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バリュービレッジの挑戦——幹細胞ベンチャーの未来を変える人生ゲーム
株式会社INSTINCT BROTHERS 永野文博
次世代の環境を設計するビジョナリー
東京都品川区
バリュービレッジの挑戦——幹細胞ベンチャーの未来を変える人生ゲーム
「人生って一つのゲームだと思ってるんですよね」——株式会社INSTINCT BROTHERS代表取締役社長兼COO、永野文博さんの眼差しには、壮大な未来が映し出されている。
バスケットボールでプロを目指した青春。怪我による挫折から柔道整復師へ転身し、日本代表のトレーナーとして世界を飛び回った20代。家族のために独立し、再生医療の世界に足を踏み入れた30代、40代。そして今、子どもたちが自由に夢を追える「バリュービレッジ」という名の街を創ろうとしている。
「世界チャレンジまで、そうですね。ちょっと海外に子供たちをチャレンジさせたいというか、環境にこだわって、子供たちの努力だけでは勝ち取れないものは何なのかというところを、ちゃんと僕も体験しながら子供たちにも体験させてあげたいなと思っています」
一見すると華々しいキャリアの軌跡だが、その根底にあるのは一貫した哲学だった。AIが効率化を推進する現代において、永野さんが追求しているのは真逆の価値観——「自分の真実を生きる」人間らしさ、温かい繋がり、そして誰かの笑顔のために歩き続ける覚悟だ。
彼の人生というゲームは「まだ第1章2章」だと言うが、その先に描かれているビジョンは、私たちに新しい生き方の可能性を示している。
なぜ永野さんは、これほどまでにブレずに、そして熱く、自分の信念を貫き続けられるのだろうか。その答えは、彼が「9回裏まで明確」と語る、人生という壮大なゲームの中に隠されている。
第1章:冒険心の原風景——下関で培われた「探究心」と「やり抜く力」
永野さんのIKIGAIの種は、幼少期の山口県下関市で育まれた。1978年生まれの彼の少年時代は、現代の子どもたちには想像もつかないほどワイルドだった。
「僕はもう本当にやっぱり探究心すごくありますよね。やっぱり探検とか、山に入って冒険してそこからなんか食べもんねーかって食べもん探したりとか、魚釣ったりとか」と、自然の中で生きる術を学んでいた。この旺盛な冒険心と探究心が、彼の原風景を形作る。
やがて彼の情熱はスポーツへと向かう。中学・高校とバスケットボール一筋の青春を送った。スラムダンク世代として、「200人ぐらいいました」という競争激化の中で、永野さんは常にキャプテンを務めるリーダーシップを発揮していた。
しかし高校時代は、彼にとって決して楽しいだけの思い出ではなかった。
「強豪校でもあったので、とにかく努力を重ねるしかない環境でした」
と語るように、根性論が支配する環境だった。
「スポーツの楽しさっていうよりも勝利至上主義で」
「本当に楽しさがなかった」3年間。
それでも永野さんは、この時期に人生の土台となる「やり抜く力」を身につけていく。「今となっては良かったなと思ってますけども、誰よりも我慢できるし、誰よりもやりきる、ところに関しては、そこで培ったものなので」
幼少期の自由な探究心と、青春期の厳しい鍛錬。この二つの体験が、永野さんの中で「好奇心を持って、最後まで諦めずに追求し続ける」という姿勢を形成していった。それは後に、彼が新しい分野に挑戦するたびに発揮される「探究する覚悟」の原点となっている。
第2章:運命の分岐点——プロの夢の挫折と「支える」という新たな希望
高校卒業を控え、永野さんには輝かしい未来が待っていた。バスケットボールの強豪校である九州産業大学から声がかかっていたのだ。「日本選手権とかで1位とか取ってるところだったので、もうプロになりますよね、このまま行けば」という期待を背負い、同級生たちが実際にプロの道を歩む中で、永野さんもまたその夢に向かって邁進していた。
しかし運命は残酷だった。入学直前の練習で靭帯を切る大怪我を負う。長期リハビリが必要となり、プロへの道は突然閉ざされた。
「やっぱり心境としては本当にめちゃくちゃ葛藤はしてましたよね」
——永野さんは当時の複雑な心境を率直に語る。
「プロになりたいっていう流れの中で、環境に入りたいっていう思いはすごく持ってた中で、でも体が思うように動かないっていう、そことの本当の葛藤で」
諦めることはほぼなかったが、深い迷いの中にいた永野さんを救ったのは「出会い」だった。実は彼の中には、幼い頃からもう一つの夢が息づいていた。
