誰もが登れる人生の山——オリンピアン教授のアドベンチャー・ファースト哲学

KAMUI RESORT 三浦豪太

登山家

北海道旭川

標高 5895 メートル。
氷点下 30 度の空の下、少年は、ただひたすらに歩いていた。
11 歳。当時、世界最年少で、アフリカ最高峰・キリマンジャロの登頂を果たす。
なぜ、そこまでして登るのか。

なぜ、家族で命をかけるのか——
その問いに、三浦豪太はこう答える。
「冒険をすれば、絆が生まれる」
父は、冒険家・三浦雄一郎。
70 歳、75 歳、そして 80 歳でエベレスト登頂という偉業を成し遂げた伝説の男だ。

その背中を追いながら、三浦さんは、自らの“命の使い方”を探しはじめた。
世界でモーグルを極め、
アスリートとして五輪の舞台を踏み、
やがて、運動生理学の道へ——
科学の力で“限界”を超えるために。

そして今、彼が見つめているのは、ただの山ではない。
——IKIGAI とは、どこにあるのか?
——命をかけてでも登りたい“山”は、何なのか?

その問いの先にあるのが、「KAMUI RESORT」だ。
北海道・旭川で三浦さんが手がけるこの場所は、
高齢者も、子どもも、障がいのある人も、
誰もが“IKIGAI”を感じられる、未来の〈IKIGAI 発生地〉。
冒険。科学。教育。命の哲学。
それらすべてを貫くのは、“アドベンチャー・ファースト”という生き方。

肩書きでも、報酬でもない。
自分の奥底に火がともる——命が「揺れる」瞬間を、彼は信じている。
さあ、まだ見ぬ頂を目指して。
その先にある未来を、共に覗いてみよう。

第 1 章:「家族で、山に登るということ」——キリマンジャロに刻まれた絆の原型

あなたの“当たり前の家族”とは、どんな姿だろうか。
食卓を囲み、週末には出かけ、たまには喧嘩をして——
そんな光景が浮かぶ人が多いかもしれない。
だが、三浦さんにとっての“普通”は、少し——いや、だいぶ違っていた。
「ある日、父が突然言うんです。
“キリマンジャロって山、知ってるか?”って」
当時、豪太さんは 10 歳。
アフリカという言葉すら、地図の端にある曖昧なイメージだった。
動物が好きだった少年に、父はこう続けた。
「ライオンも、ゾウもいるアフリカの、その先に、氷の山がある。
象の足跡が残る、雲よりも高い場所。
そこに行ってみないか?」
——“そこに行く?”
旅行ではない。山に「登る」というのだ。
翌年、三浦家は本当にキリマンジャロ登頂を目指してアフリカへ向かった。
11 歳の豪太さん、両親、兄、姉。家族全員での挑戦だった。
標高 5895 メートルの空気は薄く、気温は氷点下 30 度。
酸素は足りず、足は重く、頭は痛い。
「高山病にもなって、途中はもう、本当に地獄でした」

それでも、三浦さんは家族とともに一歩ずつ、前へ進んだ。
「正直、なぜ登っているのかも分からなかった。
でも、気がついたら、みんなで一つの山を目指していた」
そしてたどり着いた山頂。
それは、達成というより“共有”の記憶だった。
登頂した瞬間に生まれた言葉ではなく、
その過程で染み込んでいた感覚。
家族と共に“命の限界”を越えるような体験の中で、
目に見えない何かが育っていた。
「“絆”って、登った後にあるものじゃなくて、
一緒に登る中で“生まれる”ものなんだと思います」
冒険は、誰かとするから意味があるという、子どもなりの実感だった。
普通とは違う家庭。
だが、そこには“命の使い方”を教えてくれる父がいて、
“目標に向かって進む”という共通語があった。

第 2 章:挫折の中で、スキーが“遊び”に戻った日

——“努力”が苦しくなったとき、必要なのは「楽しい」の再起動
11 歳でキリマンジャロに登った後、兄と姉が相次いで海外へ進学。
その背中を見送りながら、三浦さんの心にも、ある思いが芽生えた。
「自分も、外に出なきゃいけない」
その動機の奥には、憧れよりも、葛藤があった。
「とにかく、“三浦雄一郎の息子”じゃない場所に行きたかったんです」
どこへ行っても、“親の名前”が先に紹介される。

