に残された野菜に、役割をつくる。商品として届ける。売れる形を考える。事業を安定させる。人を採用できる場所をつくる。障がいのある人もない人も、同じ社会で力を活かせる未来へ近づく。
その道は、まだ途中にある。派手な成功の物語ではない。完成された事業の話でもない。
糸島の畑から、小さな商品をつくりながら、誰もが活かされる社会を少しずつ形にしていく。
吉田信さんは今日も、その一歩を考え、形にしようとしている。

あとがき
かっこよさとは、何なのだろうか。
吉田信さんの話を聞きながら、私はその問いを何度も考えていた。
大きな成果を出すことだろうか。誰かに認められることだろうか。胸を張って「成功した」と言えることだろうか。
もちろん、それも一つのかっこよさなのかもしれない。
吉田さんの話を聞いていると、別のかっこよさがあるように思えた。
生活がギリギリだと話しながら、それでも理想を手放さないこと。ジャムをつくりながら、その奥で社会の形を考え続けていること。外からの評価ではなく、自分の中にある真実を探求し続けていること。
私は、そこにかっこよさを感じた。
吉田さんの中には、ずっと「活かされていないもの」へのまなざしがあった。
野菜も、人も、土地も、仕事も。そこにある価値を、どうすればもう一度社会につなげられるのか。どうすれば無理なく、穏やかに、役割を持って生きられるのか。
正直に生きること。自分のやっていることに責任を持つこと。会社に守られるのではなく、自分の力を持とうとしたこと。人が安らぐ景観をつくりたいと思ったこと。福祉の現場で、自分自身の心が楽になったこと。障がいのある人とない人が分けられない社会を願ったこと。畑で捨てられる野菜を見て、その野菜に役割を与えようとしたこと。そして、ジャムは目的ではないと語ったこと。
それらは、誰かに見せるための美談ではない。吉田さんが、自分の中の違和感や願いを一つずつ辿ってきた結果だった。
今の社会は、速い。
売上。効率。成長。拡大。分かりやすい成果。
それらは、もちろん大切だ。その速さの中で、こぼれ落ちているものがある。
ゆっくり働く人。形がそろわない野菜。大きな組織には入れない小さな事業者。まだ言葉になっていない理想。成功する前の思想。
吉田さんは、それらを簡単には見捨てない。
派手ではない。声も大きくない。まだ完成された事業でもない。
それでも、目の前にある素材を見つめ、手を動かし、考え続ける。誰もが活かされる社会をつくりたいと願いながら、糸島の畑から一歩ずつ進んでいる。
かっこよさとは、完成された姿だけに宿るものではないのかもしれない。
まだ途中でも、自分の理想に対して正直であること。まだ結果が出ていなくても、目の前の一歩をやめないこと。誰かの価値を見捨てず、自分にできる形で社会につなげようとすること。外からの評価ではなく、自分の真実を探求し、貫いて進んでいくこと。
吉田さんの生き方は、そんなかっこよさを静かに示してくれた。
あなたにとって、かっこよさとは何だろうか。
誰かに認められることだろうか。大きな成果を出すことだろうか。それとも、自分が信じた理想に向かって歩き続けることだろうか。
理想とする社会は、待っているだけでは生まれない。
糸島の畑から、ジャムづくりを通して一歩ずつ進む吉田信さんの姿は、そのことを私に教えてくれた。
IKIGAIコネクター
尾﨑弘師