「元々僕も医療系の方にずっと興味があって、中学校とか、小学校、中学校はお医者さんになりたいみたいな気持ちがあったので」
怪我をしたからこそ、怪我を治す側への関心が再燃した。
「スポーツに関われる仕事として何か無いか」と模索する中で出会ったのが、柔道整復師という道だった。
そしてさらに運命的な出会いが待っていた。まだインターネットも普及していない時代、永野さんは「たまたまそのネットカフェかなんかでこう色々見てて」偶然、オリンピックのトレーナーとして活躍する柔道整復師の存在を知る。
「なんかそっちの方に心が持っていかれたというか、引っ張られたというか、もうそこからリハビリを続けて選手で復帰するっていう道よりも、また炎がまた新しく支える方に変わりましたね」
「でもそれはもう、なぜか分からなく魂が震えた感覚だったんです、こっちやみたいな」
プロ選手になる夢は閉ざされたが、「世界を見る」という願いは形を変え、「世界を目指す人を支える」という新しい炎として燃え始めていた。挫折は終わりではなく、新しい始まりだった。
第3章:環境を掴み取る覚悟——日本代表トレーナーへの挑戦
柔道整復師として新たな道を歩み始めた永野さんだったが、そこには「環境」という大きな壁が立ちはだかっていた。2000年に仙台接骨医療専門学校を卒業後、一度は地元の下関に帰るものの、「やっぱりここじゃダメだなっていうところがやっぱりあったので」と、自身の成長に限界を感じていた。
彼の目標は明確だった。日本にわずか10人しかいないオリンピックトレーナー。地元にその道の権威がいるはずもなく、永野さんは再び大胆な決断を下す。
「実際に、オリンピックに関わる人たちがそんなに多いかって言われると、実は少ない時代ですよね。日本に10人しかいなかったんで、その時代は」
「僕が初めて出会った方に関しては、その人はもう静岡にいらっしゃったんで。じゃあ、もう静岡行こうって言って、静岡に行ったんですよ」
24歳の時、単身静岡へ飛び込み、2003年に株式会社メジャーフィールドに入社。そのオリンピックトレーナーが所属するグループへの就職を志願した。
「就職したいですって話で、そこに入ったっていうのが流れですね」
そのグループは、約40名の柔道整復師が所属する、日本でも最高レベルの医療・スポーツ現場だった。接骨院での治療、大学でのリハビリ・トレーニング指導、そしてJリーグ・ジュビロ磐田の選手ケアなど、下関では決して経験できない圧倒的な環境がそこにあった。
しかし新参者の永野さんが、わずか数年という短期間で2006年に日本オリンピック協会の医科学スタッフに、さらに2008年には日本代表女子体操チームの医科学トレーナーにまで上り詰めることができたのは、単なる努力だけではなかった。そこには戦略的な思考があった。
「たまたまですけど、柔道整復師っていうところにキーワードがあって、昔の柔道整復師って本当に骨折とか脱臼、打撲、捻挫を主に行うのが仕事だったんですね」
時代の変化を読み取った永野さんは、自分の強みを見極めていく。
「逆に静岡行ったぐらいからの卒業生とかってなってくると、どうしてもその免許を取るために勉強した子達が多くって、実際その外傷とかそういったものに対しての処置の方法論とか技術っていうのが、机上の空論というか、経験値自体がそこは少なかった」
特に体操選手に多い骨折などの外傷処置において、永野さんの経験値は圧倒的だった。
「僕はもう逆にそこに特化できたからこそ掴めたっていうところですね」
この時期の永野さんが体現していたのは、「環境を掴み取る力」だった。与えられた環境に適応するだけでなく、自ら最適な環境を見つけ出し、時には創り出していく能力。それは後に永野さんの核心的な力の萌芽でもあった。
第4章:試行錯誤と価値観の転換——「健康」から「幸せ」への探求
30歳を迎える頃、永野さんはトップトレーナーとして充実した日々を送っていた。日本代表の医科学スタッフとして海外を飛び回る生活は、輝かしいキャリアそのものだった。しかしその華やかさの影で、新たな葛藤が生まれていた。
「もう1年に3ヶ月ぐらいしか家にいなかったんで」——JOCスタッフとして海外を飛び回る生活は、家族との時間をほとんど奪っていた。
結婚し、家族を持ったことで、「家族のため」という軸が彼の心の中でより明確になっていく。
「本当に家族のためっていうのが、今でもそこは、僕の中の軸の中の一つですね」