比べられる。測られる。
スキーをしていても、いつも父の背中と競わされる。
最初は反発するように、「ジャッキーチェンになりたい」と言っていた。
中国雑技団に入りたいとまで思ったのは、真剣な憧れがあったからだ。
だが、父は静かに諭した。
「好きで、1 番になれることを、日本で見つけなさい。
見つけられなければ、外に行っても意味がない」
——1 番になる。
豪太さんは考えた。そして見つけたのが、フリースタイル・モーグルだった。
スピード、ジャンプ、アクロバット——
それはジャッキーチェンへの憧れと、“自分が主役になれる可能性”の両方を感じられる場
所だった。
「心がドキドキする。楽しい。最高だ」
どんどんのめり込んでいった。

12 歳で、全日本選手権に出場。大人たちに交じって、堂々の 3 位。
父にも、その結果は認められた。
翌年、13 歳でアメリカ・バーモント州へ単身留学。
モーグルを本格的に学びながら、世界を目指す決意を固めていた。
だが、現実は厳しかった。
当時のアメリカでは、モーグルの競技人口も環境もまだ乏しく、
モーグルではなく、アルペンスキーをやらざるを得なかった。
そこで待っていたのは、「壁」だった。
「練習しても、努力しても、全然通用しなかった。

結果は出ないし、自分がアルペンスキーに向いてないことも分かっていた。
でも、やめるわけにもいかなくて、がむしゃらにやるしかなかった」
頑張っていないわけではない。
努力もしている。
でも、報われない。
そのうち、何のために滑っているのかも分からなくなった。
周囲には才能ある選手が次々に現れ、自分は“埋もれる存在”になっていく。
「完全に“思考停止”してたと思います。
努力の方向性すら見えなくて、ただ前に進むしかない。
でも、心は止まってた」
もうスキーを「やめよう」と思った。
そんなある日の帰り道、偶然、スキーチームの仲間に出会った。
「お前、昔やってたよな。一緒に滑ろうぜ」
それは、何年かぶりの“遊び”だった。
コブ斜面を自由に滑り、崖を飛び、雪にまみれて笑う。
そこには、点数も評価もなかった。
ただ、風と雪の中で、自分が「生きている」と感じる感覚があった。
「ああ、スキーって、こんなに楽しかったんだ」
アルペンでは「結果」しか見えなかった自分が、
山での遊びでは「楽しさ」と「工夫」を取り戻していた。
この挫折の経験が、「努力は、楽しいから続くもの」——“遊ぶように極める”三浦さん
の、土台になっていった。


第 3 章:「世界で戦い、仲間になった」——ライバルが友になる瞬間

——“出し抜きたい”が、“生涯の友”になるまで

モーグルでスキーの楽しさを取り戻した三浦さんは、
再び世界の頂を目指すことを決めた。
そしてたどり着いたのが、ワールドカップ、そしてオリンピックの舞台だった。
「全員、本気でした。生きるか死ぬかってくらい」
そこに“なあなあ”はない。
一つのミス、一つの遅れで順位が大きく変わる。
勝ちたい、目立ちたい、自分の名前を残したい——
そんな思いが渦巻く中、自然と、ある感情が湧いてきた。
「“こいつだけには負けたくない”」
最初は、憎たらしかった。
なぜあんな技ができるんだ。
なぜあんなに軽々と飛べるんだ。
隣で滑るたび、悔しさがこみ上げる。
「仲間っていうより、“敵”だった。
むしろ、敵じゃないとやっていけなかった」
だが、長い歳月は、その関係を少しずつ変えていった。
宿の部屋で、無言で飯を食いながらリプレイを見返す夜。
トレーナーにテーピングされながら、足の痛みをこぼす朝。
ライバルのことを研究し常に考えていた。
「ぶっちゃけ、ライバルたちのことをずっと考えていました。
でも、同じ山を見て、同じ覚悟で戦ってた——それだけで、全部通じたんですよ」
いつしか“敵”は、“戦友”になっていた。
気づけば、彼らの背中を見て自分が奮い立ち、
自分の滑りが、相手を奮い立たせていた。

「お互いに“出し抜きたい”と思ってたけど、
本気でぶつかってきた奴には、最後には“ありがとう”って思えるんですよね」
世界選手権やオリンピックなど世界最高峰の舞台で、三浦さんが手にしたのは、
勝敗では測れない、“魂でつながる友情”だった。
そしてその関係は、のちの人生にも確かな軸を残すことになる。
「人間って、本気でぶつかった者同士にしか生まれない絆がある。
だから、違う国でも、違う考えでも、一緒に“登れる”って信じられるようになった」
競争から始まった関係が、
戦ったものにしか分からない
“絆”に変わっていた。


第 4 章:「なぜ、医学と運動生理学の道へ?」——“限界”を科学で超える挑戦

——父を、エベレストに「登らせる」ために
スキー人生の中で、世界選手権、オリンピック、そしてモーグルという表現の世界に身を
置いた三浦さん。アスリートとして“更なる高み”を意識し始めた頃、彼はもう一つの“山”
を上り始めていた。
それが、「運動生理学」という名の山だ。
最高峰の選手になるために、必要なのは、“感覚”だけではなく科学も必要だった。
「どうすれば、自分のパフォーマンスが上がるのか?」
「なぜ、疲労が溜まるのか?」
「この練習に、どんな意味があるのか?」
それは、科学の問いでもあり、自分自身を知る旅だった。
アメリカの大学に通いながら、ナショナルチームで活動する生活。
夏は講義に出て、冬は世界中を遠征する。

常にギリギリのバランスの中、三浦さんは“アスリートの身体”を、徹底的に学び始めた。
そして、その科学に、“命”を与えたのが、父だった。
父を 70 歳、75 歳、80 歳でエベレストを登るという前人未到のプロジェクト達成にも繋が
った。
「もし僕が、ただのスキー選手の視点しか持っていなかったら、父の挑戦を“無謀だ”と止
めていたかもしれません」
だが豪太さんは、運動生理学を学び、科学と冒険を結ぶ“翻訳者”となった。
高地順応、心肺機能、筋力、メンタル、リスクマネジメント——
父の身体を「登れる身体」に仕立て直す、長期的なプロジェクトが始まった。
「父が“登りたい”というなら、僕は“登らせたい”。
その間にあるすべての“可能性”を、科学で埋めていく。
それが、三浦家での豪太さんの役割だった」
この挑戦は、やがて“老いの限界”を科学で超える研究にもつながっていく。
順天堂大学大学院では「加齢生理学」に従事し高齢者の体力、筋肉、意欲の再生に向けた
研究を重ねていった。
「結局、スポーツ生理学って、特別なことじゃない。
“人がどう生きるか”を支える、すべての人の生理学なんです」
そう語る豪太さんの目は、父だけでなく、未来の高齢者、病気を抱える人、
あるいは今、限界を感じている誰かをも見つめていた。
アスリートとしての経験が、「誰かの限界を超える」ための知となっていく。
そして三浦さんは、この“知”を次なる冒険へと繋げていくことになる。
——科学が人を動かすとき、そこに「情熱」があるかどうか。
——“登らせたい”誰かがいるかどうか。

その問いは、次の山へと続いていく。

第 5 章:「カムイという山」——誰もが“IKIGAI”を持てる未来を

——人生の“どのタイミング”にも、冒険があっていい
父をエベレストに登らせたあの日——
三浦さんの中に、一つの問いが生まれていた。
「父だけじゃなく、もっと多くの人を“登らせられたら”——」
誰かが年齢や障がい、環境の壁に直面したとき、
その一歩を科学と想像力で“支える存在”になれないか。
そうして彼の関心は、“一人の登山”から、“社会全体の IKIGAI”へと広がっていった。
北海道・旭川にあるアドベンチャー施設「カムイスキーリンクス」。
その場所に、三浦さんが今、新たな“山”をつくろうとしている。
その名も「カムイリゾートプロジェクト」。
子どもも、大人も、高齢者も、障がいのある人も。
誰もが“IKIGAI”を持てる、未来の〈IKIGAI 発生地〉を目指している。
「人生のあらゆる段階で、冒険できる“器”をつくりたいんです」
そう語る三浦さんが描いているのは、単なる観光地やスポーツ施設ではない。
それは、“命の可能性”を広げるための、生きる舞台だ。