33歳頃、永野さんは独立を決意する。
2013年に株式会社RISEを設立し、代表取締役社長に就任。接骨院とパーソナルトレーニングジムを組み合わせた施設を立ち上げた。それは、かつて自分がバスケ選手として怪我をした際に「こんなトレーナーがいてくれたら」と願った理想の具現化でもあった。
「実際に、その時代っていうのはもうすでに接骨院イコールマッサージ屋さんみたいになってきてたので」「なんでそこが僕は絶対にありえないと思ってましたから」
永野さんは自分の信念を貫いた。
「やっぱりそれがすごく嫌で、じゃあ何をってなって来た時に、もちろん怪我、リハビリテーションは徹底的にやって治療が終わった方は、もうパーソナルトレーニングでトレーニングリハビリテーションやって、現場に復帰させる」
その後、10店舗の整骨院・パーソナルジムのマネジメント(エリアマネージャー)を経験する中で、永野さんは一つの「限界」に直面していく。どれだけ技術を極めても、完全には治らない患者がいる。どれだけ努力しても、100%の回復は不可能なケースがある。
「やっぱりそこで、自分のやるべきことをやってきてて、実際自分のリハビリテーションっていう枠の限界っていうところも理解もしてきて、人の人間の体の限界も見えてきた」
この現実と向き合った時、彼の価値観は根本的な転換を迎える。
「やっぱりその、患者さんの為のことを考えていけばいくほど、その者たちの幸せを考え始めましたね」
「幸せを考えてるのに限界値のある今の自分たちがやってる医療、医学で、じゃあその人たちを本当に幸せにできるのかっていうと嘘をついてるような感じがしたんですよね」
健康の追求から、幸せの追求へ。この価値観の進化こそが、永野さんの人生を次のステージへと導く決定的な転換点となった。
第5章:深化する哲学——幹細胞事業と「真実に進む」ことが生み出す価値
40歳を迎えた頃、永野さんの関心は「健康」から「幸せ」へと移り始めていた。そんなタイミングで、兄でありINSTINCT BROTHERS会長の永野友喜氏が「幹細胞」という技術を持ち帰ってくる。
「彼がその幹細胞っていうものを見つけてきて。なんだそれはって」
最初は半信半疑だった。しかし、幹細胞の「再生」という力は、永野さんが20年かけて見つめてきた現場の限界とつながっていく。
「体ってじゃあ、リハビリして100%良くならない人達って、じゃあこれ使ったらちょっと、もうちょっと良くなるんじゃないみたいなところの興味を持ち始めたんですよね」
どれだけ技術を尽くしても届かなかった「あと少し」の領域。その現実から目をそらさず、「じゃあその再生医療たるものは何なのか」に踏み込んでいったのは、下関で九州を目指した少年時代から一貫する、「本当に必要なこと」を選び続ける永野さんの姿勢だった。
2021年、INSTINCT BROTHERS取締役副社長に就任。翌年には代表取締役社長兼COOとして、幹細胞を核にした事業全体の舵取りを担うようになる。同社は現在、ヒト幹細胞培養液を軸に、研究開発から製造、D2C、クリニック運営まで一気通貫で展開する幹細胞プラットフォーム企業となっている。
その中心に置いたのが、シンプルな一つのビジョンだった。
「僕たちは”人の笑顔をつくること”を会社のビジョンに置いています。お客様の幸せを作ること」
売上や規模ではなく「笑顔」を中心に据える。それは20年以上現場で人の体と人生に向き合ってきた末に残った、永野さんにとっての「真実」だった。
同時に、永野さんは現代社会への深い洞察を得ていた。
「本当にお金儲けをするだけで幸せになれるかどうかというところだったんですよね」「僕も20代から仕事してきて稼いできましたし。ですけど、そこじゃないなっていう、やっぱり人と人とか、日本の良さとか」
AIが台頭し、効率化が進む社会の中で、永野さんは「人と人の価値とは何か」を問い続ける。
「今の世の中見てると、経験値が逆に淘汰されるというか、そうじゃなくなってきてる。もちろんAIも含めて。けど、そういうものが出てくるからこそ、やはりその人との人の価値って何かってなってきてて」
「人として繋がったりとか、回り道に思っても人と仲良くしたりとか、そこにしか逆に言えば人間らしさが生まれない」
もっと効率的な道や、もっと儲かる道はきっとあった。それでも永野さんは、「自分が本当に大事だと感じている方」にハンドルを切り続ける。
それが、彼にとっての「真実に進む」ということだった。