そもそもの原点には、エベレストを目指す父の姿があった。
高齢だから、危ない。

歳を取ったら、もう挑戦は無理。
そんな風に言われ続けた父を、豪太さんは「科学で支えながら登らせた」。
その経験が、今度は他の誰かを登らせたいという願いに変わっていく。
「自分の足でゲレンデを登ったり、そりを滑ったり、
小さな達成感を一つひとつ感じられるような、挑戦の場をつくりたい」
それは、登山でもスキーでもなく、
「命が前に動く感覚」を体験するための空間づくりだ。

カムイリゾートで三浦さんが描いているのは、
「誰もが、自分だけの“山”に挑める場所」だ
たとえば——
雪の上で、はじめて板を履いた 5 歳の子どもが、小さな斜面を自分の足で滑る。
ゆっくりとしたスピードでも、高齢者がリフトを使わずに山を“自分の力”で登る。
車椅子の人が雪上バギーに乗って、頬に風を感じながら白銀の森を駆け抜ける。
離れて暮らす家族が、ひとつのコテージに集まり、焚き火を囲んで、同じ夕焼けを見上げ
る。
——そこには、誰にも真似できない“達成感”が必ずあるはずだ。
そんな空間を創る。
「“IKIGAI”は、小さな成功体験の中に宿るんです。そしてそれは、年齢や身体条件に関係
なく、誰にでも訪れるものなんです」
人は、何歳からでも、どんな身体でも、自分の“山”を登ることができる。必要なのは、そ
の一歩を踏み出せる“環境”と、誰かがそっと背中を押してくれる“文化”。

「障がいがあるから…じゃなく、“あるからこそ”できる冒険がある。
子どもだから…じゃなく、“今しかできない”挑戦がある。
歳を重ねたからこそ、見える山もある」
一人ひとりの「今」にしかない“ヒリヒリする感覚”を、三浦さんは、この場所に丁寧に刻
もうとしている。

「僕にとって、冒険とは“命の奥行き”を広げるものです」
誰もが、“まだ見ぬ自分”に出会える場所。
それが、三浦さんにとってのカムイだ。

第 6 章:「アドベンチャー・ファースト」——未踏峰にワクワクする人間であれ

——“先が見えないからこそ、面白い”
「まず、“冒険かどうか”で決めるんです」
三浦さんは、笑いながらそう言った。
大事なのは、安全性でも、成功率でもない。
“それが冒険かどうか”——心が動くかどうかを、まず自分に問うのだという。
「予定調和じゃないからこそ、命が震える。
“どうなるか分からない”って、実は人間にとって最大のご褒美なんです」

この言葉は、単なるポリシーではない。
人生のあらゆる岐路で、三浦さんが実際に選んできた指針だ。
スキーの道を選んだときも、
科学の世界に飛び込んだときも、
父の挑戦を“支える側”に回ったときも、
カムイリゾートという前例のない構想を描いたときも——
すべての始まりには、
「それは冒険か?」という問いがあった。

いま、社会は“正解のある道”を求めがちだ。
リスクを避け、努力の成果が確実に出るように設計された世界。
学校でも、職場でも、家庭でも、
「間違えないこと」や「効率のよさ」が、優先される。
でも、それで本当に人は“生きている”と言えるのか。
「人間には、“ヒリヒリする感覚”が必要なんです。
うまくいく保証がないことに、本気で飛び込める瞬間。
それこそが、生きてるってことなんじゃないかなって」
——だから、彼は言う。
これからの時代にこそ、“アドベンチャー・ファースト”が必要だ。

AI が台頭し、効率化や最適化が進む社会。
人間の感覚や直感が、置いていかれる未来。
「“答えがない状況”で、あなたはどうする?」
知識ではなく、想像力。
正解ではなく、探究心。
計算ではなく、命をかけてでも登りたい“山”を持っているかどうか。
それが、人間らしさであり、IKIGAI を燃やす力なのだと。
「“登れる山”じゃなく、“登りたい山”を選ぶ。その決断ができる人間でいたいと思うんで
す」