幹細胞事業は、その真実から逃げないための選択肢の一つだった。リハビリだけでは届かなかった領域に踏み込むこと。お金だけでは測れない幸せを仕事の中心に据えること。人と人とのつながりを大切にすること。そうして生まれた哲学が、後のバリュービレッジ構想の土台となっていく。
第6章:未来への挑戦と貢献——「バリュービレッジ」が創る新しい社会
永野さんの事業哲学が最終的に向かう先、それは「バリュービレッジ」という名の新しい共同体の創造だった。これは2023年12月に新設されたINSTINCT BROTHERSの事業部であり、「スポーツの力で未来を創る」をテーマに掲げている。
「幸せという言葉は、人によって違うじゃないですか。だから、すごくそこは複雑になっているからこそ、僕たちのバリュービレッジはまだ今複雑なんです」
しかし、その複雑さの中にこそ、永野さんの独特な事業哲学が表れている。幹細胞コスメのOEM/ODM事業において、彼らは従来のビジネスモデルとは一線を画すアプローチを取っていた。
「サロンさんとか、そんなにお金もリソースもない方々がどうやったら売れるのか?というところで、仕組みで考えて行ったら、逆に僕たちが在庫を持ってあげたりとか、僕たちが金融になって、例えば1年間、月々5万円とかっていうのは後払いとかでいいよとか」
リスクを自社が負ってでも、小さな事業者が挑戦できる環境を創る。これは単なるビジネス戦略ではなく、「誰かのために何かをする」という永野さんの信念の実践だった。
それは「世界中すべての人に喜びを!社会に貢献できる会社作りをしよう!」という同社のミッション、そして「喜び・幸せになる人を増やすこと。収益はあとからついてくる」という哲学を体現している。
永野さんが理想とするのは、昔の日本にあった「長屋」のような関係性だった。
「ちょっと雨漏りしてるからさあ、ちょっとみんな手伝ってよとか、ちょっとお味噌がないからお味噌頂戴とか、なんかそんなのが、そういったところにも繋がっていくんじゃないかなとは考えてます」
そして、その究極のビジョンは「街づくり」にある。
「スタジアムを作ったりとか、街とスタジアム。街をちゃんと作るところを考えると、やっぱりね、1億2億の話ではないので、そこは、やっぱりある程度上場っていうものを活用して、自分たちの夢と生きてきた生き様というか、形に残すために、上場っていうものは使ってる」
実際、INSTINCT BROTHERSは米SPAC(Relativity Acquisition Corp.)との合併によるNASDAQ上場を目指すと発表しており、統合後の企業価値は約2.42億ドル(約360億円)と評価されている。しかしこれは単なる資金調達ではなく、壮大な街づくり構想を実現するための手段なのだ。
永野さんは、オランダやスペインの地域密着型サッカークラブをロールモデルとしながら、日本独自の共同体を創ろうとしている。
「日本って今サッカー、公園でボール蹴っちゃダメとか多いですね。規制規制ばっかりで、子供たちが、のびのびと自分たちの生きがいを、ほんとの生きがいなんて勉強もあるかもしれないけど、基本スポーツとか遊びが本当は生きがいなわけだから、それをやっぱり削ってるからゲームばっかりに走ってしまうっていう環境になってる」
そこで重要になってくるのが「世界チャレンジ」だ。
「世界チャレンジまで、そうですね。ちょっと海外に子供たちをチャレンジさせたいというか、環境にこだわって、子供たちの努力だけでは勝ち取れないものは何なのかというところを、ちゃんと僕も体験しながら子供たちにも体験させてあげたいなと思っています」
Value Village事業部では、「INSTINCT BROTHERS CUP(ISB CUP)」というサッカー大会を静岡・神奈川・山口・仙台・大阪など全国各地で開催している。これは「うまい子が賞を取る」のではなく、人間性・挑戦する行動力・最後まで諦めない心を評価する革新的な大会設計となっている。
「おらがまちから世界へ」——地域から世界で戦う選手を生み、その選手をまち全体で支える街づくり構想。努力だけでは埋まらない「環境の差」を、見て見ぬふりをせず、まっすぐ見に行く。その上で、子どもたちにチャンスを届ける環境を創る——それが永野さんの描く未来だった。
第7章:IKIGAIの核心——「9回裏まで明確」な人生ゲームを楽しむ
永野さんのIKIGAIの核心は、彼独特の人生哲学に集約されている。
「僕、短期的な物事で動いてないんですよ、やっぱり。長期的なもので、株の投資じゃないですけど、長期投資、やっぱり僕も人生って1つのゲームだと思ってるんですよね」
彼にとって人生とは壮大なゲームであり、そのゲームには明確なゴールが設定されている。
「そのゲームの中で最後どうなりたいか?っていうところだけで、その中で自分の興味を持ったものを追求したいものっていうもの、逆にそこを追求していって、野球の9回裏が来て、じゃあ最後どうなるかっていうところまでがもう僕は明確だから」
この「9回裏まで明確」なビジョンこそが、永野さんの揺るぎない行動力の源泉だった。
そのゴールとは、バリュービレッジの実現であり、子どもたちの未来のための環境創造だ。そこに必要な要素——信頼、人間関係、スキル、そして資本——を一つずつ積み上げていくプロセス自体を、彼は心から楽しんでいる。
「だから自己の人生設計っていうか、そこがあるので探求できるし、挑戦し続けられるかな」
現在の進捗について尋ねると、永野さんは迷いなく答える。
「今そのゲームだとしたら、まだ第1章2章ですね」
現在はまだ序章に過ぎないが、永野さんの表情に焦りはない。むしろ、これから始まる長い冒険への期待と興奮が感じられる。
「もちろん裏切られることもあるでしょうし、失敗することもあるでしょうし、それは1つのゲームとして考えてるだけなので。その時に何か僕達が失ったら、周りの人達が支えてくれるっていう環境を作るしかないなと思って、そこでしかないんだで、そのためにはやっぱり自分達が今やるべきことをしっかりやっていって」
困難や挫折すらも、ゲームを面白くする要素として受け入れる余裕。そして何より重要なのは、このゲームが個人の成功や幸福を追求するものではないということだ。
「子供達のためにも長期的な目線で見て、その子供達の行き先というか環境をちゃんと作り続けられること、その子供達が絶対に光が当たる時が来ると思ってるんで。やっぱりそこはずっと作り上げていきたいなと思っていますね」
永野文博さんのIKIGAIは、次世代のために理想的な環境を創造するという、極めて利他的で社会的な使命感に根ざしている。
永野文博さんのIKIGAIとは、人生を壮大な長期投資ゲームとして捉えることから始まる。9回裏まで明確なビジョンを持ちながら、誰かの幸せのために自分の真実を生き、信頼という名の資本を育て、次世代が輝く環境を創り続けること——それが、永野さんが歩み続ける人生である。

あとがき
あなたの「真実を選ぶ勇気」
永野さんの話を聞きながら、私は一つの確信を抱いた。真のIKIGAIとは、効率や成果を追い求める現代社会の価値観とは真逆の場所にあるのかもしれない、ということを。
バスケットボールでの挫折から始まった永野さんの物語は、一見すると偶然の連続のように見える。しかし、そこには一貫した哲学があった。幼少期の探究心、「環境を掴み取る力」、「健康から幸せへ」の価値観転換、そして「自分の真実を生きる」覚悟——これらすべてが重なり合って、今の彼の生き方を形作っている。
特に印象的だったのは、彼が「人生をゲーム」として捉える視点だった。それは現実逃避ではなく、9回裏まで明確なビジョンを持ち、困難すらも成長の機会として楽しむ、人生観だった。
AIが台頭し、効率化が加速する時代に、あえて「非効率」な人間らしさを追求する永野さんの挑戦は、私たちに重要な問いを投げかけている。
本当の豊かさとは何か。
人間らしい幸せとは何か。
そして、私たちは次世代に何を残すべきなのか。
「10年後には確実に来ると思うし、そうならないと人間は滅びていく」——永野さんのこの言葉は、単なる予測ではなく、彼自身が体現しようとしている生き方への確信だった。
永野さんが創ろうとしている「バリュービレッジ」は、まだ「第1章、第2章」の段階かもしれない。しかし、その先に描かれている理想の共同体は、現代人に失われた希望に火を灯すことだろう。
あなたの人生の「9回裏」には、どんな景色が見えているだろうか。そして、そのゴールに向かって、どんな「自分」を愛する勇気を持っているだろうか。
永野さんの生き方は、その答えを見つけるためのヒントを与えてくれている。効率ではなく、つながり。
競争ではなく、共創。そして何より、誰かの笑顔のために歩き続ける覚悟——それこそが、これからの時代に最も必要な「人間らしさ」なのかもしれない。
この記事を読み終えた今、あなた自身の「9回裏」と、そこへ向かう最初の一歩を、ノートの片隅にでも一行、言葉にしてみてほしい。そこにIKIGAIの芽があるかもしれない。
IKIGAIコネクター
尾崎弘師