カムイをつくることも、科学を学び続けることも、三浦さんにとっては、すべて“冒険”
だ。

未踏の地を恐れず、自分の命が震える方へ。
たとえ道なき道であっても、その先に“誰かの可能性”があると信じて進んでいく。
それが、彼の“魂の使い方”——三浦豪太の、アドベンチャー・ファースト。

第 7 章:「この命、何に使うかは、自分で決める」
——“好奇心”が、魂を動かす
「目標を決めることより、“燃えてるかどうか”のほうが大事なんです」
そう語る三浦さんは、たとえ夢やゴールが曖昧でも、
「楽しい」「知りたい」「やってみたい」——その心の火種こそが、命の推進力になると
信じている。
それは、ただの理論ではない。
三浦さんが、一度“ときめき”を失った過去があるからこそ、深く確信するようになった“真
理”だった。
努力しても結果が出なかった 10 代。
アルペンスキーで、心が置き去りになった留学時代。
目の前に地図のないまま、それでも歩き続けた人生——
燃え尽きそうになったこともあった。
何のために滑っているのか、分からなくなることもあった。
——それでも、彼を再び前へ進ませたのは、
「やっぱり、これが好きだ」と思える瞬間だった。
「“正しい”より、“ときめく”を選んできた。
それしか、自分を動かし続ける方法がなかったんです」
「苦しいだけの努力って、続かないんです。
“面白い”とか“好きだ”って感覚があるから、人は深く潜れるし、勝手に伸びていく」

だからこそ、教育者として、次世代に伝えていきたい。
子どもたちに必要なのは、点数や効率ではない。
「何にワクワクするのか」を見つけること。
「小さいころから“自分が選んでいい”って体験があれば、人って自然と“やりたい”方向に
エネルギーを出していけるんです」
スキーでも、研究でも、リゾートづくりでも、
三浦さんが何度も燃え直してこられたのは、“選ばされてこなかった”からだ。
自分で選んだ。だから、自分で進めた。

そしてもうひとつ、三浦さんには大切にしている言葉がある。
それは、
「まず、自分をちゃんと褒めること。
“今日の俺、よくやったじゃん”って思えたら、それだけでいい」ということだ。
他人の評価を待たなくてもいい。
自分の“好き”に火がつけば、それが IKIGAI になる。
「“誰かの期待に応える人生”より、“自分が面白がれる人生”のほうが、絶対強いです」
「何のために生きるか」「何が向いてるか」なんて、正直すぐには分からない。
でも——“いま、何が楽しいか”は、きっと誰にでも感じられる。
そして、その小さなワクワクが、やがて自分の IKIGAI になる。
この命、何に使うかは、自分で決める。
その覚悟こそが、三浦豪太の哲学であり、
次の世代に手渡したい“生き方のバトン”でもある。

あとがき

このインタビューを通して、私自身も何度も自分の人生に問いかけたみた。
これは“自分の命が燃える”選択か?と。
人生にとって何より大切なのは、
誰かの期待に応えることではなく、
“自分の好奇心に正直でいられるかどうか”ではないだろうか。
三浦さんは、合理性や効率ではなく、
“自分の魂”に正直に生きている。
その一歩一歩を、自分の感覚で確かめながら進んできた。
目の前に地図がなくても、誰かに無謀だと言われても、
「それが、自分の登る山だ」と信じる力があった。

科学という「知」を手に入れても、冒険という「魂」を捨てなかった。
年齢や障がいにとらわれず、人の可能性を信じて疑わなかった。
そして「誰かのために登る」という、強くて優しい覚悟を持ち続けていた。
「登れる山」ではなく、「登りたい山」を選ぶ。
「正しさ」ではなく、「ときめき」に従う。
その姿勢は、IKIGAI を“肩書き”や“成果”ではなく、
“命の深いところで燃える火”として示してくれていた。
だから、あなたにも問いたい。
この命を、何に使いたいと思っているだろうか?
その“山”を、自分で選び、登ろうとしているだろうか?
誰かの人生を見つめるということは、
自分の命の可能性に火を灯すきっかけをくれる。

あなたが今、登りたい山はどこだろうか?
最初の一歩は、
あなたにしか踏み出せない。

IKIGAI コレクター
尾﨑弘師

 

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